消えない瑕
なんとなく妙だな、と思いはじめたのは、トラヴィスが拾ってきた鏡を使ってグレアムがサリックスを使い魔とすることに成功した二日後のことだった。グレアムを見た砦の兵士たちが、こそこそと噂話をする様子があちこちで見られるようになったのだ。それから、グレアムが好奇の目で見られることも多くなった。
グレアムはなんとなく居心地が悪そうにし、下世話なものを感じたジュディスは砦内を警戒していたのだが、それがいったいどういうものなのかはすぐに知るところとなった。
「なあお前、婚約者いたってマジ?」
朝食の時間。相変わらず殺風景な石積みの、粗末な長机が並ぶ食堂で、トラヴィスが唐突に禁句ともいえる話題を持ち出した。グレアムはたちまち硬直し、マシューはそんなグレアムの様子を気まずそうに窺った。
そこでトラヴィスも己の失敗に気付いたらしい。焦って言い訳を口にした。
「いやぁ、鏡がないか訊いて回ったとき、そんな話を先輩から聞いたからさ。グレアムがプレゼントに渡しそびれた女の子用の鏡を魔法に使うんだって話をしたら、先輩が――」
親切にも、アクトンとウェルシュの婚約の話を教えてくれたのだそうだ。
その先輩とやらは魔法師兵だったらしい。それでジュディスたちは、最近グレアムが注目を浴びた理由と経緯を把握した。噂の内容もおおよそ予想がつく。
いくらここが辺境の地とはいえ、道すがらに人の口があれば、都の噂であろうと流れてくる。魔法師兵なら魔法師院はもちろんのこと、魔法師学校との縁もあることだろう。魔法師学校で起きた婚約解消騒動についての話がここまで流れてきても、おかしいことではない。
だが、それでも内心、砦に来ることで噂から解放される期待が少しはあったのだろうか。グレアムは重い溜息を吐き出した。表情は暗くなり、食事の手が止まってしまった。
「いたよ」
カトラリーをサラダの皿の上に置いたグレアムは白状した。自ら傷を開いているような痛々しい表情に、ジュディスの胸もまた痛む。
「いたが、俺が傷つけた所為で、破談になった」
「え、あ、そうなんだ……」
己の失敗を精一杯顔面に表現したトラヴィスは、もうどうしていいか判らぬと言った様子で相槌を打った。その顔があまりに滑稽だったのか、グレアムは小さく吹き出す。
「そう気にするな。あれについては、俺の自業自得なんだ。自分の責任だし、逃げたところでこうして結局ついてくるものだしな」
「なにも、そんな風に気負わなくても……」
過ぎた噂に晒されることに同情でもしたのだろうか、マシューがそう呟くと、グレアムは眉を顰めて何事かを口にしかけた。そこに慌ててトラヴィスが割って入る。
「待って待って、俺は別にお前を責めたてたりしたいわけじゃないんだ! ただ、興味本位で訊いただけで……」
だんだん言葉が尻すぼみになっていったトラヴィスは、最後に頭を下げた。
「面白半分に突っ込んだりして悪かったよ」
三人の間に沈黙が落ちる。トラヴィスは膝の上に手を乗せてしょげ返り、マシューは気まずい空気を持て余してフォークで皿を突いていた。グレアムはただ口を閉ざす。そこから発せられる雰囲気は、あまり穏やかなものでなくて、ますますトラヴィスを委縮させていた。
「……すまん。先に行く」
グレアムはそう言い残して皿の載ったトレイを持ち、席を立った。トラヴィスとマシューの目が彼の背を追いかけるが、誰も声を掛けようとはしなかった。
ジュディスもまた後を追おうと、身を伏せていた床から立ち上がり、
「ちなみに、どんな風に聴いたの?」
ぼそり、と小声でトラヴィスに尋ねるマシューの声を聞いて、少しだけその足を止めた。
「いや、グレアムの使う鏡は誰かへのプレゼントだったらしいって話したら、婚約者のものかな、ってその先輩が言って。そしたらもう一人の先輩が、婚約者じゃなくて彼女だろ、って言っててさぁ」
そのまま、ジュディスとロザンナの話になったということらしい。
「正直、あいつが浮気とか意外でさ。そんなわけあるかって笑い飛ばすために話したんだけどさぁ――」
あーあ、失敗した、とトラヴィスは嘆く。
その辺りでジュディスは、二人の会話を聴くのを止めてグレアムを追いかけた。トラヴィスの軽率さには腹が立ったが、どうやら二人はグレアムの敵にはなり得ないようであることが判ったから。
それにジュディスだって、あの鏡が誰宛てだったのかは気になっているところなのだ。ジュディスが猫でなかったら問いただそうとしていたかもしれない。そうするとあの話題に触れていたことには違いないから――トラヴィスのことは、あまり責められない。
グレアムを捜して、色気のない通路を歩く。積み上げた石がむき出しになった砦の中はひんやりとしている。足の裏の冷たさに少々うんざりしながら城塔の階段を上った。銃眼から入り込む風に身を震わせる。思えば、あれからもう十ヶ月近く経っている。早いような……遅いような。いずれにしろ、ここまでグレアムとの心の距離が離れているのははじめてだ。
階段を上りきると、森を見下ろす回廊に出た。外に広がるのが如何に魔の森だといっても、秋は等しく訪れるものらしい。鬱蒼と不気味なくらいだった森は、赤や黄色と鮮やかな色に染まっている。
果たして、グレアムはそこに居た。鋸壁にもたれかかり、凹部から色づいた森を憂い顔で見下ろしている。
グレアムの気を惹こうと、ジュディスは鋸壁に跳び上がった。凹部に座り込むと、グレアムの憂い顔が小さく綻ぶ。
「ああ、サリー」
わしゃわしゃ、と頭を撫でられる。グレアムはだいたい、自分が慰められたいときにこうしてサリックスに触れてくることが最近分かった。ジュディスはただされるがまま、グレアムがなにか吐き出すのを待ち続ける。
「やっぱり、自分がしたことからは逃れられないんだな……」
ぽつりとグレアムが落としたのは、後悔の言葉だった。
「ジュディスに、あげるつもりだったんだ。前に傷つけて、仲直りのために――」
そういえばあのときは、とジュディスは思い出す。ロザンナの噂を耳にして不安になったジュディスは、体調を崩したのだった。晩秋のベンチで倒れていたところをグレアムに助けられ、気がついたあとに説教されて。グレアムの言うことは正論だったのに、ジュディスは婚約への不安感から反発してしまった。身の内に蠢いていた魔力の負担はすべてグレアムの所為だと思いこんで。
だが、ジュディスがそうしている間に、グレアムのほうは仲直りする算段を立てていたのだ。手を差し伸べようとしてくれた。
「だが、その前にロージーのことが騒ぎになってな。そのまま婚約を解消することになったんだ。もし、この鏡を渡せていれば――」
そこでグレアムは頭を振った。浮かんだことを振り払うように。
「いや、仮定の話を考えても仕方ないな。鏡を渡せていようと、渡せていまいと、ロージーを突き放せなかったのは事実なんだから。ジュディスの気持ちを踏みにじったことには違いない」
グレアムの告解を、ジュディスは複雑な気持ちで聴いていた。その通りだとも思うし、訴えもしなかった自分の所為でもあるように感じた。そもそもここまで話を拗れさせてしまったのは、きちんと話をしようとしなかったジュディスが悪いのではないか――。
一瞬だけ、ディックの顔が浮かぶ。
だが、これまでずっと我が儘を言って、心配をかけ通しだった兄を、どうして責められようか。
――今もまたこうして、ジュディスの我が儘で面倒を掛けてしまっているし。
自らの業の深さを思い知る。
「ジュディスをきちんと見てこなかった報いだな」
森を見下ろしながら、グレアムはぽつりと呟いた。
果たして自分はグレアムをきちんと見てきたのだろうか、と。ジュディスもまた、自らに問い掛けた。
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