憩いの調べ
南側一面がガラス張りの、白壁の小部屋。たっぷりと昼下がりの陽光が降り注ぐその場所に、哀愁漂う弦楽器の音が鳴り響いていた。木でできた雫形の平らな胴に竿をつけた四弦の
そのマディートを、紅茶と菓子が広げられた円卓の向こうでジュディスが弾いている。円卓から離した椅子に浅く腰掛け、レモン色の簡素な綿のワンピースに白いニットのカーディガンを羽織った姿で脚を組み、その膝に楽器を置いて弦を押さえる指先に目を向けて。翠色の眼を軽く伏せたその姿は神秘的で、一方剥き出しの白い首に掛かった藍色の髪が艶めかしい。楽器を奏でる女神もしくは聖女の像があれば、こんな感じだろうか。
向かい合ったコの字の学舎、その北側の二階部分には〝サロン〟と称される十人ほどを収容する部屋がいくつか設けられている。貴賤を問わないはずこの学校内でいかにも貴族らしい設備だが、基本的には予約さえ入れれば学生は誰でも利用可能。用途としては、文科系の部活動の集まりや勉強会などで用いられることが多い。
グレアムとジュディスは、そのサロンで月に二度ほど休みの日に二人きりの時間を過ごすことを習慣としていた。校内では毎日のように顔を合わせるが、婚約者同士らしい一時を過ごせるのは人目を気にしなくて済むこのときだけだ。――もちろん、有事以外は記録に残らない監視が魔法によって行われているため、不健全な行為など及ぶべくもない。
そんな場所で毎度毎度なにをしているのかといえば、二人とも思い思いの時間を過ごすだけである。グレアムは主に自主学習も含めた読書、ジュディスは楽器の演奏。合間にちょっとしたお喋りを交わすだけの、なんでもない時間。だが、ジュディスはこの時間をすごく大事にしていて、グレアムもまた居心地の良い一時を味わっているため、こうして隔週ごとに集まることは習慣づけられた。
ジュディスの白く細い指先が、弦を爪弾く。グレアムの知らない曲だった。新曲だろうか。枯野に立ったような寂寞の旋律。窓の外の葉が枯れつつある晩秋の景色にぴったりの曲だ。
アメラス国では、貴族が楽器を弾くことを良しとしないしきたりがある。教養として楽曲の知識を習うことはあるし、特に令嬢は自らの音楽の教養を示すものとしてピアノくらいは嗜むこともあるが、貴族の中から演奏家を輩出することはまず有り得ないこととされた。鍵盤楽器や弦楽器は手指を痛めるし、管楽器は呼気に含まれた蒸気が結露したものであるが雫が垂れるからだ。
麗しい音楽は麗しい部分だけ楽しむ――それが貴族の音楽の楽しみ方の主流。苦労を要する部分に目を向けざるを得ない演奏家は中流階級以下の人間がなるもの、というのがこの国での音楽家における認識だ。
そうであるのにもかかわらず、貴族令嬢であるジュディスが楽器を演奏しているのは、病床にいたときの彼女が得た楽しみであるからだ。身体を動かすことは以ての外、読書は夢中になるほどのものではなく、刺繍や編み物ものめり込むほどのものではない。そんな彼女が出逢ったのがこのマディートだった。
なにかの歌劇の一場面で流れた楽曲に使われていたとかなんとか。一度聴かされた由来を、グレアムはあまり覚えていない。
しかし、彼女の弾くマディートの調べは耳にとても馴染み、心を落ち着かせる。彼女の演奏を耳にしながら読書をするのが、グレアムの楽しみの一つだった。
先にも言った通り、貴族間ではあまり良しとされない趣味。実際彼女の指先は弦を直に弾くことで皮が厚くなり、繊細であるべしとされる令嬢のものとはかけ離れてしまっているが、グレアムはあまり気にしていない。むしろ技術を身に着けた証であるため、感心して好ましく思ってすらいる。
ジュディスも、そうして
一通りの演奏を終えて、マディートの旋律が止まる。
ジュディスが小さく笑う声がして、シャツに褐色のベストを羽織っただけの寛いだ姿のグレアムは書き込みを行っていた教本から目を上げた。
「どうした?」
グレアムとしては普段通り勉強をしていただけだったため、笑われるようなことはなにもしていないつもりだったのだが。
「グレアム、なんだか最近楽しそうだなって」
子どもに物語を語り聞かせるような穏やかな話し方で、ジュディスは言う。楽しんでいた自覚はないので、グレアムは内心首を傾げた。
「最近なにかあった?」
「そうだな……」
グレアムは手元に視線を落とした。今開いているのは、ロージーのために見つけた教本だ。三年分の空白を手っ取り早く埋めるため、かつて使っていた教科書を引っ張り出し、注釈を入れて渡していた。今もまた、その準備を行っている最中だった。
「可愛い後輩ができたんだ。勉強や魔法の実技に付き合っているんだが、非常に熱心で飲み込みが早くてな。教えるのが楽しくて仕方がない」
「そうなんだ。……良かったね」
ふんわりと笑う彼女が不可解で、グレアムはまたしても首を傾げた。
「グレアム、お友だち少なそうだったから。あまり誰かと話すことないでしょ」
「そんなことはない。友人くらいいる」
「少しだけね」
まあ実際、友人と呼べそうなほどに深い付き合いがあるのは四、五人くらいだが。多ければ良いというものでもないだろうに。
「グレアムはちょっと誤解されやすい顔をしているから」
知り合いを増やすのは良い事だ、とジュディスは言う。誤解されやすい顔、のところでグレアムは眉間の皺を深くした。
「私に怒ってばかりいるし」
「それは怒らせている方も悪いと思うが」
アッシュブロンドの短い前髪の下で深海色の瞳を鋭く細める。グレアムとて、婚約者を叱りたくはない。が、常日頃からあまりに学生――しかも、最終学年の学生らしからぬ行動をしているのを見ると、苦言を呈さずにはいられないのである。
「ごめんなさい」
あまり反省の色のなさそうなで茶目っ気のある謝罪。本当に分かっているのか、とグレアムは小さく嘆息した。
ジュディスの表情が、ふと消える。翠の瞳が翳った。
「……でもね、私だって――」
なにか哀切を含んだような言葉を発していた気がしたが、最後のほうは良く聞こえなかった。
「……なんだ?」
「ううん。なんでもない」
誤魔化しの微笑を浮かべてふるふると首を振ると、ジュディスは何事もなかったような顔をして、再びマディートを構えてみせた。
「それじゃあ、次。グレアム、なにかリクエストはある?」
深く追求してほしくはないようだ。ジュディスの意を組んで、グレアムは気にすることをやめ、リクエストとやらを考える。
慣れ親しんだ曲名を口にすれば、了解、と快い返事があった。マディートの哀愁の音色が再び奏でられる。ただし、先程とは違って今度は軽快なリズムで。
グレアムが口にしたのは、歌詞のついた曲だった。短い前奏の後、ジュディスの薄紅の唇から低く歌声が漏れ出す。
黎明の風に物語のはじまりを予感させる歌。
弾き語りを行うジュディスは、楽器の演奏の腕だけでなく、その歌声もまた磨かれていた。マディートの短い音とは対照的にジュディスの歌声はしっかりと伸びやかで、高音になると微かに掠れて柔らかい響きを宿す。歌劇の歌姫のように圧倒されるものではないが、聴く者の胸のうちに懐かしさを掻き立てるような、そんな歌声だ。
聴き慣れた歌声はいつも、グレアムの気持ちを落ち着かせてくれる。
婚約者の奏でる音楽に安らぎを覚えながら、グレアムは再び教本に目を落とした。
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