思い描く将来は
眩いくらいだった銀杏の黄色い葉はすっかり枯れ落ちて、異臭を放つ銀杏の実とともに木の根元で泥砂に塗れていた。冬の気配がいよいよ濃くなって、窓の外では冷たい風が吹き荒れている。それでも図書館の褐色煉瓦の壁は冷気の侵入を許すことなく、館内は思わず眠たくなってしまうような温もりで満たされていた。
週末の放課後に行われるグレアムとロージーの勉強会は、相変わらず図書館の読書区画で行われていた。はじめにグレアムが用意した問題をロージーに解かせ、彼女の現在の知識がどれほどかを確認する。それから、ロージーが一週間で学んだ中で理解できなかった箇所を解説する。こうすることで、彼女は不足していた知識を補うのと同時に、現在進行で学んでいる講義の内容の理解を深めているようだった。
「先輩は、卒業後はどうするんですか?」
グレアムが指定した問題を解き終わり、採点を待っていたロージーがふとそんなことを尋ねた。
「どうした、突然」
グレアムがペンを止めてロージーを見ると、机の上に肘をついた両手で頭を支えていた彼女は、己の両掌の中でむむむ、と顔を顰めて、なにか悩んでいるらしかった。
「わたし、四年生だから、そろそろ将来を決めないといけないらしくて。でも、魔法師としての将来って良く分からないんですよね」
魔法師には主に三つの道がある。魔法の真髄を突き詰める研究者。魔法の効率性を重視し、汎用性を高くしようとする技術者。そして、魔法の力を駆使して魔物や敵国からの国の防衛に努める魔法師兵。いずれもアメラス中の魔法師を管理する魔法師院に所属することは変わりないが、その役割は大きく異なってくる。学ぶべき知識も、また。
魔法師学校の学生は、ある程度知識を付けた四年時に進路を選択し、年度の後半から卒業に掛けて各々の将来に向けた知識と訓練を重ねていくのだ。ロージーもまた、その時期が近づいてきたということだろう。
「だから、先輩のお話を聴ければ参考になるかなって」
確かにグレアムはもう指針を決めてその道を進んでいるが、実際にその職に就いていないのに参考になるのだろうか。少し疑問に思いながらも、グレアムは己の希望を口にした。
「俺は、魔法師兵になるつもりだ」
「魔法師兵ですか?」
意外、とばかりにロージーは琥珀色の目を丸くした。こういう反応には慣れている。誰もがグレアムは研究者か技術者のどちらかの道を選ぶと思っているのだ。
というのも――
「でも先輩、家を継ぐんじゃ……?」
グレアムは、アクトン伯爵家のたった一人の跡継ぎだ。グレアムがいなくなれば、父は叔父の誰かに爵位を譲るか、養子を取る必要が出てくる。親類との関係性はさておき、グレアムが居なくなることはアクトン家にとって大きな損失だ。だから、グレアムが進んで死地に向かうような道を選ぶはずがないと周囲は思っている。
代々魔法師兵の要職についているような家であれば、話は別だろうが。アクトン家はそれに該当しない。
それでもなお、グレアムが魔法師兵を目指すのには、理由がある。
「〈
「はい。七年前の、魔の森の魔物による襲撃事件、ですよね」
アメラスは、北西部の山脈に要を置いた略扇形の国土を持っている。
魔の森とは、アメラスの扇の要の先に位置する、円形の窪地にある森のことを指す。ただでさえ鬱蒼として立ち入るのに躊躇うような森であるらしいが、それ以上にそこは魔物の巣窟だった。魔物――他の獣たちと比べて体内に多くの魔素を蓄え、ときにそれを魔法のように扱う猛獣たち。彼らは、アメラス国内全土で生息を確認されているが、魔の森に棲む魔物たちは、巷で見られるそれとは一線を画する凶暴さと力を備えているのだという。
そんな魔の森の魔物たちが一斉にアメラス内に流れ込み、町村を襲撃するという事件が七年前に起こった。魔物の群々がまるで北西の山から流れ込んだ濁流のようにアメラス内広域に広がっていったことから、人々はその現象を〈魔の森からの氾濫〉――さらに略して〈
「俺は、あれに巻き込まれたんだ」
〈氾濫〉の被害地域には、アクトン家が管理する領地も含まれていた。魔物たちは領地のありとあらゆる場所を荒らして回り、生活を立て直すまで領民たちは苦労した。血が流れた場所もある。当時まだ十一だったグレアムは、幼心にもその惨状に胸を痛め、その理不尽に憤った。
「だから、次に同じようなことが起こったときに、戦える力を身に着けようと思ったんだ」
「そうなんですか……」
へえぇ、と反応する彼女は、まるで他人事のようだった。だが、それも仕方のない。当時彼女は〈氾濫〉の被害区域にはいなかったというのだから。〈氾濫〉の後しばらく世間は混乱したが、それも無事だった地域の生活を脅かすほどのものではなかったため、どうしても実感が湧かないのだろう。
「だが、困ったことに俺は魔法師兵に向いていないらしくてな。伯爵家の跡取りであることもあって、研究者や技術者の道を勧められたよ」
「それでも、魔法師兵を目指すんですね」
グレアムは頷いた。魔法師学校に入学する前から心に決め、そのためだけに精進してきたのだ。今更、向いていないの一言で諦められるはずもない。
「そっか。すごいなぁ、先輩。頑張ってくださいね。応援してます」
ふわふわとしたロージーの応援。だが、グレアムは一瞬だけ虚を突かれ、そのあと表情を綻ばせた。
「ありがとう。……嬉しいよ」
彼女の言葉は、もしかすると会話の流れで出てきただけものかもしれないが、それでもグレアムは嬉しかった。これまで応援してくれる者など誰一人としていなかった。跡継ぎなのだから必要ない、わざわざ危ない目に遭うことなどない、そもそも向いていないのだから、と皆が一度はグレアムを窘めた。両親も……ジュディスでさえも。
今ではなにも言わずただグレアムの頑張りを認めてくれる婚約者が、未だに不安そうな目でこちらを見ていることをグレアムは知っていた。彼女はまだ内心でグレアムの志を否定しているのだ。グレアムが頑なだから、言うことを諦めてしまっただけで。
だから、何気ないロージーの一言が今、とてつもなく心に響いてしまった。
「さて、それじゃあ……」
会話の合間合間でなんとか進めていた採点を終え、ロージーの理解と不理解の箇所を見極めたグレアムは、いよいよ今日の学習の本題へ入ろうと机の隅に事前に用意して置いた本へと手を伸ばしかけた。
そのとき。
「よう、グレアム」
片側から声を掛けられた。本棚の列の向こうから、見知った姿がこちらへとやってくる。真っ直ぐな黒髪を耳元で切りそろえ、深緑の目が吊り上がった綺麗な顔に不遜な笑みを浮かべた男。左目尻の一点の黒子が印象的だ。
「珍しいな、お前が女の子と居るなんて」
「……フリンか」
紫紺の制服を纏った彼は、グレアムと同じ五年生。数少ないグレアムの友人のフリン・ラウエルだった。子爵家の次男で、グレアムと同じように魔法師兵を目指している、志を同じくした友人だ。
フリンは一瞬だけロージーに視線を向け、すぐにグレアムに戻すと、にやにやとした笑みを向けてきた。
「ずいぶん可愛らしい子じゃないか。堅物グレアムくんも隅に置けないな」
だからといって、こちらにもそれを当てはめてくるのは勘弁してもらいたい。
「勉強を教えているだけだ」
「なんだ。……そうか」
それはお邪魔しました、と意外にあっさり引き下がったフリンはお道化て礼を取り、じゃあな、とグレアムに手を振った。友人のからかいに呆れたグレアムは、今一度本を取ろうとしたところで、使いたかった本がないことに気付いた。
「ロージー、すまない。取るべき本を持ってくるのを忘れてきてしまった。探してくるから、少し待っていてくれるか」
「あ、はい。分かりました」
返事をするロージーを後ろにおいて、グレアムは足早に目的の書棚へと向かった。時間は限られている。無駄にしないよう、急いで本を見つけなければ。
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