第12話

 泣いて謝るぐらい仕事をくれてやるといった羽柴の言葉は嘘ではなくて、かなり緻密にスケジュールを組んだ筈なのに今日の分さえ終わらなかった。


 課長は正直者なんですねとか半眼で告げれば、そうだろうそうだろうと得意げに言われてまた溜息を吐きたい気分になる。本当に全くと小さく呟いてみれば余計に空しくなって、ギリギリまで粘ってはみたが結局土曜日は出勤で間違い無いだろう、かなしい。


 それでもChevalierの一応の決着は羽柴の機嫌を良くしたのか、三徹目の憂き目は無い様で安堵する。

 羽柴が他の社員と共に帰り支度を始めたのが22時手前で、明日出勤だからと泊まろうとしていた社員を帰しその頃にやっと楚良の仕事も一段落ついた。

 明日は会社に泊まりかな等と乾いた笑いを浮かべる社員が2人ほどいたが、彼らは本当に労働基準局にたれ込まないのだろうか。それなりの高給取りだから大丈夫なのだろうか。


 羽柴と鳴海に駅まで送られて、バイク通勤の鳴海とは駅前で別れる。羽柴とは反対方向の電車に乗る形で、自分の方が先に電車がついたので反対側のホームの羽柴に手だけは振っておき、親指でも下に立ててやろうかと思ったが今日は早く帰れた方だと思い直した。

 正直徹夜でも構わずバイクで通勤している鳴海は大丈夫かと思う、自分なら家に帰るまでに3回ぐらいは事故を起こすのではないだろうか。


 羽柴にはもっと近くに引っ越せば等と言われたが自分は子持ちの様なもの、それにあの家は兎の為に作ったのだからあの家から離れるなんてごめんである。


 いつもは人気が少ない時間の筈なのに、月末の金曜日だという事が悪かったのか、いつも座れる時間なのに座席に座れなかったし、駅前は飲んできたのだろう人々で溢れていて改札を抜けるのにも苦労した。

 ホームタウン駅というのは月末はいつもこんな感じだったのをもう少し早く思い出すべきだった、そうしたら会社に泊まったのになどと毎日のルーティンになったコンビニに寄ろうとして、しかし途中で気付いた。


 そう言えば今日は家に帰れば食事がある、筈。


 今から帰りますとメッセージを送るのも忘れていれば、鞄に詰め込んだ資料の下にスマホが入り込んだせいか全く探し出す事ができずに、此は帰った方が早いなと思う。

 大根入りだ、大根入りの筈だと期待しつつ玄関へと辿り着き、鍵はどこだと胸を探ってその手応えが無く、絶望的な気分になりかけたがそれも当然だった。本当に頭が働いていないなと思いながら、玄関の取っ手を引いてみたが途中で手応え。鍵が掛かっていると、ドア横のインターフォンへと指を伸ばした。


「お帰り」


 自分の家のインターフォンなど動作テストで触って以来だと、何やら新鮮だとまじまじと見つめていたら、ガチャン、と鍵の開く音がして声と同時に扉が開いた。

 声はここ数日で聞き慣れたが、その内容は本当に久しい。


「ただいま帰りました…」

「ご飯の準備は出来てるよ、荷物貸して?」

 はい、と手を差し出されて何事かと思っていれば、肘辺りに掛かっていた鞄へとその指先が向いて最早言われるがままにそれを預けた。


 PCやら書類やら持ち帰りの仕事やら、圧迫感が無くなれば手が僅かに痺れている。部屋の中からいい香りがするのは白米の炊ける香りだと、ふらふら玄関から中に入れば背中で扉が閉じた。

 玄関の明かりがついていて、出迎えられるなんてこの家を作ってからは一度だって無い。


「先にご飯にする?それともお風呂にする?――――それとも、兎と遊ぶ?」


 扉に鍵を掛けつつ帰ってからの状況を聞かれるというのは本当に懐かしいなあ、等と思って居れば直ぐ近くからまた声が響いて其方へと顔を向ける。

「……お風呂兎ご飯でもいいんですか?」

「勿論。お湯も沸いてると思うから入っておいで」

「え、そこまでして頂いたんですか?」

「お風呂触られるのは嫌だと思ったけど、自由にしていいって言われたから…」

「そこまでして頂けるなんて思っていなかったので、本当に嬉しいです」


 一度は彼も使った場所だし気にならないのは楚良の常。靴を脱いで玄関を上がれば、自分の物ではないサイズの靴が端に寄せる様にしておかれてあり、その隣へと自分の靴を並べておいた。


「他の所には入ってないから安心して。鞄はリビングに置いておけばいいかな?」

「入ってダメな所は無いですよ、兎さえ入れなければどこでも使って下さい。鞄はコーヒーテーブルの上でお願いします、床に置くと囓られると思いますので」


 営業課が終業になった時に一度家に帰ってから行くとメールがあって、兎は自由に出して良いとフェンスのパスコードも教えておいたから、きっと外に放たれている筈だと思う。

 遠隔カメラを起動する暇があればそれを見られたのにと、今更ながら忙殺されていた時間を勿体なく思った。


 ゆっくりしてきてと声を掛けた一條にひらひらと手を振ってから別れ、まずは自室の方かと其方へと向かう。本当に肩が凝ると思いながら寝室の扉を開けば、確かにそこは僅かも触れられていなかった。

 着替えを適当に見繕いながら、風呂が一番なんていうのは一條に甘えすぎなのではないだろうかと思ったが、帰る連絡もしていなかったので色々と準備があるのではとの言い訳を採用する。


 どちらにすれば良いか聞けば良かったと過ぎるが、失礼ながら早く化粧を落としたい。

 どうせもう殆ど肌と同化するレベルだと思っていても、顔を綺麗に洗いたいのはその通り、そのまま脱衣所の方へと行けば風呂から流れる暖気に暖められていて、電気を付ければ本当に湯が張られていた。


 いつもは湯船に沈む事はなくシャワーを使うだけだからこの熱気も珍しい。風呂の扉を開けば良い香り、多分軽く掃除とかもしてくれたのだろうと思えば迷惑だとか恥ずかしいだとか思うよりも本当に有り難くて、今日は食べて兎を見るだけが出来ると楚良には小躍りしたい気分だった。


 身体を洗って髪も流してゆっくりと風呂などに浸かる。仕事は嫌いではないし、どちらかと言われるまでも無く好きだ。そのせいで圧迫される時間の殆どは前の事務所の時から兎の飼育と繁殖、そして研究にあてているからこの生活は決して褒められたものではない。


 身ぎれいにすれば普段風呂に入らないせいか早々に軽くのぼせて、髪を乾かすのも面倒でバレッタで止めておく。いつもは一人で生活しているし、兎も鳴き声の煩い動物ではないから楚良の独り言以外は響かないが、今日はリビングの方からテレビの音が聞こえて何かずっと昔を思い出した。


「済みません、お待たせしてしまって」

「もう少しゆっくりでも良かったのに、疲れてるでしょ?君へのお礼なんだから、僕に合わせなくて構わないよ」


 キッチンで何かを見下ろしていた一條の姿が視界の中でテレビを消し、リビングへと入ってきた楚良の足下へと直ぐに子兎の一匹が辿り着く。

 抱き上げながら謝罪をしてみても、また彼の口からは笑みが漏れただけだった。


「皆と一緒に遊んであげて?その間に準備しておくから」

「改めて我が家が天国なんだと思えました」

「僕はさっきまで遊ばせてもらってたから、好きなだけ撫でてあげていいよ」

「一條さんも遊ばれたんですね」

 勿論彼女の言葉には、兎に、が付く。一匹が抱き上げられていたのを見たのか、我も我もとばかりに他の兎達が寄ってくる。


 楚良からの言葉を聞きながら肩を竦めた一條の手に菜箸が握られていて、美形というのは何をしても様になるから是非デッサンでもさせて貰いたいと思った。

 簡単に兎の世話を終わらせてしまおうとメモを見ながら餌を計って置けば、朝の様に皆がそれぞれ自分の器からがっつき、その合間に小屋を簡単に片付ける。


 やっと終わったと床へと構わずに腹ばいになれば、背中に親兎が走り込んで楽しげに腰の上で遊び、久々に砕けた姿勢で暖かな主人に皆が寄ってきて、サチもそれにつられた様に首元へと顔を埋めて濡れた髪に慌てて首を振った。

 いつもは食事を片手に仕事中の時間だから、こうして手放しで遊ぶのは珍しい。


「本当に慣れてるんだね」

「それこそ生まれた時からの家族なんです。でもうちの子は未避妊で締まる傾向なので…さっちゃんの肉垂が一番すき」


 上向きになった彼女の胸の上にサチが乗っているのが一條から見え、その首元に顔が埋まる形の楚良の声が不明瞭になった。

 服の端は子兎が掘っていて、脇腹に触れられた彼女が思わず笑い声を上げて身を捩る。


「家でこんな風に過ごすのは本当に久しぶりです。最近彼らの相手も適当だったなと反省をしました」

「そう言えば前も家に仕事を持ち込んでたよね?あんまり良く無いよ、ちゃんと休むときには休まないと」

「キャパシティが小さいんですかね…切り替えた方がいいとは思って居るのですが」


 襟ぐりから子兎がもぞもぞと入り込み、胸の上を通って脇腹からトンネルを潜って袖口から出てくるのがその服の動きだけで分かる。その全てを彼女は拒否もせずに許している様だった。


「こっちも出来たよ、手を洗っておいで」


 キッチンで鍋を持ち上げた一條に声を掛けられて、身体を起こした彼女の上からころころと兎達が転がり落ちる。

 この間の一件からこの滑り台状態が子兎の好物になってしまった、危ないので細心の注意が必要なのだけれども。

 一度兎の飼育スペース近くにある水場で手を洗ってキッチン近くのダイニングテーブルへと向かえば、とても甘いすき焼きの香りがした。


「本当にお腹が空きました…」

「沢山あるからいっぱい食べて良いよ。白いご飯も食べる?」

「食べます。うちの炊飯器が仕事をしている」


 何やら感慨深くなってきて、使われる事さえなかったIHプレートに鍋が置かれれば、その彩りの鮮やかさに更に食欲が湧いてきた。香りと見た目で食事の8割が決まるというのは絶対に正しい。

 箸置きや食器も全て家にあったが、棚に収めてあるものは殆ど埃を被っていただろうに、ちゃんと今はその役目を果たしている。


「折角いい炊飯器を持ってるんだからお米だけでも炊くといいよ。あれはアプリでも遠隔操作できるやつだし」

「え、本当ですか?いつも帰る時間が微妙なので保温するぐらいならレンチンでいいかなと」

「水の量さえ間違えなきゃ朝にセットしてもタイマーで美味しく炊けるよ。主食が出来たてなだけでも全然違うからね」


 本当ですねと素直に同意した彼女の前へと白いご飯を置き、卵の入った器を彼女の傍へと寄せて、当初の要望通り彼女の前へと一條が座った。

 楚良が丁寧に両手を合わせてそして軽く目を伏せ、それに合わせる様に一條も手を合わせて息を軽く吸う。


「いただきます」


 二人の声が重なったそのテーブルから少し離れた場所で、兎達が並んでそれを見つめて居る。兎というのは躾けられるものなのか、茶々と子兎達はそのテーブルに寄って来ず、サチもそれに習っている様だ。


「そう言えば僕も失礼ながら確認するんだけど」

 割り入れた卵の中に鍋の中身を取りつつ、だいこんおいしいとばかりに箸を進めている彼女に美味しいかと聞くのは止めて、違う言葉で問いかければもぐもぐと咀嚼中の彼女の顔が上がった。

 とても彼女の兎に似ている。


「空木さんって恋人とかいないよね?」


 もぐもぐ、と動いていた口が一瞬止まってそして口の中のものをごくりと飲み込むまでの間。


「いや、僕が勝手に色々やってて嫌がられないかなって。キッチンとかお風呂とかね」

「キッチンに立ったら私にそういう人がいないとすぐに分かったでしょうに」

「…家に呼んでないだけ、って事もあるから…ね、一応」

「一応ってもう言ってますよね?分かってるじゃないですか。仕事と兎の往復で自分の事さえ、この様な感じです」


 気を悪くするだろうかと思って一瞬は躊躇したものの、結局口から漏れた言葉に楚良が気にした風はなく自分の生活を笑うかの様に肩が揺れた。

 食器は殆どの食器が四人分だったが、よく使っているらしいのは1人分だけ。それは風呂場の物の少なさもそうだ。


「今日部署の子から面白い話を聞いたんだけどね」

「面白い話ですか?この流れで?」

「うん。君が羽柴と付き合ってるっていう」


 ごふ、と、彼女がむせる不明瞭な音が響いて一條が図った様に彼女にティッシュペーパーを箱ごと差し出し、恨みがましそうな視線で返された。

 彼女と一緒にデザイン課の方へと戻り結果を告げれば、羽柴が彼女の腰を掴んで抱き上げていて、それを見ていた営業部の女性従業員からやっぱりあの二人は付き合ってますよね等と言われたのだ。


「無いです」

「本当?」

「疑う余地があったんですか。私がもし課長とお付き合いしているなら、休日出勤と徹夜だけは辞めたいと泣き落としをして受け入れられていますよ。叶えられた試しがありません」


 多分これからも叶えられませんとやっと落ち着いたらしい彼女から溜息が漏れて、自棄になった様に巨大肉を発見して楚良が卵の中へと突っ込んだ。

 でしょうとばかりにその首が傾げられ視線が戻れば、一條の肩が竦められる。


「あと私は男性に相手にされたりする可能性は無いと思いますよ。そこは誤解すると羽柴課長が哀れです」

「そうかな?羽柴は君の事を気に入ってると思うけど」

「能力的な話では多分嫌われてはいません。外から見ると色々と目を掛けられている様に見えますが、あんなの好きな人間の対応ではないです。それに私は会社に仕事に行っているんです、男性をそこで見繕う気はありません」


 全く何を言い出すんだとばかりに彼女に返されて、その口が肉へと噛みついた。もぐもぐと大人しく咀嚼しているのは、肉の味を噛みしめているのだろう。


「一條課長こそ恋人は作らないんですか?高身長高収入、経歴はよく分かりませんが、家事スキルまで完璧に備えているではないですか」

 彼女からお返しの様に質問されて、鍋に伸ばしかけていた手が止まる。楚良の瞳はまた肉へと向けられていて、どれにしようかと迷っているのだろう。

 例えばこれが本当に一條への興味ならば良かったのだけれども、絶対に先程のお返しだ。見つけた肉を彼女の傍へと寄せてやれば喜んでそれが取られた。


「サチがいるからちょっとね」

「兎が好きな彼女を作れば良いではないですか。沢山いると思いますよ?」

「それを信じて付き合うと、暫く後にサチと私とどっちが大事なの?って言われそうかな」


 ふっと彼女の口から吐息がもれて、また吹き出した彼女が笑って肩が揺れている。今度は瞳が上げられて、そうですねと同意を表した様だった。

 彼女には自分への恋人の有無はやはり笑い事なのかと。


「ただでさえ一條課長は完璧で隙の無い男性だと思われて居ますからね。本当は兎のお腹の匂いを嗅ぐのが大好きな変態さんなのに」


「ちょっとまって、ねえ。本当にちょっと待とうか。――――何で知ってるの!?」

 確かに疲れた時などは傍に寄ってきたサチを抱きしめるついでに、あの落ち着く香りを嗅ぐのが好きだった。

 だが間違ってもこの家でも彼女の前でもそんな事はしていない。

 本当に可笑しそうに彼女が笑っていて、一瞬だけ箸がサチの方を向いてまた戻った。


「分からいでか。さっちゃんがいつもお腹を見せてにじり寄ってくるからどうしたのかなと思っていたんですよ。顔に肉垂やお腹を押しつけるのにも躊躇はありませんし、そう言えば毛並みも乱れ気味だったなって。……本当にそうだったんですね」

「そういう引っかけ方は辞めてくれないかな!」

「大丈夫ですよ、私も大好きな匂いです」


 本当に大丈夫じゃないと、思わず一條がその場に突っ伏した。だからどうして彼女の慧眼というのは兎相手にここまで鋭く発揮されているのか。

 恥ずかしい所ばかり知られていて、情けない所ばかりしか見せていない気がする。完璧で隙がないなんて誰が言い出したんだ。


「本当に君相手に情けない所しか見せて無いんだけど…」

「そんな事ありませんよ、会社であれだけ完璧な課長なんです。兎の前でぐらい少し乱れたって良いじゃないですか。それにそんな事言ったら私なんてどうなります?家事能力もなくて人付き合いもド下手糞だって知られましたよ」


 お互い様ですとでも言いたげな口調であっさりと告げた彼女が、鍋へと再び箸を延ばしているのを見れば一條も気を取り直して箸を延ばした。

 並んで二人を眺めて居た兎達はとっくに部屋を走り回る方へと目的が移っていて、サチが子兎に追いかけられていた。

 見ていて楽しいし、彼女にお勧めされた大根も美味しい。


「家事能力が無いっていうけど、部屋は綺麗だよね」

「会社での拘束時間が長くて汚すだけの時間が短いんです。それに此処に限って言えば、ゴミが兎の命に関わるのでそれだけは気を遣っていますね」


 本当に美味しいです、と会話の合間に声が掛かって一條が鍋の方へとまた目を下ろした。

 自分もそれなりに食したが、楚良も食べる時にはがっつり食べるタイプなのだろうか、少なくとも気を遣って小食に見せたがる様な意図は感じない。


「君は時間がないだけだと思うよ。何をさせても器用に見えるけど」

 食卓に彼女を残して立ち上がった一條に、何だろうかと瞳を向けていた楚良だったが、その身体がキッチンに向かっているのを見れば鍋の片付けをしなければと野菜を纏めて自分の皿と一條の皿に適当に振り分けているのが見えた。


「だとしたら見かけ倒しですよ。兎と仕事の事以外は考える事も面倒です」

「休日は何をしてるの?」

「もし本当に何も無い時は録画した番組を消化していますね。ゲームなんかもあるんですが、いつもオープニングが終わるまでぐらいしか暇がありません」

「ゲームもするんだ」

「芸術家はアイデアと構成が全てなのでインスピレーションを貰うのに良いと」


 本当に珍しいと彼女の意外な面が知れたと思う。キッチンから戻った一條が彼女の前へと小さな容器とスプーンを置けば、楚良の瞳が二度瞬いて一條の方へと勢いを付けて向けられた。


「手作りですか!?」

「卵が余っちゃったから、手抜きのレシピだけどね」

「一條さんは神様です…プリン大好きです」


 衝撃のせいか役職呼称が取れたなと思えば、作っておいて良かった等と思う。野菜を片付けてご飯も一粒残らず食べて、その食器を脇に避けた彼女がプリンの容器を手元へと置いた。


「神様は君の方でしょ。羽柴も女神だって言ってたし」

「あの人はいつだって調子が良いだけです。あと、たまたま一條さんのニーズに合致しただけで私が積極的に何かしていた訳では」

「じゃあ僕もたまたまだよ。偶然卵が余っちゃっただけだからね?」


 一條の言葉に嬉しげな彼女がまた頷いて、掬い上げたそれにぱくりと噛みついた。頬杖をついてその様子を眺めて居る一條の前で、幸せ気に食べて居るのをみれば製作者冥利に尽きると言って良い。

 彼女との食事を考えて見れば、外で食べても家で食べても本当に美味しそうに食べる。


「今週は明日も明後日も出勤?」

「休みなしの予定です。泣いて謝るぐらい仕事をくれると言っていたのが、現実になりました」

「羽柴も案外無茶な仕事の振り方してる」

「課長が一番仕事を抱えているので文句は言えません。そう言えば営業の方は皆バランス良い退勤時間ですよね?」


 営業課の方は遅くまで居残りしている事もあるけれど、大抵は定時とは言わなくともデザイン課の様な酷い状況ではないと思った。

 業界では営業なんていうのは深夜近くまで電話をかけているイメージもあったのだが、一條が調整しているんだろうと楚良が問いかける。


「僕達は相手先もあるし締め切りは君達に振るのが仕事だからね。タイトな予定は殆ど入らないよ」

「私に言わせれば締め切りに追われるより、契約数と契約額が目に見える方が心臓に悪いです」

「毎日どこかしらに営業をかけていれば充分取れるよ、給与は兎も角ノルマもないしね。羽柴には良く怒られるけど」


 ふっとまた楚良が笑みを浮かべたのは、彼ら二人の遣り取りを至近距離で聞く事も良くあったからだと思う。

 羽柴はそんな時間でやれるかといい、一條は前はできたでしょなんて言う。その依頼のし方がまた理詰めなので、大抵は羽柴が折れている。


「一條さんと陰島主任が契約を取り過ぎだと言っていましたね。まあ、そのおかげで人を増やさなければという話になって、私が入る隙間が出来たのでありがたい話なのですが」

「じゃあ君の為にもう少し契約を取らないとね」

「羽柴課長の様な事を言う!」


 笑いながら告げた一條に、それを冗談と悟っている彼女が本気の顔で告げたが直ぐに崩れて肩を竦めた。

 そのスプーンが最後の一口を取り、口へと運ぶタイミングで一條が立ち上がり、彼女の避けていた茶碗を自分のそれと重ねた。


「あ、後片付けぐらいは私が」

「料理は片付けまでがセットだよ。久しぶりに広いキッチンで嬉しいから、最後までやらせて」


 楚良が手に持っていたスプーンも一緒に取られて、腰を上げかけた楚良が再び椅子へと戻って、分かりましたと小さく頷いた。

 彼のマンションも広いと言えば広いが、あくまでも集合住宅の広さである。無駄に広い此処に比べれば差は明かで。


「ゲームでも兎でも好きなことをしていて良いよ?」

「本当にお腹がいっぱいで眠くなってきたので、とりあえず仕事を片付けます」

「やっぱり持ち帰ってたんだ」

「日常の光景ですので!セキュリティ上心配なのは分かりますが、ちゃんと今日は事前に持ち出しの申請は上げましたよ」


 怒らないで下さいと彼女が告げたが怒った訳ではない、ごちそうさまでしたと両手を合わせた彼女が腰を上げて、丁寧に椅子を中へと戻した。


 ペニンシュラ型のキッチンの中からリビングへと一條が視線を投げれば、彼女はコーヒーテーブルの近くに座って鞄の中から次々と資料やらPCを取り出し、主人が座ったぞと言わんばかりに兎達がそのスカートの上へと乗っていた。

 普段は自由にしている癖に彼女が座れば様子伺いにでも絶対に傍に寄ってくる。膝の上へと茶々が鎮座し、背中辺りにサチが身を寄せて、子兎達がぐるぐると周りを回って、セロ弾きのゴーシュの様だとでも思った。

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