第6話

「今までChevalierが出した化粧品の主成分はこんな所かな――――心惹かれる香りはあった?」

「やはりアルコールの香りは嫌いなのではないでしょうか?」

「兎じゃなくて君が」


 広いリビングの中央付近に置かれてある珈琲テーブルの傍、無垢材のフローリングへとスカートの裾が広がってその端に彼女が飼っている兎が尻を向けている。

 いつもなら帰ってきてこの場所に座り込めば子兎たちと一緒に膝の上を取り合うぐらいになってくれるのに、本日は化粧品を広げてからはこの調子だ。

 床に直置きするタイプのソファは一條の長身では足が酷く余っている様に見えるが、その分子兎達もソファの上に上がりやすくなっていて物珍しい来客に子兎達が警戒心も無く膝の上。


 当の一條にしてみれば言い訳をしたい、本当に長居するつもりはなかったし礼はまた日を改めてという形にしたい所だし、女性の家に突然押しかけて上がり込むなんていうのは失礼だと思う方である。

 それが子兎を見て行きませんか?等という言葉に甘えた結果はこうだ。一人暮らしの一軒家、そして平屋。彼女以外に人の気配はなくまた彼女に関して分からない事が付け足されただけだ、もう嫌われる事を覚悟した上で不躾に事情を聞こう等と言う人間でもなくただ可愛い兎を撫でている。


「天然香料の方が好きだとは思うのですが、全く人工香料と見分けがつきませんね」

 勿論楚良に言わせれば自分より兎が、である。人間の身体はどうという事はないが兎は少量でも口に入ると危ないので絶対に床にはそれらを広げられない。

 何やら難しい顔をして考えて居るらしい一條から視線を一度外して広い部屋を見渡せば、普段自分の兎である茶々と3匹の子兎が過ごしている飼育スペースを物珍しげにサチが嗅ぎ回っている所だった。


 最初はキッチリ分離し、子育て中であるしお客様であるサチに何かがあっては駄目だとゆっくりと二匹の親兎達を引き合わせるつもりだったのだけれども、何故か全く警戒無く受け入れられた一條やキャリーを嗅ぎ回り蓋を引っ掻く茶々と子兎に、早々に柵越しに引き合わせてみた。

 余りこういう強引な手は使いたくないが良いかと一條に許可は取っているが、本当に、全然攻撃する様子もなく互いに足さえ踏みならさない。理由が全く分からない。

 こうして互いを自由に行き来出来る様にしてみても、子育て中の飼育スペースに入る事さえ咎めていない、楚良の経験でも初めてだ。


「僕もそこまで詳しい訳じゃないけど、殆どの香水は今や人工香料が主だろうね。天然物はそれだけでプレミアが付くし、ムスクなんかの人気の香りはそもそも生体の取引が禁止されているから」

「もしかしてこの香水は天然香料だけで作られている、という事は?」

「それは無い、もしそうならこの値段では出来ないだろうし。…ただ香りは深いから天然素材も幾つか使われているのかもしれないけど」

 この、といって机の端から落ちかかっていた黒い瓶を楚良が手に取って見れば、しかし直ぐに一條の顔が左右に振られた。


「オリエンタルは元々香りが複雑になる傾向はあるけど、余り香りが変わらないのは不思議だね。普通はもう少し、トップノートからの移りがはっきり分かる筈なんだけど。君には分かる?」

「時間、経過――――…」


 彼女が考える様に僅かだけ瞳を瞬かせて黒い瓶を見つめて居る。その横顔を眺めながら本当にどんな事を考えて居るのだろうかとその言葉を待っていれば、彼女に尻を向けていた茶々が傍に居るのを諦めた様に一條の方へと寄ってきた。

 サチもあの藁の敷かれた広い飼育スペースを掘り返すのが飽きたのか、茶々と並ぶ様にして一條の膝の上へと乗ってくる。

 足から腹へ、そして子兎がみぞおち辺りに取り付き始めた。


「横になって構わないですよ?」

「流石に、そんな――――…真似は」

「完全に押し倒そうとしてますね」

 何が楽しいのだろうか胸の辺りを登ろうとしている子兎達を傍目に見た彼女が、香水から一度顔を上げて小さく肩を震わせた。


 本当に彼女は兎の傍に居るときには表情が緩むのだと一條が思う間も無く、サチが後ろ足で立って胸に手を置いてくる。

「いつも横になるとお腹の上で寝たがるので、良ければ如何でしょうか?」


 問いかけた楚良に、自分の兎へと目を下ろした一條が兎達の期待する様な瞳を受けて、全てを諦めているのが彼女の視界の中。

 そうだろうそうだろう、兎には逆らえる訳がないなんて勿論口からは漏れずにその長身が狭そうに横になっているのが見えた。


「話は戻すけど、何か手がかりになりそうな事はあったかな?」

「一條さんはこの仕事の担当の方と直接お話をされていますよね?」

「話したよ、向こうの営業の方だけど。うちの上司も同席してたから少し固そうではあったかな」


 彼女の言う通りに腹へと子兎たちが次々に丸くなり、場所を無くした親2匹が胸の上でもそもそと腰を落ち着けている。

 眼前に兎の顔、牧草の香りが強く先程まで囓っていたのがよく分かる。


「仕事に対する熱意はどうでしたか?この香水をどれだけ売ろうと思って居たか、という様な事は分かりますでしょうか」

 営業方の触感を聞いてどうしようかと言うのだろうかと思いながらそれに答えてみれば、彼女の口からは意外な言葉が漏れて軽く視線が細められた。


 熱意、熱量、そう言えばと記憶を手繰り寄せる。


「熱意は高かったと思う、普通こんなに没が出ててしかも全然違うなんて言ってくる取引先はもう切り捨てられてもおかしくないけど、匂わせても来ないし」

「香水は初めてのジャンルなのですよね?Chevalierにしてみれば」

「そうだよ。化粧品の分野では男女ともに評価の高い会社だし、化粧品の香りも凄く好評だからいつか来るんじゃないかとは業界でも言われてたね」

「このお仕事の話を聞いたときにとても不思議に思ったことがあるんですが」


 兎が全て一條の方へと向かってしまって寂しいと楚良の脳裏に一瞬過ぎったが、一條の淀みない言葉に引き出される様にまた思考が其方へと戻る。


 そう、この話を聞いた時に思ったのは。


「どうして香水が受け入れやすい海外ではなく日本で、しかもある程度抵抗のない女性向けではなく男性向けなのでしょうか?一番受け入れがたい層だと思うのですが」

「そう、だね――――…未知の市場を開拓したいとか、シェアが未知数だとは言ってたけど。大規模に広告を打つなら広告代理店に最初に持ち込んだ方がいいかもしれない、とは僕も思ったかな」

「有名企業の最初の商品は確かに手を取りやすい、でも万人受けをするシトラス系を避けているという事は、ある程度玄人、付ける事に慣れた人向けになってしまいます。日本人の気質として、その方々が軽薄にCMに乗る様な新規参入品を手に取りますかね」


「広告は少なめにして、数を出す気もない希少さを狙っているってこと?」

 つまり彼女は営業方の会話からそれを知れないかと問いかけているのか、胸元の兎を撫でながら限られた会話の中からそれを探る様に一條の瞳は虚空を向く。

 あの時は殆ど上司が喋っていた様に思うし、自分からの疑問も殆ど掛けさせては貰えなかった。それでも。


「いや、その雰囲気はなかった。提示された金額はそれなりだよ、CMは兎も角話題にはしたがってると思うしこの値段は希少とか高級とかとは少し違うと思う」

「それなら、考えられるとすれば――――話題になれば人々が珍しいと思うとか、付けてみたいと思わせるとか、縁がない人でも手に取ってみようかとおもう様な仕掛けがあって、それが男性やその傍に居る女性の心を擽るものがあるのかも」

「仕掛け、か――――」

「そもそもデザイン先行の依頼でありながら情報はない、そして本質を分かっていないというのなら、人々が一目見て分かる様なテーマでなければならない。それが入っていないからこの香水の本質とは違う、と言われているのでは無いでしょうか」

 

楚良に言わせればそういうものを仕掛けてくる相手方というのは、多分本当にデザイナーの力を試してきている様に思える。

 だからこそ『デザイン』のみを売りにしている自分達に持ちかけてきたのか。広告形態を売りにする様な広告代理店では無い、きっとそれを考えた人間というのは絶対に偏屈か楽しがりだ。


「それが何か、君には分かる?」

「色々考えてはいますが決め手に欠けます。ただ少し描きたいですね、この香りの事をもう少し知りたいと」


 楚良の手は直ぐにスケッチブックへと伸びてそれを折り返し、鉛筆ではなく鮮やかな色鉛筆を手に取った様だ。

 下書きなどはしないのだろうかと絵の知識に乏しい一條がそれを見つめてそろそろおいとましようかと思ったが、胸の上の兎二匹が全く動かない。


「一條さんは優しいですね、さっちゃんが羨ましいです」

「優しいのは君の家の兎だと思うよ。僕にも全然怒らないし」

 サチも嫉妬などするかと思ったが全くなくて、昔調べた事によると兎なんていうのは他の兎の香りがつけばとても妬いてご機嫌取りが大変だとか言われていたのに。

 低い温度を好む彼らの為か部屋は肌寒い程には冷やされている中、兎達に腹を温められ流れる彼女の声を聞く合間にペンを落とす音。床や壁の素材だろうか木の香りに酷く穏やかな気分になれば、眠気。


「君の兎の話を聞かせて――――もう少し」


 寝てしまいそうだと彼女の話を請えばこの兎は三代目なのだとか、祖父母からして兎飼いだったのだとか。

 彼女の声さえ暖かさとして錯覚する、この広い家で彼女の傍で過ごせるなんていうのはきっと兎だけに許された贅沢なんだろうとぼんやりとした思考が崩れた。


 君の兎になりたい、と、言ったのは果たして現実なのか何なのか。不味いと思った時には手遅れで落ちる様な睡魔、そしてぷつりとその意識は途切れた。


「――――……一條さん?」

 今彼の口から非常に聞き慣れないタイプの言葉が漏れたと思って、やっと紙から視線を上げた楚良が声を掛けても、それに返事は帰って来なかった。

 見れば彼も彼の上の兎達もすっかりと眠りの中に居るではないか、時計を眺めてこれは本当にやってしまったと、紙の半分まで埋めたスケッチブックをコーヒーテーブルに戻し立ち上がる。


 眠たげであるのに何故気付かなかったのか、彼も責任ある立場だというのにこんな時間まで拘束した上に兎の相手までさせてしまっていた事に後悔しかない。

 兎好きだからきっと幸せなんだろうと思っていたが、自分の睡眠ペースは人とは違うというのもまた記憶から飛んでしまっていた。


 音も無くリビングを抜けて自分の寝室へと向かい、重ねられた布団の中から掛け布団を一枚引き出す。此処へと運んでゆっくりと寝て貰いたい所だが、どう考えてもあの長身を動かすのは自分には出来ないし、起こして半分寝たまま運転して帰すのも怖い。


 リビングへと布団を抱えて戻れば茶々が目を覚ましたのか、耳が片方だけ立てられて楚良の方へと向いていた。

「今日だけですよ――――?」

 全然一條の上から避ける気配もない兎達に深い溜息、足下から布団を掛けて子兎達を近くの浅い籠へと移し、横になった顔の横へと置いておいた。

 胸元まで布団を掛ければ親兎達がそれぞれ頭の横でもぞもぞと身体を落ち着けている。


 確かに足下や腹の横で眠ってしまえば寝返りを打った時に危険だが、この兎まみれで彼は本当に安眠出来るんだろうかと、少し場所を避けようかと籠へと手を伸ばす。

 本当に綺麗な顔立ちをしていると眠る男に思えば、ふっと香水が香る。もうこの時間では完全に散ってしまっている筈なのにと思えば、楚良が不思議そうに瞬いた。


 自分の香りも殆ど落ちてしまうし楚良からしても分からない程なのに、少し違う香りの様な気がする。


 机の上へと戻ってそこに置かれていたタイへと鼻を近づけても、香水らしき香りは全く残っていない。

 重厚感のあるオリエンタル系の香りを選びながら、鼻に残る程の強さはない。風呂に入ればきっとあっさり落ちてしまうのではないだろうかとも思うのに、長く静かに香るのは。


「有り難う御座います、一條さん」


 彼で実験するつもりはなかったのだけれども、自分の身体だけでは分からない事が少し分かった様な気がした。

 サチと茶々が彼の胸の上へと戻ろうと伺っているのを危ないですよと声を掛け、しかしその姿に思わず笑みがこぼれた。ガラス壁の向こうで部下達を統括して、朝礼や終礼で見せるビジネスマンらしい彼には見られない兎にまみれた姿。


 少しでも自分がかけたストレスが晴れてくれれば良いのだけれどもと思い、再び紙へとペンを落とした。

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