第15話 前

 部屋の傍らで七回目ぐらいだろうか、乾杯の声が聞こえる。最早何に乾杯をしているのかグラスを掲げている本人も分かっていないだろう、まるで礼儀だとでも言うふうに楚良も左隣の鳴海と右隣の羽柴に習って杯を掲げたが、本当に誰の音頭だろうか。


 営業とデザ課だけの普通ならば小さな飲み会の筈なのだが、やはりそれなりに規模の大きい会社というものはその2課だけでも居酒屋の二階がすっかり埋まる。


「羽柴、飲んでる?」

 耳に喧噪が痛い程だし二階と言っても大丈夫なんだろうかと、アルコールを避けてジンジャエールなどを口にしていれば前から声が響いて楚良が顔を上げた。

 自分の方というよりはその隣で、正面に座っている女性社員達と話していた羽柴に掛かった声は、その女性社員達の隣に腰を下ろした様だった。


「お前は酌周りか?営業が染みついてるな」

「課長ー、私たちにもお酌して下さいよぉ」

「君達は飲み過ぎない様にしようね。少しだけだよ」


 羽柴と話していた女性社員が隣に来た一條へとグラスを向けて、穏やかな笑顔で彼がそのグラスへと瓶を近づける。

 目の前の営業部の女性社員は完璧に酔っ払っているのが見えて、本当に追加して大丈夫なのだろうかと思ったがまあ上司が良いというなら良いのだろう。


「主任、もう食べられません」

 華やかな席の方からは視線を外して自分の手元へと視線を下ろせば、取り皿に唐揚げが新たに乗せられているのが見えて鳴海の方へと向ける。

 先程から食べる度に新たなものが乗せられているのは気のせいではない、一瞬その瞳が楚良の方を眺めて、じゃあこれも食ってろとばかりに付け合わせのブロッコリーがのせられていた。

 食べられないと言ったばかりなのだけれども。


「そんなに食べてると太るぞ」

「主任が食べさせてくるんです。何ですかこれ、噂の新人虐めですか」

 空木の左右は主任と課長に固められ、そのテーブルにはデザイン課の社員と営業課の社員が半々という所だろうか。

 課長2人がそこへと入ってしまえば他の机からも人が集まってくる。


「少し陰島主任と話して来ます」

「何だ、お前あっち行くのか?」

「昔の案件の話で聞いておきたい事があるんです。それでは」

 隣の羽柴へとこっそりと声を掛ければ面白くないとばかりに見下ろされて、折角一條が来たのにとその意図が透けて見えるかの様だからさっさと退散したい。

 鞄を持ってそのまま会社に戻ろうと思って居たが、鳴海が返してさえくれなかったのでもう諦めて楚良が唐揚げののせられた皿とグラスを箸と纏めて持って立ち上がった。


 丁度彼女が席を離れたその隙に様子をうかがっていた女性社員が二人程纏めて滑り込んだから、多分それも楚良は見ていたのだろうかと思った。


「羽柴課長ってぇ、お酒強いですよね」

「だろ?お前が酔っ払ったら看病してやってもいいぜ?」


 いつもの調子で女性社員に声を掛ける羽柴に、彼女の背中を見送っていた一條が視線を戻せば、鳴海の迷惑そうな顔が目に入った。

 彼はそう言えば飲み会の時はいつも端で只管料理を片付けているタイプだから、こういう机に居るのは珍しい。


「でも~、羽柴課長って、空木さんと付き合ってるって聞いたんですけど」

「――――何だそりゃ、一体どこのモテない男が流してんだ?そんな噂」

 グラスを片手に鼻で笑ったその台詞回しはいつもの事、羽柴が女性に気安くて度々女性の名前が挙がるのは結局普段通りで、彼が否定するのもいつもの事だ。

 一條とは違う意味で女性社員の噂になる男だが、彼もまた独り身を貫いている様にしか見えない。彼曰くは仕事が恋人との事だが。


「ですよねー、空木さんってモテるタイプじゃないしー」

「ちょっと可哀想だよー」

 隣に座っている女性社員がクスクスと笑っていて、男性社員含めて他の社員も酔いが回って居るのかそうだよなー等と相槌を打つ者、くだらないと無視する者様々いる。


 酒の席では誰かが一人槍玉に上がりがちなのは羽柴も一條も理解しているし、デザイン課の人間達もあえて否定はしなかったというより、否定できる程しらふな人間もいない。


 見れば営業ほど飲む機会に恵まれない為か、デザイン課の人間でまだ喋って動いているのは羽柴と鳴海、そして楚良の他は向こうのテーブルにいる2,3人だけだ。

 薄く笑みを浮かべた羽柴が一気にグラスの中身を干して、一條へとそのグラスの口を向けた。


「なんかー。産業医の子が言ってたんだけど、昔ストーカーに会ってトラウマ持ちなんだって」

「えー、そう言う顔じゃないしあり得ないでしょー」


 一瞬だけ鳴海が料理に伸ばした手を止めて、しかし直ぐにまた肉を皿の上へと取った。

 少なくとも彼女からその手の報告を受けた事は鳴海にもないし、本当に産業医にだけ報告してあるか、その産業医が吹いたかどちらかだろうと。

 ちらりと鳴海が女子社員の向こうを伺っても、羽柴の表情はグラスに口元を覆われているせいで彼が知っているのかどうかさえ分からない。


「ほら、君達。産業医の話はオフレコだからね、聞いちゃダメだよ」

「えー」

 彼女達のグラスへと瓶を近づけた一條が、僅かだけ視線を細めて唇の前で人差し指を立てる。

 つまらなそうに唇を尖らせる彼女達も、一條に酌をされれば悪い気はしないらしい。


「課長達はー、そーゆう、かわいそーなフリしてる女に騙されちゃダメですよぉ?」

「フリとかウケる、最近課長達に相手してもらって嬉しそうだしねぇ」

 わいわいと女性社員2人が一方的に盛り上がれば、華やかな笑い声がその場所へと上がった。嬉しそうという言葉に思わず鳴海がどこがだと問いかけたい気持ちになったが、それは酒の席だし彼女の為にならないと弁えている。


 正直鳴海は一匹狼なタイプだし、仕事に誰かを介在させるのはそれこそ校閲段階ぐらいで構わない。しかし鳴海に言わせれば楚良は新人な上に大きな仕事まで次々舞い込んで、他の社員の手前もあるのか酷くやりにくそうである。

 デザイン課の人間は年功序列どころか上司部下さえ気にしない、そもそもデザイン事務所なのだ、そんな事を気にした所で仕事は進まないと鳴海は思っていたし多分羽柴もそのつもりだろう。

 どうでもいい女の会話は右から左に受け流しつつ、また鳴海の箸が料理へと向いた。


「まあ、そこまで言わなくて良いだろ」

「別に嘘言ってる訳じゃないし。そこまでじゃないもん」

「私たち課長の為に言ってるんだよ、嘘言ってるのは空木さんだし」


 羽柴や鳴海が何も言わないからか、流石に営業部の男性社員が見かねた様に声を掛ければ、女性達に数で声を上げられてまた溜息。

 彼らが否定しないのは酔っ払い相手にどれだけ正論をぶつけても、都合の悪いことを聞かないフリをするだけだろうというのがよく分かっているからだ。男性社員は思いやりと気遣いの結果だろうが、明日になればこの会話内容すら多分彼女達の中には残っていない。


「でも一條課長って水島とどうなんですか?」

「どうって、何が?」

「付き合ってるって噂じゃないっすか。すげえ美人だしお似合いだし?」


 会話の内容でも変えようと思ったのだろうが、酒に酔っている状態ではもう判断さえついていないのだろうかまた危うい話題だと一條が軽く息を吐く。

 楚良の時とは違って女性社員達が皆黙り込んでいるのは、本当に彼女との違いを思い出させて一條が机に瓶を戻した。


「付き合ってないよ。彼女はいい部下だけど、それだけ。女性として見たことはないかな」


 えっ、とか、は?とか周りから声が聞こえたが、あっさりと告げた一條は平然とした顔をしていて、羽柴でさえ軽く瞬いた。

 正直一條はこの手の会話は他社員のモチベーションを保ったり、そもそも変な争いにならない程度にはのらりくらりと躱していたと記憶している。

 というよりプライベートを明らかにしない余り、否定さえそう言った会話に関わるのを避ける傾向にあったと。女性として見ていないなんて明かな否定じゃないか、女性社員達が引きつっている。本人が居ないのが唯一の救いか。


「え、…じゃあ、一條課長のタイプって?…まさか空木じゃないですよね」

「営業なんだからもう少し人を見る目を養わないとダメだよ。傍に居たいと思う女性を顔で選ぶなんて、男としても情けないしね」


 お前本当に何言ってんだと羽柴は問いかけたいし、鳴海に至っては完全に凝固している。

 此処に空木が居れば無言で立って去るぐらいの衝撃的な内容だろうに。


「まあ、僕が本気で口説いても彼女は本気にもしてくれないよ。だから双方安心して仕事を任せられる訳だけど、そこを曲解しちゃうと彼女も可哀想だし営業マンとしては減点かな」

 気をつけようねと常の穏やかな口調で告げた一條に、反射的に問いかけた男性社員が頷いている。

 完全に女性達は言葉を無くしているが、この衝撃的な内容は多分酔いが明けても覚えていそうな気がするが。


「羽柴もうちの子がごめんね。デザイン課に女の子が来るのは久しぶりだから、今回だけは許してあげて」


 机の上に置いていた瓶はそのままに、新しい瓶を手に取った一條がにっこりと笑って告げた言葉にこいつと思いながらも羽柴が溜息を吐いた。

 じゃあとばかりに席を立つ辺り、絶対に羽柴に後を任せるつもりだというのが彼自身にもよく分かるし、勿論一條もそのつもりである。


 Chevalierの件で一條も羽柴も彼女を良く会議室に連れ込んでいるし、多少の噂が出てきているのは一條自身も把握していた。

 ただ本人が全く気にしていないのだから然程ではないと思って居た所は、営業としては見る目がないのはどちらと叱咤したい。

 しかも産業医から漏れ聞いた話が本当なら、自分は彼女の傷を一番最初から抉っていた事になる。慌てて否定したのは兎も角、その後一條に親切にしてきたのは誤解されたくない一心だった可能性があると思えば床に頭を擦りつけても多分足りない。


「空木さんまだ飲めそう?」


 陰島のいるテーブルはある程度年かさの社員達が集まっていて、丁度その中央辺りに楚良が座らされてグラスを片手にしていた。

 今度は彼女の隣が空いていると隣へと座りながら問いかければ、殆ど顔色の変わっていない彼女が視線を向ける。


「おい、一條。おっさん達の楽しみを奪うなよ」

「そーよ、あっちの若い独り身にお酌してあげないと行き遅れるわよ」

「――――空木さんも独身だったと思うけど」

「空木は兎と結婚してるから良いんだろ?」


 そう言えばこのテーブルにいるのはそれこそ既婚者ばかりだなと思えば、彼女には居心地が良いのだろうかと思い出す。

 瓶を向ければ首を振られた、やはり兎の為には飲まないのか。


「兎と結婚していますので、今日はこれ以上飲めません」

「君の所の兎は女の子でしょ。ブリーダーの副業申請上げてたよね?」

「そういう突っ込みは野暮です」


 最早彼女の兎好き、もとい兎愛は皆が知るところとなっていたのか。野暮と言いつつ仕方がないとばかりにグラスを向けた彼女のそれに、半分程注いでおいた。


「君の歓迎会も兼ねてるからね」

「デザイン課の人が死屍累々なので、そちらはもうお開きで大丈夫と思うのですが。大抵全員潰れると言っていた理由が分かった気がします」


 注がれたビールはぬるくなっていたのか、途中で泡立つのを辞めてしまっている様で彼女も礼儀として口は付けたが飲む事はなさそうだ。立ち上がるときに皿にのっていたブロッコリーやら唐揚げやらはどうなったのか、もうその上には乗っていない。


「しっかし、お前が逃げてきたって事は向こうはまたいつものか?懲りないな」

「未婚の男女なんてそういう会話しかしないわよ」

 楚良には与り知らぬ所でまたわっと羽柴の辺りが盛り上がっている様で、何となくそこへと視線を向けたが他の喧噪もあってか声を拾い上げる事は出来ない。

 主に寝転がっている人達のいびきとか寝言とか泣き言などで。


「いつものとは?」

「こっちまでその話は辞めておこうか…」

「恋バナって奴だ。空木は行ってくるか?」

「ですから私には心に決めた生き物が」

 何の話だろうかと首を傾げれば、答えたのは一條。しかしそれはすぐに横に居た陰島に暴露されて一條が溜息を吐き出す合間に、楚良がしかと答えていた。


「デザイン業界なんて未婚の宝庫だからなー。既婚者は肩身狭いよな」

「そう言ってお前学生時代に結婚してたじゃねえか」

「陰島さんに言われたくないっす、取引先の常務引っかけた癖に」

「俺は社内恋愛なんてしねえって決めてたしな」

「そいやうちの会社で社内夫婦って3組?奥さん辞めたの入れたら5組ぐらい居ますね」

「率高い方よねー」


 こっちまでその話を辞めるという一條の提案は亡き者になったのか、楚良が何となくデスクの上に置かたビール瓶を手に取って、新しいらしいグラスと共に一條の方へと向けてみる。

 小さな溜息は会話に対して、それでも楚良にグラスを手渡されれば大人しく受け取った一條が彼女が向ける瓶の下にグラスを差し出した。

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