第2話

 ポスターやらパンフレットやらパッケージやらだけではなく、広告代理店からの仕事も請け負っている様なこの会社で一番遅くまで光が灯っているのが、この部署だと思う。


 朝はフレックスだが夜はそれこそ終電ギリギリどころか、仮眠室にベッドが3つ並んでいる様な会社で常にこのデスク周りは騒がしい。他の部署から人が消える様な時間には大音量でロックがかかっていたり、テニスボールが投げ合われたりしているのはこの部署ならではだと思う。寧ろ明かりが付いている頃より煩い。


 既に営業部の方は誰も残らずに光も消えていて、まあ約束もしていないし相手が何も言って来なかったのは良かったなと名刺に気付かない体の空木が安堵してやり過ごした22時頃の事だった。


「なあ、空木」


「どうしたんです?ついに遺書が書き上がったのでチェックですか?」

 不意に羽柴から課長席から声を掛ければ少し離れた位置に座っていた空木がエンターキーを連打しながら顔を向けて首を傾げた。

 まだ部署の全員が残っているし、羽柴から押しつけられた仕事はまだ終わっていないのは彼が一番よく分かっているだろうし。


「まだ何も言ってないだろ?呼んだだけだろ?」

「この時間に課長に呼ばれると、嗚呼不味い事が起こったんだなって思います。きっと帰りは始発だなと」

「同感」


 空木から悲しげな声が上がれば何故か部屋内から同意の声が次々に上がり、そこまで毎日酷かないだろ等とぶつくさ言って居る羽柴の声が重なった。


 紙ベースの一覧と画面を行き来するのに戻った楚良に、そうじゃなくてと気を取り直した羽柴が椅子へと身体を預ける様に凭れた。

「今日はそう言うんじゃない。直帰でいいから配達頼みたいんだが」


「なら自分が――――っ!!」


 空木に声が掛かった筈なのだけれども、部署内のそこかしこ声が上がるのは何事か。

 自分の仕事は無いんじゃないかと肩を竦めながらも、出来ればその僥倖に預かりたい等とも思わないでもない。何せ家には待っているペットがいる。


「直帰は魅力ですけれど、メールの件はどうすれば良いんです?まだ掛かりますよ」

「アレは明日の昼まででいい。やれるよな?」

「ラッシュアワーに電車に乗れというんですね?…パワハラで訴えたい所ですが、お昼丁度までで良いなら今日は上がらせて貰います」


 持ち帰って、という事も一瞬過ぎったが資料の量が多すぎるので是非会社で片付けなければと思い直してPCの電源を落とす方向で片付け始める。


「ズルい!!空木がズルい!!」

「まあお前新人なんだしたまにはいいだろ」

「何か寒気がするんですけど」

 同僚達から声が上がったがこういう貴重な機会は余りない。立ち上がった楚良が机の上に置かれたままだったスマートフォンを胸のポケットへとねじ込んで上着を羽織り、音楽プレイヤーを鞄へと詰め込みながら羽柴の机まで向かった。


「メールで住所を送るから確認してくれ。これはそのまま渡してくれりゃいい」

 A4サイズの封筒にこの大きさはUSBメモリーだろうか、何枚かの紙も入っている様な気がしてそのままというのも珍しいとは思ったが両手で受け取って脇に挟み込む形で置く。


「では行ってきますね。メールお願いします」

「嗚呼、気をつけてくれよ。労災認定なんて下ろしたかないからな」

「私は戦地かどこかに配達するんですかね?」

 本当に何処に持って行くのだと溜息さえ吐きたくなるが、それよりはずるいずるいと惰性で連呼している同僚達から離れるのが先だろう。あのコーラスは経験上帰るまで止まらない。


 ずるくて結構、今日は兎に顔を埋めて過ごすのだ。


 視線を投げれば鳴海と目が合って軽く溜息を吐かれたので、ガムの対価は期待しない様にしよう。

 さようならとオフィスを抜けエレベーターへと乗った所でタイミング良くスマートフォンが鳴って、胸のポケットからスマートフォンを取り出すのにモタモタしていたらエレベーターが1Fへと辿り着いてしまった。

 表示を確認すれば羽柴課長と記されていて、エントランスの方へと歩きながら画面に親指を滑らせその内容を確認すれば歩き出していた足がぴたり、と、止まった。


「空木さん、お疲れ様」


 殆どそれと同時に声が掛かって楚良の視線がそろそろと上がる。お疲れ様でしたと言葉を返してさっさと帰りたい所だが、彼は目的を持って自分に声を掛けてきているのだから無視をして横を通るという選択肢は失われていた。

 呆然とその姿を見つめて居る楚良の片手にある画面に『一條が礼をしたいというから売っておいた。封筒の中身は持ち帰りの仕事』と書かれてあって死にたいと過ぎる。


 明かりの落ちた会社のエントランスで、じゃあ行こうかとまるで断らない事が決定しているかの様に告げられて、それこそ断るタイミングを逃してしまった。

 とりあえず羽柴課長は明日殺そう。等と決意を新たにはしたとして、こんな所を見られたらどうするんだと思えばその長身へと並ぶのが憚られる。


 距離を取れば良いのかと思ってはみるものの、歩幅が楚良の歩調に合わされていた。


 今日断ったらもう礼は流れないだろうか、いや、そう言えばこの強引さは何か言いたげでもあるなとその顔をちらりと見上げて楚良が瞳を眇めた。

 大体、羽柴を通してという事はそれなりに逃がしたく無い事情があったのだろうとも思う、別れ際に何か言いたげでもあったし其方の方に興味が向いたのも事実。


「何か苦手なものはある?飲めるところの方が良いかな?」

 ぐるぐる思考を回していれば声が聞こえて隣を見上げれば随分頭の位置は離れている様に思った。


「ありません。明日は九時出になる予定なので、出来ればお酒は抜きで」

「そっか。じゃあこっち」

 その長い指先が繁華街の方を指さして直ぐにまた歩が進む。それなりの時間だが早いか遅いかが極短な楚良がこの時間に会社の近くを歩くのは珍しい。


 出来たばかりの商業ビルの二階に入っているイタリアンらしき店は平日の遅い時間という事もあってか、待たされる事もなく入れた。

 二人掛けで外を見る様に配置された半円のテーブルへと通されたのはカップルだとでも思われたんだろうか、どうみても違うと分かろう筈なのに、死にたい。


「今日のお礼だから、何でも好きなものを頼んでいいよ」

「私は自分の興味を満たしただけですよ。ゴミ箱に入れておいただけですし」

 鞄を足下の籠の中へと入れて上着を脱ぐまで彼は席に着かなかった。本当にこういうのになれていらっしゃるのだなと楚良が考えて居るのは知ってか知らずか、席の近さにも全く躊躇はない様で。


「それでも凄く助かったよ、あんなに予定を詰めてたのに勉強だなんてしてるのは君の努力だって羽柴が褒めてたし」

「課長はいつも調子良く褒めるだけです。…でもそうですね、滅多に自分では選ばないお店なので、何かお勧めがあれば教えてください」


 何処までもへりくだって謙遜して安い食事を選ぶという事も考えたが、それでは流石に相手に失礼かとも思うし、二度とこんな機会は無いだろうから営業部のエースがどんな人間かデザイナーとして知っていた方がいいと思った。

 自分の方へと置かれていたメニューを見つめて居たが横文字とローマ字の羅列だったので見なかった事にしつつ隣を見上げて問いかければ、その瞳が笑みで和んだ様に見える。


「じゃあ少し遅い時間だから、軽い物とパスタぐらいにしようか。魚介とクリーム系はどっちが好き?」

「クリーム系です。少し濃い味が好みですね」

「頭脳労働の子はしっかり食べてくれるから好きだよ」

 頷いた男が軽く手を上げて店員を呼べば楚良も一瞬だけ其方へと視線を流した。飲み物は?と聞かれてジンジャエールをチョイスし、彼も同じ物をと告げる。


 サラダらしき何かと、多分前菜は魚だ。オーダーは殆ど一條が行って、頭を下げた店員が去って行く。


「今日は強引な手を使ってごめんね」

 窓の外にコンビニがあって景観が台無しだが二階なら仕方ないと思いながらそれをしつこく見つめていたら、隣から声が掛かって視線を流す。

 身体は隣でやはり近い距離、軽く左右に頭を振った楚良の長い黒髪がぶつかりそうな程。


「直接誘われたら他の女性に睨まれたので良かったです。でも、本当に今日の事は勉強の範疇だったので。それより――――――――何かお話があったのでは?」

 本気で食事に誘った等とは流石の楚良も思って居ないというのを含ませてストレートに問いかけて見れば、外を見つめて居た一條の視線も隣の姿を見下ろした。


 期せず見つめ合う様な形だが、体格の差からか視線は遠い様に思える。


「いや、有り難いのは本当だよ。そっちがメインなのは誤解しないで欲しいんだけど」

「ではサブは?」

 お礼は頂いたとその言葉を受け入れた楚良がそれこそ羽柴と話す調子で問いかけてみれば、一條の言葉が一瞬詰まった。これで営業は大丈夫なのだろうかと思ったが、多分彼にしてみればとても言い辛い事なのだろう。

 もしかして自分が凄く恥を掻く様な事なのか、物腰の柔らかさから罵倒ではないと思うけれどもと楚良まで不安になってきた。


「あのさ。――――…君、僕が兎を飼ってる、って言ってたでしょ」


 そんなに言い辛いのかとじっとその言葉を待って見つめて居れば、ふいとそれが逸らされて小さく言葉が漏れた。

 何だと疑問に思う楚良の耳に言い難そうに言葉が入ってきて、暫し間を置いてそれを咀嚼する。兎、そう言えば見つける直前にそういう事を言った気がする。


「はい。あ、間違いでしたか?」

「そうじゃないよ。でも、それどうして知ってるの?会社では誰も知らない筈なんだけど」

 何で分かったの、ではなく、どうして知っているのかと問われた。その言葉の意味を再び頭の中に通してみれば、はた、と楚良が気付いた。


「違います。付きまとったとか尾行したとかゴミを漁ったとか家に上がり込んだとかそういう事ではないですよ!?ただ」

「ただ?」


「隣に来た時にチモシーの香りがしました!」


 もしかしてストーカーに間違われているのだろうと慌てて否定した楚良が、ぴ、と人差し指を立てて告げた言葉に一條が一度瞬く。

 思わず自分の袖口へと鼻を近づけてみるが全然分からない。


「隣に来た時にチモシーの香りがしたんです。オーストラリア産の一番刈りではないですか?ちょっとコーンみたいな香りがするのが特徴でとても柔らかいんですよね」

 いや、と、一條の口から漏れそうになったがぴたりと当てられて返って疑いが深まる。

 チモシーの香り、というものはスーツに残るものなのか。それよりかぎ分けられるものなのか。


「匂う?……かな?」

「袖を捲っていたし、上着も脱いで居ましたから。朝にちゃんと世話をなさる方なのだなととても感動しました。あと、タイを緩めた時に結び目から兎の毛が落ちたので。スーツには毛一つついていないので気付きませんでした。猫かなとも思ったのですが、チモシーっぽい香りとあの細い毛は多分兎だなと」

 思わず袖口から顔を放してその指先が首元に掛かる。絶対に会社では知られない様にと思って色々と気を遣ってきて、現に今まで誰にも気付かれなかったのに。


 そう言えばと彼女のデスクを思い出してみた、そして鞄の端についている兎のキーホルダーも。羽柴が彼女はペットを飼っていると言っていたも含めて。


「もしかして…君も、兎飼ってる?」

「はい、私も兎を飼っていますよ。去年まで多分同じ銘柄を使っていたのでその香りも懐かしいなと思いました」


「そっか、ごめん――――君の事――――」

「いえ、私も軽率でした。隠しているとは思わなかったので…済みません」

 嗚呼やっぱりこういう事だと思えば寧ろ楚良にとっては安堵さえして、ほっと肩を落とす様にして唇が緩んだ。


 最初の料理が運ばれてきて身体を僅かに避けつつ、モテる人は大変だな等と気楽なことを考える。きっと身辺を洗われた事が以前もあったのだろうと思う、袖口あたりやらを嗅いでいる様だが、シャツは着替えたのではなかったのだろうか。

 そう言えば自分も服の各所が汚れているのを思い出して、この店には相応しくないな等と服端へと視線が落ちる。


「男の一人暮らしで兎とか…ちょっと寂しいよね。助けてくれた相手に変な疑い方もするし」

 最初の料理の盛り付けと香りにこれは絶対に美味だと確信した楚良が取り分け用のカトラリーを手に取って皿を用意した所で一條から声が掛かり、件の女性はまた首を左右に振った。


「何言ってるんですか、兎飼いの男の人、凄く良いと思いますよ。兎の飼育は他のペットより難易度が高いのでちゃんとしている人なのだと直ぐに分かります。私もブリーダーの副業申請を出して時短扱いでと履歴書に書いた筈なんですが…」

 何故かフルですね、と、ぼんやりと呟いた彼女が溜息を吐き出すのを見つめて居た一條が、貸してと彼女の手から銀製の食器を取って手早くサラダを取り分けた。


「年に一度しか繁殖していないしレッキスはドワーフに比べれば人気が薄いので副業というのは烏滸がましいんでしょうか?知り合いのペットショップに卸しているだけなのですが………そんなに兎が好きですか?」


 一條が皿を差し出した彼女が珍しく口数が多いのだけれども、さして交流の無い彼には好きなものを熱く語る人のイメージがついた。

 正直言って勘違いだと詫びたた上でもまだ少し疑いは残っていたが、その瞳の強さと言葉の流暢さに最早警戒は皆無に等しい。

 言葉の端々に作り物ではない兎好きの感情が覗いていて物珍しく感じていれば肩の力が抜けてきたのだろうか、彼女の指摘に自然と笑みが出ているのにやっとそこで気付く。


「えっ、あ、いや。僕が飼ってるのもレッキスだから」

「そうだと思いました、落ちた毛は柔らかそうでしたので。子兎も老兎も本当に性格が可愛らしくて大好きです」

 家で待っているだろう兎達の姿を思い出して思わず唇が緩んでしまうのを誤魔化す様に楚良が礼を言って、頂きますと告げてから料理をぱくりと口へと運んだ。

 ちょっと兎が霞むぐらいは美味しかった、年に1度ぐらいは食べに来たい。


「子兎…かあ。僕が引き取った時にはもう大人だったから」

「引き取った、という事は里親さんなのでしょうか?」

「うん、少し前に友人から譲り受けてね。ブリーダーって個人でやってるの?」

「知り合いのペットショップの専属という形ですが、繁殖も年に1度だけの緩い副業ですね。雌を1頭だけ飼育していて、雄はショップで紹介してもらっています。ちょっと待ってくださいね」


 一度フォークを置いて足下の鞄からスマートフォンを取り出し、そこでやっと思い出して羽柴に死ねと送付してから写真のアプリを立ち上げる。

 どれが良いかと思いながら見てみても兎の写真しか入っていない。


「今年はまだうちで見ているんですが、3匹生まれました。親離れしたらショップ行きなんですけれど」

 其方へとやっと毛の生え揃った3匹が纏めて顔を向けている画面を向ければ、両手で恭しく受け取られた。先程の厳しい視線とは全く違って柔らかく和んでいるので、この人は根っからの兎好きなのではないだろうかと楚良もつられて和んだ。


「可愛いね…ほんと、可愛い」

「賑やかなのはこの時期だけでいつもは慎ましく暮らしているんですけれどね。うちの兎は血統が良いみたいですぐに売れてしまうんです」

 写真は兎だけなのでどれでも見て良いですよと告げれば、多少遠慮がちではあったものの一條が次の写真を見始める。

 ずっと前の方の写真はネズミだか兎だか分からない赤裸の幼児が映っているのもあるのだけれども、躊躇もせずに食い入る様に見ていたので自分は料理を堪能しようと皿を片付ける方向で野菜を口に運んだ。


「ごめん、夢中になっちゃって」


 楚良のサラダが片付く頃にもう一皿運ばれてきて、はっと気付いた一條が思わず口元を抑えながら彼女の方へとスマートフォンを返した。

「それだけ好きで居てくれるというのは、きっと一條課長の兎は幸せ者なのですね」

 一度自分のサラダを食べようかとフォークを取った一條だったが、直ぐに思い出した様に胸のポケットからスマートフォンを取り出して楚良がやったのと同じ様に画面を向けて差し出し、楚良が丁度二人の真ん中に置かれたそのスマートフォンの画面に一瞬だけ意外そうにしたが、すぐにそれを引き寄せて唇に深い笑みが刻まれる。


 合間に運ばれてきたカルパッチョは綺麗に一條によって取り分けられていた、本当にそつが無いと思う。


「立派な肉垂ですね、本当に毛並みも良いし」

「太りすぎかな、って思ったりもするんだけど。君から見てどうかな?」

「全然、この位ならレッキスの女の子は普通ですよ。これが出来るのは太っているからだと嫌がる方もいますが、私はこの位なら問題にしません。ネザーよりレッキスは肉垂が大きく出来るんです、皮膚炎などは見えませんが経験があったりしますか?」

 本当に此処は気持ち良いんですと画面を軽く撫でてみるが、当然硬質な画面の感触しかしなかったので悲しい気持ちになってしまった。有り難う御座いますと告げて、其方へとスマートフォンを返す。

「皮膚炎にはなってないよ、ただちょっと…毛繕いはしにくそうかな」

「あー…でも、足とかお尻に糞がついていなければ大丈夫です。稀にお尻に顔が付かないぐらいに立派になってしまう子がいて、そうなると不味いですけど」

「いつも足は綺麗だから、じゃあ大丈夫かな?」

 どうかなと膝の上で抱っこされているらしい兎が上から撮影されている写真を見せられて、お腹を見せるのは本当に互いの信頼関係があるのだと知る。その足も綺麗な毛が生えそろっているだけで汚れ一つ見当たらない。


「これだけの毛並みなら健康状態は問題ないと思います。ただどうしても一條課長が心配ならチモシーとか餌を変えてみますか?」

 メインのパスタも運ばれてきて離れる様にその皿の置き場所を作って、店員がそれぞれの注文品を二人の前に置いて空いた他の皿を片付けた。


 スマートフォンの画面を一度自分の胸に隠す様にしていた一條だったが、店員が去れば再び楚良の方を見下ろした。

 件の彼女は香しいクリームのソースに釘付けではあったが。


「多分今のってプレミアムの輸入品ですよね?」

「そんなのも分かるの?」

「餌入れに入っているフードの形は特徴的ですから。もし気になるなら国産の少し固めの餌とチモシーを試してみますか?歯ごたえがあると食事に時間が掛かるので、多少ではありますが過食に効果があります。多分この餌と配合は殆ど変わらないので味も違いが少ないと――――」

 自分のパスタに早速手をつけているらしい彼女が真剣に麺を巻き取りながらも隣をちらりと見つめてみれば、一條に少し驚いた風に見つめられていて何やら恥ずかしい気分になってくる。


「あの…いや、今の餌も良い餌なので……」

「そうじゃなくて」

 自然に視線が落ちてパスタを口に運んだ彼女に違うとばかりに首を振った一條が、それが嚥下されるのを待つ様に僅かに間を置いた。


「君の事、あんな風に疑った後で凄く言いにくいんだけど――――…。君のアドレス貰ったりしていいかな…?」


 死ぬ程美味しい等と衝撃を受けている事など知らず、逸らされたままの視線におそるおそるという風に一條から声を掛けられた楚良が、やはりこの人は営業のエースなんだろうかと疑う。

「兎の事をこんなに詳しく話せる人と会ったの初めてだから。駄目、かな」

 どんな仕事も3度以内に取ってくるとか女性社員が言っていて、羽柴が仕事取り過ぎだからと叱る程度であるのを疑う前に、少し困った風に見つめられていた楚良がフォークを置いて再びスマートフォンを取り出した。


「駄目なんてありません、勿論良いです。兎仲間が増えるのは大歓迎ですよ」

 もう一度画面のロックを外した楚良がキャリアのメールよりは此方の方が相手も気が楽かとメッセージアプリを立ち上げて一條の方へと向ければ、本当に嬉しそうな顔になって登録している所だった。


 この人本当にただの兎好きだ、と、そんな事を考える。


「明日、サンプルを駅のコインロッカーに入れておきますね。会社で直接は色々と辞めておいた方がいいと思いますので。鍵は羽柴課長に預けても――――…羽柴課長にも秘密なんですか?」

「………うん、誰にも言ってないよ」

 課長同士という立場もあるだろうがプライベートでもたまに飲みに言っている様だったから、何と無く誰にもの範疇に入らないと思って居たらバッチリと範疇だった。


「じゃあ適当に書類に混ぜておいておきます。本当に苦労なさって居るんですね…」

 それなのに自分の様なものに知られてしまってこの人は災難ではないだろうかと思いながら手元へとスマートフォンを戻して確かめれば、テストと称した写真が1枚添付されていた。

 そこまで完璧に隠していたのに、僅かな手がかりで手繰り寄せてしまったのが申し訳ない。写真は首を傾げて座っている兎の姿で、思わずその鼻先を画面越しに押してみる、早く自分の兎に会いたい。


「早く自分の家に帰りたくなりますね」


 その写真は保存しておいて再び硬質なそれをしまい込み、パスタへと手をつけた楚良が思わず零せば一條の瞳が静かに彼女の方へと流れた。心の底からであろう言葉であるのは彼女の表情からも直ぐに理解できて、一條も顔を崩して嬉しげに微笑む。


 本当だね、と、同意を表したその表情に楚良が少しだけどきりとした。顔が良い男というのは兎の話をしていても美形なんだな等とどうでも良い事を考える。


 疑われていたとはいえ、怪しすぎるのを信じて頂けただけでも有り難いし本当に彼にしてみれば奢り損ではないだろうか。兎の話をただひたすらしながらデザートを勧められ、もう一度メニューを広げながらもサンプルは各種取りそろえて豪華にしておこうと思った。


 余りに目移りするデザート達に最早思考を諦めてしまった楚良が良いものがあるかと問えば、じゃあ任せてと自信に満ちた声が聞こえる。

 好みと合致するしっかり甘いデザートをチョイスされて礼を告げれば頬杖をついた男と目が合って、また楚良は自分の兎に早く会いたいと思った。


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