王太子視察
魔物の凶暴化に手を焼かされたり、神秘の〈
森に面した砦の入口。いつものメイリン隊が揃って巡回に行こうとしたところで、皆さんにお知らせがあります、とメイリンがうんざりした様子で口を開く。
「王太子が視察に来ます」
え、と固まるのは、密かに因縁のあるグレアムだけではなかった。トラヴィスもマシューも目を剥いて驚いている。唯一リチャード冷静なのは、おそらくあらかじめ聴かされているからだろう。
何故、と皆が分かりもしない理由を探す中で、マシューが口を開いた。
「それは、王族としてですか?」
メイリンは頭を振る。
「いいえ、魔法師院の理事としてです」
「魔法師院絡み……?」
マシューの眉根が寄る。グレアムもしばし同じように考えて、
「もしかして、結界を見に来るんじゃないか? 三ヶ月前に新しいものが導入されたばかりだろう」
フレアリート砦は、如何にも、といった具合の石造りの建築物であり、それだけで十分防衛の役目を果たしているのだが、相手が怪奇現象も起こす魔の森ということもあって、魔法による結界の設備が用意されている。
結界装置そのものは、砦の中心部分に当たる狭い部屋をまるまる一室使われていた。正方形の薄暗い部屋で、四方の壁には白い紗幕が掛けられており、中央には台座があって、水晶玉のように磨かれた魔石が置いてあった。そして、中央の台座を取り囲むように魔法陣が描かれている。
その台座の部分が、三ヶ月前に新しい物に取り換えられたのだ。
「ああ、そうか。あれ、王太子殿下の肝入りだったね」
なるほどね、とマシューは頷くのを見て、グレアムは複雑な感慨を抱く。というのも、その台座、魔力の増幅器の役目を果たしているのだが、ジュディスの兄ディックの昔の論文をもとに作られたものなのだ。
新しい設備が導入された施設を、組織の幹部が視察に来ることはままある。今回もそのようで、メイリンからもリチャードからも否定の言葉はなかった。
連絡が終わったところで、巡回へ赴く。今回は先の異変も手伝って、普段は通らないような道も巡ることとなっていた。
既に見慣れて勝手も知る巡回ルート。見上げれば、枝葉の合間に一直線に青い空が覗いて、道になっているのが見える。大自然の中でも人が通るだけでそこは人間の領域になるのだと感じる。
そこでふと、前方にサリックスがいないことに気がついた。慌てて後ろを振り返ってみれば、彼女はグレアムたちのすぐ後ろをとぼとぼと歩いている。
なにか具合が悪いのだろうか、と気になり抱き上げてみるか検討しはじめたとき、トラヴィスが口を開いてそちらに気を取られてしまった。
「まあ、ここんとこ異常だしさ、装置が新しくなるのは良いことなんだけどさぁ」
相変わらずグレアムと一緒に殿に就くトラヴィスは、巡回中とは思えない少し暢気な調子で隣のグレアムにぼやいた。
「でも、王太子様に視察に来られてもなぁ。なにかしてくれんのかな」
「トラヴィス。不敬だぞ」
あんまりな台詞に、グレアムは慌てて口を挟んだ。隊の人間に忠誠心の厚いものはいないが、あまり誰かに聴かれていいような内容ではない。
「かもしれないけど。こっちもいい加減カツカツ状態だろ? なのに王太子様が来られちゃ、いつも以上に警戒が必要になる。正直、
「否定はできないね」
前で話を聴いていたらしいマシューも、若干振り返りながら同意する。
ここ最近の異変には、前触れのない〈
そんな中で要人――それも、王太子というこの国一番の重要人物――の訪問を受けるのだ。グレアムは防衛計画や人員配置などの
「まあ、御身のためにも、ここへ近づかないでいただいた方が良いことは確かだな」
そう言ってようやくサリックスを抱き上げながら、グレアムはジュディスのことを思い浮かべた。もうとっくにロデリックの側室に入っただろうジュディス。彼女は今、王宮でどのように過ごしているのだろうか。もし、ロデリックに万が一のことがあったら、彼女はどうなるのだろう。
王宮に一人取り残されるジュディスの姿を想像して、グレアムの胸の内に焦りと怒りが浮かぶ。なんとしてもロデリックを守らなければいけない。一方で、そうしないといけないような状況のこの場所に、のこのこと飛び込んでくる王太子が腹立たしくもあった。
一週間後、昼過ぎに、王太子はやってきた。砦の南東――つまり、アメラス国土側の入口――に立派な馬車を着け、数人の近衛兵を伴って。これから
「ついでに、魔の森の状況を伝えて兵の増員をお願いする予定だってメイリン言ってたけどさぁ、できんのかな」
城壁の上から王太子到着の様子を見下ろしながら、トラヴィスは呟く。お互い見張り当番の交代時にちょうど鉢合わせて、そのまま一緒に砦前の様子を見ているのだった。
今日はグレアムの傍にサリックスはいない。朝から姿を見かけなかった。グレアムが砦に詰めている日はたまにこういうこともあるので、グレアムも特に気には掛けなかった。もとは野良猫だ。ひとりになりたいときもあるのだろう。ただ、危険があるので砦の中に居てくれればいいと思うけれど。
「正直に言うと……現況を信じてもらえるかといったところが怪しいと、俺は思っている」
嘆息しながらグレアムは答えた。懸念事項はなにも王太子の滞在に限ったことではなかった。ここ最近、再び様変わりした魔の森のことも含まれている。
ここ数日、森は沈黙していた。不気味なほど。小物すら来ず、巡回した隊が魔物に鉢合わせることすらなかった。思わぬ平穏の訪れに、
嵐の前の静けさ、という言葉がグレアムの頭を過ぎる。
「落ち着いたのか、それともなにかの前触れか」
「縁起でもねぇよ。止めてくれ」
周囲もまたそう言うのを耳にしながら、グレアムはトラヴィスと屋内へと入っていった。
「嫌になるねぇ、こんなときに」
誰もが思うことをまたトラヴィスも感じ取っているのだろう、彼は大きく肩を竦めた。
「頼むから今日明日ばかりは、なにも起きないで欲しいぜ」
厄介なことに、到着予定がこんな時間帯となってしまったものだから、王太子一行はこの砦に一泊することとなっていた。視察・会談を行ったうえで帰途に着いては、夜までに王太子を迎えられるような邸宅のある都市に着くことが不可能だからである。一応近くに、砦の者たちも遊びに行くアキナという村もあるのだが、それなりに快適な寝床が提供できるそこよりも、砦に一泊したいと王太子たって希望されたという。
砦での生活を実感したいとでも思ったのかもしれないが、それを有り難いと思う者よりも迷惑に思う者のほうが圧倒的に多いことだろう。現在は砦内はピリピリしていた。ただでさえ、異常事態の最中である。こんな時に要人を歓迎する人間など、まずいないだろう。
口には出せないが、心の中でトラヴィスに同意したそのとき、歩いていた廊下の向こうが少し騒がしくなった。なにか、と思って顔を上げ、思わず足を止める。
見慣れた葡萄酒色の制服を先頭にする、数名の白い服の集団。その中心にいる蒼いローブの貴人。案内の駐在兵と、近衛兵たちと、彼らに守られている王太子の一行が、まさかグレアムの前に現れたのだ。
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