第9話

「――――…木、空木」


 自分の頭の中を紙に描くだけだというのに、本当に悔しくなる程絵に表せないと泣きたくさえなってきた昼過ぎの事だった。

 自分の名前を呼んだその声にはたと顔を上げて其方を見てみれば、いつの間にか羽柴がデスクの脇に立っている。


「済みません、ぼんやりしていました」

「いや、丁度ミーティングルームも空いた事だからナイスタイミングだ。今お前が持ってるものを聞かせてくれ」


 ちょっと借りるぞと鳴海に声を掛けたらしい羽柴が手で招き、とりあえず此処までかとばかりに楚良がペンを置いてスケッチブックを片手にその背中に続く。

 ガラス張りというのは落ち着かないし別にデスクの周りでも良いのではと思ったが、内容がどうこうもあって羽柴に逆らう事もない。

 部屋の中へと入れば直ぐに男は席につき、そして楚良はその斜向かいに腰を下ろした。


「さて、お前の中で何が出来たんだ?随分没頭してたみたいだが」

「先に言っておきます。多分この香水のテーマカラーはです。そこは多分皆さんと変わりません」

「お前は黒だが黒じゃないと言ったな?」

「そうです。黒に見えるだけです」


 羽柴の問いに彼女は躊躇の一つすら見せず、その唇からは迷いもなくそれが零れた。その言葉を聞いた羽柴の瞳が机に置かれたスケッチブックを引き寄せてその中を開く。


 コンコン、と、小さなノックの音。羽柴が最初に顔を上げ、そして楚良が緩やかに振る頃には部屋の中にもう一人の担当者である一條が踏み入った所だった。

 おそらくは二人が部屋に入ったのを見つけて様子伺いという所だろう。


「丁度良かったな、お前も聞いていけ」

「やっぱりChevalierの?…駄目そう?」

「いや、そうじゃない」


 羽柴の前、やはり彼女の斜向かいへと腰を下ろした一條が、楚良の方へと視線を向ければ彼女は静かに瞳を伏せる様に軽く頭を下げる。

 スケッチブックを開いた羽柴がその中身へと目を下ろし、そして思わず言葉を止めたのはその内容。一條の方へも見える様に広げられたそれには、黒で描かれている絵など一枚も無い。


「黒に見えるだけ、つーのはこう言う事か。どうしてそう思った?」


 しかしその絵の最後は全ていつも黒だ。精緻に重ねられる様々な色は全て重なり合うごとに色を落とし、濁って混ざって黒色になっている。

 羽柴の指先が黒色の部分を指でなぞれば、そこには赤色と青色の混ざり合ったかの様な痕が指へとついた。


「香りの精度が、高い気がしました」

「精度?濃度とかじゃなくか?」

「濃さでは無く、香りのシャープさというか、…私は調香師ではないので確実な事は言えないのですが、どの香りも変化が少なくそれぞれの香りの強弱はあってもぴたりとかみ合った石垣が崩れる事がない様な」


 楚良が机の上へと黒い瓶を置きながら告げる言葉に、僅かだけ首を傾げながら羽柴が手を伸ばして今度は瓶を取る。

 入れ替わる様に一條がスケッチブックを手に取ればもうその1冊が様々な絵で埋まっていた。


「昨日羽柴課長がシングルノートではないかと言っていましたよね?」

「俺にはだぞ?確実じゃない」

「分かって居ますが、私も最初はそんな風に感じました。ただ単一の香りと違って重厚感のある男性らしい香りが殆ど変化もなくずっと香って行くのは――――…多分これが人工香料で作られているものなのではないかと」


 黒に見えるというのはそういう事かと羽柴が瓶の蓋を開いてその香りを確かめる。調香師ではないというが、一條が鼻は確かだといっていたからそうなんだろう。


「このスケッチの様にこの香水は一見変化がなく見えますが重厚で複雑です、それを全てかみ合わせてしまえば黒でガッチリと絡んで動かない。そういう計算は、天然物では出す事が出来ないかなと。緻密な計算の上に作られた黒色、もしこの香水の正体を暴くというならそれでは」


 成る程成分表を明かさず押しつけてきたのはそういう仕掛けがあるのだろうかと、じっとその瓶を眺めてみるが彼女の様に細かい香りの変化がどうこうは正直羽柴には分からない。

 確かに重みや深みがある香りだとは思うし、それは力強ささえ感じるのだが。


「一條はどう思う?」

「悪く無い線だと思う。今まではワントーンで彩度を落として行く方向だったし、差別化は出来るんじゃないかな」

「この線で行くか」

「待って下さい」


 緩く彼女が首を振ってその二人の合間に声を掛けて、そして椅子をやや近づけてそのスケッチブックへと手を伸ばす。

 見下ろす楚良の視線は自分の絵というのを除いても厳しい。


「多分そんな単純な所には落ち着かない気がします。色を増やして黒にしてみた所で、半分にも足りないかと」

「先方は答え合わせがしたいんだろ?この香水を本質を突くならそれだろ、本質が違う、乖離がある、そう言ってきたのは向こうだぞ」

「もし万人に分かり安くするだけなら、これは…」

「そうか」


 彼女の言葉を繋ぐ様に一條が小さく呟く様な声を上げて、そして自分もという風に香水の瓶へと手を伸ばした。

 彼女の言葉はそのまま昨日の疑問だ、この成分を理解したところできっとあれは。


「ただ分かりやすくしたいだけなら、そもそも日本向けの男性向けなんてニッチな層は狙わない。万人に受けるシトラスも避けてるし、あえて一番難易度が高いオリエンタルなんて言うのはそもそも分かりやすくする仕掛けじゃないって事だよね」


 それをただあるがままにデザインにした所で、彼女が昨日問題にしていたあっと驚く仕掛けにも何もならない。

「この香水の作り方をオープンにしたところで玄人にしか分からない。そうではない人にすれば――――日本では香水を付ける男性というのは、自己中心的に見えたりナルシストに見えたり、とかくそう言うイメージになりがちですね」

「お前本当にたまに容赦ないよな。俺も一條も利用者なんだが」

 本当に上司相手に遠慮無く喋ってくれると羽柴が息を吐き楚良の方を見やったが、申し訳ありません等という謝罪さえ漏れない。

 だからこれは彼女にしてみれば真実一般論だ。


「日本人が持つ自然な香水のイメージというのは、他人の為の香りとか、誰かの為の香りとかそういうものに近い気がするんです」

「誰かに押しつける為の香り、な」

「流石にそこまでは言いませんが、他人の目を気にして付ける身だしなみの一つが香水だというケースが多すぎるのではないかと」


 ふむ、と、小さく頷いた羽柴が机の上へと肘を突いてまた彼女のスケッチブックへと手を伸ばし、そのページを人差し指でめくる。


「それがどう繋がるんだ?」

「全て私の憶測ですのでそれを前提に聞いて頂きたいのですが、先程これはガッチリと組み合わされた黒だと言いました。でも多く色を使ってある分、ある人にはそれが灰色に見えるし、ある人に黒に見えるし、ある人には紫に見える様なものだと思うのです」

「シンクロノート、だね?」

 楚良が調べたその言葉を掬い上げる様に一條から言葉が漏れて、其方へと彼女の視線が向き小さく頷く。


 指先が3人の中央に置かれたスケッチブックへ、羽柴が開いていたページを2つほど戻ってまた新しい絵を晒した。

「シンクロっていうと、シャネルのアリュールみたいなものか」

「有名なのはそれだと聞きました。人によって、温度、湿度、体温、それら全てが影響して変わる香水があるのだと。昨日一條課長に付けて頂いた香りは、確かに私のものとは少し違うと」

「もう俺はお前の鼻がどうなってるのか分からん、どんな至近距離で嗅いだら分かるんだ?」

「寧ろ近付いて嗅げば直ぐに分からなくなります、変な想像しないで下さい。でも矛盾がありまして」


 本当に彼女は調香師に向いているのではないだろうかと思ったが、成分が全く分からないというのなら興味さえないのだろう。

 きっと業界に言わせれば勿体ないタイプなのだろうが、本人は香りより色に傾倒している。


「確かに最初の内はやや香りは変わりますが、その後は殆ど香りが変わりませんでした、会社でも外を歩いている時でも家に帰ってもです」

「やっぱりお前一條と」

「やっぱりって何ですか、その後の話は私の話です。人によって香りは変わるのに、時間や場所では殆ど印象が変わらないなんて仕掛け、あり得ますか?」


 楚良からの問いかけに二人が同時に黙り込み、そして黒い瓶へと目を向けた時には一條は勿論軽口を叩いていた羽柴でさえ何やらこの小さな瓶が得体の知れない何かに一瞬感じた。

 彼女が開いたページには、黒いローブを纏った魔法使いが色鮮やかな空へと手を延べているそんな絵が掛かれている。


「シンクロノートは確かに時間経過に強いけど、温度や湿度には変わりやすいからね。それは元からの体臭じゃなくて?」

「体臭なら多くの場合は自分に対しては無臭ですし、付けたときと同じ様な香りが続くというのはちょっと考えにくいかなと。でももし私がこの香水を一言出表すなら、作られた体臭です。その人由来の香り、しかし変わらぬその人だけの香り。ある意味この香水は個性だと思えます」


 先程これはあくまで自分の考えだという事を彼女は強調している。香水を体臭だなんていうのは本当に彼女が自分で作り上げた考えだし、色を重ねて作り上げる様に昨日のあの疑問を重ねて辿り着いたのかと舌を巻く。


「香りが個性ってのは随分攻撃的な言葉だな。それこそお前がネガティブだと言う押しつけの方じゃないのか?体臭の様に自然だというなら、何で万人受けする様なシトラス系の匂いを作らない」

「流石に私に製作者の心を読むのは無理です。私の乏しい人間関係での経験では向こうがこれをどうみているのかは、よく分からない」

 ゆる、と、彼女が首を左右に振ればその肩に黒髪が揺れる。もう少しその辺りの機微が分かれば兎だけを傍に置いて生活はしてないと思う。


「先入観を壊す事が攻撃とは限らないよ」

 本当にこういうことは営業に聞くべきではないのだろうかと一條の方へと空が視線を向ければ、それに直ぐに気付いたのか一條が僅かな間を置いて言葉を紡いだ。


「香水を手に取らない顧客はどうしても香水というと華やかで派手派手しいイメージがあるし、彼女が言う様にナルシストにも感じるし、異性へのアピールにも見える。でも日常的に使ってる人間にしてみれば実際はそうじゃない、勿論身だしなみとしての一つだけど、それこそ――――自分の一部だしスパイスでもあるね」

「その位気軽に付けろっていう意図か?」

「もし自分の体臭に自信のない男性が、一般的に難しいと言われているオリエンタルの香りを自然に使えるとしたらどうかな。そもそも自信がない男性が香りで自信を持つことが出来るなら」


 一度緩くスケッチブックを見下ろしていた羽柴が口元を手で覆い、そして楚良が皆の合間にあった開かれたページをまためくった。

 本当にどれだけ描いたのか、昨夜から今に至るまでの短時間で。


「Chevalierというのは、騎士、という意味でしたよね」

「そうだね。化粧品メーカーの名前としては尖ってるけど、女性を守る存在として、常にその傍にある様に。そんな意味だったと思うよ」

「常識を打ち砕いていく剣としてのChevalierか、それとも主に自信と尊厳を与える騎士としてのChevalierか。私が出せる絵というならそれですね」


 多分これは香水をイメージしたものではなく、会社名から連想したものなのだろうという騎士の絵がそこには描かれてあった。

 光を弾く銀の甲冑、本当に彼女が様々な角度からあの黒い瓶を見つめて居たのがよく分かる。


「でも不思議ですね。Chevalierは大手ですから自社のデザイン室もあるでしょうに、外注した上に試す様な真似をしなくとも…」

 小さく彼女が溜息を吐いて手元にあったスケッチブックをぱたりと閉じた。当面の方向性は見ただろうかと思えば、会話の延長の様なその台詞に男二人が軽く息を吐いてまた黒い瓶へと目を向ける。


「彼らがそうだとは限らないけど、これを開発した人ももしかしたらというものが分からなかったのかもね」

「たまにいるよなあ、イメージ固まってないのに予算だけあるトコ。まあ俺は担当の性格が最悪だって方に賭けるが」

「確かに案外そうかもしれませんよ。これだけ待って居て下さったのは、そういう事なのかも。試されているにしても何にしてもそれが出せれば良いのですが」


 彼女の手はそのまま伸びて置かれていた黒の瓶を片手で包む様に握り、小さなそれを胸のポケットへと収めた。

 相変わらず背筋は伸びたままで綺麗な姿勢を保っている。椅子の上にだらりとしている羽柴との対比が際立つ。


「しかしお前、それ一晩で全部描いたのか」

「この香りを嗅いでいるとイメージがふつふつと沸いてくるんです」

「俺は全部同じイメージにしかならなかったんだが。一條と話しててさらに深まったのか?」

 立ち上がろうとしたのだろうか楚良がしかし途中で腰を止めて、羽柴の方へと視線を向けて息を吐く。


「資料を頂いて直ぐに別れましたよ。――――兎を見ていて思いついたんです、彼らはいつもイメージをくれるので。羽柴課長も兎でも飼えば分かるんじゃないでしょうか?」

「一人暮らしで兎とか辞めてくれよ。女も呼べないだろ」

「そういうセクハラするの辞めようね、羽柴」


 昨夜の事は車に乗ったことは兎も角として、泊まったことは当然秘しておいた方がいいという楚良に一條は逆らう気もないらしく、彼女を促す様に溜息を吐きつつ立ち上がる。


 一人暮らしで兎、なんて表されれば本当にその通り。何てことを言うんだと抗議している楚良がちょっと兎に関して大甘なだけである。


「お前も男ぐらい作った方がいいぞ、若いからってペットに傾倒して油断してたら兎と結婚するハメになる」

「もう課長のセクハラはどうでもいいんですが、結婚出来るなら寧ろ兎と結婚したいです」


 本気かよと呆れた様に羽柴は声をかけているが、それを脇で見ている一條は多分本気なんだろうと思う。

 あの家は兎と暮らすための家で、あの家に住んでいるという事は人間より兎が優先なのだろうし。あの広さから誰かと暮らすためかと思って居たが、何処も彼処も備品は1人用だった。

 風呂を借りた時にも洗剤の類いは、と、考えかけて本当に仕事中だからと辞めておく。


「明日の朝一で出します。今日はもう少し時間を下さい」

「分かった、そこがリミットだぞ、忘れてくれるな?」

 では失礼しますと彼女は早く作業に取りかかりたいのか、羽柴に付き合うことも無くさっさと出て行ってしまった。


「本当にすぐ別れたのか?車に乗せてやったんだろ」

「………それ誰から聞いたの?」

「総務の女が騒いでた。昨日見られてたらしいぞ」

「資料の量が多かったから駅まで送るついでに車の中で打ち合わせしただけだよ。大体、兎を見て思いついただけって言ってたでしょ、僕は兎にでも見える?」

「どっちかって言うと犬だな」


 失礼極まりない話だが、羽柴が言う様に例えられるのは犬の方が多い。兎がどうこうなら、それこそ彼女の方が余程そう見える。

 それにしても夜遅いからとか、疲れているだろうからとか言い訳しても見られたのは不味かったと、楚良の方へと視線を向けた。

 折角距離を詰めたと思ったのに、多分噂になればまた彼女には会社では声を掛けて貰えないし逆も然りだ。


「可愛い部下がお前に泣かされて辞められちゃ困るからな。あんまりその気にさせないでやってくれよ?」

「その気になってるの?」

「いいや全く」


 一瞬羽柴の言葉に其方へと視線を向ければ、肩を竦めた彼にあっさりと否定された。感情的には複雑で、その正体が何かは一條には悟りきれない。


「紛らわしいこと言わないでくれる?業務上の遣り取りしかしてないし、彼女もそうだよ。僕が係わったせいで疑われるのは彼女も可哀想でしょ」

「空木が二人で出るのを了承したのはお前だけなんだぞ、俺なんざ何度誘っても梨の礫だ」


 羽柴の言葉に一條が軽く首を傾げたのは、常の彼女を知らないからだ。全く警戒心無く部屋へと着いてきたし、寧ろ自分からどうですか等と言っていた。

 勿論下心なんていうのは欠片も感じなかったが、それなら羽柴にだってとまで考えて耳の長いあれこれが過ぎる。

 兎好きに悪い人はないと言っていたか、そうだ、彼女がそもそも最初の誘いに乗ったのも兎を飼っていると気付かれた後ではないか。


 本気で彼女の人を見る目が心配になってきた、羽柴が見ていなければ頭を抱えるレベルで。


「彼女の眼中に僕はいないよ、心配しなくても。今は仕事に占められてるんじゃないかな」

「それと兎だろうな。無類の兎好きだと自分で言ってたな」


 知ってるよ、とは、一條の口からは漏れなかった。軽く溜息を吐いた肩が上下すれば、話は終わりだとばかりに羽柴が部屋から出て行くのを後ろから追いかける形で一條も部屋から抜ける。

 視線の先にはPCに向かう彼女、兎を見つめるのとはまた違った瞳で何かを追いかける彼女の目に、どちらが本当なのかと思えば自然と重なる様な吐息が漏れた。

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