グレアムの決意、ジュディスの決心

 メイリンから懲罰を言い渡されてから一ヶ月。一度はきちんと掃除したのにもかかわらず、真面目にも備品倉庫の点検を繰り返したグレアムが、ようやく自分の満足する仕事を終えた直後のことだった。


「グーレアムっ」


 倉庫からサリックスを伴い出てきたグレアムを、にんまりとした顔のトラヴィスが出迎えた。隣には、何やら微妙な笑みを浮かべたマシューがいる。葡萄酒色の制服やローブを外した二人は軽装になっていて、どうやら仕事終わりにグレアムを待っていたらしい。


「これから暇?」

「そりゃ暇だろう。夜勤がなければ」


 こちらは掃除のために軽装だったグレアムの眉間に皺が寄った。それはなにも、薄暗い倉庫から明かりの灯った廊下に出てきたことばかりではないだろう、とジュディスは思った。このトラヴィスという青年、たまにグレアムを振り回すようなことをやらかすので、グレアムはそれを警戒しているのだ。


「そうだよな。そんじゃ、さ。飲み会しようぜ」

「飲み会?」

「そ。一ヶ月頑張ったグレアム君をねぎらって。なんて言うんだっけ?」

「慰労会」


 マシューのフォローに、そうそうそれそれ、とトラヴィスはやはりにやついた笑みを浮かべながら頷いた。


「別に、そんな気を遣ってくれなくても……」

「俺が飲みたいの」


 とトラヴィスは、手を挙げて遠慮するグレアムの腕を引っ張って、石組みの廊下を歩いていった。あまりの強引さ。ジュディスはマシューと一緒に慌ててその後を追った。トラヴィスは、がっちりとグレアムの腕を握って放さない。グレアムは若干前のめりになりながら、転ばないよう妙な足取りでトラヴィスについていく。


「メイリンとリチャードもいるからさ。メイリン隊、初の交流会だ」

「今更過ぎないか?」


 ジュディスも内心グレアムに同意した。グレアムたちが出会ってから、もう二ヶ月以上も経っている。今更交流会を開くほど、知らない仲ではあるまいに。


「理由なんてなんでもいいんだよ」


 とりあえず飲むぞー、久しぶりの酒だぁー、とトラヴィスは一人盛り上がっている。まだ飲酒をしたことのないグレアムは自分の必要性について悩み、マシューは子ども染みた行動をするトラヴィスに呆れ果てていた。

 そうして辿り着いた食堂は、夕食時だというのに閑散としていた。もとより一日を交代制で務めている駐在兵たちである。食事時間も自分の都合で取るため様々だ。だから、普通なら食事の時間帯でも、食堂に人が疎らにしかいないという状況もあり得るのだった。

 今日はたまたま運が良いのだろうか。それとも――そうなる頃合いを狙って誘ったのだろうか。


「お待たせしましたー」


 トラヴィスが手を挙げた先のテーブルには、すでにメイリンとリチャードが腰かけていた。卓上には、グラスと大皿の食事が並んでいる。肉と揚げ物ばかりのそれ、そして大きな瓶が何本か立ち並ぶ様子は、本当に飲み会のそれだった。サリックスも同席するのを見越してか、ミンチになった魚肉の塊とミルク皿も置かれている。

 遅いですよ、などといったお決まりのやり取りが頭上で交わされて、いつの間にかトラヴィスが乾杯の音頭を取っている。

 賑やかな食事になるまでに、さほど時間はかからなかった。グレアムたち五人は、器用におしゃべりをしながら食事を口にしている。貴族の食事会とは違い気品さには欠けるが、最低限のマナーが守られたそれは楽しそうだった。時折トラヴィスがサリックスに魚の揚げ物を渡そうとしてグレアムに止められているのを、ジュディスも楽しく眺めていた。


「で、聴きたいんですけどー……」


 酒が入って気分が良くなったのだろうか。頬を赤くしたマシューはグラスを揺らしながら、何故か当初のように敬語に戻ってグレアムに絡んだ。


「なんで、お貴族様のあんたが、こんな辺境に進んでやってきたんです?」


 ミルクを飲んで腹がくちくなり、気持ちよく床に伏せていたジュディスも、これには顔を上げずにいられなかった。動機は、すでにグレアムからぐちのような形で聴いている。あの、ヘリアンサスでの花畑でのことがきっかけだ。

 しかしジュディスが気になるのは、彼があの日のことをどう捉えているか、ということだった。

 マシューと同じく、なれぬ酒精に頬を赤くしたグレアムは、しかし存外しっかりした口調で応える。


「七年前の〈氾濫フラッド〉。俺はその日、領内の観光地に、婚約者の一家と野掛けに来ていた」


 グレアムの口から語られる〝運命の日〟は、取り戻したジュディスの記憶と大きな違いはない。ヘリアンサスの花畑でかくれんぼをしたあと、子ども二人でいたところに魔物に襲われた――。グレアムのほうが比較的冷静であったことを除けば、そのときに抱いた恐怖もジュディスのものと同質のものだった。


「だが、ジュディスが魔物に食われかけた瞬間……魔物の躰が、破裂したんだ。まるで風船のように」


 もしジュディスに現在人間の手があったのなら、きっと自分の胸元を掴んでいたことだろう。当時を思い出してか、胸が苦しくなっていた。驚いたようにリチャードがサリックスこちらを振り向いたが、酒に酔った他の新米魔法師は気づかず話を続けている。

 ジュディスもいい加減自分の感情と魔力には慣れてきていて、リチャードがさらに不審を抱く前に、昂りを抑え込むことができた。


「当然だが……彼女は自分がしでかしたことに怯えて、さらなる恐慌に陥ってな。ますます魔力を暴走させるから、大変だった」


 そう話すグレアムの口元は、わずかに綻んでいた。それは、化け物を見たときの畏怖ではない。しょうがないな、と子どもの失態を微笑ましく見るような――そんな表情の揺らぎだった。


「だけど、落ち着かせようとなんとか近づいて……手を握ったら。ジュディスが、小さな手で必死に俺に縋りついてきたんだ。怖い、助けて、行かないで、と叫んで、俺の服にしがみついて――」


 ジュディスは身を起こした。記憶にない出来事だった。居住まいを正し、グレアムを見上げる。先輩の前でも敬語を取ってしまったグレアムは、すっかり酔っているようで、あらぬほうへ視線を飛ばしていた。


「本当のところ、ジュディスがなにを思っていたのか、俺にはわからない。自分の力に怯えたのか、家族に見捨てられることに怯えたのか。……とにかく自分を〝化け物〟と決めつける彼女を見て、俺は決意したはずなんだ。二度とジュディスをこんな目に遭わせない。自分の力に怯えずに済むようにしてみせる、と。その手段が魔法師兵になることだった。〈氾濫フラッド〉が起きても俺が戦えばいい。ジュディスに魔法を使わせなければ良い」


 ちくり、とジュディスの胸が痛んだ。改めてグレアムの口からその話を聴かされると、自分の罪深さに打ちのめされてしまいそうになる。


「だが、自分で課したその重みに、俺自身が耐えきれなくなった。自分のためとはいえ、魔法を使うのを控えるようになった彼女を見て、自分ばかり、とそう思うようになってしまったんだ。……一度思うともう駄目だった。その思いが頭を占めるようになって、次第に彼女を許せなくなって……」


 グレアムは掌で自分の瞼を覆った。声が湿り気を帯びる。


「勝手に決めて、勝手に苦しくなって、勝手に彼女を恨んでいたんだ。そんなときにロージーに出会って、楽なほうに逃げようとした。頼られて酔っていたんじゃない。逃げ道に使ったんだ。すべてを失ってようやくそのことにも気付いた。まったくどうしようもない男だよ」


 ふふふ、とグレアムは自嘲してグラスを仰ぐ。周囲は誰もがしんとして、すっかり酔っ払ったグレアムを食い入るように見つめていた。


「だから俺は、はじめの約束だけは守ろうと決めたんだ。二度とジュディスが魔物と遭遇しなくて済むように。〈氾濫フラッド〉を二度と起こさせない。それが俺が自分に課した、責任の取り方なんです」


 ジュディスはそこで聴くのを止めた。もう充分だと思ったし、耐えきれなくなった。静かに食堂を離れると、窓から外に飛び出した。

 生い茂った頃に比べると、見通しの良い森の中を、月を背に、北へと向かう。


 猫の足で五分ほど。開けた場所に出た。そこは遺跡となっていて、広場か何か、すり鉢状に石畳が敷き詰められているところに清水が流れ込んでいる場所だった。ちょっとした大きさの池のようである。

 ここは砦の女性たちがよく使う水浴びの場だった。

 砦に来てからというもの、ジュディスは頻繁にここを訪れていた。砦に比較的近いから、魔物もそういない。そして、男性は滅多に近寄らず、砦の女性は数少ないので、頻繁に人が来るようなところでもなかった。何ヶ月か観察していれば、人の来ない時間帯というのも分かってくるので、そういう時にジュディスは人の姿に戻って水浴びをしている。


 今も、誰もここにはいない。

 ジュディスは己の変身を解いた。


 久しぶりに戻った人間の白い足を、水の中に浸す。突き刺すような冷たさが脳にまで渡ってきて、ジュディスは目を強く瞑った。目の端に涙が滲む。

 再び開いた瞳から、涙が一つ零れ落ちた。水鏡に映った藍髪の娘の姿が揺らぐ。

 こういう時のために着ていた白い綿のワンピースの裾が濡れるのも構わず、ジュディスは水底に膝をついた。両手もまた石畳に触れると、翠の瞳から次から次へと涙が零れ落ちるさまを覗き込むこととなる。


「私は……いったいどれほどの間……」


 グレアムに重いものを背負わせ続けていたのだろう。

 改めてこう振り返ってみると、はじめから最後までずっとだった。出逢って間もないころから、ジュディスはグレアムの重荷だった。知っていた、なんて口が裂けても言えない。ずっとずっと、自分の病のことだけ負担を掛けさせていたと思っていたのだから。

 確かに、グレアムは勝手にそう決めたのかもしれない。けれど、そうさせたのは、他でもないジュディスだ。責任は、ジュディスにある。

 ――なのに、グレアムは、これからもずっとジュディスのことを背負い続けるのか。

〝ジュディス〟はもう手から離れてしまっているというのに。


「そんなの……あんまりだ」


 果たしてグレアムにそこまでの罪があるのだろうか。

 その罪は、いつまで裁かれ続けるのだろうか。


 ジュディスは立ち上がり、濡れた腕で涙を拭った。温かかった頬に冷たい飛沫が掛かる。ジュディスの頭の芯が痺れるほどに冷えていった。


「決めた……私は絶対、グレアムを救う」


 梢の間から覗く星空に、そう誓う。

 いつかは他の男に嫁ぐ身だが、それまでは。ただ傍にいるのではない。グレアムが〝ジュディス〟の鎖から解き放たれるまで、その手伝いをしていこう、と心に決める。

 それこそが現在のジュディスのできる、たった一つの報いだから。


 初冬の水面は静かに、決意する夜の精の姿を映し出していた。

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