第4話
出社前、そして出社後、その時間に彼女にメッセージを送るのが日課になってしまったと、ふと手元にあったスマホを見下ろして一條は思った。
彼女と連絡先を交換した次の日、コインロッカーには紙袋の他に丁寧に綴られているファイルが一冊入っていた。
袋が一杯になる程の餌と牧草のサンプル品、店が配っている様な物ではなく一つ一つ手作業で包装されていて彼女がいつも使用しているものだと直ぐに知れ、袋に書かれた銘柄の全てについてそのファイルにメリットとデメリットが書かれてあり、副業申請まですると言うのが道楽ではないのだろうと理解できる様な。
随分遅い時間になっていたし次の日も始業時間には既に椅子に座っていたから、眠る時間を削ってあのファイルを纏めたのを思えば申し訳なくなると同時に何やら嬉しくもなった。デザイナーらしく見やすくレイアウトされているファイルは見るだけでも楽しくなるし、素人にも分かり易い様に丁寧に書かれている。
それに従って分量を調整しその日の内に食べている写真を送れば、彼女からは糞の画像を送って下さいと返事があった。
兎の糞の写真を強請ってきたのなんて本当に彼女だけだと思いながらも返事を待っていれば、思消化不良ではないとか餌との相性はいい筈との遣り取りが始まりだったかと思う。
それから彼女には兎の生活環境も含めて写真を送ったり、飼育について疑問に思った事を送ったりにも必ず丁寧に返事があり、経験談の他には時間をおいて獣医に確認してくれたりと真摯な対応のせいもあってすっかり日常に組み込まれた。
友人からもらい受けて大切に扱っていたが、素人同然の飼育しかしていなかった自分には本当に興味深い話ばかりで、彼女が送ってきてくれる兎の写真の可愛さもあり止める理由もなく。
それこそ会社では羽柴との打ち合わせの時にデザイン課のデスクの近くに行ったときに軽く会釈をしてくれる程度で、仕事上の繋がりもなく新人同然の彼女に声を掛ける機会がない。
いつだって彼女に質問できるツールが手元にあるのに、早く自分の家に帰りたいと徹夜であろう中でもメッセージのある彼女とまた直接話したいと思うのは贅沢なのだろうか。
不用意に近付けば会社の女性社員に好き勝手言われるのも分かって居るし、彼女を待ち伏せして偶然を装ってみようかと思っても超不定期のデザイン課と帰宅時間が合うなんてそれこそ年に1度か2度あればいい方の奇跡だ。
忙しい時の営業だってそれなりの時間になるが基本は相手がいてこその仕事だから、定時からが本番だとか言うのを嘯く羽柴に率いられているあの部署は夜遅くにも明かりがついてテニスボールを投げ合って遊んでいる。
彼女は見る限りいつも羽柴に罵声らしきものをかけていて、その癖他人には丁寧に対応している様で、その瞳の内側でどんな事を考えて居るのかよく分からない。本当は毎日連絡を取るなんて迷惑だとか面倒だとか思って居るのではないかと一抹の不安を感じれば、もう少し彼女の方から近付いてくれれば分かり安いと思って、しかしその考えに自ら溜息を吐き出した。
今日も見ればガラス壁の向こうで普段通りに羽柴が彼女に紙飛行機を投げて反対側の鳴海にぶつかり、高速でテニスボールが羽柴の頭にヒットして部署の全員が腹を抱えて笑う中呆れた様に楚良が何かを告げているのが見える。
あの程度にはなりたくはないが、もう少し、自然に会話を遣り取りできるぐらいには、等と思考が流れかけて再びの溜息が漏れた。この思考は彼女の迷惑になりかねない、貴重な話し相手を、直接話がしたいから等という一点で失うのはご免だ。
終礼が終わって皆が一日の結果に一喜一憂した後にそんな事を考えられるのは自分に余裕があるからだろうが、PCを確認していればメールが1つ飛び込んできていた。
その件名を見てその余裕やら考えも全て吹き飛ぶ、上から直接下りて来ている大口の取引先からのメールは明日に持ち越していい様な内容ではなく、それを直ぐにプリンターへと飛ばして椅子から立ち上がった。
「一條」
告げられた名前にプリンターの傍へと立っていた男へと目を向ければ、その手が今吐き出されたばかりの紙を手に取って振り返った様だった。役職名ではなく名字を呼び捨てるのを直下の部下に許すべきではないのかもしれないが、彼は元々自分より少しだけ職歴が長い。
僅かな煙草の香り、以前新人だった自分の面倒を見たこともある蔭島という男だが、昇進を拒否したせいで自分の下の主任の立場にとどめ置かれてしまった。
「落としたのか?」
渡された紙は短く纏められていて一目で心地良い内容ではないのがよく分かるし、彼は彼なりに営業部の仕事を把握している。
「まだ落ちてない。…もう四度目だから、執行猶予みたいなものだけど」
一條も立場があって敬語は使っていないが彼の目にかかれば明かだろう。蔭島の瞳もやや陰りのある険しさを持っているのはその内容と社名を理解したからか。
「大口だがこの内容じゃ理不尽だろ?手放すのも視野に入れたらどうだ」
「専務の紹介だから難しいかな。このままだと此方がどうこうよりはあちらに放り投げられるかもしれないけど」
プリントアウトしたメールにはデザインが特徴を捉えられていないと辛辣に切り捨てる内容が書かれてあった。
世界的に有名な化粧品メーカーが初めて男性用香水を手がけるのにあたって、広告代理店では無くデザイン事務所に直接持ち込んだ話がこれだった。広告代理店の下請けの形でも無く逆に代理店に対して此方が主導的に動ける仕事は大口だし、普通なら広告代理店が総取りしている内容は口に出来ない値段の価値はあるが、見捨てられれば二度とこんな仕事はふってこない。
絶対に落とすなと言われているが、デザイナー達の案は悉く先程の調子で切り捨てられていて理由もよく分からないままだ。
「許されても残り二、三回が良いところだろうね」
「お前が弱気なんて珍しいな?今月は俺にも目があるか」
蔭島が顎で指したのは壁に貼ってある契約数と契約金額のランク表で、課長と主任が共に他の社員よりは突出している。蔭島のこういう鼓舞の仕方は嫌いではないし、何度も助けられてはきたが手の中の紙が酷く重たいのは変わらなかった。
一度自分の机に寄ってファイルを幾つか取り、ガラス壁の端に設えられているデザイン課への直通のガラス扉を開き其方へと入れば、狙いを外したのかテニスボールが飛んできて直前で顔を逸らして避けた所で羽柴が気付いたのかやっと顔が向く。
スーツ姿の人間しかいない営業部とは違い、此方のメンバーは私服ばかりでカラフルだと思えば部署の違いは如実。指でミーティングルームを指せばひらひらと手を揺らす事でデザイン課の長が肯定を示した。
ドアを先に開いて椅子へと腰を落ち着け、机の上へとファイルを置き目の前に紙を伏せておいた所で中に羽柴が入って勝手知ったる風に椅子を引いて腰掛ける。
「どうした、飲み会の誘いならお断りだぞ。死ぬ程忙しい」
「テニスボールと紙飛行機が飛んでた様に思うけど。誘ってあげたい所だけどそうじゃないよ、Chevalier《シュバリエ》のデザイン、没だった」
「は?Chevalierからか」
「そう。乖離してるからって」
一瞬で気が抜けた様な表情から真剣な色を宿した羽柴の方へと裏返しにしたままの紙を滑らせれば、その手が迷いも無く捲って文面を追う。
いつもふざけている男だがその内面の優秀さは営業部の皆が知る所で、一條も良く把握していた。
「アレでも駄目だったのか、何が駄目なんだ?」
「分からない。具体的にはいつも言ってくれないのも変わらない。いつも通りだよ、特徴を捉えられていないって」
「全然分からん、ただの言いがかりじゃないのか」
そのメールの文面は今まで没を食らったメールとさして変わらない。いつも同じだ、このデザインでは特徴を捉えられてはいない、この香水の本質とは乖離している、と。
具体的にどこがと何度も丁寧に遠回しにでも問いかけているが、それに答えてもらった事はない。
「オリエンタル系の刺激的な香りも入ってて、重ための香りだろ?黒赤か黒金、そういう線じゃないのか」
「僕もそう思うよ、香りのイメージは黒系に思えるけど」
本当に何を試されているのかと思いながら溜息を吐いて、羽柴がメールを見ながら眉を潜めたままで小さく唸った。相手方の言葉が余りにも抽象的過ぎて色々と疑う。
「今回デザインしたのは羽柴本人だよね?それでも駄目だって言うなら根本的に考え直した方がいいかもしれない」
「根本的って言ったってこれ以上打つ手がないぞ、うちの部署でも黒以外のイメージを持ってきた奴なんていないんだが」
「――――――――空木さんは」
彼のセンスでも太刀打ち出来ないというのならば、この会社のデザイン課とは根本的に合わないのだと判じるしかない。外注なども考えるレベルだが、外に出してまた没という話になれば時間もかかるし経費も話にならないのは営業管轄の一條が一番よく分かっている。
その口から漏れた言葉に露骨に羽柴が溜息を吐いて首を振った。
「空木は駄目だ」
「何で?」
「アイツは入って日が浅いし仕事がデカすぎる。海外展開から代理店に投げるCMもセットになるんだぞ」
紙を机へと戻した羽柴が呆れた様に告げる言葉を聞きながら天板に乗せられた紙を人差し指で叩き、肘掛けへと頬杖を突いきながら告げる言葉は冗談で言っている風ではない。
「でも彼女なら今まで外にいたんだから新しいアイデアをくれるかも」
「空木はまだサポートしか入れてない。アイツに任せるなら最初はもっと堅実なものだ、最初から壁に向かってアクセル全開を命令するなんて何の虐めだよ」
「だったらどうするって言うの?今手詰まりなのは明かでしょ」
「この仕事が無くなったって10年後まで使える奴を今潰そうとでもしてんのかお前は」
「潰れるとは限らない。彼女鼻は確かだし香水ならもしかしたら本当にいいアイデアをくれるかもしれないし」
溜息交じりの羽柴の言葉にさらに付け足した一條に鼻は確かって何だとぼやきながらも、一度羽柴が外を眺めた。多分、彼女の方を。
「メンズの香水だろ…」
「つけるのは男だけど嗅ぐのは男だけとは限らないよ。次の、一枚だけでもいいからお願い」
難しい顔をしたままの羽柴に一條が食い下がる様に声を掛ける。お願いしてる態度じゃないだろと羽柴が言いたくもなるが、空木のキャリアさえ考えなければ一條の言葉に正当性が無い訳ではない。
「ちょっと待ってろ」
羽柴が立ち上がり扉の方へと向かうのを見ながら、本当に彼は新人に期待を寄せているというのがよく分かる。と言うより、短い遣り取りの中にもそうすべき才能を持っているのだというのは理解できる。
前園の紹介というのもあるが彼女は多分、人の要望を受け取る力に優れている方だ。こう言う案件には相応しいと言っても良い。
それでも羽柴の懸念が全然理解できないという一條でもなく、この仕事を任せて結局駄目だったという話になれば、新人である彼女が一番に切られやすい。
声を掛けて手招けばその小柄がすぐに立ち上がりミーティングルームの扉の方へとやってきた。
「お茶ですか?」
「いや、仕事だ。入ってくれ」
入り口で軽く首を傾げた彼女は少しだけ表情を硬くしていて、本当に勘が良いのだろうと羽柴も思った。惑う様に視線が揺れて一條の方を見たが一瞬の事、その黒髪が丁寧に下げられて失礼しますという声と共に部屋の中に長い裾が翻った。
「言っておくが俺は断ったからな?無理難題を押しつけてきてるのは今度も一條だぞ」
席に着いた羽柴が隣の椅子をひいて、もう一度失礼しますと告げた彼女がスカートを捌きながら浅く腰を下ろした。隣からの言葉を聞けば、え、とさらに困惑した様な声が上がる。
「空木さんを困らせようと思って持ってきてる訳じゃないから。羽柴じゃ駄目だったからなんだけど」
羽柴が告げた言葉に不安げな瞳が向けられて、何て事を言うんだと一條が溜息を吐きたくなった。手元のファイルの頁を開いて彼女に向け、そのまま其方へと押し出す。
「Chevalierのデザインはお前も見てるだろ、あれ没で帰ってきた」
「香水のものですよね、黒と赤の」
「そうだ。今日で4回目の没でな、流石の俺ももう枯れ果ててアイデアが無い。で、だ」
開いたページは企画書というのには余りにもスカスカな書類の様に楚良が思えたが、一番上には企画書と書いてある。捲ってみれば3回分の没メールが入れられていて、四枚目を隣から羽柴が滑り込ませた。
「君にはメインテーマをデザインして貰いたい。そこからポスターやCMも展開していくつもりだから、勿論負担が大きいのは分かってるよ。僕と羽柴でフォローはするから、頼まれてくれないかな」
羽柴の言葉を繋ぐ形で一條が告げたのを聞けばファイルを見つめていたその瞳が瞬いて、どうしてとでも言いたげに一條を見つめた後に羽柴の方へと向けられる。
「他の方では」
「他の奴の案はもう出してるだろ?大抵似たようなイメージだったしな」
「そう言われましても、皆さん共通のイメージだったという事なんですよね?」
「まぁな」
「それは私が突飛を狙っても駄目なのではないでしょうか」
ふ、とその肩が落ちる様になれば唇から言葉も漏れ、羽柴が隣の彼女を見下ろす様にして腕を組み、背凭れへ音を立ててもたれかかった。
ぎしぎし鳴る椅子から視線を外した楚良がまたファイルの方へと目を下ろす。
「突飛を狙う必要はないよ、君のセンスで作ってくれればいいし似たようなものになるなら諦めるから」
「でも、それでは通らないのでは」
「君にそこまで責任を負わせるつもりは僕にもない。突飛なデザインっていうだけなら羽柴に描かせるよ」
「それは前やっただろ」
羽柴はそういうの得意だし等と告げる一條に思わず笑いかけた楚良が、もう一度ページを捲って企画書と没メールの内容を交互に眺めて居る様だった。
彼女には今、あの簡素な文章がどう見えて居るのだろうか。
「羽柴課長の判断は?」
「任せたくないし一條は無茶苦茶言ってると思ってる。結局これが成立しなかった時に新人を入れたせいだなんて話になったらお前の首が飛ぶ」
「――――それはさせない、彼女の名前を出したのは僕だよ?」
「お前は専務のお気に入りだからどうしようもないだろ」
無理だ、と羽柴が遠慮もなく告げれば一條との間で火花が散る。彼ら二人の仲が劇的に悪いとかそういう訳ではなく、常に営業の無理難題を受けているのが羽柴だという事を考えれば、仕事上での遣り取りはどうしてもこうなりがちだ。
だからこそ個人的に禍根を残さない様にしているんだろうが。
「立場的なものは首が飛ぶだけだと分かったのですが、能力的なものはどうでしょうか?私から新しいイメージは出ると思いますか?」
だけ、と思わず同時に一條と羽柴が呟いたのを丸ごと無視した様に彼女が言葉を紡ぎながら首を傾げ、その肩口から黒髪が一房零れた。
「時間がタイトだからそれもな。…例えばこれが来月の締め切りなら任せるのも吝かじゃないが実際は来週だ。それにお前は柔らかな色使いの方が得意だろ?これはメンズだし締まりのある色で落ち着くと思うんだがな」
「それでは没だったと」
「まぁそれでお前にまで声を掛ける羽目になったんだが、生かせるかどうかは微妙過ぎるぞ」
真剣に羽柴の言葉を聞いていた様な楚良だったがファイリングされた紙の表面を滑り、担当者の名前で指先が止まる。
「一條課長はどうして私に?」
そして静かにその名の男へと瞳が向けられて、真正面から受ける形になった一條がじっとそれを見つめてから口を開いた。
「単純な事だよ。来てから日が浅いって事と、君は鼻がいい。勿論これがメンズで黒系じゃないかと言うのは理解してる。でもさっき羽柴に言ったけど、使うのは男でも傍で感じるのは男だとは限らないから」
「傍――――…」
その唇から呟く様に漏れた言葉に視線は直ぐに落ちて再びメールの文面を指先がぞっている様で、その小さな爪の先が本質、と記された部分で止まり悩んでいる風な彼女を見れば、羽柴にしても一條にしても無理強いをしている気分になってくる。
没を繰り返した仕事のお鉢が課長二人から回ってきた新人というのは、受けるのにしても断るのにしても実際に立場的には苦しい筈だ。
「香りのサンプルはありますか?」
「お前、受けるつもりか」
彼女の言葉を聞くと同時に立ち上がった一條が部屋の扉へと向かって歩くのを傍目に、羽柴が視線を落として隣の小柄へと問いかける。
「特徴を捉えられていないとか、本質と乖離しているとはどういう事なのか分かりますか?」
「向こうの持ってるイメージと全然違うって事だろ?」
「しかし課長達が出したイメージは皆似たり寄ったりです。――――凄く不思議なんです」
するりと小さな音を立てたのは紙を滑る彼女の指先、羽柴の瞳が其方へと向けられて同時に楚良の視線も文面へと向けられた。
「香りのイメージと色が違うとか、モチーフが違うとか、そういう内容ではなく本質とか特徴というのはどういう事なのだろうかと」
一度言葉を止めた彼女の合間に図った様に一條が外から戻ってきて、落ちていた視線が再び上向く様にしてそのスーツ姿を見つめた。
席へと戻った一條が不透明の黒い瓶を彼女の方へと親指で押し出す。
「貰った資料はその企画書と、香りのサンプルだけなんだ。原材料が何かすら教えて貰ってないし、リーク予防だって先方は言うんだけどね」
男性用の香水、というその大まかな指定とこの瓶だけかと楚良が瓶に手を伸ばさないままでそのディティールを確かめるが、サンプルの瓶には何の手がかりもない。
ただの黒いつるりとした瓶だ。
「本当にあっちが何考えてんのか全然分からん」
ゆっくりと手を伸ばした彼女が瓶の蓋を開いて中身を指先に含ませて、静かに鼻の方へと近づける。
「香りは強すぎはしないですね?」
「持続時間も3時間か4時間程度じゃないかな?」
「だがパンチは効いてる、一気に来て一気に去って行くタイプだな」
香りの中に男性的なスパイスの効いた香りがする、オリエント系だと羽柴達が話しているのを何となく記憶の端に引っかけておいたが確かにその通りで、引き締まったその匂いは確かに色のイメージでいうと男性の色だ。
人差し指と親指で強くそれを擦りながら息を吐きかけ、そして嗅ぐを繰り返していた楚良が僅かだけ首を傾げて息を止めた。
「課長、これつけましたか?」
「嗚呼、付けちゃみたが劇的に匂いが変わるって程じゃない。トップとかラストまで余り変化は無かった様に思うがな。シングルノートって奴じゃないのか?」
ふっともう一度だけ止めていた息を吹きかけた彼女が、自分の首筋へと指で触れ耳の後ろへと指を這わせするりとそれを撫でる動きが一條の視界の中で、直ぐにまた彼女は指先へと鼻を近づける。
「何か分かったか?」
「私は調香師ではないので。――――ただ、そうですね。単純な黒ではない気がします」
少し首を傾げたままだった彼女のその様子に思わず男二人が瞬いて絶句した。どういう事だと言葉にもせずに驚いた瞳で見つめられている楚良が、手首へとその指を擦りつけてそして手を下ろした。
「黒にはなりますが、上手く口で説明できません。24時間下さい、この香りがどう変わって行くのは純粋な興味としても見てみたいです」
楚良がそのサンプルの瓶を手に包む様にして取り上げ、羽柴から一條の方へと視線が移ろった。
「此方をお借りしても良いでしょうか?」
「構わないよ。いつデザインが出来そう?」
「何か掴んだなら今の仕事は全部俺にくれていい、明後日の昼までに出せるか?」
流石にそれは無理なのではと思ったが、意外にも彼女は小さく頷いた。
「一枚分なら」
「それで。先方にそれを出して見るよ、羽柴はブラフで他に何枚か描いておいて」
彼女のだけを出すのは色々考えるのに辞めておいた方がいいと判じて、一條が半信半疑でも告げる言葉には直ぐに羽柴にも察しが付いた。
「ま、そっちは任せろ。全部俺が描いた事にでもする」
それは部下の手柄を取るのではないかと思ったが、彼はそれを好んで行う様な男ではないから、結果が出るまでという線が濃厚だろう。
立ち上がった一條に習って羽柴と楚良が立ち上がり、撫でようとしている羽柴の手を叩き落としている楚良の姿が目に映れば羨ましいな等と一條の脳裏に一瞬過ぎって、仕事中の思考ではないと直ぐにその思考は払っておく。
「空木さん、今日この後時間ある?」
羽柴が引いた椅子を、丁寧に戻して自分の椅子にも手をかけている彼女の前に置かれたままだったファイルを手に取って、その身体の隣へと並ぶ様に一條が立ち止まった。
「上司の前で部下を口説くか?普通」
「羽柴は死ぬ程忙しくて無理なんでしょ?あと口説いてる訳じゃないし、打ち合わせするだけだから」
驚いた風に見上げた小柄とその隣から掛かる言葉。即座に否定し未だに迷っている風な彼女にもう一つ踏み込めば、その瞳が一瞬逸らされてまた戻ってくる。
「21時が過ぎてしまいそうな気がします。それでも良ければChevalierの今までの商品傾向等を教えて欲しいです。化粧品のサンプルも…原材料が分かって居るものが手に入れば欲しいんですが」
「分かった、一度家に戻るから直ぐ集めておくよ。他に必要なものはある?」
「香水のサンプルはこれだけですか?」
この間の後悔もあるし此処は空木を庇うべきかと思ったが、彼女が公私混同をする筈も無いだろうと思っていたら違う意味で公私混同はしなかった。
「量が必要ならまだあるから持って行くよ」
「そうではなく、それをつけておいてくれませんか。何処にでも良いですが、3カ所ほど、一つは肌にではなくタイにお願いします」
部屋の入り口を開いた羽柴が彼女の指定に首を傾げたが、彼女が冗談で言っている風ではない。それを聞いていた一條がすぐさま頷いた。
「それ程長時間は残らないとの事なので、嫌でなければお願いしたいのですが」
「手首と、首とでいいかな。あとタイだね、化粧品はどうする?」
「香水以外は香りがぼやけるのでつけない方がいいです。ご迷惑をお掛けしますが宜しくお願いします」
規定通りの位置を示した一條に深く頭を下げた楚良が直ぐにまた元の姿勢に戻り、扉を開いて待っている羽柴の隣を抜けて席の方へと歩いて言った。
扉から手を離した羽柴の後ろから、ファイルを抱えた一條が続く。その長身が直ぐにガラス壁の向こうへと戻って行くのを見つめていた羽柴が、席へと戻って楚良の方へと視線を投げた。
「お前いいのか?二人きりは嫌なんじゃなかったのか」
「これは仕事なので、興味本位の課長の悪戯とは違いますから別に。それに課長は今日は時間が空かないのではないでしょうか、ついてきて欲しいとは思いますが今日が無理なら資料を見る時間が無くなりますので」
「――――…本当に悪いな」
告げられる言葉は全て図星だったので迷った挙げ句にではあったが羽柴が答え、ですよねと楚良があっさりと答えて頷く。
「埋め合わせは必ずするから許してくれ」
「期待していますね、私も頑張ってはみますので」
薄い微笑を浮かべた楚良が珍しく皮肉でも罵倒でもなく素直に告げてPCの方へと視線を戻した。彼女の手が黒い瓶を机の片隅へと置いて、自分の指先へと唇を寄せる。
羽柴の視界の端に赤い舌がその指を一度舐めて、そしてまた僅かに視線が細められている様だった。本当に何が入っているか分からないから辞めろとでも言った方が良いのだろうか。
それは今まで見たことも無い様な表情で、そう言えば前園が彼女には多分景色が違って見えているんだろうと言っていたのを思いだした。
もう周りの喧噪も飛び交う紙屑も目に入っていないのだろう、集中力の高さは若さもあるのだろうかとも思う。
本当にこんなつもりじゃなかったんだがと言い訳したい気分になってしまったが、結果的に彼女の能力を測る事にもなるのだろう。それを先んじて一條に提案された事は多分上司として恥じるべきなんだろうと思って、羽柴は大きく溜息を吐いた。
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