〈水の精〉
「僕、昨日とうとう見ちゃったんだ」
朝もだいぶ涼しくなりはじめてきた頃。グレアムたちが朝の支度をしている中で、別部隊の夜間巡回の手伝いに行っていたマシューは、殺風景な部屋に戻って来るや否やそう言った。既に葡萄酒色の制服に着替え終えていたグレアムたちは、興奮気味のマシューを怪訝そうに見つめる。一人――否、一匹準備のない猫姿のジュディスもまた、ベッドの上で丸まったままその首をもたげた。
「なにを?」
「〈
「ほおぉ……」
剣を腰に佩き、準備を終えたトラヴィスは、口元に手を当ててにやにやと笑みを浮かべる。ジュディスもまた彼の話に興味があって、マシューの足元まで近寄った。
「なにしてた?」
「……み、水浴び」
一女性としてマシューの行いを許すことができなかったジュディスは、猫の爪を彼の足に突き立てた。
痛い、と騒ぎ立てるマシューを見て、トラヴィスは腹を抱えて笑う。そのトラヴィスを短く窘めたグレアムは、サリックスのわき腹を持ち上げてベッドまで連れて行った。
「マシューを引っ掻くんじゃない」
硬く古いシーツの載ったベッドに置かれたジュディスは、短く叱りつけられて若干しょげつつも、内心では、仕方ないじゃないか、と反論せずにはいられなかった。
なにせ、その〈
本来人間であるジュディスは、いつまでも猫でいるわけにもいかず、たまに隙を見てグレアムのもとを離れては人間の姿に戻っていた。場所はだいたい決まって、例の女性しか来ないはずの水辺。人は滅多に近づかないだろう、と思って羽根を伸ばしていたところを、偶然予想外に訪れた女性兵士に見つかったのが、噂のきっかけとなった出来事である。
あのときは反省した。砦の中で圧倒的に数の少ないからといって、皆無ではないのだから、少なくとも周囲に気を配るべきだったのだ。なのに、日中だったから、と呑気にしていたのが悪かった。
もう、二年も前の出来事である。
だが、同じことを繰り返すだけだと分かっていても、たまに戻る人間の姿は快適で、ジュディスは同じことを何度も繰り返した。一応細心の注意は払ったが、数を増やすだけ、見つかる機会も増えていく。そうこうしている間に、砦の中で〈
このように、幸か不幸か姿を見られても、人間ではなく〈
因みに、煙のように姿を消す、というのは、見つかったジュディスが慌てて猫に戻ったことによるものだ。少しばかり開けていても隠れる場所の多い森の中。人は人間の姿に気を取られているときは、猫にまで気は回らないらしい。
「で、でも、裸じゃなかったよ! たぶん入った後で……服を着てたから」
トラヴィスに覗き魔扱いされていたマシューは、声高に否定する。これには少しジュディスもほっとせずにはいられなかった。肌を見られるのは、つい爪を突き立ててしまうほどに恥ずかしい。それに、令嬢としては一大事だ。間違いであっても醜聞ものである。
「だとしても、マシュー。見ても良い姿を見たわけではないんだ。あまり言いふらして良いものではないだろう。ほら、こいつも同じ女として腹を立てている」
グレアムが示したサリックスの、まだ残る怒りの気配に気付いたのか、マシューは、反省します、と肩を小さくして項垂れた。
「で? どんなんだった?」
興味津々、とばかりにトラヴィスがマシューに詰め寄った。今度はこいつに爪を立てるべきか、とジュディスは真面目に検討しはじめる。
「言わないよ」
「いや、そういう色っぽいのじゃなくってだな。髪の色とか目の色とか、そういうので良いんだよ」
今度はジュディスが身を縮ませる。マシューがどれだけ〈
もし、容姿をしっかり見られて、伝え聞いたグレアムがジュディスと判じてしまったら。
近くにジュディスの影があるとグレアムに気付かれた時点で、ジュディスはグレアムの傍に居られなくなる。それは今できるだけ避けたかった。
「目は判らなかった。背中側から見たから。でも、後ろ姿でも美人だったと思う。細くて、白くて儚げな感じで――」
グレアムの視線が遠くなった。誰の姿に似せて想像しているのだろう、とジュディスは不安になる。
その一方で、喜びがふつふつと湧いてくるのが少しだけ厄介だった。グレアムを自分から解き放ちたい、そう思っているはずなのに、グレアムがまだ自分のことを想ってくれていると判るとどうしても嬉しくなってしまう。そうして誘惑に駆られるのだ。今すぐ変身を解いて、想いを伝えたくなる。
けれど、それではグレアムを救えない。ジュディスは己の衝動を抑え、矛盾に苦しむのに精一杯だった。
「それと髪はやっぱり珍しかったね。黒だと思うんだけど、青く光って見えた」
「へぇ。噂にある通りか。珍しいな」
またしてもジュディスの背に冷たいものが落ちる。トラヴィスの言うとおり、ジュディスの藍髪は珍しい。藍髪の人など、ジュディスは少なくとも家族しか知らない。ジュディスの姿が見られた時刻は夜が圧倒的に多いので、みな暗闇の所為で黒と誤認してくれているようだが、もし本当は藍色だと知られたら……もう確定的である。
「……俺も逢ってみたいな」
ぽつり、と落としたグレアムの言葉に、その場にいたトラヴィスとマシューが顔を上げた。もちろん、ジュディスもだ。
食い入るように見つめれば、グレアムの深海色の瞳はまだどこか遠くを見ているようで、〈
「おやおや。堅物のグレアムさんが。珍しい」
トラヴィスが茶化せば、ふ、とグレアムは皮肉とも呆れともつかない小さな笑みを溢した。
「そりゃあ、これだけ目撃者が多ければ、興味も出てくるさ」
そういうとグレアムは、壁に立てかけてあった魔法弓を手に取り、じゃあな、と言って部屋を出ていった。グレアムはこれから、城壁の上で見張りに就くはずだ。帰ってきたばかりのマシューは休み。トラヴィスは森の中を巡回だったか。
砦に配属されて三年。当初三人揃っても一人前扱いされていなかったグレアムたちだが、現在では各個人の能力が認められ、あちこちから声がかかることが多くなっていた。先ほどのマシューもそうであるし、現在のグレアムもそうである。便宜上所属する隊というものはありはすれど、もともとはそういう枠に囚われずに動くのが、この砦の方針である。所属隊間の人材の貸し借りは、このように平然と行われていた。
グレアムが扉を閉めたのを見て、ジュディスは慌てて猫の腰を浮かせた。使い魔である自分を置いていくなんて、上の空である証拠ではないか。
「本当、珍しいね」
グレアムのベッドを飛び降りると、呆然と扉のほうを見ていたマシューがトラヴィスに溢した。
「ああ。あれほど女に興味を持たなかったグレアムがなぁ。奥手のお前だって、そのテの話にはもう少し反応してたっていうのに」
どういう心境の変化かねぇ、と彼はまだ悠長にベッドに座り、後ろ手にふんぞり返る。はあ、と溜め息を一つ吐き、空を仰いだまま目を閉じた。
「まあ、アイツには良いことなのかもな」
どきり、とジュディスの心臓が一つ大きく鳴った。それはいったいどういう意味なのか。考えようとして、思考が止まる。
トラヴィスはその後なにも喋らなかったが、ジュディスは終わっていないかもしれない会話の続きを聴きたくなくて、部屋を飛び出した。そうして、グレアムの後を追わなければいけなかったことを思い出す。
サリックスを待っていたのか、グレアムは回廊を少し進んだ先で待っていた。遅いぞ、なんて笑いかけてくる。置いていったくせに、そんな有り様だ。だが、恨み言を言うだけの余裕がジュディスにはなかった。
サリックスを隣に歩かせて大きな石が積まれた建物の回廊をグレアムは行く。これから見張りに立つ予定だった。階段を上り、城壁の上へと向かう。
「いい加減、俺も未練がましいかな」
階段を上っている最中、ゴールとなる階上のほうを見上げながら、グレアムはそうサリックスに呟いた。未練、の言葉にジュディスの胸がまた痛くなる。今度は喜びは湧き上がってこなかった。そうだとして、どうだというのか。ジュディスはもう、約束から一年が過ぎているとはいえ、王太子の側室に入ることが決まっているというのに。
――そう。もう約束から一年が過ぎているのだ。
それなのに、身勝手にジュディスはまだグレアムの傍に居残り続けている。まだこうしてサリックスに弱音を吐くグレアムを見捨てられない、そんな理由があってのことだ。
だが、それだって実のところ、ジュディスがグレアムの傍に居るための詭弁でしかない。
――未練がましいのは、どちらだろう。
相変わらずグレアムの言葉が、鏡のようにジュディスに返ってくる。
だが、グレアムはそんなことも知らずに、まだサリックスへと胸の内を吐露してくるのだ。
「似た人物でも良いから、会いたいなんてな」
その言葉が、とても痛くてたまらなかった。耳を塞ぎたくてたまらない。けれど、こんな歩いている状況で、まして猫の身で、そんなことができるはずもない。
結局ジュディスは、傷付くのを承知でグレアムの愚痴に付き合うしかないのだ。
「せめて息災であれば良いが……と」
ここでまた都合よく、魔物襲撃を知らせる鐘が打ち鳴らされたことが、ジュディスには有り難くて仕方なかった。思わず安堵の息を漏らしたサリックスに、戦いの気配を察したグレアムは先程と打って変わってやる気に満ちた声を掛ける。
「さあ、今日も行くか」
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