第11話 後
「これを届けたいと思う方の言葉が大きな狂い無くお客様に届く様に、お手伝い出来れば良いのですが」
僅かに微笑を浮かべて首を傾げた楚良に、そしてその中央に置かれたたった一枚のデザインに、それこそ他の3人は一度言葉も吐息も失った。
「びっくりした、お金を払えば理由なんて考えないと思ってた」
「だからお前は言葉を選べ…。流石デザイナー、というべきなんでしょうかね。香りを絵にしてそこに意味を込める事が出来るのは芸術家、プロだけだと思っていましてね」
「だからデザイン会社に?」
「そうよ。うちのデザイン室じゃ商品を知りすぎてる。広告とかポスターってパッケージとは違うでしょ、それこそチラ見で印象に残らなきゃ意味がないの。素人がそれを見て感じたものが全てだから、それを表してもらえたらって」
それはつまり海であったり宇宙であったり、重なり合う色を黒と表すその単純なイメージでも構わなかったということだ、と、一條は感じる。
彼女はそれでは半分にも満たないと言っていたが、それでもある意味は良かった、と。
「でも、これを見たら此処で良かったって思った。貴方で良かった。あなたは通訳みたいなものなのね」
呟く様に口にした日下部に深く楚良が頭を下げて、有り難う御座います、と告げているのが横。一條も軽く頭を下げてそれに合わせた。
「後は若い二人に任せて、ちょっと――――」
「だから連れて行こうとするな。本当にお前は反省してくれ頼むから」
「大変申し訳ありませんが空木はこの後も予定が詰まっておりますので」
「嘘の匂いがする…!」
話は一応の決着を見たと手渡たされたスケッチブックを受け取ろうとすれば、しかしそれより先に手を取られてにっこりと微笑まれた。
流石にこれはどうした方がと楚良が視線を移ろわせれば、宮沢と一條から次々と声が掛かり、しかし眉を寄せて日下部が一條へと視線をくれる。
「もう迷惑をかける未来しか見えないので今日はこれを連れて帰ります。今後の話はまた改めて、ただ……」
「絶対彼女を中に入れてよね?4回没食らったみたいなあんな仕事はもう嫌よ」
「そうじゃなくてだな…。寧ろ此方から、末永く宜しくお願いしますというべきですね」
最早どちらがクライアントか分からない勢いで楚良が日下部に拝まれていて、一番最初に立ち上がった宮沢がその首を掴んだ。
直ぐに楚良と一條が立ち上がり、一條が一歩歩いて扉の方へと出る。
「ねえ、貴方に香りを作っても良い?」
何やら気に入られたのだろうかとその指先を取られ、軽く引き寄せられて楚良がまた顔を向ければ高い位置から金髪美人が見下ろしている。
何、と思う間もなくその指先に軽く口付けられた。まるで騎士の様に。
「ペットを飼っていまして、余り香水に縁が無いのですが」
これは直接受けていいものなのかどうなのかと、営業畑の常識が良く分からないままにそう告げれば、何度かその青い瞳が瞬いた。
「兎の香りね、兎に優しい香りを考えてみるわ」
「有り難う御座います、と…言って、甘えてしまって良いのでしょうか?」
「勿論」
にこにこと余程上機嫌なのか楚良の手を引いた日下部が、一條が開いた扉から楽しげに出て行く。
本当に済みませんと半分死んだ目で宮沢が告げて、いいえと一條が首を振り彼らの後に続いた。大手だからもう少しお堅いイメージがあったけれども、寧ろ業界を牽引するレベルになるとこの程度でないと無理かもしれない。
「この埋め合わせは必ず」
「いえ――――ご納得頂けるのが一番ですから。次はご連絡頂けましたら此方から出向かせて頂きますので」
一條が告げるのに本当かと楚良に詰め寄っているらしいのは、宮沢はもう聞かない事にして形式的に頭を下げた。
依頼主とは言え、多分あの様子はもうどうにでもなあれの精神であろう、苦労が垣間見えた気がしたが一條に言わせてしまえば幸運である。
こう言う顧客は離れがたいし、多分末永く宜しくお願いしますと言うのならばそうだ。
抱きつかれている楚良が若干人身御供になった感はあるにしても。
「此処までで結構です。本当に今日は申し訳ありませんでした、ではまた」
「絶対次の企画書見てね?絶対よ?」
有り難う御座いましたと一條と楚良が二人でエレベーターの中へと向かって深く頭を下げ、何やら楚良は次を確約されていた。宮沢が日下部に声を掛けていた様だが、企画書はちょっとと渋る楚良に迫っている彼女の耳に、最早入っているかどうかは分からない。
エレベーターの扉が閉じるまでまた頭を下げていた二人が、動き出してからやっと同時に顔を上げて息を吐いた。
「これは…上手くいった、で、良いんでしょうか…?」
一條が瞳を下ろしてみれば少し困った風に彼女がエレベーターの扉を見つめて居て、何となく自然に手が伸びる。黒髪に一條の指先が触れて、ぽん、と一つ撫でた。
「勿論だよ。本当に今月の歩合は君の総取りかな?僕は何もしてなかったし」
「隣に居て下さらなかったら多分緊張で死んでいます」
ぞわ、と、今更ながらに肌に粟が立って楚良が我が身を包む様にして抱き、ぎゅ、と吐息と力を込めた。
日下部という女性は容姿含めて圧倒的だったが、宮沢の存在感もかなりだった。楚良から言わせれば二人が努めて軽い口調と遣り取りであった様にさえ思う。
威圧的に出られていれば多分自分など口を開けたかどうかさえ分からない。
「そう?デザイナーじゃなくて営業に引き抜きたくなったよ」
「好きに喋って居たのがたまたま受けただけです。それにあれらは、一條課長と羽柴課長に教えて貰った事そのままですから」
確かに話の大部分は彼女が分からないといいながらも、最後に導き出した答えでもあった。
そのまま自分もエレベーターに乗ろうとしていた楚良を止めて壁の方へと促し、一條が窓の方へと誘えばスケッチブックを片手にしたままの彼女が何だろうかとついてくる。
「それだけじゃないよ。本当に営業に欲しいけど、君をデザイン課から外したらChevalierの仕事が来なくなっちゃうね」
冗談だと分かって居るのか唇に笑みを浮かべた彼女のそれは、しかし少しだけぎこちない。多分楚良は緊張が後に来るタイプなのだろう、本当に先程まで堂々としていたのに今の方が不安気にさえ見えた。
「君には本当に助けられてばかりだね。――――本当に、情けないな」
「何を言っているんですか。あの香水に向き合って、どんな香りか確証が持てたのは一條さんが我が家で眠って下さったからですよ。香りが切れている筈の時間にまだ香っているという現実が無ければ、あの反則みたいなシンクロノートには気付きませんでした」
窓の外から隣を見上げた楚良の前で、其方を見下ろした完璧な一條の表情がやや間を置いてから溜息を吐いて崩れ、そして口元を大きな手が覆った。
「ほんと格好悪いよ、迷惑かけた女の子の家でリラックスしすぎて寝てるとか」
「寝顔も変わらず格好良かったですよ。兎のリラックス効果が実証されましたね」
さらりと彼女から零される言葉に全く下心の欠片も感じなくて、また一條が息を吐いた。こういう内容を恥も衒いも無く口に出来るのが、楚良の楚良たる所以な気がする。
本当に彼女は男の扱いを全く理解していないと、また窓の外へと目を向けた彼女が少しだけ眩しげにしているのは疲れが出ているからなのだろうか。
「君に本当にお礼がしたいんだけど、何か無いかな?」
「お礼ですか?さっちゃんにたまにうちの子を会わせてもらえればそれで」
「それは君じゃなくてサチが一番喜ぶだろうから。帰りたくないとか言われたらどうしようかな」
昨日彼女から送られてきた兎の写真は飼い主不在だというのに本当に仲良くしているらしく、それこそ家族の一匹の様に振る舞っていたし彼女の長いスカートに埋もれて寝ていた。
あれを無遠慮と言わずに何というのか。
「一條課長が不在だったからか、足ダンが多いので早く帰りたいんだと思いますよ」
「そうなの?家では滅多にやらないんだけど」
「一條課長がいるから安心している証拠です。私相手では小さな物音でも不安みたいですから」
そうなの?ともう一度一條が問いかけながら隣へと目を下ろせば、そうです、と彼女が視線を再び上げて頷いた。
彼女の家での様子は動画を見せて貰った時は、楽しく走り回っているか彼女の兎と寄り添って何かをしている所しか分からない。体調不良だけは彼女が誤飲の後だしと気に掛けてくれていたが、あの小さな生き物が不安に思っているというのは一條には悟りきれなくて。
「……じゃなくて。君が僕にして欲しい事はないかな」
また兎談話に自然に流れかけた会話を、はっとして戻した一條に、そうですねと彼女が小さく口の中で呟いた。
「そこまで恩義を感じなくても今回は私にとってもお仕事ですから。それに、兎を預けて下さっているだけで、一條課長の恋人には申し訳ないと思っていますから」
「――――――――ちょっと待ってね、恋人って誰のこと?」
「否定されたり肯定されたりでよく分かりませんが、水島さんという方では?それに他の方からも車に乗った位で勘違いされない様にと言われていますから、本当に気を遣って頂かなくとも大丈夫ですよ。不安にさせては心苦しいですし」
とても美しい方ですね、と彼女に言われて、一瞬眉を潜めたのはそれこそ否定しても盛り上がる女性社員達の顔が思い浮かんだからだった。
羽柴や陰島などには正しく誤解だと伝わっているが、プライベートを詳らかにしない傾向にある一條の私的な話題はそれこそ言われたい放題に近い。
否定も面倒で放っておいたが、まさか此処に帰結するとは思わなかった。会社の前で車に乗せただけだ、ある意味互いの家に行って朝帰りな訳だが話題的にそこまで見られてはいない。
「恋人じゃないし、そういう女性はいないんだけど。…と言うより、サチを飼ってるって知ってるのも本当に君だけだよ。気付いたのも君だけだし」
「まあ、私なら心配はいらないと言われていたので、兎云々は気付かれていないと思いますよ。そこはご安心下さい」
やはり自分の見る目など無かったのだと思って居るが、本日何度目かのそれに殆ど楚良の表情は変わらなかった。
一條からすれば残念そうでも怒りでもなく、ただ事実を事実として告げている様に見える為に彼女が何を考えて居るのか悟りがたい。もう少しうちの兎の様に不機嫌を露わにしてくれないかとは考えたが、それを知りたいと思ってる時点で、もうこの感情が何かなどどうこう深く考えるまでもないと過ぎった。
「サチに会いたいならいつでも連れて行くよ。家に早く帰ってるのはサチと過ごしたいからだし、女性云々って事ではないよ。…勿論、君が家に来るのを許してくれればだけど」
「本当ですか?一條課長は本当に優しいですね」
彼女の言葉には間違い無くさっちゃんに、が付くのだろうが。実際彼女の兎には自分も会いたいし、二匹が並んでいる所なんていうのは中々見られないし、他の兎と仲良く過ごしているのを見れば頬も緩む。
その横で彼女が楽しげにそれを見つめて居るのもだ。
「じゃあ、そうですね。――――……食事を、作っていただけませんか」
「ん?食事?食事を作ってくれ、って言ったの?」
彼女の家で眠った日はそれこそ夢も見ない熟睡だったし、抗えない眠気なんていうのは久しぶりに感じた等と思い出していれば、彼女の声が耳を滑って一瞬言葉が意味を持って入って来なかった。
「そうです。さっちゃんを迎えに来るついでにとか、遊ばせに来るついでで良いので。家でゆっくりしたいのですが、帰る時間があの有様なのでスーパーは閉店してるか、開いていてもお総菜は全滅の時間です。疲れている時はレンジでチンも面倒臭くて。……たまには手作りの温かい食事が何もせずに出てくる現象に巡り会いたいです」
これは冗談の類いなのかと思ってその姿を見下ろしてみれば、深く溜息を吐いて切なそうな顔をした彼女に冗談ではないと何となくでも理解する。
食に興味は無さそうだったが、それは状況がそうさせているのか。
「それで、僕に作って貰いたいって?」
「一條課長の部屋のキッチンで水道を使わせてもらった時、本当に綺麗に片付いていました。物が無いというより、ちゃんと使われている方向で綺麗だと。もしそこを管理しているのが女性で無ければ、一條課長は料理上手だと思ったんです。朝ご飯もとても美味しかったですし――――…違いましたか?」
「いや、料理は好きだし得意な方だけど。どこかに食べに連れていって欲しいとかじゃなくて僕の料理なんかでいいの?」
本当に彼女は勤務形態的に自分で料理をという余裕は無さそうだし、彼女の家のキッチンは彼女の言葉を借りるなら使われていないから綺麗、という方向のキッチンだった。
彼女はあの僅かな時間で自分のそれとの違いを悟るのか、人も場所も良く見ている。
「家でゆっくり食べられるならそれに勝る物はありません。準備も移動もせずにお腹いっぱい兎を見ながら食べられるなんて至福です。すき焼きが食べたいです」
黒い瞳がどうですかとばかりに見上げて居て、これは心底願っている顔ではないだろうかと思った。
見下ろす位置にある顔は本当に迷っている風には見えない。
「すき焼きね、良いよ。今日でもいいかな?サチを迎えに行こうと思うんだけど」
「今日ですか?…んー…戻りが22時を過ぎそうな予感しかしないんです」
「明日土曜日だし僕は大丈夫だけど、デザイン課は土日関係無いよね?」
「多分出社になると思います。課長が恩赦をかけて下されば休みですが、望み薄ですね」
泣く程仕事をくれてやるとか言われたと、一條の顔からまた窓の外へと目を戻した楚良が吐息が掛からない程度に溜息を吐く。
「スーパーが開いている時間に帰れそうに無いので…アレですよね」
「別に遅くなっても構わないよ、僕は。材料だけ先に買っておいてもいいし」
やっぱり良いですとでも言われそうな雰囲気があって、先んじて彼女の反論を封じてみればやや迷った後に、彼女が胸のポケットへと手を伸ばした。
ちりん、と小さな鈴の音がしてそこから兎のキーホルダーが引っ張り出される。彼女は会社でも兎好きとして定着しているし、デスクにはもらい物のグッズが溢れているのは少し羨ましいと思っていた。
「では、うちで作って待ってて貰ってもいいですか?鍵は預けておきますので」
ちりんと鳴ったそのキーホルダーが黒い鍵まで繋がっていて、それを差し出した彼女からまたとんでもなく警戒心の無い言葉が漏れる。
揺れる兎はポケットに収まる小さなプラスチック、二本足で立っている兎が可愛らしく彼女が持つのに相応しいんだろう。
「――――……空木さん、ね」
告げれば何ですかとばかりに首を傾げられ、それがそれこそキーホルダーの兎によく似ていて溜息が漏れる。
この溜息は本当に許して欲しい。絶対に自分でなくてもそうした筈だと一條が思った。
「あんまり知らない人に鍵とか渡したらダメだよ?」
「さっちゃんのパパですし、互いの家にも行き来しましたし、余り知らなくも無いと思ったのですが…」
「羽柴とか鳴海にもこうやって鍵とか預けたりするの?」
「課長と主任の家には入る用がありませんし、料理が出来るかどうかさえ知らないのでお願いしたことはないですよ」
どうして仕事と兎の話にはあれ程流暢に話して洞察力を発揮するのに、自分の行動にはこうしてとんでもない事をしでかすのか。
下ろさせようとした一條の手はしかし、鍵へと触れればそれを止めた。僅かな迷いの中ではあったが、やがて鍵を包み込む様にして受け取れば小さく手の中で音がする。
「僕以外にこんなことしちゃダメだよ?誤解されちゃうから」
「一條課長は無類の兎好きですから、分かって居ますよ」
そうだがそうではないと否定したい、もう本当にサチの飼い主としてしか見られていない。それでも多分嬉しいのだ、説教したり言い訳したりしてみても、彼女に信頼されていたり信用されていたり、特別扱いされているのが。
もし羽柴や鳴海、名も知らぬ様な男に同じ様にしていると聞いたらきっと微妙な気分になるんだろうとさえ思う。
「あ、すき焼きに大根って入りますか?」
「大根?大根ってそのまま?」
「下ゆでであく抜きをして入れます。割り下を多めに入れると吸っておいしいんですよ。大好きです」
ふっと笑った彼女の顔は紛うこと無く一條の方へと向いていて、うん、と一條が反射的に頷いた。
「余り入れた事はないけど後で調べてみておくよ。苦手な物とかはある?」
「納豆ですかね」
「うん、それは入らないから」
「じゃあ大丈夫です。一條課長も一緒に食べるんですよ、絶対美味しいと思いますので」
彼女から預けられた鍵をスーツの内側へと滑り込ませて、落ちない様にしっかりと納めた。
胸元に彼女の家のキー、自分などサチの飼い主だとしか認識されていないというのに、少しでも彼女の生活に近づけたのだろうかと思えば思わず口元が緩むのが、自分でも信じられない。
彼女には何が喜ばれるのだろうか、彼女を助ける為には何をすればいいのか、彼女が疲れを癒すためには。
上から見下ろすその表情はまたサチを迎えにだとか、サークルは届いたのかとかそういう事を聞いている。とりあえずは彼女の好みの食事を知れたと思えばその言葉にただ頷き、隠しもせずに一條の唇に笑みが浮かんだ。
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