第11話 前
服は私服だし髪だって一つに結んだだけだし、化粧は兎が嫌がるからそれこそ薄く付けているだけというのは化粧品メーカーの人間に会うレベルではないのではと、エレベーターの鏡を見ながら思った。
大体ゆるめの上にロングスカートが定番で、どれも兎が囓っても潜っても安心な天然素材である。
靴もスニーカーだし、当然名刺は手元にない。首元に真新しい社員証が掛かっているぐらいだ。
そんな緊張があったのに片手にスケッチブックがあるというだけで落ち着いてくるのは、自分にしてみても流石に末期だと思った。
廊下へとエレベーターが口を開いてそこへと下りる。正直この階に来たことは殆ど無い、来客用の応接スペースが並んでいてどちらかと言うと営業の方が使う場所だ。
その部屋の並ぶドアの前、今日は黒系のスーツだなと其方へと向けば直ぐに相手も楚良に気付いたのか、扉の前から離れて彼女の方へと距離を詰める。
「今日来ているのは2人、一人は前から交渉に立ってる向こうの営業部長の宮沢様で、もう一人は開発部の日下部様という女性、此方は僕も初対面」
扉へと入る前にという風に低めた声で告げられて、僅かに上向いた楚良が名前を記憶する様に頷いた。
一條の指が伸びて一瞬前髪へと触れる。跳ねていただろうがどちらにしろ構わない、それよりは今は恐ろしいと思うよりも早く会ってみたい。
「行ける?」
「行けます。色々と気になる所はあると思いますが――――」
「大丈夫。君はうちのデザイナーだから、自信を持って」
告げた一條が音を立てて扉へと拳を当て、直ぐに中から返事が返った。失礼しますと穏やかな声で扉を開いた一條が先に楚良を中へと通して、失礼しますと楚良も深く頭を下げる。
ふわ、と、部屋の中の空気が動いて本当に良い香りがすると思った直後、顔を上げてみれば眼前に美しい金色の髪が見えた。
「びっくりした、本当に若いわ。高校生?アルバイト?誰かの娘?」
「――――日下部」
その青くて大きな瞳が楚良を殆ど真上から見下ろしていて、最初見えたのは胸あたりに垂れていた髪の毛。そのまま上向けばやっと顔、一條程とは言わないが女性にしては背が高くそもそも日本人にさえ見えない。
その後ろから呆れた様な声が掛かって伺ってみれば、壮年の男性が頭を抱えていた。
「突然押しかけた上に弊社の社員が――――」
「社員証が新しいけど、外注者だったりするの?大丈夫?喋れる?今日無理矢理連れてこられたんでしょう?」
「日下部」
おそらくは一條が言う所の宮沢が一歩前へと出て、日下部と呼ばれた女性の肩へと手をかけてみたが全く動じた風がない。
これは、紛うこと無くあの香水の開発者だと確信した。
宮沢の方へと軽く頭を下げて、一條の方へとちらりと視線を向ければ流石の彼も虚を突かれている様だった。
「営業は営業同士で話しておけば良いでしょう?…でも名刺交換から始めた方が良かったかしら、日本式の方が話しやすい?」
「いえ、大丈夫です。済みません、実はまだ名刺が出来ていません。空木楚良です、宜しくお願いしま――――」
す、というより先にその女性の胸へと顔を押しつける様に抱き寄せられて本当にどうするべきなんだろうかと思う。
この挨拶は海外式という所だろうか、多分身長差のせいで全然スマートにはならない。
「本日は」
「彼女は営業職ではないと聞いたわ、私も違うし堅苦しいのは不要よ。ねえ、高校生?」
「だから不躾だぞ、大人しくするという約束だっただろう?頼むから黙っててくれ」
多分この人は色々と苦労しているのだなと楚良には直ぐに分かったし、日下部は確かに不躾かもしれないが、それを許されるだけの能力があるのだろうという事もよく分かった。
きっとこれは日本では受け入れられないだろうに良く連れてきたな等と一瞬思ったが、そう言えば彼らはクライアントであり依頼者である。金を出す方ならば、寧ろこの位弾けていてくれた方が楚良にしてみれば道理が通っている。ただ。
「空木は成人しています、――――…その、少し腕を緩めて頂けましたら」
流石にこの状況は一條にも予想外だったのかと思うが、代わりという風に告げた言葉に日下部の瞳が胸の方へと向いて、そこでやっと気付いた。
身長差のせいで完全に胸に埋まっている空木が喋れる様な状況ではない。するりとその後頭部と背中から手を離してみれば、やや背伸びした状態だった空木が、はっと息を吐いた。
「大変失礼をしました。社員証は今日新しいものに交換しましたが、弊社社員で間違いはありません」
「本当に?脅されて言わされているとかじゃないわよね?……じゃあ後はあちらの若いお二人に任せて」
「日下部、連れて帰ろうとするな。済みません、開発の人間を連れて来たのはやはり間違いでした」
「お気になさらず、製作者同士にしか分からない感性はあると思いますから。どうぞおかけ下さい。…出来れば空木を返して頂いても?」
一條の言葉に酷く不満げな顔をしたその女性が、自分の横へと押し込めようとしていた空木の腕をやっと離して大人しくソファの端に腰掛けた様だった。
流石に彼女達二人に並ばれて、営業二人が横並びというのは無い。
歓待されていると思って良いのだろうかと思いながら宮沢が座るのを待ち、一條へと顔を向ければ二人の正面、日下部の側へと勧められた。
失礼しますと断ってからスカートの端を捌いて座れば、にこりと金髪美女に微笑まれる。
「本日は弊社にどういったご用件で」
「御社に対して大変失礼だとは理解しているのですが――――此方の日下部が、このデザインを描いた人間は外注者だ、と言い出しまして」
は?と間抜けに口から零れるのは一條からも無かったし、楚良からもまた無かった。しかし、言われて居る意味に思わず二人が同時に首を傾げたくなったのは許して欲しい。
「契約上外注も問題なかった筈だと記憶していますが」
「まあ建前は。ですが、此方もサンプルを出していますから。連絡も無しにそんな事をされてはと」
つまりそれは、と、一度楚良がゆるりと瞬けば憮然としたままの日下部が足を組んで、ソファの背もたれへと深く凭れた。
「4度も綺麗に騙されてたのに、いきなりあんな絵を出してくるなんて怪しいわ。今日も出し渋られたし、社員証も真新しくてこんな若い子なんて」
「先ずは先方に確認を取りたいと言ったんですがその前に飛び出してしまいましてね。出来ればオフレコでお願いしたいんですが」
「其方はご安心下さい。間違い無く弊社社員ですし、誤解させてしまう様な仕事をしてきたというのは此方の落ち度ですから。…ただ、――――それは、今回はご満足頂けた、と思っても?」
この流れは本当にあれが気に入られたと思って良いのだろうかと、楚良が傾げた首の端から纏めきれていなかった黒髪がさらりと滑る。
それを見透かした様に一條が問えば、一度正面の二人が瞳を合わせた。
「何でこんなに時間が掛かったの?空木が感じた私の香りって、最初からあの形?そうじゃないならどうやって?」
宮沢が何か告げようと口を開こうとした瞬間隣の日下部から声が降って、しかし今度は楚良は驚かなかった。
脇に置いてあったスケッチブックを一度膝の上へと置いてふっと息を吐き出して思った、此処からはそう、製作者同士の話になると直感で悟る。
「もし何も情報がなければ、…いえ、あの4回が無ければ私にはたどり着けて居なかったかと。私が最初に感じた香りも黒です、真っ黒、漆黒、私には深すぎて覗き込むのも躊躇する様な」
「ならどうして?あれが、重なり合う色だと分かったの?このデザインはそういう事だわ」
組まれた足に手を置いてやや前傾になる様になった日下部が、傍らの鞄から紙を一枚出して皆の中央へと置いた。
殆ど修正の手が入っていない、しかしそれは朝まで掛かって自分があの香水を表すならこれだと思って捻り出したそれ。
「NGへの指示は具体的でしたから。特徴を捉えられていない、本質とは違う。でも私たちは皆が同じ様に黒だと感じた。――――皆が黒だというものは黒です、ならば色が違うのではないと」
「それだけ周りを信用してるってことは本当に此処の社員なのね。予想が外れるなんて信じられない」
だから言っただろと宮沢が呆れた様に呟いたが、日下部は本当に、心底悔しげでもある。
彼女は本当にそこを疑っていたのかと一條の瞳が僅かだけ細まり其方を見つめた。
確かにあのままではこの仕事は諦めざるを得ない様な状況だったから、突然全くテイストの違う絵を出してくれば驚くだろう。
突飛を狙ったものは全てぎっちり締め上げられる様に怒られた。手詰まりからの打開を狙って羽柴を説き伏せた理由がそれだが、本当にそれが膠着状態を動かしたのか。
「じゃあ何故モチーフにこれを選んだの?私、本当は海とか宇宙とか、深さや遠さを感じさせるそういう物だと思ってた。私の香水はそれだって、理解したら最後にはそれが出てくる筈ねって宮沢にも言った」
彼女の指先がその紙の横へと自分のスケッチブックを広げておいた。そのイラストは昨日、一條も見ている。彼女が一晩で書き上げたという様々なモチーフがそこに記されていて、日下部が瞳を輝かせてそれを膝元へと引き寄せた。
「きっと――――日下部様には、此方のスケッチブックの拙いものでも全てが理解できると思います。多分宮沢様もですし、日常的に香りに詳しい人ならば重なり合う色を見ただけで、連想し、その仕掛けを知り、興味を惹かれると思うのです」
普通自分の考えをクライアントに告げる時等と言うものは、躊躇があったり迷いがあったり、勿論言葉は選んでいるだろうがそういうものが垣間見える。
それは当たり前だし、どんなに凄腕の営業でも相手の要望を引き出し自分の要望を伝える為に、あえてそれを狙ったりもするものだ。
だが楚良の言葉には躊躇がない、それこそ顔には出ないが突拍子も無い事を言い出す相手の開発にペースを乱されているとも言って良い自分より、余程流暢に言葉が紡がれていると一條は思った。
「しかし香水という物の知識に乏しい人、そもそもそれを嫌っている人、縁遠い人達にとっては、重なり合う香りというのはどういうものか分からない。それは鼻につく香りではないのか、重たい香りではないのか、どんどん謎は深まるばかりだろうと思ったんです」
それこそ今この場所に居るのは普段から香りに慣れている者達ばかりだと楚良は判じた、見る目は皆無だが兎の為に成分に気を遣っている自分も含め。
だが陰島や彼に香りを選んだ女性達はどうだっただろうか、と、そこへと過ぎったのがこのデザインの発端だ。もっともっと、この香水を作った者達の願いや思いが、彼らへも届けば良いのにと。
「素人が見れば分かりやすく華やかに、しかし玄人が見れば唸る様な。その人だけに設えられた香りが、それに意味を見いだす人の力になる様に」
儀礼用の剣ではなく、日常的に身につけられない甲冑でもなく、彼女が紙に表しているのは一振りの刀だった。
様々な色はシンプルな黒鞘と柄の合間へと波の様に集約しているが、その刀身は見える事もなくただ間違い無くそこに存在している事を思わせ、今にも抜かれそうだというのに決してその形は見せない。
黒は匂い立ち、垂れる様な、色気すら感じるデザインはこのモチーフ以外にはあり得ないと思わせる程似合いだった。
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