憂いは消えて
「――というわけだ」
話を終えたディックが、紅茶のカップを手に取った。すっかり冷めてしまったそれに長く口付け、喉を潤している。
ディックはジュディスと連れ立って、ジュディスの側室入りを辞退したことを伝えに、アクトン家に来てくれていた。萎縮させると気を遣ったのだろうか、父と母は席を外しており、グレアムだけがこうして客間で二人の話を聞いている。
「あとはもう、両家間の問題だろう。こちらはこれから両親の説得に当たるが、そちらは――」
「父も母も、ウェルシュ家が良いのであれば、話を進めても良いと言ってくれました」
「そうか……」
ディックは目を伏せ、カップを置いた。両手の指を組み、しばらく黙り込んだ後、グレアムに向かって頭を下げた。
「……本当にすまなかった。もっとお前を信じてやれば良かったのに」
「いいえ。俺も至らないところが多すぎました。起こるべくして起こったことだと、今ならわかります」
そうか、ともう一度応えてディックは黙り込んだ。組み合わせた親指を交互に組み替えて、所在なさげにしていた。その様子をジュディスが困ったような微笑を浮かべて見ている。
そのディックが、ふと目線を上げた。ことん、と首が傾く。
「それにしても、殿下はどうして急に考えを変えたのだろう?」
ジュディスと一緒に王城を訪問させてほしい、とディックが願いに行ったときには、ロデリックはまだ渋る様子を見せていたそうだ。そのときのディックは、ジュディスの側室入りを辞退するのは難航するだろうと予想していた。しかし、いざ当日、ロデリックがあっさりと引き下がったものだから、とても奇妙に感じたのだという。
ジュディスもまたきょとんとした様子で小首を傾げていたが、心当たりはないようだった。そもそもあまり関心がないようにも見える。彼女は、側室の話を三年も引き延ばしたことを後ろめたくは思っているようだが、そロデリックが自分に執着していたことについてはあまりピンと来ていないようだった。
そんなジュディスの様子にロデリックの心情を思い、グレアムは不思議がっているディックから視線を逸らした。
「……さあ、俺には分かりかねます」
ただ一言、そう返す。
ディックはなにも気づくことなく、そうだよな、と思考に区切りをつけるように一つ頷いた。
「なんにせよ、これで元通りというわけだ。引っ掻き回した身で言うけれども、またよろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。義兄上」
義兄、と呼ばれたことになにを感じたのだろうか、ディックは目を瞠ってグレアムを見つめたあと、曖昧な表情を浮かべて顔を背けた。それからジュディスに、先に行く、と言い残し、一人客間を出ていった。
「少し、兄様は卑屈になってしまったみたいね」
遠慮がちに閉じられた扉を見て、ジュディスは言う。ディックは、婚約解消の件やジュディスの側室入りの件などで、余計な横槍を入れてしまった自覚があり、責任を感じているのだそうだ。妹を想う兄故の行動だと知っているグレアムは、ディックが必要以上に気負っていないかと心配になった。あまり思い詰めないで欲しい、と思う。
「……私も、きちんとグレアムと話さなかったこと、反省しているわ」
そう呟いてジュディスは手の中のカップに視線を落とした。
「俺もだ」
頷き返せば、ジュディスは少しだけ視線を上げた。
「これからは、ちゃんとお互い話をすることにしましょう」
これにもまた強く頷くと、彼女は少しだけ目を細めた。お互い小さく微笑みあったあと、翠の瞳がグレアムのことを射抜くようにじっと真っ直ぐ向けられる。なにか言いたいことがあるのだろうか、と訝しんでいると、その唇が開かれた。
「そういう訳で、貴方がロージー・キャラハンをどう思っていたのか、改めて聞きたいのだけれど」
「な……っ」
不意打ちにグレアムは絶句した。終わったと思っていたロージーの話題に、頭の中が白くなる。だが、もしかすると、勝手に終わらせていたのは自分だけだったのだろうか。慌てて頭の中を巡らせた。たった今、お互いに話をすることを約束した手前、誤魔化すことなどできようはずもないし。
三年前のことを振り返り、ロージーとのことを思い出す。勉強会は楽しかった記憶はあるが、彼女に対する自分の気持ちがどんなものであったかは、今でも結論が付かないままだ。可愛い子に頼られて嬉しかっただけ、というカタリナに指摘が真実なのではないかとも思ったりするが、さすがにそれをそのまま想い人に伝えるのは憚られた。
あちこちにせわしなく視線を彷徨わせ始めたグレアムの顔をジュディスが覗き込む。にんまりと歪む口元。しかし目は笑っていないような気がして、ますます焦りを覚えていると。
「う・そ」
ジュディスはローテーブルに身を乗り出すとグレアムの唇に人差し指を押し付けて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「許すっていったもの。今さら掘り返す気はないわ」
ふ、とグレアムの肩の力が抜けた。つまり揶揄われたわけだ。まだ激しく動く心臓に溜め息を吐きつつ、灰色の頭を掻く。
「でも、今後どんな理由であれ、他の女を見るようだったら許さないんだから」
「誓う。もう二度と、あのようなことは起こさない」
「そこは〝一生君だけを愛す〟くらいのことは言えないの?」
生真面目に返すグレアムに、ジュディスはわざとらしく唇を突き出した。それからころころと笑う彼女の耳元に、グレアムはそっと顔を寄せた。望み通りの言葉を少し脚色して囁きかけると、ジュディスがぱたりと大人しくなる。顔を赤らめたまま黙り込んで、ぱっと身を離した。
「……じゃ、じゃあ、兄様が待っているから」
赤面した顔を背けると、挨拶もそこそこに、逃げるように客間を出ていった。
兄と違い音を立てて閉じられた扉に苦笑する。カンテではあれほど熱烈にグレアムを求めてくれたというのに、憂うことがなくなった途端、ジュディスはこういった触れ合いや愛の言葉を恥ずかしがるようになった。しかも自分から仕掛けておいて照れだすのだから、おかしくて仕方がない。
急に人の居なくなった客間。茶器の片付けを頼まなければ、と考えるグレアムの頭の隅で、先程のディックの言葉が引っ掛かった。
どうしてロデリックは急に考えを変えたのか。脳裏に唇を噛んで俯いたロデリックの表情が蘇り、心が冷たいところに沈み込んでいく。
心当たりなどない、とディックに言ったのは嘘だった。むしろグレアムがロデリックにとどめを刺したのではないかと思っている。それを手放しに喜べないのは、自分よりもずっと年上の男が、あれほど動揺した姿を見てしまったからだろうか。
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