最終話
いつでも貴方の傍に居る
水を弾いたような弦の音が、晩夏の庭に鳴り響く。濃いピンク色の花を咲かせた
演奏家であるわけではないため、技術を取り戻すことに躍起になる必要はなかった。それでもここのところ熱心にジュディスがマディートを演奏しているのは、そろそろグレアムが任期を終えて魔の森から帰ってくる時期であるからだ。彼が魔法師を辞した後、ジュディスたちは結婚の準備を進めることになっている。半年を掛けて準備を進め、春先に挙式、そしてアクトンの領地で新生活だ。その頃には、グレアムの気に入りの曲を何曲か弾けるようになっていたい。そうジュディスは思っていた。
猫となっていた三年が効果をもたらしたのだろうか。婚約の腕輪をなくしても、ジュディスの体調はそれなりに良好だった。だから、多少の無理も効く。
再び弦に指を掛ける。拙い音を攫う涼風が心地よく、気付けばジュディスは旋律に歌声を乗せていた。少し掠れた歌声が、伸びやかに夕空へと流れていく。
一曲が終わろうかという頃だった。ジュディスは、濃い緑の生垣の傍に、いつの間にか人影が佇んでいたことに気が付いた。短い灰色の髪を斜陽に染め、深海色の瞳を真っ直ぐにこちらに向けた仏頂面。夏向けの簡素な格好でも固い印象を与え、婚約者に会いに来たのに甘さを感じさせないその様は、間違いなくグレアムその人のものだった。
そろそろだったとは思っていたが、まさか今日だったとは。ジュディスはマディートを傍らに置き、立ち上がる。
「おかえりなさい」
ただいま、とグレアムは静かにジュディスの近くに寄った。それから胸の前に抱えた花束を手渡す。礼の言葉も忘れて、ジュディスは目を瞠る。黄色一色で構成されたそれは、ヘリアンサスの花束だった。
期待に胸が大きく高鳴る。
おそるおそる顔を上げれば、グレアムは深海色の瞳を僅かに細めて微笑んだ後、ジュディスの足元に膝をついた。取り出したのは、真珠色のベルベットが貼られた箱。左手に載せて、恭しく差し出した。
「ジュディス」
いつもと変わらない真剣な声。だが、ジュディスは息を潜めて耳を聳てずにはいられなかった。贈られた花束を握る手に力が籠る。
視線が釘付けになった箱が開かれる。
「どうか俺と、結婚して欲しい」
白いクッションに載せられたのは、金色の腕輪だった。指の第一関節ほどの幅のある、平たい金の板のバンクル。内周には、かつて見覚えのある魔法術式が彫られている。外周には、青銀色の石が嵌められ、それを中心として花の文様が刻まれていた。
ジュディスが抱える花束と同じ、ヘリアンサスの文様だ。
腕輪から視線を逸らし、グレアムの顔を見つめる。堅物の彼は、こういうときでも一切の照れを見せることなく、ただ真摯に、じっとジュディスが腕輪を受け取るのを待っていた。動揺を表に出さないその様が少し悔しくて、ジュディスは溜め息を溢す。だが、それでも口の端が上向いてしまうのを抑えることはできなかった。
腕輪に白い指を伸ばし、つまみ上げる。花束を抱え直すと、左手首に嵌めた。
銀の腕輪は婚約の証。金の腕輪は婚姻を結んだ証。
グレアムが銀ではなく、金の腕輪を差し出してきたその意味を――その覚悟を、ジュディスは正しく受け取った。
ぎゅ、とその首元に飛びつく。久しぶりに会う彼は、いっそう逞しくなっており、ジュディスの体重を難なく受け止めた。
「ありがとう、グレアム。嬉しい」
胸から溢れんばかりの想いを口にすれば、力強い腕がジュディスの身体を抱きしめてくれた。その温かさと力強さに、ジュディスは幸福感に包まれる。
「改めてこの花に誓う。ジュディ、君をずっと離さない」
低く耳元に吹き込まれる声が、じんわりと胸に染み入った。出逢ってからの十年がジュディスの脳裏を駆け巡る。
とても辛いことがあった。不安になることも、寂しくなることもあった。それでも、記憶の大半を占めるのは、共に過ごした幸福な日々。
また、その日々が戻ってくるのだと思うと、心が浮き立った。同時に決意する。二度とこの幸福を手放さないと。
「そんなこと、貴方が誓わなくてもいいの」
グレアムから身を離したジュディスは、彼の顔を覗き込み、翠色の眼を細めて微笑んだ。
「貴方がたとえ、どんなところへ行こうとも」
魔法師学校で、一緒に過ごしていたように。魔の森で、猫の姿になってまで寄り添っていたように。
「いつでも貴方の傍に居るわ」
いつかヘリアンサスに誓って 森陰五十鈴 @morisuzu
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