第5話

 21時ぴったりに楚良が手をつけていた仕事が終わって、バッグに黒い香水瓶と幾つかの紙を放り込んで立ち上がれば隣に座っていた鳴海の目が上がった。

 珍しく他の社員が殆ど帰ってしまっていて、残っているのは10人の内の半数以下。帰るのかと問いかけているその視線なのだろうが、今日は本当に仕事なのだ。


「明日手が離せなさそうなのですが、何かありますか?」

 彼の視線に羨ましそうなあれこれを感じつつも問いかける楚良に、鳴海が手を伸ばして机の前に立ててあったファイルを手に取り言葉もなく其方へと差し出す。


 それを両手で受け取った楚良が小さく頷いた。

「チェックはしておきますね、お疲れ様でした」

 丁寧にそのまま頭を下げてから羽柴のデスクの方へと歩を向ければ、キーボードを叩いていた男が瞳を上げてその姿を捉えた様だ。


「今日はもう上がりますけれど、鳴海主任のチェックは持ち帰りにしておきます。持ち出し申請は事後でいいですか?」

「今でも言うが俺は反対だからな。話を聞いて無理そうならその場で断れ」

「何ですかそれは」

 流石にこの流れで期待させておいてというのは楚良も心苦しいし、色々手を尽くして待ってくれているだろう一條に申し訳がない。


「そう簡単にはいかないぞ」

「課長が没を食らった仕事で私が失敗しても、痛くはないですよ。今の私の実力では当然ではないですか」

 辞表の暇があれば良いのですが等と本当に心底惜しくなさげに告げられて、流石に声が聞こえたのか鳴海さえ難しい顔をしてその二人を眺める。

 それは部下のクビを賭けたくないと言った羽柴自身への気遣いでもあろうと、その気楽な様子で気付いた。


「お前は本当に仕方のない奴だな…。もし成功したらお前のデスクが溢れるぐらいの花でも贈ってやる。一條に宜しくな」

「それは嫌がらせと言うのです。デスクが閑散とするぐらいの休みを下さい、ではお疲れ様でした」


 何だろうか彼女には何かを針に掛けた手応えでもあるのだろうかとさえ感じるのは、不安げな様子が全くないからかもしれない。

 普段チェックを頼むときと全く同じ熱量であの仕事を受け止めている様にも思える。黒だが黒ではないと言った理由は彼女にしか分からない感性だ、自分にはさっぱり分からん、あれは黒だ。


 するりと歩き出した彼女の後ろで結ばれた黒髪が尾の様に揺れ、それがドアから滑り出せば社内はこの部屋以外殆ど人が居なくなっている様だった。

 まだ廊下は明るいがこれも暫くすれば慈悲も無く消されてしまう事を身をもって知っている。

 今終わったと一條にメッセージを送ろうとエレベーターの中でスマホを取り出せば、少し前に既に連絡があったところだった。


 社外に車を止めているからと兎のスタンプと共に送られているのは間違い無く彼から、一條のメッセージには可愛らしい兎のスタンプがよく使われているが、誰かに誤爆したりしないのだろうか。自分なら自信がない。

 一階について人気の消えたエントランスから会社を出、正面の通りへと目を向ければ車がまばらに停まっていてさてどれだろうかと首を傾げる。

 しかし直ぐにその中の一台のライトが一瞬だけ瞬いて、ブレーキランプが光った。

 

 嗚呼あれかと直ぐに其方へと向かえば運転席に一條の姿。未だにスーツなのは車を出す為に家に帰っただろうに着替えなかったのだろうか、身体を伸ばしたその長身によって助手席のドアが内側から開かれて、楚良の身体がそこへと滑り込む。


「済みません、お待たせしました」

「呼んだのは僕だよ、忙しいのにごめん」

「資料はいくらあっても足りない程ですから、此方こそ遅くまで申し訳ありませんでした」

 車内で資料を渡してくれるのだろうかと思ったが運転席のシートベルトを引いた一條に、少し迷った後に結局自分も助手席のシートベルトを引きだして金具へと差し込んだ。

 その動きに隣から微笑が返って楚良の視線が僅かだけ緩み、そのままフロントガラスの方へと流れる。セダンではなく黒いSUVは何となく彼に似合いだとも思った。


「公開前の商品だからセキュリティのしっかりしている所にはなるけど、和食と洋食とどちらがいいかな?――――僕の部屋っていう選択肢もあるけど」


「最後の選択肢はゲームオーバーの奴では…………もしかして、さっちゃんの調子まだ悪いんですか?」

 何やらとんでもない選択肢が最後にねじ込まれてきたなと思いながら言葉を返していたが、不意に彼とのプライベートな方の遣り取りを思い出す。

 さっちゃん、つまりはサチ。彼の兎の名前であり、それこそ私的な方と言えば会話の10割を占めているペットの名前である。


 隣を一瞬だけ見下ろした一條がシートへと溜息をつきつつ凭れて、その顔が上下した。


「君って本当に鋭いね。…まだちょっと続いててね」

「誤飲の原因は?」

「君が誤飲だって言って注意深く見てるんだけど何を食べてるかは分からなくて」


 駄目だなとハンドルを握った一條がとりあえず知っている店で落ち着いて話そうとエンジンをかけ、シフトレバーを引いて車を発進させる。

「糞は白いままですか?」

「部屋からティッシュとか布とか白い物は全部取っ払ったんだけどね、だから君には一度見て貰おうかなって――――――――、うん、ごめん、仕事の方だよね」


 ここ最近その会話で盛り上がったがそこまで致命的に元気をなくしている訳ではないし、本当に一体何だと悩んでいたのも悪かったのだろうか。

 彼女に大事な仕事を押しつけたばかりだと言うのに、会話が其方に流れかけて信号待ちの合間に一條がハンドルに突っ伏した。


「一條さんはいつも兎をだしに女性を部屋に招いているんですか?」

「ちっ、が。違うから――――っ、本当に違うからね?!」


 とんでもない言葉が横から聞こえると同時に後ろからクラクションを鳴らされて慌てて顔を上げた一條に、楚良が笑いながら肩を揺らした。何とか笑みを納めようとしているのか、口元を手が抑えて身体は小刻みに震えている。

 彼女のそんな笑顔は羽柴の部署以外では初めて見た。


「分かって居ますよ、それを理由に兎を飼ってもあんな綺麗な毛並みにはなりません。良いですよ、一度チェックに行きましょうか。腸が詰まると問題ですし、今の所は問題がなくとも早い方がいいです」

「ちょっと待って、言っておいて何だけど本当にいいの?」

「情報も漏れる心配が無さそうですし一石二鳥で良いのではないでしょうか?」


 一瞬羽柴に殺されるかもなんて頭に過ぎった一條に対して、最早兎の体調と資料にしか興味がないらしい彼女の視線はスマートフォンを取り出して何かを調べている。

 横から盗み見えたそれは遠隔カメラで兎を確認している様で、あんなに専門的に兎の飼育をしている彼女が、直接飼育環境を見て貰って相談に乗ってくれるというのは貴重なのではないだろうかと思ったのは、何か彼女に申し訳ない事をしている様な罪悪感もあった。

 無知な様子で自分の部屋に来ても良いというのは、全く、男として見られてはいないのだろうというのは理解できるのだけれども。


「ありがとう、不安だったから助かるよ」

「いつでも呼んで下されば良いのに。私もペットの事で取り乱す事は良く有りますので気にしませんよ」

 横顔に落ちた黒髪が小さな笑みに肩から腰へと流れる様に落ちて行くのが見える。先程彼女は兎をだしにと行っていたが、彼女は兎を引き合いに出せばこうやって男の車にも乗るんだろうかと過ぎった。

 家にも行って、部屋にも上がって。二人きりで。羽柴に色々と言われても気にしない風だったし、寧ろ女性社員にも男性社員にも態度が変わった風の1つさえない。多分あれは急に羽柴辺りが抱きついても照れ一つせずにやり過ごす奴だとさえ。


 もしかして楚良は男に持つべき警戒心をどこかに落としてきたのではと、一條が疑いたくさえなってくる。


「あそこのマンションだよ」

「会社から近いですね?」

「ペット可能のマンションで会社から歩いて行ける距離ってあそこぐらいしか無くてね、君は遠いの?」

「電車で30分です、まあ終電か始発待ちの方が多いですね」


 車をマンション地下の駐車場へと停めて一條がシートベルトを外すのに合わせる様に、楚良が自分の金具も外して横へと元通りに納めた。

 足下へと置いて居た鞄を取って肩に掛けドアを開いた楚良が車を降りれば、その動きにロングのスカートがひらりと揺らめく。


「さっちゃんは食欲も落ちてるんですか?」

「最近残し気味かも…」


 20歳だ若いだろうと羽柴に自慢された事を今更思い出したが、その小柄も相まって20にさえ見えない。下手したら高校生だと失礼極まりない事さえ過ぎった。

 エレベーターへと乗り込みながら彼女の質問に答えれば頭が長身の一條より遙かに下にあって、その際立つ小柄に何やらとてつもなく悪い事をしている様な気がして頭痛がする。


「どうぞ、散らかってはないと思うけど」

「お邪魔します」


 先に彼女を通して後ろ手に扉を閉じた一條が、普段の習慣で鍵を閉めようとしたが、途中でそれを止めてシューズボックスに鍵を置いた。

 彼女の靴が丁寧に揃えて端の方へと置かれ、屈んでいた彼女の立ち上がる動きに裾がまた柔らかく揺れる。


「こっちだよ、本当にわざわざ有り難う」

「思ったより豪華なお部屋なのでちょっとさっちゃんを羨ましがっている所です」

 嘘か本気かでいうと楚良は心からそう告げている様で、リビングの扉を開きながら其方を向いた一條の唇も緩む。本心でもあるが場を和ませようとしてくれているのも理解できない彼ではない。


「あそこに置いてあるんだけど」

「外出中はサークルですか?ケージですか?」

「サークルの方だよ、ケージは開けてあるからサークルの中は自由に歩き回れると思う。部屋も一応綺麗にはしてたけど荒らされてる様子もないし…サークルの中にあるものは殆ど取ってるんだよね」

 リビングの一角にサークルが立てられて、その中に兎のスタンダードな小屋があった。

 其方へと楚良が遠慮無く近付く後ろ姿を確認しつつソファへと鞄を置いた一條が、サークルの柵に立つ人影にひょこひょこと出てきた兎に気付いて彼女の横へと数歩で辿り着く。


「やっぱり写真で見るより美人さんですね?」

「ちょっとまって、直ぐ片付ける」

「あ、片付けるのは待って貰って良いですか?糞を確認したいです。入っても?」

 サークルの中に幾つか糞が落ちているのを見つければ、近くの箱の蓋へと向かおうとした一條を止め、楚良が声を掛けた。


「良いけど、確認って何するの?」

「指で潰してみるんです。後で手を洗わせて貰いたいのですが」


 告げた楚良は肩に掛けてあった鞄を近くに置いて腰までのサークルの扉を慣れた手付きで開き、その中へと入った。箱の蓋を開いてウエットティッシュを取り出した一條はサークルの外からそれを眺める。

 彼女は本当に一瞬の躊躇もなく糞の一つを手に取って、人差し指と親指に挟む様に力を込めて中を確かめる様にすりつぶした。


「これ、ティッシュペーパーとか紙の類いじゃないですね」

「えっ、そうなの?でもラグもマットも撤去したし…」

「少し手を洗わせてもらっても良いですか?」

「うん、キッチンを使って」

「キッチンで洗われるのは嫌ではないですか?」

「後でちゃんと綺麗にして消毒しておくから大丈夫だよ。でも、紙の類いじゃ無いものってこの部屋には無いと思うんだけど…」


 リビングに併設されているカウンター式のキッチンの方へと先に歩いた一條が水を出し、彼女が潰していた糞を渡されたウエットティッシュで包んで指先を拭い丁寧に包んで居るのを待った。

 歩いて来た彼女にゴミ箱を差し出せば礼と共に白いそれが中へと入る。


「一條さんって少し早い時間にお帰りですよね?」

「そう、だね。余り家は空けたくないから」

「大体時間も決まっていますよね?」

「なるべく変な時間に帰らない様には」

 失礼しますと告げた彼女がハンドソープを使って綺麗に指先まで丁寧に洗い流し、タオルを差し出した一條にまた有り難う御座いますと小さく告げつつ質問を投げる。


「嗚呼、一條さんは先に着替えてはどうでしょうか。私は私服なので構いませんが、多分少し汚れる事になるかと思います」

「汚れる?」

「汚れる場所を確認する事になると思いますので。確かめたいのでお手伝いして貰っても構わないでしょうか?」

「勿論、ちょっと待ってて、直ぐ着替えてくるから」

 告げられる言葉にテレビの裏とか家具の後ろだとか、もしかしたら小屋の下などに隠されているのだろうかと思いつつ、サークルから出るのは見張っている時だけなのは彼女も知っている筈だと思う。

 自由にさせる範囲が人と重なっているのは危険だと彼女はいつも言っていたし、特に目を離す時は必ずサークル内に戻す様にとも言われて居た。


 ネクタイへと指を入れつつリビングを出て寝室に向かい、ベッドの上へと解いたネクタイと上着を投げてシャツのボタンも外す。

 しかし本当に彼女は警戒心が無い、心配にさえなる。誘ったのは自分だしお願いしたのは兎仲間としてだし、受け入れたのは彼女であるのにしてもだ。


 下も履き替えて普段着に着替え足早にリビングに戻って見れば、抱き上げられたサチが彼女の頬へとキスをしている所だった。


「……さっちゃんの浮気がバレました…!」

「君が原因を見つけてくれたら許す事にするよ」

 悪びれもせずに告げられた言葉に思わず笑いながら言葉を返せば、一度優しく抱きしめた兎をサークル内へと戻した様だ。余り抱き上げられるのは、というより拘束されるのが好きではなかった様に記憶しているのに暴れる様子さえない。


「どこを見ればいいかな?」

「ソファを返しますね、下を確認させてもらっていいですか?」

 ソファの下は何も敷いていないが何か入り込んで居るだろうかと思いつつ、自分が置いた鞄を床へと置いて手を掛ければ彼女が反対側を支えた。


「一人で出来るよ?」

「二人でやった方が楽ではないですか。其方をお願いします」


 肘掛けの位置に立った楚良に言葉を掛ければ当たり前の様に声が返されて、また小さく頷くだけに一條は止めた。

 彼女と反対側に立って背もたれと座面を持ち、せーの、という言葉と共にソファを横にして背もたれを下に向けて置いた。


 やっぱり下には何もないよねと視線を向けたその端に白いものが映って、あ、と一條が声を上げる。


「ビンゴですね、綿っぽい感じだと思いました」

 黒いソファの裏側の皮が剥がされていて、その中の綿が引っ張られた様に穴から露出している、少し台座の枠も囓られているだろうか。


「でもどうやって、昼はサークルの中だし夜はフリーにしてもこっちには入らないのに」

「さっちゃんは頭が良いんですね、きっと怒られると分かって居るから見られている時には入らないんです。こちらへ」

 一度覗いている綿を引っ張り出して手に取った彼女が小さく息を吐き、サークルの横に立って膝を突いて座りこんだ。手招きしている彼女の傍へと屈んだ一條がそれを覗き込んで首を傾げる。


「此処、塗装がここだけ剥がれているでしょう?」

「…本当だ」

「多分ここから抜けてると思います。脱走ですね」

 え、ともう一度一條が声を上げてその部分を瞬いて見つめ直しては見るものの、兎の頭がやっと通るぐらいの大きさだし肉垂はとてもではないが通りそうにはない。


「こういう塗装の禿げ方は大抵そうです。餌を変えて抜けられる様になったのかもしれません、さっちゃんは頭が良いのできっと帰る時間は把握して自分も帰宅しているんじゃないですかね」


 ここ、と呆然と呟いてみるが視線を移したサチは何故か尻を向けて座り込んでいる。

 その背中から私は何もしていませんがとでも言いたげな雰囲気を感じて、多分彼女の言う通りなんだろうと思った。


「高級品で良かったです、ウレタンが張られているタイプだと腸閉塞もありましたので。…この素材なら消化も進んだでしょうから…。さっちゃんはいたずらっ子になったんですね?パパが困っていますよ」

 現実逃避をしている自分のペットに優しく声を掛けながら手を伸ばした彼女に、やっとサチが顔を向けてすんすんと手の香りを嗅ぐ。そのまま近付いた兎を丁寧に抱き上げた彼女の口からパパという言葉が漏れれば、何となく照れも混じった。


「浮気は許されましたけど、悪戯も許して貰えるでしょうか?」


 彼女の指先がちょいちょいと兎の前足を支えて動かせば、一條が腕組みをしながらも苦笑を見せる。

「どちらも僕の責任だから許すよ。……でも困ったな、どの位のサイズなら出ないんだろう?塞ぐ物って何を使えばいい?」

「良ければ新しいものが届くまで、さっちゃんをうちで預かりましょうか?」


 どうぞとばかりに近付いた彼女が一條の胸へとサチを預けて、また一歩離れた。物珍しげに鼻を動かす兎の頭を撫でられる距離で事も無げに告げて、下心も一切無い申し出に一條の視線が落ちる。


「でも、君…多分凄く忙しくなるし、子兎たちもいるのに」

「うちは普段から多頭飼育になれていますから。もし同じ部屋で喧嘩する様でしたらお見合い用にとってある別室で預かる事も出来ますし。預かると言ってもネットショップを使えば翌日か次の日には届きますよ、流石にこのサークル全部塞ぐのは無理ですし、ケージに閉じ込めるのも可哀想です。ガムテープなんて論外ですよ」

「何かもう僕は君に迷惑しか掛けてないよね?」

 屈託無く告げられる言葉に、もう本気でいっそ彼女が下心でも持ってくれていれば良かったのにとさえ思う。仕事でもプライベートでも年若の小柄に助けられてばかりいるというのは大人の男としてはどうなのだ。


「ケージは余っているのがありますので、キャリーだけ貸して頂ければ大丈夫ですよ」

「一つ聞いてもいい?」

 サチを抱いたままで彼女の方へと近付けば、迷いもせずに彼女の腕は兎の方へと伸びて抵抗もしないその獣を丁寧に受け取って貰えた。

 この部屋に二人きりでいても、完全に兎しか相手にされていない気がする。少なくとも優先順位は間違い無く其方で。


「どうしてこんなに助けてばかりくれるのかな。仕事もそうだし、プライベートでも迷惑しか掛けて無いのに」


「兎が好きな人に悪い人なんていません。それに、私は出来ない事なんて何一つ言っていませんよ、私が出来る事だけしか。判断するのは一條さんですし、寧ろ押しつけているのは私の方です」

 ですよね、と、また兎の片手を握った楚良がぱたぱたとそれを動かしながら、一條の方へと瞳を向ける。

 四肢に触られるのは一條でさえ嫌がる事もあるのに、本当に彼女の手には魔法の様に大人しく、何かコツがあるんだろうか。


「君の家まで送らせて。それと本当にちゃんとしたお礼とお詫びも。流石にこのままじゃ気が済まないよ」

「もう良い時間ですよ?私は電車でも良いんですが…大丈夫ですか?」

「君にも同じ事が言えるから、大丈夫かっていうのはこっちの台詞」

 遅い時間なのに電車で帰って受け入れの準備をしなければならないのに、家の事情なども分からないから、許されるならせめて送迎だけでもさせて欲しいと思って真剣に告げれば、どうしましょうかと一度楚良は瞳をサチに向けた。


「営業部と違って此方はフレックスですから。――――でも、車の方がさっちゃんには安心でしょうから、お言葉に甘えても良いでしょうか。資料とキャリーと、あとタイを持ってきて頂けますか?そろそろ香りが切れますね」

 そう言えば彼女が此処についてくるハメになったのは資料のせいだと一條が思い出せば、本気で土下座までセットでしておきたい。


 車に乗ってからこの方兎の話しかしていない。本当に此処最近彼女と話したいとずっと考えて居たのが不味かったというしかない。


「着替える前に確認して貰えば良かったね」

「充分香っているので大丈夫です。さっちゃんも私と一條さんと同じ香りがついているから安心したんでしょうか」

 そう言えば先程打ち合わせの時に彼女が首筋に指を這わせていたのを思い出した。一條にしてみれば、香るのが自分の香りというのもあるが充分な香りといえる程には残っていない。それこそ、微かにあるかないか程度で。


「キャリーには私が入れておきますね。すぐ出ますか?」

「もう遅いから直ぐ出るよ。キャリーと資料の他に必要なものはある?」

「小屋の牧草を少しだけ頂きます」


 棚の上に置いてあったキャリーケースを手に取れば、彼女の腕の中で身を捩り始めた様で楚良が小さく笑みを零している。

 兎は一度足下へと下ろされて、キャリーは彼女の手に渡しておいた。


「タイを取ってくるよ」

 彼女がキャリーの蓋を開いて上向けるのを視界の端に入れつつも、寝室へと取って返す一條にごゆっくりと声が掛かる。寝室の中は当然だが先程と同じ光景、脱いだままだった服の合間からネクタイを手に取ってリビングに戻れば、既にサチはキャリーケースの中へと納められ、丁度蓋が閉じられる所だった。


「いつも凄く嫌がるんだけど…大丈夫だった?」

「慣れてないだけですよきっと。少し慣れれば自分から入る様になりますから」

 バッグを肩に掛けた楚良はキャリーケースの取っ手ではなくそれ自体を両手で支え、隣に立った一條を見上げてまた緩く笑う。


 もう何やら一條は切ない気分にすらなってきた、いくら兎飼いのキャリアは彼女の方が長そうだというのを加味しても余りに迷惑を掛けすぎているし、そもそも仕事などではフォローしなくてはならない立場なのにと。


「うん…じゃあ、本当に、有り難う」

 他に相応しい言葉も見つからずに使い古された感謝の言葉に礼を込めれば、彼女は否定もせずに穏やかに頷いた。


 一條も鞄を床から拾い上げて彼女を先に促す様にして歩き出す。リビングのライトを落とし、楚良の小さな背中に一條が続けば本当にどうやって彼女に礼をすれば良いのか分からない。

 その小ささや物腰を見ていれば、もう彼女が兎の様に見えてきた。きっとそうだ、自分の警戒心もそれで緩んだんだと思っておけば、視線に気付いたのか黒髪が振り返る。


 どうしたのでしょうかとばかりに首を傾げて居る彼女の頭に長い耳の幻覚が見えた様な気さえして、それは他称整った完璧な笑顔で流しておいた。

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