第8話
目も覚める様な美形と言う言葉を知っているが、寧ろ朝から一條課長は眠くなるのではないだろうかと思う。
彼のせいではなく朝食が美味しくて食べ過ぎた自分のせいだが、普段食べ慣れない時間に入れたせいかずっと腹が重くて普段感じない筈の眠気まで感じた。
会社に行く前に一度自宅へと帰るという一條を見送って何やそのまま眠りたくなったが、そんな事をしてしまえば多分昼頃まで起きられない予感もして絵を描く事で耐えていればもう直ぐに出社の時間。
一條を見送った時に置いて行くのと言わんばかりだったサチが少し気になったものの、こまめに確認しておこうと後ろ髪引かれる思いで家を出た。
「おはよう御座います。今日も徹夜だったんですか?」
オフィスへと入ればデスクには既に羽柴の姿があって眠たげに欠伸を噛み殺していて、昨日の彼の仕事の量を思い出せばそれも仕方が無かろうかと声をかけてみる。
「Chevalierに出す絵を描いてたら明るくなってたんだ、褒めてくれ。お前の方はどうだ?進んでるか」
「牛歩ですが止まってはいないかと。ただ、自分はどうしてこんなに絵が下手なんだと悲しくなりました」
「少し見た方がいいなら見てやるぞ?」
「一区切りついた所で一度お願いします。アイデアに対するヒントが欲しいですね」
分かった、と羽柴が告げてその手がPC横のマウスに掛かった。彼女は朝の片付けは皆が来る前に終わらせておきたいタイプだろうし、普段と違うリズムを作って調子を崩すのも本位ではないだろう。
しかし本当に彼女の外見は変わらない。普通あの条件を新人が飲んだらもう少し疲弊していても良いはずなのに、プレッシャーを感じて居るのだろうかも羽柴には感じられず、もしかして楽しんでいるのだろうかとさえ思った。
そんな事など楚良は露知らず資料を纏めてゴミを捨て、コーヒーメーカーのお湯を変えにでも行こうかと空の容器を取って中身を確かめる。
本当に無くなったら誰か足せば良いのに、昨日はそんな余裕も無かったのだろうかと首を傾げながら、一度部屋を出て給湯室の方へと向かった。
営業部の方はもう殆どが外回りにいってしまっているのだろう、件の課長の姿もなくやや安堵する。サチがいないせいで仕事が手に付かないなんて事になれば本当に可哀想だと思っている。
「えー、あり得ないんだけど。それほんとなの?」
「本当本当、だって総務の子が見たって言ってたもん。――――昨日もさあ」
給湯室にはさて何処の部署の女性社員だろうか、何人かが固まって色々と噂話に花を咲かせているのが聞こえてきて一瞬躊躇した。
人の悪口には近付かない方が良いと知っているが、1杯分も絞り出せない様な空っぽだし、この後の仕事には珈琲は欠かせない。
諦めて給湯室の開口部をくぐった瞬間に彼らの口がぴたりと一様に閉じて、嗚呼これは本当にまずったと思った、この反応は悪口の対象が来た時のあれだ。
つまりは何だ、あり得ないと言われて居るのは多分自分だと楚良が正しく理解して、さっさと水を貰って去ろうと思った。
「ねえ、空木さん?」
幸いにも水道の近くには誰もいなくて浄水器の蛇口を引き寄せつつ、その下へと容器を置いて蛇口へと手を伸ばした所で迷いもなく呼ばれた名前に振り返る。
「はい」
片手は蛇口を捻り水の流れる音が耳、本当は今すぐ出て行きたい。
「昨日の夜、一條課長の車に乗ったって本当なの?」
何故腕組みをして問われなければならないのか、この会社の制服を着ているのは総務か経理、そしてスーツ姿なのは営業か人事だろうか。
私服なのはクリエイティブ系と情報システム系なのだがその部門の人間の姿はない。
「業務上外で準備するものがありまして…」
「はぁ?!本当なの!?」
「本当です、一條課長もお急ぎだったかと思いますので」
何それ等と数人の女性社員が同時に漏らして、嘘の一つでもつけば良かったのではないかと思ったが、此処は本当に全てビジネスライクで躊躇する様な内容は何一つ無いのだと言う方向で纏めたい。
乗ったというのを一番に聞かれたという事は、双方の家に行ったがどうこうだとかそういう所は見られていないと思うので。
「アンタさあ、一條課長に近付くなって言ったでしょ?羽柴課長にも構って貰っててさ」
「そーそー。男にだらしないとモテないよ?」
「課長に色目使うの辞めなよ?身の程弁えてさあ」
何てテンプレ通りの台詞を喋るのだろうと思ったが、自分がそう見えて居るというのは彼女達にしてみれば事実だろう。
Chevalierのお鉢が回ってきた事も多分知らないだろうから、そう見えるのは当然だろうと楚良に過ぎった。
MAXと書かれてある線を越えて水が溢れ出した音がして慌てて其方へと目を向ける、シンクの中であった為に大惨事にはならずにほっと息を漏らして蛇口を上げた。
「聞いてんの?何とか言ったら?」
「以後気をつけます。ご配慮有り難う御座います」
「はぁ?ほんと可愛くない」
本当にそう見られている態度を取っているのならば申し訳がないが、車に乗った所が悪かった以外には会社では業務上の付き合いしかしていない様に思う、等と考えながら本心で詫びてみたが相手方には通じなかった。
「一條課長には水島さんがいるんだからアンタみたいなのがうろつくと迷惑なんだけど」
「水島さんぐらい美人になってから出直しなよ」
「ほんとアンタのせいで水島さん別れたらどう責任取るのよ?まあどうせアンタなんて相手にされないし、一條課長の好みじゃないから心配無いんだろうけど?」
水島、という名前に心当たりがあるかと言われれば、多分給湯室の中で1人だけ微笑を浮かべて喋って居ない女性だと思う。営業部の社員だったかと思うが、やはり一條には決まった人がいたのではないかと自分の見る目は間違って居なかったと等考える。
彼女はもしかしたらサチが嫌いなのだろうか、いや、サチを一條が大切にする余りに不味い事になるといけないから隠しているのだろうか等と全く見当違いの方向に思考が飛んだ。
「ちょっとアンタ、ごめんなさいぐらい言ったら――――」
「おい、空木。此処に居るのか?俺が頼んだ仕事どうなってる」
それこそ一歩詰め寄られそうになって後ろがシンクだと言う事を思い出せば、コレは叩かれるか引っ張られる流れではないだろうかと過ぎる。
しかし直後給湯室の中に響いた声は男の物で、皆の視線が一斉に其方へと向いた。
「何だこんな所で油売ってたのか」
頼んだ、と言われれば一瞬羽柴かと思ったがその声も、姿もそうではない。声が楚良に向いていれば他の女子社員達が話は終わりだと言わんばかりにぱっと散って、溜息を吐きつつその男、陰島が中へと入ってきた。
「済みません…気を使って頂いて」
溢れた水に濡れてしまった容器を手近なタオルで綺麗に拭いながらその男を見てみれば、気にするなとばかりに手を振られる。
羽柴はあまり営業から直接部下に仕事を通す様な真似はしない。常に自分を通して部下に割り振る様にしていて、陰島が直接楚良に割り振った仕事もない。
それは主任である彼はよく知っているし、当の本人である楚良も知っていれば、場を納めるための方便だというのは自明の理だった。
「Chevalierがアンタに流れたんだろ?災難だなお前も」
「――――……それ、は…」
「安心しろ、他にばらしゃしねぇよ」
折角羽柴が個人の名前を避けて部署名で出すと言っているものを、同僚とは言え彼に言うのはどうなんだろうかとか、主任だから知っているのか等と言う風な思考が一瞬言葉を止める。
それに笑いながら告げた陰島が片手を上げてひらひらと手を振った。
「気を悪くせず一條の事を助けてやってくれ。水島とやらとは付き合っちゃいないし、他に女の影も無いから心配しなくてもいいしな」
「えっ――――……そんな馬鹿な」
絶対にあれは独り身ではなさそうだと作って貰った朝ご飯に確信していたのに、寧ろそれが水島だと言われた時よりショックを受けた。
囲まれての中傷というのは楚良にはさして珍しい光景でもなく、自分への批判も反論する気さえ起こらないので大したことではない。それよりはちょっとは自信を持っていた自分の一條を見る目が完全に役立たずだった事の方が問題だ。
何がだとでも言わんばかりの陰島に、自分の見る目のなさを暴露する訳にもならずショックを隠しつつ首を振り、しかし持ち上げた後に落とされるのは辛い。
「今アンタどこにショックを受けたんだ」
「自分には見る目など無いと言う事が分かった所です。…どちらにしろ、私は異性に興味はありませんし、会社には仕事をしに来ているので大丈夫ですよ」
普通こんな事を言われたら女というものは喜ぶものだと陰島は思っての事だったが、寧ろ彼女が盛大にショックを受けている様だったので試しに聞いて見たが答えは返って来なかった。
「――――…陰島主任のそれはシトラス系の香水ですか?」
「ん?…嗚呼、まあな。嫁にそろそろ営業職なんだから気をつけろって言われてな」
「そろそろ?」
「まあ、俺もいい歳だってこった。本当ならつけたかねえんだが、こういう洒落た物は一條や羽柴の方が似合いだろ」
よいしょとばかりに水のタンクを支えた楚良が入り口へと歩き出そうと、その横へと並ぶ形になれば一瞬だけ爽やかな香りがした。
随分薄く付けているのか、本当に他の香りを打ち消せているのかは分からない程で。
「しっかし、足首がいいって言われて付けてんのによく分かるな?つけすぎたか?」
「香りを知りたい時には首筋や手首などに付けるのも良いですが、下から登ってくる香りというのは品が良くて好きです。寧ろその位の香りの方が主張が少なくて良いのではないでしょうか?香水はやはり苦手ですか?」
「やっぱりどうにもこう、モテる奴が付けるイメージあるだろ?俺みたいなおっさんが付けても無理してるみたいだろ」
告げられる言葉に一瞬だけ楚良が瞬いて、そして考え込む様に瞬いてからまた瞳を陰島に向けた。
「どうやったって一條とか羽柴みたいに自然にはな。付け方なんてのも知らないぐらいだ」
「そう悲観する様な事は無いかと、とても心地良い香りだと思います。主張しすぎていませんし、シトラスは嫌いだという人は少ないですから。その香水は奥様が選ばれたんですか?」
「嫁もだが娘もだな。それだけ臭ったんだってショックだったわ」
「臭かったのではなく、陰島主任への期待だと思います。もっと素敵になると理解しているからではないでしょうか」
先に彼女を給湯室の開口部から通した陰島が、振り返って告げられた言葉に一瞬虚を突かれた様に目を丸くして、そして次の瞬間唇の端を緩めて破顔した。
「おっさんを照れさせても何もいい事ねえぞ」
「奥様とご息女は流石だと言っただけです」
緩く左右に振られた黒髪に、なるほどなあ、等と陰島が呟いているが何が成る程なのかは楚良にはよく分からない。
彼に促される形でデザイン課の入っているオフィスへと戻れば、何人かの同僚達が出社してきていて、先程よりは人数が増えていた。
有り難う御座いますと陰島に丁寧に頭を下げてから別れ、部屋の中へと入ってコーヒーメーカーへと水をセットし自分のデスクへと戻る。
ペンを握ってPCではなくスケッチブックを手に取るのはいつもアイデアを出すときの癖だ、そして目の前には昨日から見飽きる程見てきた黒の瓶を置いた。
まずはこの手強い敵の正体から。そして、送り出してきた見えない相手の主義主張とは。
全ては自分の空白の中からだと息を止め、やがて楚良は色をその紙へと写し取り始めた。
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