第13話

「何か飲む?寝る前だから珈琲はダメだよ」

「答えを潰されました…。うーん…じゃあ、一條さんの好みで」


 太い筆箱の中からペンを取り出した彼女が紙を捲りながら、それに何かを書き込んでPCの画面へと視線を向けるのがキッチンからはよく見える。

 食洗機の中に軽く洗った食器を並べながら、その片手間でコンロへと小さな鍋をかけた。


 それにしても、だ。料理はしないと言い切っている割に調理器具は揃っているし、道具はちゃんと保たれている。埃を被っている感は否めないが、包丁にもサビは浮いていない。

 一度ちゃんと確認して不足があれば自分の家から持ってこなければ等と考えて居たのも裏切られて、プリン容器に至るまで彼女の持ち物で事足りた。


 恋人はいないと言っていたが、人の気配のなさに家族でもない。リビングにも壁にも兎の写真以外は飾られておらず本当に一人なのが良く理解できるが、あの若さでこの規模の家を維持出来るだろうか。

 彼女の瞳は相変わらず真剣に仕事を眺めて居て、手も忙しなく動いている。


「陰島の仕事かな?」

「見れば分かりますか?全員分把握しているってやはり凄いですね」

「君もデザイン課の仕事、殆ど入ってるよね。…そっか、表記のチェックも君の仕事なんだね」


 金額を確かめるだけではなく、ピクセル単位でずれていないか確認するのも彼女の仕事。

 そう言えば羽柴が最近は彼女に殆どの仕事のチェックを任せていると言ったのだったか、その手のミスが驚く程減った。

 机の端へとマグカップを置けば有り難う御座いますと彼女が告げて、その中身を確かめる。ホットミルクだと嬉しそうに直ぐに唇の方へと運ばれた。


「人の仕事を見るのは楽しいです。いつも新しい発見がありますね」


 ソファへと一條が腰を下ろせば、彼女の周りで回っていた子兎達が一條の方へと我先に寄ってきて、背中側にいたサチも遅れて向かってきた。

 茶々に関して言えば彼女の膝から微動だにしていない。


「あ。そうだ、そろそろ帰らなくて大丈夫ですか?お風呂を先にした私が言える事ではないんですが、0時も回ってしまいましたし」

「ん、……君が良かったらなんだけど」

 子兎達が3匹纏めて抱き上げられ、一條の膝の上へとのせられている。大きな手は羨ましいと楚良が見つめれば声が掛かって、良かったら?と楚良の首が自然に傾いた。


「また泊まらせて貰う事って出来ないかな」


 泊まらせて、と先程からオウム返しになっている彼女がその言葉を反芻して、一度自分の膝元の茶々を見下ろしてまた視線が戻る。

 手にあったペンを傍らへ、茶々の背中を撫でつつ視線は一條の方へと向いた。


「また兎と眠りたいんですか?」

「……ダメかな?」

「ダメというべきなんですけど、今日だけですよ。多分その子達と眠れるのも今日辺りが最後だと思いますし」

「え、そうなの?そろそろ引き渡し?」

「そうです。……兎と一緒にそういう可愛い顔でお願いするのは卑怯ではないですか、イケメン無罪です」


 膝の上の3匹とサチが振り返った彼女に気付いたのか、全員で見つめられた風になって、もう反論もする気がなくなったのか楚良は直ぐに是と言った。


「じゃあ自分の顔に感謝しておこうかな」

 兎の一匹が楽しげに告げた一條の胸から上へ上へと目指していて、その尻を支えて肩に乗せてみれば楚良がスマホを取り出す。

 本当に腹が立つぐらい絵になるので写真でも撮ってやろうと其方へと無言で向けてみたが、嫌がるどころか笑顔まで貰った。


「どうせ迷惑をかけついでだしね。朝ご飯も作るし、兎の世話も手伝うし、明日出勤するときは好きな所まで送ってあげるよ」

「大盤振る舞いですね!?でも別に良いです、さっちゃんも居てくれるというのが同義なので」


 完全に兎の付属物の扱いなんだろうを、ここ数日で完全に悟った。そんな事で一々凹んでいたら多分彼女と上手くは付き合えない。

 その口からイケメンなんて言われてみたが、他の女性達と違って人にさして興味もない彼女の口から漏れた言葉で、褒め言葉になるかどうかさえ怪しい。現に一條が泊まるなんて聞いたら普通の女性は顔を赤らめて喜ぶものだが、彼女が喜んだのは兎が居てくれる一点である。


 今まで女性に不自由した事のない一條が、ここまでフラットに扱われるのは流石に初めてだった。


「一條さんゲームします?」

「――――…唐突に来たね」

「折角買ったのにオープニングしか見ていません。自分でやるのは無理ですが、ストーリーの続きはみたいじゃないですか!」

「そういうの他力本願って言うんだし、動画とかじゃダメなの?」


 ダメですと何故か力強く頷かれた。ネタバレどうこう言っていたが、他人にやらせるのはネタバレではないのか。


「やってもいいけど仕事の関係で少し触った程度だから力にはなれないと思うよ」

「一條さんって家で兎を見てるだけなんですか?」

「その質問はちょっと刺さるけど、大抵そうだよ。サチを相手にしているか、本を読んでいるかのどちらか」


 彼女の視線はまた資料の方へと落ちていて、資料らしき紙はあっという間に下の方方まで手書きの文字が書き入れられた様だった。内容をうかがい見れば、修正部分も勿論あるがどうしてその構成になったのかとか、視覚的に見やすい等の分析が主だ。

 読書家だったんですねと珍しげな声、兎を迎えるまでは一條にしてみてもそれなりの交友関係だったし、女性関係もそれなりだったが今はそういう事もない。


 仕事やら絵やらに傾倒している彼女よりは、ずっと無趣味だ。


「今までのシリーズは何とかやってきたんですが、最後のナンバリングは出来ていないんですよね。最新作が出るというのに、復習もできません」

 ペンを置いた彼女が四つん這いになりながらテレビの方へと向かうのを見れば溜息さえ漏れたが、振り返った彼女の手にコントローラーが握られているのにもう諦めるべきなのだろうかと思う。


「もうやらせる気しかないよね」

「だって今日は何でもして頂けると」

「それは君の為になるならとか、…そういう事だから」

「私の為だと思って。最低難易度で良いので」

「必死だね?」


 遣り取りの合間にもう既にテレビがついていて、彼女が既にゲーム機の電源をコントローラーを通して入れ、戻って来た所だった。

 本当に自信はないんだけどと告げれば、最初はチュートリアルからですねと事も無げに告げられる。

 オープニングは酷くおどろおどろしい、多分これはホラーで有名なあのシリーズだと直ぐに察しがついて、設定画面を弄くったらしい彼女に直ぐにコントローラーを渡された。


 もう全ての判断を彼女に任せる形でソファへと背中を預け、膝に腕を置けば彼女達の兎が腕の下辺りへと潜り込んでくる。

 多分それが定位置だとでも思って居るのだろう、サチが最後に他の兎の真ん中に身体をねじ込む形で落ち着いた。


「最初はちょっと慣れないかもしれませんが、チュートリアルに沿って行けば大丈夫だと思います」

「まさか君の家でゲームをやることになるとは思わなかったよ」

「私に借りを作ったのが間違いでしたね」

 何故か得意そうに笑われて、単純に可愛い等と思った。本当に会社では見られない言動は、珍しく口数も多い風に感じる。少なくとも今まで付き合った女性で、一條にゲームを勧めてきた女性なんていうのは居なかったし、テレビに集中するなと怒られた事まである。


「弾数制限あるので注意して下さいね」

「温存してた方がいい?」

「避けられる敵はできる限り避けた方が」

 コントローラーを手に集中していれば兎が一旦膝に下りて、何匹かが彼女の方へと戻りその服の裾から入り込もうとしている。それを見れば何となく彼女の生活が垣間見えた、兎にとても甘いのだろうというアレが。


「力になれないと言われましたが、凄く上手くないですか」

「そう?結構狙いにくくて――――」

 彼女が自分の仕事と画面を交互に見つめながら、良いなあとか凄いなあ等と褒められるのだけれども、ゲームだからと手を抜いて出来る様な構成でもないらしい。


 最低難易度と彼女が言っていたがさして慣れていない一條が集中すれば、横からの彼女の声掛けも必要最低限。

 時折彼女に質問をすればすぐに的確な答えが返り、それも攻略を見ているというよりはシリーズ通しての予想の様みたいなものだからネタバレにもならずに、気付けばゲームと舐めて居た自分も攻略に没頭している。


 どの位集中していただろうか、ぱちぱちとノートPCのキーボードを叩いていた音がホラーゲームのおどろおどろしいBGMに紛れて消えて、其方へと視線を向けてみればコーヒーテーブルへと突っ伏す様に彼女が眠って居る様だった。


 彼女の膝の上で茶々が丸くなっていて、起きていた筈の子兎達もすっかりと眠り込んでいるのが見える。サチはと目を巡らせれば自分の横で横になって目を閉じていた。すっかりと寛いでおられる。


 ゲームをセーブして机の端に置かれていたテレビのリモコンを使いテレビの電源を落とす、コントローラーはどうすれば良いのかと思いつつ、PCの傍へと置いておいた。

 ホットミルクは半分程が干されていたがすっかり冷たくなっており、それをキッチンへと戻して軽く洗ってから戻っても彼女が起きる様子はない。


 彼女には寝顔を見られてしまったが、こうして彼女の寝顔を見る事が出来たのは僅かな達成感があり思わず一條の口元に微笑が浮かんだ。


 手に握られたままだったペンを軽く引っ張る様にすれば、力の抜けた指先からそれが離れた。見れば膝の上で眠って居た茶々が身体を起こしてそれを眺めており、ひょいとその身体が膝の上から下りる。

 寝る前の世話は流石に一條に分からないからどうしようかと思って居たが、彼らも眠って居るという事はさしてやる事はないのだろうか。フェンスの中にしまっておくべきなのかと思ったが、以前は一緒に眠らせてくれたし構わないだろうと判断して、子兎用の籠だけをソファの近くへと置いた。


「――――…さて」


 自分の飼い兎には短いお泊まりの締めくくりを堪能して貰うとして、と、目を向ければコーヒーテーブルに突っ伏したままの彼女は微動だにしていない。


 先に風呂に入っていてもらって良かったと思ったのは、彼女を起こす気の欠片も無い自分に気付いた為だった。一度彼女の寝室の様子を見ようとサチの頭を軽く撫でてから屈んだ身体を起こし、これは彼女の寝室へと踏み込みたかった自分の強欲だと溜息。


 本当に100%兎を言い訳にしていないか、と言えば多分もう嘘だ。彼女に知られれば呆れた顔をされるかそれとも距離を取られるか、どちらにしろこの距離はもう許されない。

 寝室へと向かいその部屋の電気に辺りをつけて照明を灯せば部屋の中央にベッドが一つ置かれていて、他には天井までの大きな本棚に画集らしき大型の本が詰め込まれていた。


 掛け布団を捲ればシーツが乱れていたので軽く整えてから辺りを見せば、サイドボードにあった幾つかの兎の写真が目に付く。しかしその一番右端に置かれた写真立てはその表面を見せない様に伏せてあった。

 自分がもし同じ事をされたなら、その女性の事は信用しなくなるし二度と寝室に入るなぐらいは言うだろうか。それが理解できているというのに、好奇心の方に勝てない。もう本当に最低だと気落ちさえしながらも、絶対秘めて置くと心に決めて写真を起こした瞬間、余りに刺激的な絵が見えて思わず反射的に開けたそれを伏せる。


 は?と思わず唇から声が漏れたが、見た物は間違いではなく確認すべきなのかと思わず眉を顰めつつ、もう一度それを上げて間違い無い事を知った。


 それは写真だが写真ではない、その滲む様な線は絵だと直ぐに気付く。重なり合う布の上で肌を惜しげも無く晒している裸婦像は、絵であってもはっきりと彼女だと分かった。

 一体どういう状況で此が撮られたのか、寧ろどういう状況で描かれてどうして此処にあるのかが分からない。驚く程整った裸体は小柄の彼女には扇情的に過ぎて、裸身を敢えて際立たせる見事な技法で描かれているその絵は、謎のままにもう一度寸分違わぬ状態で伏せておく。


 たまたま倒れただけかもしれないとか様々な事を考えてはみるも、それを寝室に飾って置くというのはどういう心境なのかと思えば胸の内に何かもやもやとしたものが浮かんで、溜息と共にそれを消しておいた。


 照明を常夜灯まで落としてリビングの方へと帰っても、変わらない姿勢の彼女がいる。いつの間にか子兎が籠の中へと運ばれていて、サチと茶々はソファでそれぞれに丸くなって眠って居るらしかった。

 楚良の身体を出来るだけそっと抱き上げてみれば、本当に眠りが深いのか腕には力の入っていない人間の重み。黒髪がその項から零れて胸辺りに落ちない様に頭を寄せておく。


 最初があんな出会いだったせいか、彼女との関係は酷く気が楽で心地が良い。本当にどんな自分でも仕方が無いですねと笑って受け入れてくれそうなのは、ただの錯覚なんだろうにそれが他の男と同じかもしれないと思えば息苦しくなる。

 その感情にはもう名前がついているだろうと思っても、会社でそんな物を作るつもりはないと言った彼女には認められない感情だ。自分が悪い。流せない程に深入りしたのに、気付かないふりをしてもきっと限界はすぐそこにある。

 それでも自分はもういい大人だし彼女だって未成年という訳でもないと、引き下がる理由もないのだと過ぎれば、何でこんなに深入りするまで気付かなかったのかと溜息さえ漏れた。兎飼いだから、能力が高いから、何よりその居心地の良さも、彼女がサチの飼い主であり同僚である一條に対しての扱いであり、個人への好意でさえないというのに。


 寝室へと彼女を連れ戻り、開いた布団の合間に彼女の背中を乗せれば黒い瞳が僅かに開いた。暗がりでさらに黒い瞳が、一度緩く瞬く。


「ごめんね、起こした?」

「…このあいだのお返しですか?」

 少しだけ後を引く様な眠たげな声で問われて、一條が小さく笑いながらその身体に掛け布団を掛けて、ベッドサイドに腰を下ろした。


「そうだよ。だからお休み、朝は起こしてあげるから」

「…七時半…、おふとん…一枚――――持って行って下さいね…」

「そうさせてもらうね。あっちの事は任せて」


 こくんと彼女の頭が上下、そして引きずり下ろされる様にまたその瞼が落ちた。小さな吐息は寝息になっていて、警戒心など本当に持っていない事がよく分かる。

 手を伸ばしてその頭に触れ、これが自分の距離だと知った。まるで子供を寝かしつける距離だ、なんて、女性の口説き文句ならいくらでも思いつくのに彼女には全て相応しくない。


 その黒髪が折れる様に留まっているのに気付き、頭を軽く支えてその黒髪から髪留めを外してサイドボードに置いた。

 いつか一緒にこの場所で眠れたらと過ぎった瞬間、本気で落ち込む。絶対に兎を理由になどしまい、それは確実に彼女に嫌われる手だし、サチは本当に心底大事な家族である。


 足下に避けてあった毛布を一枚取り、リビングルームの方へと戻った。天井は高くデザイン性も高く、モデルルームの様な家の中に兎が数匹思い思いに寝ているのは彼女の家らしく設えられている。


 ソファへと腰を下ろせばサチが気付いたのか、何やら腹を向けてきたので、君のせいで気付かれたのだとばかりにお腹の匂いを嗅いでおいた。

 そのまま横になれば顔の横にサチの姿、そして茶々が彼女の気配を辿る様に自分の手元辺りを嗅ぎ回っていたが、やがてお前でいいやとばかりにサチの反対側。

 自分の身体に毛布を乗せて、アラームは少し早めにセットする。勝手知ったる何とやらで照明のリモコンを使って、明かりも落とした。少し低めの温度は兎の為だと知っているので、触らずにおいておく。


 柔らかな木の香りは本当にこの場所を落ち着く家に変えている。前に泊まった日の朝は開いていた雨戸は、自分が今日この家に入った時には全て閉じられていた。多分外出中に閉める様にしているのだろうが、雨戸が無くとも高い塀は外から見えそうにも無い。

 天井近くに明かり取りの窓があってそこからも今は光が入っていなかったが、屋根の方まで板が張られて木の家だと直ぐに分かった。


 彼女の持ち家なんだろうか、かなりの資産家なのだろうか。自分も収入には余裕がある方だが、これだけの家を建設しようとも維持しようとも思わない。相当の資産が必要な筈だし、内装や家具、食器に至っても一人で暮らすのには過分すぎる。


 本当に彼女は謎しかない、上司ならば分かるんだろうかと思って、しかし直ぐにその考えは打ち消しておいた。


 きっとそうなら、こんな風になる事はなかった、と。


 サチがそっと身を寄せてきて、驚く程穏やかな気分になるのは果たして環境のせいだけなのだろうか。瞳を伏せれば吐息がもれて、今日だけですよと彼女に言われたことを思い出す。本当に自分は今日を最後に出来るのだろうかと思えば、否としか思えない。

 自分の強欲さにまたげんなりした気分になってきた、とりあえずは朝食で彼女を喜ばせる事を考えようと息を吐き、吸った香りは木の香り。本当に此処は落ち着くと考えるまでもなく、眠気がひたりと忍び寄った。

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