第30話
「お前、少しは食べたのか?」
「出勤してまず聞かれる事が食事の心配というのは、社会人としてちょっと異常だと思うのですが」
「能書きはいい、少しは体重が戻ったのか」
「昨日の今日で戻ったら怖いでしょうが。羽柴課長はどうなんです?昨日は眠れたんですか?」
机に鞄を置いた瞬間に課長席にいた羽柴に声を掛けられて、思わず半眼となった楚良が溜息を吐きながら自分の身体を見下ろした。
毎日体重計に乗るタイプではないので自分の体重変化は服で判断していたが、当然そういうサイズ感は直ぐに戻ってこない。減る分には良いだろうと軽く考えて居たが、社会人になると減っても怒られるのか。
もうモデルなんてしてないから、好きに減れば良いのに。
「そろそろ俺も仮眠室を自宅申請した方がいい気がしてきた」
「寝具に拘らないと腰をやられますよ?寝る時間は1日で最も大切にすべきだと」
「ほっとけ。あと殆ど寝ないお前が言っても何の説得力も無いな!」
もそもそと楚良が鞄の中を探って赤いファイルを取り出し、羽柴の方へと差し出せば手を伸ばした男がそれを受け取った。
中身を見ればディスクが1枚、そして作業は完璧だった。
「これで一つ山は越えたか。お前、ちょっとマジな話家で仕事するのと、21時以降の残業は暫く禁止な。で、朝ももうちょい遅く出てきてくれ」
「もうちょいってこれ以上下げたら昼ですよ。新人が重役出勤というのは」
「週休三日とどっちがいいんだ?」
羽柴が椅子に座ったままで視線を投げれば、楚良がいつも通りファイルの片付けなどをしつつ、其方へと顔を向けて酷く困った様な顔をした。
これが休みを取りたいのではなく、取りたくない方面で悩んでいる顔とは他人には思えまいに。
「どっちもいやです…と我が侭を言いたいところですが、勝手が分からないせいでご迷惑をお掛けして済みませんでした。暫く時計も気にしてみます、みなし残業分ぐらいは認められますか?」
「お前前園の所に2ヶ月しかいなかった癖に場慣れしすぎだろ…」
「新人は作業スピードが遅いので残業しないと間に合わないでしょう?」
違うんですかと言わんばかりに首を傾げた楚良に、おそい、とまるでオウムの様にぎこちなく羽柴が繰り返す。
前園の所を社員が逃げ出したのは絶対このせいじゃないのか。一体どれだけの作業を熟していたのか予想もしたくない。
「ある程度お前の仕事は俺が管理してやるから。良いか繰り返せ、お前の仕事は遅くない」
「何がです…」
「良いから繰り返しとけ。おそくない」
「おそくない」
何だこれ、と思いながらも楚良が繰り返せば何故か羽柴には満足された様だった。新人相手に皆が色々と教えてくれているし、その分皆の作業も遅れていると思うぐらいなのだけれども。
「まあ暫く営業も抑え気味だろうしな。新しい奴が入ったらしいぞ?羨ましいな」
「そう言えばデスクが一つ片付いていましたね。此方には入らないのでしょうか、私が新人から解き放たれる未来は」
羽柴と言葉を交わしながら雑務が終われば、昨日早くに上がった分を片付けようとデスクにつきつつ、メールを開く。
営業部のデスクには電話番さえいないのはどういう事だろうか、皆で早い昼食でも取りに行ったんだろうか。
「お前はもう新人じゃないだろ。この間人事部長に回ってるし問題ないだろって言われたんだよなあ…」
「隣の新人さんが最初から使える人だと此方が回らなくなるのでは?中途採用という事はその可能性が高いでしょう。そこから増やそうにも人の教育は結構時間が掛かりますよ」
「割とお前が最初から動けるのが悪いんだ。空木を受け入れてやっただろとか滅茶苦茶得意顔で言われたんだが」
「わあ。責任をとって明日辞表出しときますね」
「勘弁してくれ、今更お前が居なくなったら俺が死ぬ」
光栄ですとメールを見ながら彼女が笑っているのが視界の端。割と本当に彼女は掘り出し物だったから太く長く使って行きたい。
当の楚良は名指しの依頼は流石に早退した日は無いのだなと思いながら、進捗表とのズレを修正し、小さく息を吐いた。
「そう言えば皆さん今日は遅いんですか?」
「ああ――――営業の新人がちょっと見たこと無いぐらいの美形でな?」
「女性ですか?」
「いや、男だ、つまらんことに」
人の顔につまらないとは何事だろうかと思いつつも、部署を見回せばデザイン課の方も人が消えている。
「見たことがない位の美形で?」
「一條とはタイプが違う方だぞ。中性的というか兎に角お綺麗なツラって奴だ。で、皆そいつについて営業と一緒に昼飯食ってる」
男性なのに珍しいと思いながら、そこで鳴海もいないのは本当に珍しいと思った。彼はそういうのは好みではない様に思ったが。また羽柴に無理でも言われたんだろうか。
「鳴海さんがそういうのに出るなんて珍しいですね」
「全員俺の代わりに無理矢理行かせた」
「嗚呼、やっぱりそうなんですね…。そろそろ鳴海さんが辞表を出すのでは」
「お前が来て一人だと可哀想だろ。昨日の事もあるしな」
いやべつに課長じゃなくて鳴海主任がいいですと失礼極まりない言葉をかけたが、いつもの分限よりソフトだったせいか肩を竦められただけだった。
もう少し刺さることを言わなければならないのだろうか。
「そんなに美形だと課長はモテなくなりますね?」
「お前ならそう言い出すと思った。俺はそもそも時間も無いんだ、放っておいてくれ。もう他の部署の女が取り合ってるらしいぞ」
「何を取り合うんでしょうね…?」
本当に不思議ですねと楚良が軽く溜息を吐く。例えばその新人が無差別に声をかけて、その女性達が彼女の座を取り合っているなら兎も角、彼女になるかもしれない権利の取り合いというのは空しくならないのだろうか。
「まあ営業なら顔がいいのに超した事はないだろ。お前、もしこっちに新人入れるならどんな奴がいい?また見るのは鳴海なんだろうが」
羽柴からの仕事を開きながらペンタブを右手に持ち替えた楚良が、画面へとその意識の大半を傾けながら、そうですねえ、と小さく呟く。
「残業と徹夜に躊躇の無い人間ですかね。能力なんてどれだけ高くても、それこそ課長レベルでも圧倒的に時間が足りないんですから、自分の得意分野だけ把握していれば良いのではないでしょうか」
「珍しくお前に褒められたな?明日は雨か?」
「はいはい、今日は夕方から雷雨ですよ。後はまめな人ですかね、神経質なぐらいで丁度いいかと思います、鳴海さんの下なら」
どんな作業スピードでも物量には耐えきれないというのは、羽柴と鳴海を見ていればよく分かる。本当に上の方は羽柴達の能力を過信しすぎではないのだろうか、この上営業に人を入れて仕事の数が増えたとして、収まるんだろうか。
「お前は新人の胃を潰しにかかるタイプなのか」
「鳴海主任は人を見て対応する方だと思いますよ。でなければ私の机に兎のアイテムは増えていません」
一番新しく彼から強奪、もとい承った兎のキーホルダーをペンの尻尾で叩いた楚良が言葉をかければ、まあそうかと羽柴から肯定が返された。
まあ彼女にそうは言ってはみたが、楚良を入れて机はぴったりになったし、スペース的に新人を雇う余裕は今のところ無い。営業の方に机を伸ばせば別だが、あの空白は守っておきたいし。
本当に自分が楚良を引っ張ったのは賭けの様なものだった、彼女が使えない人間なら営業に人が増える事も無かっただろう。寧ろ逆だったせいであっちに人をなんて話になったんだろうが、結局は今のメンバーが安定しているし能力的にもマックスだろう。
「時間は限られますが私に出来る事があれば何とか詰めてでもやりますので言って下さい。多分課長が出来ると判断した事は出来ると思いますので」
「お前の能力を当てにして仕事をすると、お前にしわ寄せが行くからな…?」
「能力なんてありませんよ、ちょっと徹夜が得意なだけです。課長がストレスで毛を抜いて丸ハゲになって、これ以上女性にもてなくなるのは見ていられません」
さめざめと泣いている様な台詞だが、全く態度にも表情にも声色にさえ現れていない。
「これ以上ってどういう意味だよ」
「まあ、本音を言うと月末に纏めて泣きつかれると困ります」
「本当にすまんな!?」
痛いところを突かれたと羽柴が思わず声を上げて、また楚良の笑い声が重なった。全く彼女が言うとおりで、結局彼女から仕事を取り上げたとしても、抜けがあれば彼女の手元に戻ってくるだろうというのは変わらない。
それが自分達のミスならまだいいが、営業部のミスまで羽柴は面倒を見切れない。それが故に今回の増員なんだろうが、彼女の残業時間が先月末に突破したのは殆どが向こう側のミスで戻って来た分のせいだ。先回りして彼女が抑えればこうはならなかったのかもしれないが、もう何だかどちらにしても彼女が割を食う気がしてならない。
「結局全部間に合ったので良かったです」
「Chevalierがついに香水だけじゃなくて化粧品の方も頼んできたんだろ?」
「まだ確定ではないですよ、新ブランド立ち上げで日下部さんが相当苦しんでいるらしいです。この間レトロに手紙が届きました」
「どこに?」
「自宅です。殆どプライベートな内容だったので報告は避けましたよ」
あの明らかに日本人ではない外見に似合わずと言って良いのか、可愛らしい桜模様の便箋に香しい香り。兎が心惹かれて寄ってきた程で、冬に似つかわしくないと思っていたのに少し甘みを帯びた香りはその便箋に良く合っていた。
「お前は本当に気に入られてるな?」
「心配されているのかもしれませんが。…香りに色を感じるか、という様な事を聞かれましたね」
「教えてやったのか?」
「音にも香りにも、言葉にも色を感じると。一般的な話しかしていませんよ。手紙というものは良いですね、時間の流れを感じます」
雅ですねと彼女が告げてその手元が勢いを付けて動いている様に見え、自分も仕事をするかと羽柴がマウスを握りながら時間ねえ、と呟いた。
本当に圧倒的に時間が足りない、今なら低レートでも飲むから悪魔でもなんでも現れて欲しい。
「嗚呼、空木。帰ってきたぞ」
何がと羽柴に聞かずとも部屋の中へと幾つかの声が響いて、一気にその辺りが騒がしくなる。女性の声に混じり合う様に一條の声が聞こえ、じゃあ午後も頑張ろうねといつもの様に声を掛けているのを画面に瞳を向けたままで聞いた。
その、次の瞬間。
その、合間に。声が――――。
はい、と皆が元気よく声を上げるのに合わせる様に聞こえた声に、視線は画面へと向けられたままで、楚良は息が止まるかと思った。
「アイツだ、あの真ん中の」
羽柴の声が上滑りする。彼奴というのならその声の主だろう、少なくとも昨日まではその声は聞こえていなかったから。
他人のそら似、ただそっくりな声だという事を望みながら、一瞬だけ視線をモニターから上げて、それこそこの場所で息の根が止まって死んだ方がマシだと思う。楚良にとって、その声と姿は。何故その男が此処にいるのか、と。
「空木?」
「ああ、いや、本当に綺麗な顔の方ですね、驚きました」
口から滑り出た言葉に不自然は無い、無いと思っている。直ぐに返事が返って来なかった事に僅かに首を傾げた羽柴に、ひら、と手を振ってからまた彼女が画面へと瞳を戻した。
息苦しい、酷く。タートルネックの首元が締め付けられる様に感じて、その暑さに一度深く息を吸った。仕事を続けようと握ったペンが、かちりと小さく音を立てる。
「羽柴、ちょっといい?」
問いかける一條の声が耳へと入り、そして楚良の瞳が僅かに細められた。羽柴が座ったままで、おー、と間延びした声を掛ける。
「今日からこっちに入った勅使河原君。後でちゃんと紹介するけど、暫くは手間も増えると思うから先に紹介しておくね」
戻って来た皆が席に着く中、羽柴の隣に立って居るその男は視線を向ける必要もない程の距離。
「嗚呼、宜しくな。余り仕事を振ってくれるなよ、寧ろ仕事を減らしてくれ」
「ご期待に添える様、やらせて頂きます。宜しくお願いします」
その声に淀みも無く、楚良が顔を上げれば男の瞳は此方を向いていた。その僅かに浮かんだ笑みも僅かも変わることはない。
それで分かった、この再会は偶然などではないと。
「お前らのミスを何とかするのはそこの空木なんでな。女神に迷惑を掛けてくれるなよ」
羽柴のいつも通りの台詞僅かだけ男の瞳が笑みに細められた。その瞳は人を嗤っているかの様で楚良は好きではないが、女性には滅法人気のある顔だ。
「宜しくお願いします、空木さん。ご迷惑をお掛けしない様に、頑張りますね」
「此方こそ宜しくお願いします。何かご協力出来る事がありましたらご遠慮無く」
自分が上手く笑えているかよく分からない、ただいつも通りに唇の端を引き上げて、軽く目を伏せてから頭を下げた。
此処が職場だというのは寧ろ助けなのか、そうでなければ表情は無くしているだろうし、こんな風には動けない。嗚呼、まさかと硬直するのが関の山だろう。
再び顔を上げてみれば、その顔はやはり嗤っている。
「じゃあまた後で。行こうか」
一條が水を向けて、身を翻した男が去って行くのに楚良は喉の奥に詰まっているかの様な吐息を緩めた。
「な、言っただろ。お前、ああいうのが好みか?」
「どこをどう見たらそうなったんですか」
「珍しく、見つめてただろ」
「じゃあ今度は5時間ぐらい課長の顔を見て過ごしますね。別に好きではないです」
開いたファイルへと目を向けて、落ち掛かったペンを握り直して、何とか仕事をこなさなければと思った。
文字が瞳を滑って耳から零れていく様で、全く頭に入ってこない。
「――――木、空木」
絵を描かねばと画面に向かっていたその耳に、正面から大きな声が掛かってはた、と瞳を向けた。
見れば周りのデスクの人間も気遣わしげに楚良の方を見つめている。
「ぼんやりするな、メールを確認しろ」
「申し訳ありません、直ぐ確認します」
鳴海の声にメールの受信が光っている事にやっと気付いて、此は駄目だと一度大きく肩を揺らして深呼吸した。
あれに構っている場合ではない、完璧にやりきらなければ。付け入る隙の出来ないぐらいに、完璧に。
あの頃とは違うのだと瞳を画面に向けて、文面を追う。先程まで言葉さえ成さなかった文字達が、まるで水の流れの様に脳へと滑り込んできた。
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