第29話
「ん、空木さんのデスク片付いてるけど、早退した?」
「いや、仮眠室で休憩させた。ちょっと調子が崩れててな」
「――――そうなの?」
夕方近くに外回りから帰ってきた一條が、羽柴のデスクに寄った時にその机に座っている筈の彼女の姿は見えなくて。席を外しているというよりは綺麗に片付けられたその机は、普段手近な所に全ての仕事を起きたがる彼女には余り無い。
「兎が足りなかったんじゃないですかね。先月も100時間越えで酷かったですけど、最近休日もずっと会社だったじゃないですか?」
「だから今日は帰ったらどうだとは言ったんだがな」
部署内からその会話に答える様に声が上がれば、羽柴が溜息を吐き出しながら机を軽く叩いて背もたれへと凭れた。
一條がざっと最近の事を思い出してみる。そう言えば彼女の家に遊びに行っても入れ違いの時は多かったし、夕食を作っておいても少ししか食べていなかった様だから心配はしていたが、会社で見る彼女はそこまで調子を崩していなかった様に思う。
いつも食事を具体的に褒めるメッセージと、全部食べられなくて申し訳ないという風なものが送られていて、次に一條が訪ねる頃には綺麗に片付けられて。ただ少し前に電気錠のパスワードと、鍵を取り替えたから新しい合い鍵をと渡されたのを思い出した。
以前の鍵は紛失したのかと聞いたが、そんな所だ、と、珍しく誤魔化されたのが思考の端に引っかかる。
「あんまりそうは見えなかったけど」
「抱き上げてみたらスカスカだったんだ」
「――――……は?」
「いやそんな顔で見るな」
こう、と羽柴が腕で何かを持ち上げる仕草をしてみれば、一條がゴミでも見る様な目つきで見下ろしていて、ひらひらと視線を振り払う様に手を振る。
「女達が空木の腰がまた細くなったって騒いでたんですよ。で、羽柴課長がこう」
こう、とまたその男性社員も同じ仕草で腰を掴んで持ち上げる様な。
「Chevalierの仕事取った時よりかなり軽くなっててな。本人は大丈夫だって言うんだが最近アイツのペースもちょっと上がりすぎだったし、繁忙月に倒れられると困るからな」
あれ以上細くなるスペースなんてあったのだろうかとふと思いながら、彼女は自分の身体の管理はきちんと行っている方だと思っていたから意外に思う。それこそ食事には余り興味が無さそうだが、倒れれば兎が困るからという様な事を聞いた様な気がするのだが。
「全然表に出ないだろ?もういっそ空木の調子は体重で管理した方が楽だと思うんだが」
「それ間違い無くセクハラ。会社的には許されないからね?」
「いきなりぶっ倒れるよりマシだろ…」
想像したくないとばかりに羽柴が告げるが、彼女が毎日抱き上げられて健康状態をチェックされるのは一條にとって想像したく無い。大体兎でもあるまいし。
「私生活が荒れてるんですかね?それとも兎に何か不調が出たとか?」
「兎に不調が出たならそもそも会社に出て来ないだろ」
「兎が浮気でもしたんじゃないっすか?」
「あー…」
「あーじゃない。一応まだ空木は人間だろ」
「いつか人間じゃなくなるみたいなのは辞めようか。仕事はもう終わってるの?」
皆が彼女の不調を兎にしか結びつけていないのはもうある意味彼女らしいと思う事にして、腕時計を確認してから羽柴へと問いかけてみる。
微妙な声で唸った羽柴の様子を見れば、多分終わっているが次はあるといった所か。
「説得してみるよ。一度帰した方が気が楽でしょ」
「本人が大丈夫なら働かせたい状況ではあるんだが、まあ法務から流石に誤魔化しきれないとか言われたしな」
「そうなるよね。流石に年末に向けてこっちが荒れてたとか元々羽柴の所が酷いって言っても100時間超えた子なんて今まで見たことないんだけど」
「俺以外じゃ俺も初めてだ」
するりと赤いファイルを自分の机の前から引きだした羽柴が、一條の方へとそのファイルを向けて小さく吐息を漏らす。
それを受け取った一條が楚良の机の方へと向かって彼女がいつも使っている鞄に、机の上のスマホと音楽プレイヤー、そして筆箱などを手早く詰めていく。
「このファイル全部急ぎ?」
「やらなくても良いが目だけ通す様に言ってくれ。あのペースなら徹夜なんてしなくても充分終わる」
最後に赤いファイルを鞄の中に入っているノート型のPCの横へと入れながら問いかけ、それに羽柴が答えて了解と一條が頷いた。
本来説得だとか悩み相談なんかは産業医か何かに任せるべきなんだろうが、多分彼女が産業医に何かを話す事はもう二度と無いだろうし、一條も羽柴も話させる気はない。
じゃあ行ってくると一條が告げれば、デスクの各所から空木をお願いしますだのよろしくだの、休ませてくれだの言われるのはプレッシャーを掛けられているのだろうか。本人が大丈夫だと言っているなら説得は難しいとも思うのだけれど。
何とか残業時間の兼ね合いでの早退という方向で手を打ってくれないだろうか、と思いながらオフィスの扉を抜け、廊下の奥の方にある仮眠室へと向かう。もしかしたら眠って居るだろうかと、ノックもせずにドアノブに手を置いてそっとそれを押し下げた。
「そこまで嫌なら兎を連れて家を出たらどうだ」
「ですから嫌では――――…」
彼女のデスクの正面、そこに座っている人物がいなかったことにもう少し気を払えば良かった、と、その声が聞こえた刹那に後悔する。二段ベッドの並んだ部屋の奥、ベッドの隣の椅子に足を組んで座っていた男と、カーテンが僅かに開けられた二段ベッドの下の段。
彼女の姿は見えなかったが、声が止まって鳴海の瞳が一條の方へと向けられる。絞られた照明の中、その瞳が細められて直ぐに脇へと逸らされた。
「寝てろ」
鳴海が告げたのがその会話の終わり、僅かに開いていたカーテンを片手で閉じれば、レールを通る金属の音がする。
一條が部屋へと踏み居る前に奥の椅子から立ち上がった男が、足音を立てて部屋の入り口の方へと。すれ違う様に鳴海が部屋を出るそれに気付いて、先程までの会話が頭に過ぎった。
「……彼女何か言ってた?」
そのまま部屋には入らずに一條も一度外に出て、扉を閉じながらその背中へと声を掛ければ、ぴたりと足が止まって振り返る。
長身の一條よりも身長は僅かに高い、あまり二人で立って相対する事が無いから見下ろされるのは久々だと思いながらも言葉を待てば、その瞳が一條の手に持ったものを確認して鳴海の口から小さな溜息の様な吐息が漏れた。
「あとは任せる」
だから何と言う前にその男はもう話を聞いて居ないかの様で、再び身を翻した鳴海がオフィスの様に向かって去って行く。任せられても何をだと思いながら、ドアノブへと手を掛けて小さく一條が溜息を吐いた。
そこまで嫌なら家を出ろ、というのは何の事だろうかと思いかけて、一瞬部屋の中に入る事を躊躇する。
普通に考えれば彼女が兎の居る家に帰るのが嫌だなんて、その原因に心当たりは1つしかない。先程はしなかったノックを二度、そして扉を開いて今度こそ奥のベッドへと向かった。
「起きてる?」
「起きてます。…どうかしましたか?」
閉じていたカーテンが声と共に開けば、上半身を起こしている彼女の足には掛け布団が掛かっている。
いつもは上げている髪が解いて下ろされ、脇に彼女が愛用している髪留めが置いてあった。
「今日はもう帰る様にって」
「――――…私は体調を崩している訳ではないのですが、何故その様な」
「これ以上残業すると違法だからじゃないかな」
「ならせめて定時まで仕事をさせて下さい。残業はしませんから」
緩く首が左右に振られてまたその瞳が向けば、先程まで鳴海が座っていた椅子を引き寄せ一條が腰を下ろし、ベッドの上へと彼女の荷物を置いた。
自分の荷物だと気付いた楚良が手を伸ばして、そして中を確認すればまた小さく溜息が零れる。
「家には茶々ちゃんがいるでしょ?帰りたくないの?」
「それはそうなのですが」
「僕が訪ねて行くから帰りづらいっていうなら、言い辛いとかじゃなくて言って欲しい。君に我慢させてまで居ようなんて思ってないし、サチを盾に強請ろうなんて――――」
「いや、ちょっと待って下さいね。何でそんな一條課長が悪いみたいな話しになったんです?」
バッグの中に必要なものが入っているかいないかと、確認しながら告げられる言葉を聞いていれば、何やら悲壮にも聞こえる声色で横から声が流れてきて思わず眉を寄せた。
先程鳴海にお前が兎に会いたがらないのはおかしいとか、理由があるなら家が気に食わないぐらいだとか言われたが、その話の続きだろうか。
あれにはちゃんと理由はあるが、少なくとも一條が原因では。
「そもそも嫌じゃありませんし、寧ろさっちゃんが来て頂くのは嬉しいです」
「でもさっき鳴海と話してたよね?家が嫌なら兎を連れてって――――」
「あれは鳴海さんが言ってるだけですよ。私から嫌だと言った訳でもないし、茶々を移動してどこへ連れていくと言うんですか。あの家の主は茶々です、茶々が出ようというなら兎も角」
本当に何でそんな考えにいたったのかと真剣に楚良が一條に問うてみれば、とても微妙な顔をされて、また楚良が首を傾げる。一体誰が詰めたのかは知らないが、帰り支度が完璧だ。
「…サチと会いたいから無理矢理我慢してるとかはない?」
「さっちゃんと会わせてくれるなら何でも我慢できますが、それとこれとは別です。無いです。大体、
思わず一條が片手で口元を覆って目を逸らしたのは、楚良から言えばどう見たって図星のそれだろう。
沈黙は彼の気まずさを表すのだろうが、本当に何でこの人は嫌がられるなんて思ったのだろうかと脳裏。食事も作ってもらって、兎の面倒も見てもらって、どう考えても面倒くさがられるのは自分の方だと楚良は思う。
一條に言わせれば相手に少しでも嫌われたくないだとか、不安になるというのは、それこそ好意の有無であるのだけれども。
「僕じゃないなら、君が家に帰りたがらない理由って何?最近食欲も落ちてるし」
「家に帰りたくない訳ではないですよ。普通に帰ってます。……食欲は、…まあ季節柄」
「もし茶々ちゃんが同じ割合で体重減らしたら、季節柄で片付けられる?」
元の体重は幾つだったかと思いながらも、漠然とした数字を頭の中で割ってみた。殆ど考えずにその眉が潜めれば、そうでしょ等と一條に言われて反論も封じられる。
確かに茶々があの数字で体重を減らしたらそれこそ会社なんて行かない。
「一つだけ、お聞きしたい事があるんですが…」
楚良が珍しく自分から声を上げて、一條が一度瞬いて顔だけではなく椅子ごと楚良の方へと向き直れば、ベッドの上にいた彼女が一度軽く息を吸った様だった。
聞く、という明確な姿勢は言葉以上に説明が不要で流石の楚良もそれが分からないとは言わない。
「私のその…健康状態に関わる事、は、一條課長にとって関わりたい事なのでしょうか。残業は兎も角として、私は重要な仕事は絶対に穴を開けないと言っても?」
一瞬どういう意味で、と聞きたいのは楚良ではなく一條の方で。彼女の言葉を聞きながらふっと首を傾げてみる。
「仕事に関係なければ放っておいて欲しい?」
「いえ、私の――――事ではなく。純粋に一條課長が知りたいかどうか、という事を聞きたかったんです。…その、両親の話もそうですが、聞いても何か利になることは無かったと……思うのですが」
ああ、また彼女が言葉を選んでいると思えばその顔へと瞳を向けた一條が、軽く息を吐き出した。彼女は本当に人付き合いが下手だと思うが、友人等と言うのは本当に小さな頃から居なかったのだろうか。
そうなら単純に、心配しているだけだ、というのは伝わろう筈なのだが。それともその他人が向ける感情に無償のものは無かったのか。
「もし僕が純粋な興味だよって言ったら、好奇心で関わらないで欲しいって思う?」
「いえ、もし聞きたいというのなら話す事は構わないのです」
楚良が質問に即答とも言える速度で答えたのは、迷いもなくはっきりとしていた。しかし、その後に続く言葉にはまた僅かに間があって、視線が手元の方へと落ちた。
「ただちょっと…家族の話と同じで、――――話すのに少し勇気がいるんです」
本当に彼女には珍しい物言いだと思った。それこそ彼女が迷うときには他人にどうこうという事が多くて、自分の事を話す事に殆ど躊躇はなかったと記憶している。
両親の話も話すまでの間はあったが、話すと決めてからはこんな間さえ置かなかった。
「言い辛いってこと?」
「両親の話以上に、ちょっと言い辛いんです。それでも聞いて下さるというなら、少し時間をくれませんか」
流されるか、断られるか、誤魔化される事はなくともその反応はあり得ると思っていた一條にそれは意外な申し出だ。
勇気、というなら自分が恥を掻く様な事か。そんな事で体調に直結する、というのは一体どういう事かと軽く一條が首を傾げた。
「話す事で君が傷つく様な事なら、話す必要はないよ?」
「いえ、色々と纏める時間が欲しいんです」
告げる彼女の言葉はいつも通りで、その表情もいつも通り。だと言うのに何故か一條にはその台詞に違和感を感じて、分かったと告げるまでにやや間があった。
いつの間にか彼女のその僅かな差さえ悟れる様になっていると思うと同時、なのに彼女が今何を恐れているのかが分からない。楚良は勇気と言った、誰かが傷を負う訳でもないのに、勇気とはどういう事なのだろうか。
それでも彼女が話すと言ってくれたのは信頼なのか譲歩なのか。今日は帰りますと自分の要請が受け入れられたのがまた少し後の事。
言葉を失っていたと気付いた一條が立ち上がろうと足を下ろした彼女に、遅れて手を差し出した。
大丈夫ですよと笑みを浮かべた彼女が、その手を取る事はなかった。
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