第7話
自分の人生に兎という生き物は欠かせないものだ。
朝起きれば飼育スペースの掃除をして、骨格や噛み合わせをチェックして、丁寧にブラッシング等をして、運動などもさせて、餌の調合は毎日変えて、飼育日記などもつけている間にあっという間に出社時間になっている。
人間の準備なんていうものは、普段顔を洗って髪を結んで適当に毛を落として忘れ物がないか確認するぐらい。必要最低限という五文字が相応しく、朝食さえ食べない。
だがそれは自分ならばの話で、見ているだけで幸せになれるとまで言われる一條には当てはまらないだろう。
「一條課長、そろそろ起きた方がよろしいかと思うのですが…」
ソファに横になったままの一條は未だに目を閉じていて、自分から起きる様子はなさそうだ。アラームの音などで自然に起こした方が良かろうかと思いながらも、五時半という幾分早い時間にその様子をうかがう意味も込めて声を掛けながらそっと肩を揺らせば、吐息の様な声がその唇から漏れる。
その頭の左右で首を固定する様に眠って居たサチと茶々が一番に気付き、子兎達が起き出してまた布団の上に乗ろうとしていたのを傍目、とりあえず一度は起こそうともう一度肩を揺らした。
「――――…ん、……」
「お早う御座います。今五時半なんですけど、もう少し寝ておきますか?」
当たり前だが男性にも睫毛があるんだなと、それが揺れて僅かに瞳が開かれる様子を見つめて居れば、揺らぐ視線が二度瞬いた。
数秒の間、その整った顔立ちを鑑賞できるぐらいには空気が固まっていたと記憶している。子兎が胸の上へと登ったその直後、弾かれたバネの様に身を起こした一條からころころと子兎が転がり落ちたので慌てて楚良が手で受けた。
「――――!?ご、めん――――っ」
ちゅんちゅんと外から雀の鳴き声が聞こえていて日の光もさしかけて。楚良が転がった兎を確認すれば怪我も無いどころか、喜んで楚良の手から抜け出してまた登ろうとしていたので楽しかったのだろう。
「大丈夫ですよ、怪我も無いですし寧ろ喜んでいますので」
「そっちじゃなくて…、それもそうなんだけど」
好奇心が強く怖い物知らずの子兎がまた胸の上へと登ろうとしているらしいのを見つめつつ、楚良が可愛い可愛いと唇を緩めているのに気付いた一條がまた自らを取り戻す様に首を振る。
「家に上がり込んだ挙げ句に居眠りなんて本当にごめん…。仕事の話なのに――――」
「そんな気にする事じゃありませんよ、寧ろさっちゃんを慣らすのにはこれとない方法でしたので、お願いしても無理だと思って居た僥倖が転がり込んできた位です」
ふふ、と笑みを零した楚良がどうぞとばかりに他の子兎を腹の方へと乗せ直し、長いスカートの裾を引く様にして立ち上がった。
コーヒーテーブルの方には書類とラフが積み重ねられていて、飲みかけの珈琲だろうかマグカップも乗っている。起き出した茶々が布団の上に乗ってわざわざ一條を踏みつけてから楚良の後ろへと続いた。
「お風呂入っているので、どうか使ってください。朝はいつも和食でしょうか?うちには食パンぐらいしか無いので其方になってしまうのですが…」
「いや、そこまで迷惑を掛けられないから。直ぐに帰るよ」
「迷惑ではないですが、その……兎が一緒に寝てしまったので、髪がですね」
車だから誰かに見られる心配はないと楚良が思いつつも、立ち上がった一條の姿を見上げて告げてみれば何かに気付いた様にその大きな手が高い頭へと差し入れられる。
「そのままでは車も毛だらけになってしまうと思いますし。男性の着替えなどは用意していないので、本当に気休め程度ですが」
多分サチは今まで飼い主と一緒に眠った事なんて無いだろうから余程嬉しかったのだろうし、移動させてもぴたりと顔あたりに寄り添っていたから髪の一部はその形になってしまっている。
「そうは言ってくれるけどね…」
「起こさなかったのは私ですから。お礼がしたいと言うなら、もう少しさっちゃんと一緒に居てあげてください」
はいどうぞとばかりにタオルを差し出した彼女の前で本当に微妙な表情で一條がそれを見下ろし、そしてやがてその手が下から掬う様にそれを受け取った。
「もう今更取り繕っても無駄だからお言葉に甘えるよ。良かったら朝食は任せてくれる?その位はさせて」
「パンしかないですよ?」
「焼かせてもらって珈琲を入れさせて貰うぐらいでも良いから」
「気になさらなくてもいいのに」
本当に律儀な人だと思いながら兎達の世話を始めようかと飼育スペースの方へと向かう、昨日家の水回りを案内したときに手洗い等をしてもらった風呂場の位置は覚えているだろうか、リビングの扉を出て行ったその長身に多分大丈夫かと思いながらリビングの一段下がった場所にある飼育スペースのフェンスの扉を開いた。
電気錠にパスワード、4畳ほどの広さに敷き詰められた藁と茶々と子兎達が休む為の木箱が置いてあって、昨日そこにサチだけが入る為のケージ。
サチがいつも使っているケージと同じ大きさのものを入れて、持ち出した敷き藁を入れれば多分自分の場所だと認識はしてくれていると思う。
この家に業者以外の人が入るのなんて本当に久しぶりだと思いつつ、糞の落ちている場所を綺麗に交換しビニール袋へと詰めた。
藁の片付けを終えてテラスに繋がるサンルームのドアや窓が全て閉まっている事を確認してスライド式のドアを開けば、慣れた子兎と茶々が太陽を求める様にそこへと走り込み、遅れてサチがおそるおそるそこを伺う。
本当は椅子や机でも置く様なスペースなのだろうが、置いてあるのは兎に無害な植物ばかりで雑草が窓の傍に植えられている様な妙な状況。
しかし殆どの植物は棚の上にしっかりと固定されていて兎が届く様な場所には無く、今日はこれにしようと楚良が植木鉢を2つほど棚から下ろして置いた。
「直ぐに準備しますから――――」
物珍しげにそれを口にするサチと、遠慮無く引きちぎる子兎と。茶々がこれじゃないとばかりに顔を上げているのを知れば、今日の餌の要求が早すぎはしないかと思う。
水を器に移し、餌の重さを量って餌入れに放り込みながら、ふとサチの食事を茶々が取ってしまわないか等とも思った。
少し見ておいた方がいいのかもと早めに食事を出すことにしてサンルームに置いてみれば、まず茶々が自分の餌入れを認識してそれに顔を突っ込み、子兎達がそれに続き、草を食べていたサチが少し離れて置かれた場所に近付いて普通に食べ始めたのに安堵する。
「お風呂有り難う。キッチン、使わせて貰っていいかな?」
扉が開く音と共に声が聞こえて楚良が緩やかな動作で振り返り、其方へと視線を流せば先程よりも幾分すっきりした表情の一條が見えた。
ただただ謝罪を繰り返しそうな雰囲気があったが、今の彼はどこか吹っ切れた様にも見える。其れが嫌かどうかと言われれば嫌ではない、寧ろ何でも自由にしてくれれば良いのにとさえ思っている位だから。
「朝は私はいつも食べていないので、本当に好きにして下さいね。そこにあるものは何でも使って下さい、操作が難しい物も無いと思います」
「冷蔵庫開けてもいい?」
「構いませんよ。中に入っているものは何でも食べられますが、あげるなら少量にして下さいね」
「――――うん、兎じゃなくて君の朝食だから」
最早様式美だと言わんばかりに一條が告げて冷蔵庫を開けば、パン以外何も無いと言っていた割に冷蔵庫にはある程度物が入っている。
その全てに視線を投げて直ぐに分かった、これは兎用である。有害だとされるものは一切入っていない。
「これだけあれば何だって出来るよ」
そう言って楚良へと笑いかけた一條はもう苦笑ではなく、ちゃんとした笑顔の様で少し雰囲気が変わって見えた。
自信のある営業職らしいその言葉に、全てお任せしてしまうと判断したのも自然だと信じている。
何せ家には滅多に招くことが出来ない他の家の兎がお泊まりしているのだ。自分の兎が勿論一番可愛いが見慣れない兎の仕草というのは僅かな事でも目を惹く。
普段は言葉さえ発するのが稀な程に決まった手順で決まった仕事をして、本当にいつも通りの朝を迎えて日を終えるだけの生活だった。
茶々より先に食べ終わったサチに見張りの心配はないだろうとコーヒーテーブルに向かった楚良が、起こす直前まで描いて居たデザインのラフ画を取り上げる。
もしかして自分は刺激が欲しかったのだろうかとその絵を見つめながら考えて、再び視線を流せば食休みとばかりにテラスで思い思いに寛ぐ兎達。
部屋の中の雰囲気も香りもいつもと違う様な気がして、机の中央付近におかれていた黒い瓶へと手を伸ばす。
キッチンの方へと目を向ければ私服姿の営業課長。にっこりと笑ったその笑顔に、この家で一番刺激が強いのは彼なのではないだろうかと思った。
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