第14話
「空木、あのチェックどうだった?――――あー…あれだ、あれ」
「藤原工業の会社ロゴですか?それとも、三井さんのイベント用フライヤーでしょうか」
「三井の方。…お前よく分かったな」
今日ももう終業時間ではないかと時計を見れば、本当に一日が一瞬で過ぎ去って行く。尤もこれからが本番なのだけれども、と思いながらトイレ休憩から帰ってきてみれば部屋へと入ると同時に羽柴から声が飛んでPCへと辿り着く前に楚良が其方へと返した。
「構成上問題はなかったのですが、箔押しの所の加工固く無いですか?」
「手触りが?」
「色合いが。確か東野の印刷所の赤色って濃く出ますよね?」
ああ、と、羽柴から完全に忘れていた系の声色で返事が返り、机へと戻った楚良が後ろの棚から青色のファイルを引き抜いて羽柴の方へと開いて渡す。
それを片手で取った羽柴が中を確認しながら、軽く息を吐いている様だった。
「空木、メールありがと、忘れてたからアレ直ぐ出すね」
「あ、こっちも。なんだっけ、アレ出しといて」
「アレもよろしく」
「お前ら空木はエスパーじゃないだろ」
デザイン課のデスクの島の彼方此方から声が響いて、楚良が僅かに首を傾げつつもPCに座りカタカタとキーボードとマウスを操作しながら、事の発端らしい課長の言葉に思わず小さく喉の奥で笑う。
「いやマジでエスパーでしょ、欲しいものくれてるし」
「こっちも正解」
「だからクイズを出すのは辞めろ。空木も乗るな」
本当にあれ以来、だ。本当に新人だというのを差し置いても、芸術肌の人間達には空木楚良という新人を受け入れない理由さえなくなった。
それまでは本当に任せられるのは雑事や推敲が主だったが、Chevalierの仕事がある程度の成功を見せてからは様々な仕事が来るし、デザイン課が宛先に入っているメールを全て把握しているのもあってか、色々と皆が空木を頼りにする様になっている。
物を頼んでみても嫌な顔をされる事も無く、余程手が空かない限りはそれを受け入れるのを見ていれば、皆にしてみてもその若さもあって完全に可愛い後輩扱いだが、それこそ要請を外した事がない事から羽柴が見ても相当な能力だと思った。
上に立つ能力ではなくサポートに向いている人間というのは、芸術家には少ないから余計に使いやすいのだろう。
「空木、悪いがお前の進捗表出しといてくれ」
「課長、そろそろ空木の進捗表共有しませんか。他の奴の仕事入れてくれてるし、あれが一番見やすいでしょ」
「そうなると営業のメールまで全部空木の所に行く事になるんだが。お前らちょっとは新人相手に手加減してやれよ…」
「別に構いませんよ、私だけでは漏れがあるかと思いますし、共有だけしておいて使わなければそれでも良いですし」
お前も快諾するよな、と、羽柴がぼんやりと呟く様に腕を組んで一度その黒髪を眺めれば、隣の鳴海に何かを言われて机の傍から紙を差し出している所だった。
正直彼女が仕事に関してダメだ無理だと弱音を吐いている所は見たことがない。
「今のテンプレじゃ仕事がとっ散らかるのは分かるんだが。空木、お前手が空いたらお前の使ってる奴をたたき台にして共有用の作っておいてくれないか。あと何だ、手書きで入れてくれてるやつ、営業の打ち合わせの回数とか組み込んで」
「でも、あれはたまたまCCに入れて頂いたから分かっただけですよ?」
「分かるものだけ入れられる様にしてくれればいい、案外関係無くも無かったしな」
「他に何か入れるものはありますか?」
「お前のセンスで」
「センス」
もっと具体的に、等と言われたが返事が返ってこない事も知っているのだろう。彼女が左手でマウスを動かしながら、右手がスケッチブックを開いている。
彼女は色々と同時進行する時はこの様なスタイルで、千手観音みたいと誰かが言っていたか。
「とりあえず今日の分は出しますね」
一度ペンを置いて立ち上がった楚良がプリンターの方へと向くのとほぼ同時に、営業部との部屋を隔てるガラス壁に備え付けられた扉が開いて、一條が部屋の中へと入ってきた。
もうそんな時間かと羽柴が時計へと視線を向け、また小さく肩を竦める。終礼の終わった営業課長の調整という名の様子伺いは相変わらずいつも通りの時間だ。
「今大丈夫?」
「嗚呼、大丈夫だ。今日はもう今のメールで終わりで良いのか?」
「午後からのメールで増えたのは1件だけだね。一つ返事待ちの所があるんだけど粘りたいっていうから任せてるよ」
そうかと呟く様に告げた羽柴の傍へと歩いた楚良がその手へと書類を渡して軽く一條に頭を下げたが、彼女はやはり会社では声さえ掛けなかった。
「分かった。中頃辺りに締め日が集中してるから、もうその辺に入れるのは辞めてくれ」
「そんなに厳しいのあった?」
「社内資料のデザイン変更が幾つかあって、そっちに時間取られそうなんで」
楚良から渡された紙へと目を向けつつ、身体を伸ばしてデスクの端に立てられていた鉛筆を取った羽柴がそれへと幾つか書き入れる。
座る羽柴の横に立ってそれを見下ろしている一條が、僅かだけ視線を眇めた。
「こっちも進捗表変えようって話になったんだが、お前の所も変えとくか?俺らが入社する前から使ってるしな」
「確かにテンプレは古いからお願いできるなら」
「営業で使いにくい所があれば空木にメールしといてくれ。直すの空木だしな」
え、と当の楚良から声が上がって思わずデスクで凝固していて、横の鳴海が軽く肩を竦める様にして溜息を吐いた。
「空木は営業の進捗表なんぞ見たことさえ無いぞ」
溜息交じりの鳴海の声にそうだったか等と羽柴が言っているが実際そうで、本気なのだろうかと空木が困った風に課長2人へと瞳を移した。
「そういやお前社内ツアーもしてないし研修も行ってないな」
「流石に空木にはもういらないでしょー?」
「そいや中途の研修ってどうなるんすか?」
ある程度研修などで他部署の勤務形態などにも触れるのだけれども、彼女に関して言えば初日から放り込まれただけだ。
そもそも、社員証さえ勤務して暫く経つまでは来客用だった有様なのは、皆が理解している。
「中途は希望者のみ四月に纏めてだな。歓迎会もやらず仕舞いだし、お前なかなか可哀想な奴だな」
「アルコールは兎が嫌いますので私には幸運なんですが。なのでちょっと営業部の方はお力になれそうには…」
申し訳ありませんと彼女が告げれば、立ったままでデザイン課の遣り取りを見つめていた一條が、いや、と小さく呟く様に返事をしてから首を振った。
「まあじゃあそっちは鳴海にやらせるか」
「お前がやれ」
羽柴がぼんやり呟いた言葉は、画面から瞳を離しさえしていない鳴海に切り捨てられて、まあそうなるよなと納得気に羽柴が頷く。
楚良も大概だが、鳴海はそれこそ羽柴に敬意を持った口をきいたことがない。それなりに信頼はしているのだろうという事は分かるし、皆にツートップと言われる程度の実力者だと思うのだが。
「去年の研修資料、まだ持ってるから今度ちょっとレクチャーしてあげようか。そのついでに軽く見て貰えれば時間も無駄にはならないかな?」
結局営業部のものはどうなるのだろうと思いながら、自分が今抱えている仕事の一覧を眺めて首を傾げていた楚良が、不意に聞こえた一條の声に顔を上げた。
楚良だけではなく、多分そこにいるほぼ全員が動きを止めた様にも。
「彼女の仕事、まだ余裕あるよね?」
「――――ある、っちゃ、あるが…」
「Chevalierの新商品もまた出したいって言ってきたからその打ち合わせもしたかったし、羽柴にはまたメールででも送るけど、今回もメインは彼女で動かしていいよね?」
全員が固まったのを全く気付いて居ないという彼ではないだろうが、最早気を払う素振りも見せずに言葉をつなげて羽柴が進捗表へと目を落とした。
「別にそりゃ構わないが、結局向こうのラブコールは途切れないのかよ」
「ちょっと今回も熱烈でね。じゃあまた明日以降で時間が空いたら連絡する。空木さんも暫く宜しくね」
「分かりました」
今回は直なのかと思えば一瞬他の社員の目がと思ったが、羽柴の部下なのが良いのかそれともデザイナー達という気質なのか、そう言えばデザイン課には楚良に対して一條に色目を使っているという社員はいない。
元より女性社員は楚良の他には1人だけで、それも既婚者であったから当たり前なのもあるが、皆には気安く可愛がって貰っている。寧ろ『他の部署の女性社員に睨まれるから一條には近付くな』的な忠告なら受けたが。
「じゃあ営業の方はそろそろ皆上がるから、取れた仕事は回しておくよ。お疲れ様」
「おう、お疲れ」
ひらり手を振ってその背中を見送った羽柴が、僅かな間を置いてから楚良のデスクの横へとわざわざ椅子を引っ張ってやってくる。
背もたれへと腕を乗せたその男の顔が楽しげで、嫌な予感しかしない。
「お前やっぱり一條とデキてるだろ」
ほらやっぱりと言わんばかりの台詞が横から掛かれば、それは無いだのあり得るだの、様々な声が掛かってとんでもないとばかりに首を振った。
「日下部様達がいらっしゃった時に粗が目に付いただけだと思いますよ。Chevalierの仕事に追加があるならまた同じ様な事もあるかもしれませんし…」
「あいつが新人相手に誤解させる様な事言うかよ」
「誤解しないと理解されたんだという方向ではダメなのでしょうか。ちょっとこの間兎について熱く語ってしまいましたので」
楚良に言わせれば双方兎にしか興味がないという風に思って居るが、まさか一條の兎好きを楚良から暴露する訳にはいかない。
話す機会は幾つかあったし怪しまれないだろうかと思って告げてみるも、羽柴が興味を失ってくれない事に楚良が溜息を吐いた。
「ちょっとは動揺しろ、逆に怪しいじゃないか」
「何言っても怪しいと言いたいだけですよね?もう、勤務中に話す内容じゃないですからどうぞ席にお戻り下さい」
しっしとばかりに楚良に手で払われた羽柴が、懲りずに楚良の方へと手を伸ばしてその黒髪の端を指へと絡めた。
軽く後ろ髪を引かれる様に力が掛かって、仕方なくまた顔を其方へと向ける。
「酒の席なら何か喋ってくれるのか?」
「アルコールは兎が嫌うと言いました」
「Chevalierを落とした祝いを営業がやるから来ないかってこの間言われてな、仕事も詰まってるしどうかと思ってたんだが」
「やったー、久しぶりに飲みですか!?」
「空木、うんといえ。うんと言ってくれ頼む!!」
告げた羽柴の言葉に嫌ですと言う前に、周りの席からまた次々に声が掛かって反論が封じられた気がする。
飲みの日はそりゃ残業も無くなるし、その為に色々と調整も入るんだろう。自分が来てから飲み会なんて1度もやった事はなかったから、期間を考えれば待ち焦がれているというのは分からないでもないが。
「お前が行くっていうなら部署全員分の飲み代を新歓代わりに経費で落としてやらないこともない」
しかし経費まで落ちると聞けば、何やら向けられる視線が居心地が悪くなる程で、その場合自分の参加が絶対になると知った楚良が机に肘を突いた。
皆の期待には応えなければならないが、飲んだ日は兎が寄りついてくれないし。
「どうしても一條との仲を怪しいままにしておきたいなら来なくて良いが」
「行きますよ。もう、行けば良いんでしょう?断っておきますが、本当に潔白ですよ」
面白い事なんて無いと思うと込めた楚良の言葉に、やったーと歓声を上げる皆の様子を見ればこれで良かったのだと思い込もう。
横の鳴海から此方に聞こえる程の大きな溜息が聞こえたが、多分この溜息は詰めなければならない仕事の帳尻を合わせるハメになる主任という立場のせいだろう。
羽柴がしつこく引っ張っていた髪をするりと自分で引っ張って取り、やっと満足げに課長席に戻ったその背中を視線だけで見送った。
「――――…あの、此処の飲み会というのは相当飲みますか?」
やっと解放されたと一息吐きながらも、ふと気になって隣の鳴海にこっそり問いかけて見れば、PC画面を見ていたその視線が一度だけちらりと彼女の方へと下ろされた。
「大抵全員潰れる」
「……左様ですか…」
「飲めないのか?」
「さして弱い方ではありませんが、兎がおりますので」
全員潰れるとか恐怖の言葉を聞けば、話を受けたのは間違いだったと確信した。前の事務所は二ヶ月しか居なかったし、数人だけの小さな事務所だったから店で飲むなんていう事さえ無かった。
大きな仕事を上げた時に、事務所でビールを掲げるぐらいだ。楚良はいつもジンジャエールだったが。
「お前は座っていればいい。タイミングを見て仕事で抜けろ」
「鳴海主任が神様に見えます」
的確なアドバイスを頂いて本当に拝みたくなった、主任が許可したという事は中座をしてもきっと誰にも咎められまいと思えば、希望の芽が出てきた等と。
再び作業に戻った楚良がスマートフォンの着信に気付いて、その画面を自分の方へと引き寄せる。メッセージ1件とだけ表示されているのを確認、後ろの棚を背にする形で表示をすれば件の一條だった。
プレビューは非表示、誰にも見られていなくて良かったと思うのはその内容。週末サチを連れて遊びに行きたい等と書かれてあって、本当にあの人は兎が好きなだけだと皆に教えて差し上げたい。
成約した礼だとすき焼きを作りに来た後から、彼はちょくちょく暇を見ては楚良の家に遊びに来る様になっている。休日ならまだ良いが、油断していると平日の夜ご飯を作りに等という話になって、あの日のように鍵を預けて夜遅い楚良を待っている上に泊まりがけで朝帰りだ。
子兎が居なくなって少し寂しげだった茶々がサチと身を寄せ合ったり、元気よく遊んでいたりするのを見れば本当に有り難い気持ちと、きっと一條もそれに気を遣っての事だと思えば楚良にしてみれば申し訳がない。
多分茶々なんかはサチが遊びに来てくれるものだから、寂しいフリしているだけなのではないだろうか。出産と引き渡しなんてそれこそ今まで何度も経験はあるのに。
彼の好意は多分恋愛的なそれではないのだと思う、羽柴がそうだと言ったところで会社ででも多数決を取ってみれば楚良はタイプではないと言われるのに違いない。現に男性にも女性にも、楚良は地味でぱっとしないし相手にされないと言われているのは事実なのだから。
勘違いはしまいよ、舞い上がりもしない。そういうものは学生時代に嫌と言う程思い知った。泊まると言っても自分は夜通し絵を描いて居るか、別の部屋で眠るだけだし双方そういうつもりでしか接していない。
「羽柴の言う事は気にするな」
週末の話になるからまた後で返事をしようと机の上へとスマホを伏せて置き、新たな仕事を片付けようとマウスを握った所で鳴海から声。
気になっていませんと言いかけてしかし止め、其方を見ればまた珍しく彼が楚良の方を見下ろしている。
「仕事に集中しろ、そのモチーフはチープ過ぎる」
告げられて画面へと視線を向ければ企画書が広げられていて、テーマに恋の病と書かれてあって大きく溜息を吐いた。
マウスの傍に置いてあったスケッチブックにハートマーク、本当にチープだとマウスの脇に置いてあったそれの紙を一枚後ろに回しておく。
恋なんてきっと苦しいだけだと思えばそのハートさえ黒色に塗りつぶしたくなって、自分は濃い色使いが苦手なんだと溜息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます