第3話

 食事が終わって別れ際、兎で不安な事があったり可愛くて誰かに自慢したくなった時はいつでも言って下さいね、と、告げれば少し驚いた様な顔をした一條が、しかしすぐに笑みを浮かべてまた礼を告げた。


 本当に寂しく見えるとかペットを溺愛するのはみっともないなんて事は無いのにと思って別れたが、色々と人気のある人はイメージ保持が大変なんだろう。


 終電間際の電車に揺られて家に帰り、食べ過ぎた身体に鞭打ちつつ自分の兎の世話をきっちりと終えて持ち帰りの仕事を片付けようとしてみれば、メッセージアプリの着信に気付く。自分のスマートフォンなんて仕事以外で滅多に音が鳴らないから存在さえ忘れていた。

 見れば一條からでソファの上にへそ天になっている兎の写真が添付されていて、時間を見れば15分程度の時間しか経っていなかったので、撮りたての兎親子の写真を送っておく。


 うちの子が一番可愛いので張り合っておきますと書いた楚良に、同感だから楽しみにしていると返信が直ぐに返ってきた。そして改めての礼と明日早いから名残惜しいけど今日はお休みと記されていて、きっとこの人は本当にモテるんだろうと思う。

 あの容姿であれば兎好きの女性などよりどりみどりでどれだけでも見つかりそうなものだろうが、兎至上主義なんだろうか。最近知ったのだけれども、イケメンには残念な人が多いというのでその類いだろうか。


 鞄の中から手つかずの封筒が出てきて封を開けば簡単ではあるが校正を求められているし、明日は昼までに仕事を片付け無ければならない事を思い出せばうんざりする。ちなみに、死ねと送った楚良のメールには新しい仕事をやるから許してくれとか書かれてあった。


 本当にあの人は調子が良い、そして新しい仕事はいらない。


 久々に朝の満員電車に乗る羽目になり、職場につけば自分の部署の人間は誰も居なかった。ふと見れば羽柴の机には色々と残されていたしPCも付けっぱなしなので、多分仮眠室で寝ているんだろう。彼はいつも一番に出社して一番遅く出る。

 PCの電源を入れ立ち上がる合間にホワイトボード周りや共用の資料ファイル類、ゴミ箱を片付けてまたデスクへと戻って来てみれば、様々な場所から好き勝手にメールがデザ課宛てに投げられているのを全てチェックして朝の頭を動かし始めた。


 2つ並んだモニタの傍らで羽柴から押しつけられた仕事のファイルを立ち上げ、昨日帰ったままのそれにやはりあの後会社に戻れば良かったと思ったが、昨日が戻ってくる訳でもない。

 ペン立てに挟まっていた青色のペン、蓋を開いてそれを机に積まれた紙へと走らせる。


 仕事は忙しくとも、そして新人の仕事の大半が修正や校正であっても、楽しいと純粋に思う。芸術畑の仕事は本当に些細な事でも何でも好きだ。


「お早う御座います、今日は早いんですね」

 他の部署が朝礼などを始めるのがガラス壁の向こうに見えてもうそんな時間かと時計の方へと視線を流せば、丁度良く入り口辺りに鳴海の姿が見えた。

 欠伸を噛み殺すのはいつもの彼の様子で、それこそ普段よりも何時間かは早い。


「悪い、ガム全部食った」

「お腹緩くなりませんか?新しいのは買ってきてあるので大丈夫です」

 まだ半分程は残っていたかと思ったが、合成甘味料の食べ過ぎが全く問題のない類いの人なんだろうか。


 隣のデスクの椅子を引いて座った鳴海の手が、楚良のデスクの方へと伸びて机の端へと箱を置く。

「あ、有り難う御座いますっ」

 小さめの箱に首を傾げかけたがその箱に無機質に限定品と書かれてあったので、直ぐに昨日のガムの対価だと分かった。

 この可愛らしいタンブラーを彼が引き替えている様子というのを少し申し訳無くも思ったが、正直これが初めてではない。じゃあこれをどうぞと新品のガムボトルを献上しておく。


「昼までに終わるのか?」

 問いかける鳴海に自分の手元へと瞳を落とした楚良が軽く肩を竦め、新人の教育係は主任の彼に任されていたのも思い出した。一応彼の仕事だが、3日目辺りから最早教育というものは誰にもされていない気がする。

「10時過ぎで終わると思います。島根の、終わったんですか?」

「修正が昨日来た」

「…あそこの担当どうなってるんです?こちらが終わったら手伝わせて貰っても良いでしょうか?」


「――――頼む」

 断られるのではないだろうかと思えばあっさりと受け入れられて、やはり彼は彼であの仕事に縛り付けられるのは限界なんじゃないだろうかと思った。


 楚良のデスクに少しずつ兎の某かが増えているのは部署の皆の知るところだし、彼らの協力あってこそ。副業申請は通ったんだろうかと思いながら手元から営業部の方へと何となく視線を流せば、丁度朝礼が終わったのか皆が思い思いに席に戻る所で。

 その中央にいた一條の瞳が一瞬だけ楚良の方へと流れて、小さく微笑を浮かべられたのが視界の中。後で彼にコインロッカーの鍵を届けなければならないのだけれども、直接デスクは色々と無理だしどうしようか。


「おお、早いなお二人さん。まさか同伴か?」

 とりあえず宣言した時間までに仕事を終わらせなければとマウスへと手をかけた所で、入り口から暢気な声が掛かって鳴海と楚良が同時に其方を向いて息を吐く。


「死ね」

「死んで下さい」

 二人の声は見事に一つ、それに羽柴の軽快な笑い声が重なって、二人の唇からまた同時に盛大な溜息が零れた。

 羽柴の服は色々と乱れていて、やはり仮眠室で仮眠を取っていた苦労の形だという事は分かるのだが。


 持ち帰りの仕事は既にメールで送ってあって、羽柴が席に着いて直ぐにそれに対する礼が帰ってきた。それをちらりと確認はしたが10時までと決めたなら時間までに今の仕事を終わらせねばと其方に集中する事にする。

 羽柴が時折鳴海に声を掛けそれが端的な言葉で返されているのも羽柴の頭が余り動いていないからだろうか、昨夜は楚良にもそれなりの事件だったが彼らにも色々とあったのだろう。


 2人に遣り取りを殆ど任せた楚良が10時にきっちりと納めた仕事は羽柴相手に確認を求めるメールとして添付し、少し休憩してきますと小さな鞄を片手にオフィスを抜けて休憩室へと向かった。

 鞄の中には渡せていない茶封筒、その中身はコインロッカーの鍵が入っている。ブラフとしてCDケースも一緒に入っているがその中身はコインロッカーに入っているサンプルに同封してある、商品について説明を記したデータの元データだ。


 デザイン課専用の休憩室は壁に囲まれ、立食用の小さな机が1つ真ん中にあって、壁には自販機が建ち並ぶ手狭な部屋。他にも共用の広い場所や食堂などもあるが一息ついて鍵の行方に頭を悩ませるなら此方の方がいい。

 人気も無いし、夏でも冬でも構わず冷たい甘いだけの清涼飲料水が沢山ある。

 それこそ真実甘いだけのココアを選び、部屋の中央のテーブルに肘をつきながらスマホの画面を親指でスライドしてその中を眺めた。


「あー。駄目だな、頭が働かん」

「お疲れ様です。もう少し追加で仮眠を取ったらどうですか?」

 家庭用のウェブカメラを遠隔起動すれば飼い主不在に構わず元気げな兎の姿が見えて、これだけを今日の糧にしようと思いながらココアの缶を開けていれば扉が中に向かって開き昨夜の元凶がぼやきながら入ってくる。


「先程メールを送りましたのでお手すきの時に処理お願いします。この後は主任の仕事に入ってもいいですか?」

「了解した、とっとと鳴海をフリーにしてやってくれ」

「それを課長が言うんですね?」


 彼一人に任せる様な割り振りをしているのは羽柴だろうと言いかけたが、次の仕事に関するメールが一切彼から流れていない事を考えると楚良の行動はお見通しなのだろうか。だったらもう少し早く助けてやれば良いのにと思わないでもない。


「で、昨日はどうだったんだ?」

「――――――――……は?」

 デザインが煮詰まっている様でもあったし、とりあえず資料集めと過去のデータを漁る所から始めようかと思考を移した所で不意に声。

「折角早く出してやったんだから、俺に報告ぐらいしてくれてもいいだろ?」


 兎を見ながらもう少し元気を吸いつつ段取りは鳴海に聞こうと思って居れば、さらに声が重ねられて思わず溜息を吐きたい気分になった。

 しかし吐息を零すのは辞めて其方へと視線を向け瞬く。彼は多分一度自分の行動を見直した方がいい。


「課長は一條課長が一人だと知っていましたよね」


 楚良の口からは常の様に罵声も呆れの言葉も漏れず、一瞬羽柴の強気な瞳が言葉を探す様に楚良の方を見下ろした。

「部下を売って満足でしたか?」

「――――っ、一体、お前どうし……」

 いつもの様に楚良からは軽い暴言でも帰って来るかと思えばその声には熱の一つさえなく、その眉間に僅かな皺があった。

「どうしたって課長が聞くんですか?分かって居て出したんですよね。一條課長にも課長が許可したって聞きました。あんな遅い時間に、お酒も入れて二人きりでもいいと許可したと」


「お前一條に何された――――っ」


 羽柴のこの手の焦った声など聞いたことは一度もない、机に手をついた彼の勢いにココアの缶がカタンと音を立てて揺れて僅かに間。

 この距離でさえない、昨夜の距離はコレよりも遙かに近かったと思えば本当に。


「何もされていませんよ、冗談です。一條課長の名誉の為に言っておきますが、お酒も入れていませんし昨日のお礼を丁寧にされて仕事の話を少ししたぐらいです」


 てっきり羽柴は自分の方を否定してくると思っていた、一條とは付き合いが長いだろうから絶対にそんな事はしないと言ってくると。

 まさかすんなり信じるとは思わないではないか、寧ろそんなに信じるなら本当に何故二人で出したのか、一條はそういう人間なのか。本当に心から反省して欲しい。


「お、前…、騙したな?」


「騙したのは課長が先ですよ、一條課長を担いだのは謝罪しますが、課長に謝罪はしません。よく知らない人と二人で食事なんてお礼でもお断りですし仕事ではありませんよね?それとも私がイケメン万歳という人間に見えていましたか?」

 立て板に水とはこの流暢な言葉の為にあるのだろうとばかりに告げられて、羽柴が小さく唸ってそのまま言葉を止める。


 最初に羽柴から彼女にお礼がしたいと持ちかけられて、他の女性社員に警戒されるから何か上手い口実はないだろうかと言われた時、刺激があればと思ったのは否定しないしできない。

 彼女はいつも涼しげな顔をしているし男に興味はなさそうで、若いのにお堅い雰囲気があるものだからそれが崩れるのだろうかと興味もあった。だがあの徹夜確定の頭が飛んでいただけで、今考えればそうだ、彼女との短い付き合いを考えても怒らない訳がない。


「悪かった」

「本当に悪いと思ってます?」

「本当に悪かった。一條は純粋な礼だと言っていたし、他の社員に目を付けられない程度に営業に顔を売った方がいいとも思ってた」

「そんな所だと思いました。色々とお話も頂けたので課長の気遣いを否定はしませんが…ただ本当に男性に係わらずよく知らない人と二人は苦手です」


 ココアは零れていないだろうかと一度缶を持ち上げて大丈夫だと、それを唇に押し当てる様にして一口嚥下。

 芸術畑を態々選び、兎を傍において小さな事務所に就職していたという事で、何とかコミュニケーションの技術は察して欲しい。


「お詫びに一つ働く気はありませんか?」


 テーブルについた腕にそのまま体重を預ける形で物憂げにしている羽柴に、ふと思い出した様に楚良が問いかけて見た。

 金髪だしそれなりの身長だし若干オラついた雰囲気はあるものの、口さえ開かなければモテるのにと過ぎったのは余計な思考に過ぎた。


「何だ、お詫びに何でも言ってみろ」

 彼がこの様に皮肉も返さずの口調という事は、一応本当に反省をしているのだろうという判断も下した。暫く休みをと言いかけた口を止めて、鞄の中から封筒を取りだして机の上に横たえて置く。


「一條課長のデスクに近付いて女性社員に睨まれるのは嫌なので、これを置いて来るか渡しておくかしてくれませんか。自然な方で」

「中身は?」

「詮索は無し、それが条件です。犯罪行為ではありませんよ」


 当たり障りの無い嘘をついても良かったがきっと羽柴は一條にこれは何だと問いかけると思った、その時に整合性の取れない嘘だと不味いとは思う。

 彼ならばその齟齬も上手く纏めてくれるだろうかとも過ぎったが、あえて口からは漏れなかった。

 どうします?と首を傾げた楚良の指先の下に置かれたその封筒を、羽柴が引き寄せて表と裏とを両方確認した。


「分かった。これでチャラにしてくれ、本当に何も無かったんだよな?」

「どう見たってある様には見えないでしょう?あったら一條課長がゲテモノ食い過ぎですし、そんな風に見られるのは余りにも可哀想すぎます。私のついた完全な嘘ですよ」

 その可能性は本当に無いのでそこは否定し純粋なお礼でしたと付け足した楚良の頭へ、羽柴が手をのばしてがしがしと撫で何ですかと息を吐いた楚良の顔に嘘が無い事を見つけて手を下ろす。


「じゃあ鳴海の方は頼んで良いか?」

「何かお役に立てることがないか探す程度ですが努力してみます。では、私は戻りますね」


 飲みかけのココアの缶と小さな鞄を手に歩き出した楚良を片手で見送った羽柴が、扉が閉じてしまえば手元の封筒へと目を落とす。

 軽く掲げて揺らしてみたりもしたが、中に緩衝材の入っているタイプなのか音は無く照明に透かしても分からない。厳重だなと思えば開けてみたくもなるがそれこそ彼女に口をきいて貰えなくなる事だろう。


 まだ年若い彼女のブラフに簡単に引っかかった自分に呆れ果てる、本当に彼女が怒るのは自明の理だし、一條だからと油断していたが他人であれば彼女の言う通り危険だった。

 勿論一條で無ければこんなに気安く送り出したりは絶対にしなかったと断言できるが、彼女にしてみれば昨日やっと言葉を交わしたばかりの全然知らない相手だ。

 他の女性の様に何とか縁を作ろうと羽柴に声を掛けてくる様な女ではない。


 無糖の珈琲のボタンを迷いもせずに選び溜息と共に身体を屈めてそれを取った、最初からまるで古株社員の様に気安く接した自分に、同じ様に返してくれた彼女に甘えて居たのは自分の方か。

 本当に、と、息を吐いて缶と封筒を片手に廊下を歩き自分の部署の扉ではなく、営業部の扉の方へと辿り着いた。


 課長権限付きの社員証で他部署の扉のロックを開き中へと入れば、昼食前で帰ってきたのか部屋の中は多くの人影が見える。

「一條」

 珍しくこの時間にデスクに帰ってきていた男へと声を掛け、壁際へと人差し指で招けば直ぐに椅子を引いて長身が立ち上がり、二人で壁の方へと並べばその瞳が軽く首を傾げた。


「どうしたの?何か問題があった?」

「これ、ウチの女神からだ」

 封筒に入っているし、違法な物では無いと言っていたし、さして隠す物ではないと判じた羽柴が封筒を差し出せば、僅かだけ瞳を細めたらしい一條がそれを片手で受け取った。


「中身の事聞いた?」

「詮索は無しだという条件で請け負った。お前、ウチのに危ない真似させてないだろうな?」


 聞いた羽柴が一瞬あえて怪しまれる方法を選んだのかと思ったが、この封筒の厳重さとカマひとつ掛けてこない羽柴にそれはないという意図を感じさせられる。

 手段の限られた彼女が困窮して羽柴に預けたのだろうが、彼の興味を押さえ込める方法があるのならばそれが一番自然だ。


「そんなのじゃないよ、彼女が僕を守ろうとしてくれてるだけ」

「…守るって何だ」

「詮索は無しだよ、それが条件なんでしょ?本当に彼女って義理堅くて優秀だよね」


 昨夜の写真を思い出した一條が口元へとその封筒を寄せて小さく微笑めば、ますます羽柴の眉が寄った。はっきり言って自分が唆した事だがこうやって二人で伏せられるのは気に食わない。


「なあ、一條。昨日は俺も聞かなかったんだが、何で2人だったんだ?」

 隣からの声を聞いてやっと仕事中だと現実に戻って来た一條が隣へと視線を向ければ、憮然とした表情の羽柴とは視線が合わない。


 あえて羽柴や他の人間に同席を求めなかったのは彼女と話すその時まで、彼女を自分に寄ってくる様な女性の1人と勘違いしていた為である。さり気なく釘を刺したり、ましてやストーカーまがいの事をされているなんて事になったら二人でなければ話し難い様な方法で諦めさせるつもりだったが、現実は真逆だ。彼女は自分に興味の欠片もない。

 あっさりと羽柴が彼女を寄越したのもまたその疑いを助長した、二人きりを喜んで行う様な女性だという先入観の8割は彼のせいにしたい。

 実際は彼女は2人での食事は不本意に過ぎるとその表情から読み取れたし、寧ろ一條が何か言いたげだったという慧眼と思いやりの結果だった訳で、思い違いも良い所だった。


 羽柴は少し自分の部下の扱いが軽すぎる事を反省した方が良いのではないだろうか、と。


「俺の部下に変な事はしてないだろうな?」

 問いかけられた言葉に当たり前だと言いたくなるのを抑えて、軽く封筒を揺らして微笑を浮かべる。

「2人きりにしてくれたのは羽柴だったと思うけど?」


「答えになってない」

「僕が何もしないって信じてくれたから、彼女をくれた。許可したのは羽柴だよ」


 わざと思わせぶりに首を傾げてみればますます彼の眉間に皺がよって、普通この手の冗談なんて直ぐに分かると思えば寧ろ一條の方が疑問に思う。

 何をそんなに疑わしいのだろうかとばかりに肩を竦めた。


「冗談なんだけど。本当に何も無かったよ、昨日のお礼をして仕事の話をしたぐらい。これも前園さんの仕事の関係で、リークでも違法なものでもないし。ちょっと倒産の理由が理由だから疑われない様にってしてくれてるだけだから」

「まるで図った様に同じ冗談を吐くなんてますます怪しいだろ」

「同じ嘘?」

「何でもない、信じるぞ。お前とは友人のままでいたいからな」


 本当に一條が自分を騙していないという保障はないし、彼女との間に何もなかったと断じられる様な材料はない。だが仕事上で大切な同僚だというのを互いに認識はしているし、楚良は優秀な部下だ。

 それと楚良に関して言えばそこまで器用ではないだろうと何となく思っているし、一條を庇う様な理由もない。ない筈だ。


「そんなに大事にしてるなら、男と二人の場所にやるのは絶対に辞めた方がいいよ」

「昨夜は仕事が詰まって俺もどうかしてたんだ。営業に恩も売れたしいい気になってたのは認める」

 珍しく羽柴が素直に反省しているのは何かあったのだろうかと、一度彼女の方へと目を向けてみた。

 隣の鳴海と真剣な様子で言葉を交わしているのが見えれば、昨日和らいだ表情で兎の話をしていたそれとは少しだけ乖離があるとも思わせる。


「優秀な部下を見せびらかしたくなったんだ。二度とやらない、お前の所にも」

「僕に警戒は必要ないよ、彼女にもちゃんと認めてもらったから」


 一人の兎飼いというか兎飼い仲間としてとは危うく口から漏れず、壁から背中を離した一條に会話は終わりだと察した羽柴が習って息を吐いた。そもそも勤務時間内に課長二人が長々と立ち話は出来ないし、一條をチラチラと見つめて居る部下には何かがあったのだろう。


 またなと二人で声を掛け合って自分の部署へと戻った羽柴に鳴海と楚良の視線が同時に向いて、手を振って寄越せば同時に無視されて不条理を感じた。

 鳴海を教育係にしたのは二人の相性が悪くないからだと思っての事、楚良の素質は元々悪くはないのは前園から聞いて知っていたし、口数少なく多少相手を選ぶ鳴海の指示も何なく受け止めて偏見も抱かない。寧ろ鳴海の才能を正しく理解している彼女は勘ぐらずストレートに指示を吸収している様だ。

 仕事の忙しい時期でなければ自分の手で育てるのが一番だったのだがと考えながら、PCの画面にメールに添付されていたものを展開すれば相変わらず律儀な仕事とコメントが貼り付けてあった。


 任せているのは雑事と他の社員の仕上げた仕事のチェック作業が全てだが、そろそろ彼女に新しい仕事を任せるのも悪くはない様な気がする。


 顔を上げれば丁度画面から目を離した彼女と目が合った。ありがとうございます、と、その唇が音も無く動いてまた瞳が手元へと戻ったのを見つめれば、深く羽柴の口から溜息が漏れた。

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