第28話
定時出社。この会社のデザイン課に置いてその単語は修羅場と同意である。
大抵は10時頃に皆がぼちぼちと出社し始めて、昼までに出社しておけば良いという勤務形態で、楚良は10時15分を目指していていつも羽柴の次だ。
課長である羽柴は一番最初で、一番最後。上司が残りすぎると帰りづらいなんて良く言われるが、課長があの性格のせいで皆帰れるときには容赦なく帰る。
楚良が会社につけば先ずは荷物の整理と手洗いうがい、それを終えて戻ってくればメールの確認、そして共用部分の片付け。夜の合間に使って適当に詰められた資料を確認し、ファイリングをし直してラベル分けしながら片付けておき、古いものと差し替えておく。
その後は各のデスクの個人用のゴミ箱を片付けて回り、一応軽く中身を確認。書類の他に何故か消しゴムやら真新しいメモ帳やらが紛れ込んでいるのは、修羅場の余韻だろう。
「空木さん、これついでに捨てておいて貰って良いかしら」
隣の島から声が掛かって、この時間に彼女が残っているのは珍しいと思いながらその小さな袋を受け取った。瓶と缶とペットボトルが纏めて入っていて、昨日宴会でもしたのだろうかと思う。
あの旅行の後暫くして、デザイン課のオフィスが移動した。ガラス張りの壁の向こう、大きな窓の広いフロアの営業部の隣に。今までの部屋は人数を増やした企画部専用の部屋になっていて、本当に何だこの配置と思う。
どうも上の方がChevalierの件で積極的にデザ課の人間が営業課の人間と組んで営業をかけたとか、密に連携を取ったとかとんでもない情報が出回ってそうなったらしいが、現場を知らない人というのはそんなものなのだろうか。前園社長の様に横で仕事すればいいのに。
羽柴が絶句して、上はそこまで馬鹿だったのか、と本心から呟いていたのが印象的だった。自分もそう思う。
「空木、写真系に強い印刷所の資料くれないか」
「データと紙とどちらが良いですか?」
「紙、あと――――…あー、だれだかの名刺」
「氷室さんですね。メールが届いていて、明日までと言われたので出しましたよ」
「何でお前に直接言うんだろうな。あれ描いてたの鳴海だろ?お前データ持ってるのか」
「共有に上げてくれていました。メールで確認を取って出して良いとの事でしたので。確か鳴海さんは今日15時出社だと」
瓶と缶とペットボトルをゴミ箱に分けていた楚良に声が掛かって、傍らに置いた楚良が指先を近くのタオルで拭いながら一度自分の席へと戻って後ろの棚から黄色のファイルを取り出し、付箋を幾つか貼り付けて課長席へと両手で差し出した。
片手を伸ばした羽柴にそれが取られて、楚良はゴミの片付けへと戻る。これが終われば観葉植物達に水をやって、その頃にはデザイン課の社員がデスクについて好き勝手に楚良に要望を投げてくる。何か飲みたいだとか、資料が欲しいだとかそういう事だ。
楚良は自分が一番新しく入ったのだし、一番新人なのだから雑務は自分がやるべきだと思っているので嫌ではない。寧ろ部署全体の仕事が把握できるという意味では、雑務は人の仕事を見られる最大の機会。コーヒーを持って行ったついでに手が空いていればその仕事のポイントなどを教えてくれるのも嬉しい。
そんな楚良が課長席の斜向かいに移ったのは当然だし、今まで横にいた鳴海が対称の位置で楚良の前に移ったのもまたデザイン課にとっては当然だった。
楚良の背中は資料の詰め込まれた棚だから営業部からは遠い位置、それでも営業が同じ部屋にいるというのは進捗を直接見張られている様な感覚で慣れない。羽柴が不用意に近付いたら殺すぞなんて営業部に吠えていたが、移ってきて間も無いのもあって距離感が掴みにくくて仕方が無い。
今までの羽柴が担当者を漏らさない様にしているのも台無しだし、休憩がてらに部屋を出ようとする際に、営業の社員に呼び止められて仕事の進捗を問われるのは勘弁して欲しい。一條が聞くなら羽柴にと言ってくれてはいる様だが、課長に聞くより中途採用の年下に聞く方が楽なのも分かる。
何故か皆が楚良が進捗を握っていると思っているが、是非そういう評価は手放してしまいたい。自分だって確認していない事は出来ないし、そういう責任は上が握るべき事であるので不要だ。メールチェックの際に宛先にでも入っていれば進捗表に書き込むぐらいはするし、リスク分散の名目でデザイン課の人間はメモ帳代わりに楚良を使っている節もあるのは否定しない。羽柴はそれを理解した上で楚良を使うが、編み目を縫って来る様な他部署の人間はそうでもない。
この間営業部長に何故締め切りを把握してないんだと怒鳴り込まれたが、そもそも楚良はそのメールを受け取っていない。仕事を見れば理解できるだろうという風な事を理不尽に言われたが、それは羽柴が馬鹿かと即返していた。
仕事の采配は俺の仕事で楚良はチェックを回されてるだけだし、正式に課長相手に依頼しない仕事なんざ受けてやるか馬鹿かと繰り返し馬鹿を強調していた。
本当に羽柴は相手が誰であろうが物怖じしない。その後に羽柴に本当にお前はすぐ舐められるなと言われてとても辛い気分になった。何故か本当に楚良は人に侮られる。
身長のせいなのか顔のせいなのか、兎に角子供相手にするかの様に舐められる。
「空木、洗剤の奴、赤系は控えた方がいいと営業からメールがあったんだが」
「サンポートのですよね、グリーン系で作っていますよ」
「何で?」
「何でって何です…2008年から商品パッケージにも赤は入れて無かったじゃないですか」
雑務を終えてデスクへと戻れば、新しい仕事が幾つか依頼されていてそれを上から順に振り分けつつ、優先順位の高い順に付箋に書いてPC画面に貼り付けた。
「お前過去の商品まで見てるのかよ」
「私は引き出しが少ないので自分の感性で出すとクライアントの要望に添わない事が多いんです」
「データでデザインっつーのもな」
「羽柴課長は普段から経験っていう名のデータを使ってるでしょう。鳴海主任もですが、ここにいる方々は皆そうですよ。ちょっとぐらい私のズルは許して下さい」
羽柴が視線を向ければ彼女が小さく笑って肩を竦めた。それがズルだなんて間違っても思わない、どちらかと言うと彼が驚いたのはそれをどう仕事の合間を縫ってやっているかである。
「たまにお前の1日は70時間ぐらいあるんじゃないかって思うんだが」
「そんな時間があったら私はもう少し兎に塗れて過ごしたいんですが。日々仕事に追われて我が家の兎がご不満顔です」
二人の会話を聞きつけた他の社員が思わず吹き出して、羽柴と反対側のデスクにいた男性社員が楚良に兎のシールを差し出した。
これはネザーランドドワーフですねと告げた楚良が有り難く頂いて、丁寧に手帳に挟んでおく。彼女のデスクは常に兎のアイテムで溢れているのは、皆がお礼だのついでだので置いて行くせいか。
勤務中は隣の営業課の電話がひっきりなしに鳴っていても取る人間は少数だ。殆どが外回りか、下の階で打ち合わせや会議をしていて余り明るい間に出会う事がない。
電話はワンコールで取るのが楚良のポリシーだが、勿論営業の電話を楚良が受けるわけにはいかないし、羽柴にも絶対に取るなと言われている。厄介事は隣から持ち込んで欲しくないのがしっかりと伝わって来るので勿論逆らう気もない。
昼食の時間は一度皆が戻る時間だが勿論デスクについている事は殆どなくて、皆食堂やら近くの食べ物屋に散っていく。楚良は余程空腹なら菓子パンでも食べるが、大抵は甘い飲料とビタミン剤で終わらせてひたすら仕事。朝に間に合わなかった雑務などもその時間に片付けて、午後も全く同じペースでこなせる方が楚良には好みだ。
他の部署が動いている時の方がデザイン課はスローペースな気がしてならない、昼食後も何だかんだ羽柴は席を外すし、企画やITの方に呼ばれている社員も多い。机に齧り付いて仕事が出来るのは本当に新人の特権だと何か得をした様な気分になる。
まあ各所に呼ばれた社員からあれをくれこれをくれの電話を取るのも全て楚良なのだけれども。
やがて夕方になれば営業の人間が次々に社内に戻ってきて、終礼を行って、契約数で一喜一憂しているのを聞けば何だか向こうも辛そうだとかぼんやりと思った。役職通りに一條と陰島が打っ千切りだが、それを聞く度に本当にあの二人はどんな魔法を使っているのかと思う。
終礼をしている隣だが、デザイン課の方はこの時間からが本番だろうか。夜の方が、そして他の部署の人間がいなくなってからが調子が良いというのは、楚良も羽柴の意見に同意したい。
その終礼の前後どちらかで一條が羽柴のデスクに来て、その日の釣果とデザイン課での仕事の出来等を共有していくのも日課。大抵締め切りがタイトだ死ねと羽柴がぼやいていて、ああそうごめんねとか全く悪びれずに一條が答える日課だが。
この時間でも彼の姿は乱れもなく、上着は脱いでいたがベストのボタンもネクタイも緩められてさえいない。私服だらけのこの島では本当に課外の人間であり、異質でさえある。
「空木、進捗に今のメール入れて出し直してくれるか?」
「1分お待ちを」
ぴこんとメールの受信マークが点灯したかと思えば、楚良が羽柴の台詞に直ぐに答えて頷いた。その隣に立っている一條の視線が一瞬流れて小さな微笑み、そんな顔をしているがどうせまたデザイン課に無理難題を押しつけているんだろう、知っている。
内容に軽く眉を寄せたが無言で書き込み、プリントアウトのボタンを押した楚良が、立ち上がって其方へと向かい紙を取る前に、近くにいた社員が渡してくれたものを両手で受け取った。
枚数は二枚、もう一枚を一條に渡すかどうかは羽柴の気分次第。二枚纏めて羽柴に渡せば、立っている一條から有り難うと漏れて羽柴からはああうんとかいう惰性の様な声が漏れた。
「空木、お前今のデザインどれくらいで終わるんだ?」
「狩屋のデザインなら後四時間、その後今日分のチェックに二時間ぐらいです」
「明日、朝からちょっとデカいのやるから鳴海も開けといてくれ」
「終わるか、死ね」
正面のデスクから血も涙もない様な声が掛かり、羽柴から珍しく命令だとか何とか漏れて、楚良も小さな溜息を吐いた。
「私も明日の朝からはちょっと厳しいですよ、桜井さんが紙のサンプルが出来たから取りにきてくれと言われているので」
「それ明日か?」
「明日です。10時からアポイントメントが入っています」
楚良が机の前から手帳を取ってその中を開きつつもう一度確認、そしてまた顔を上げて頷く。彼女の記憶に殆ど間違いがないのは羽柴も知っていて、もう半ば確認の様なやりとりで。
無理だこれ死ぬな、と、羽柴が天井を向いてぼやいているのが目に入れば、余計重要な案件なのかと思った。
「二人とも今日会社に泊まれるか?」
問いかけだったが殆ど決定事項だなと楚良が机の上のチェストの一番上の引き出しを開いて紙を取り出し、鳴海に渡せば無言でそれを取られた。
大抵はカードキー換算だけだが、朝までとなると一応の様に申請は出さなければ。
「羽柴。空木は残業100時間超過だろ」
「は!?」
「今日泊まると超えますね」
「……お前、マジか」
「まあ、私は定時で帰りましたという事で」
結局そうなるのかよと羽柴が頭を抱えているが、もし空木が訴えれば確実に負ける内容だが全く本人が気にした風もない。
空木に言わせれば原因は横で立ったまま遣り取りを見つめている一條にも原因がある。
彼が合い鍵を握っているせいで、毎日無理に早く帰らなくても数日に一度ぐらいで飼い主不在の茶々のストレスが大幅減になっている。あの人は神だ。
「お前兎は?」
「明日サンプルを貰った帰りに一度帰宅を許して頂ければ。水だけは替えておきたいです」
「了解した。良かったな?一條。空木の兎が犠牲になりそうだが」
「ウチの兎は隔日ならお許し下さるのです。私より鳴海主任が死にそうなんですが」
じゃあ今日は申請は書かなくて良いなと自分の紙はチェストへと戻し、ちらりと一條の方へと視線を向ければ何か難しい顔で見られた。
肩を竦めた空木だが口をこの遣り取りに口を挟めないという事は、充分に無茶を言っている自覚もあるのだろう。本当に来月はペースが落ちるんだろうか、平均80時間とかそういうものは守りたい。
「いつも有り難う。また二人には何か奢るよ」
「俺だけ抜かすんじゃない。酒より肉だが時間が欲しい。一條、クリスマス頃は忙しくなるだろ、ちゃんと締め日は見とけよ」
「そうだね、一度見直して共有しておくよ。じゃあ後は宜しくね」
ひら、と手が振られて羽柴も軽く手を上げる。自分のデスクの方へと帰って行く一條の背中に視線を向けていた楚良が、明日が締め切りの仕事の一覧を羽柴の方へと差し出した。
「どうやったらお前みたいな睡眠時間で済むんだ?圧倒的に時間が足りなくて羨ましくなってきたんだが」
「寿命を削れば良いんじゃないですかね?悪魔に魂を売ってみます?」
「お前はそうしたのかよ。耳の長い悪魔じゃないよな?」
あれは小悪魔ですなんて割と本気で告げている楚良だが、この間まで天使とか言ってただろうとかくだらない会話。
手元へと意識を戻した楚良だったが、ふと気になって羽柴の方へとまた視線を戻した。
「でも実際どうですか?ある日突然悪魔が現れて、お前が好きな時に好きな睡眠時間で健康的に暮らせる様にしてやるから寿命をくれとか言われたら。何年ぐらいなら許せます?」
健康的な生活を望む悪魔というのはどうなんだと思わないでもなかったが、多分現代の人間からすればピンピンコロリという様な標語も流行っているから相応しい気もする。
告げられた男がそうだなあ、と鳴海の方から申請書を受け取りつつ視線をまた上の方へと投げた。
「まず何年生きるか聞いてからだな。それからレートを聞いて考える」
「多分羽柴課長に取引を持ちかける悪魔なんていないんじゃないですかね」
何でだよなんて言われても絶対そうだと思う。傍らでメッセージの受信マークを光らせたスマートフォンに軽く首を傾げながら手に取って見れば、一條から水を替えておこうかとメッセージが送られてきていた。
此方から視線を投げるのには遠い距離、同室になってからそれなりにすれ違う機会も増えたしあれ以来良く泊まって行っている気もする。自分は居たり居なかったりだが、サチが家に帰りたがらないとたまに彼がメールで零していた。
朝は彼の方が確実に早く出社するし、一度マンションに寄ってからの出社だが、本当に彼の睡眠時間とかガリガリと削れているのではないだろうか。それに、誰かにバレないかと本当にひやひやする。
尾行に気をつけた方がいいねと言っていたし、夜は雨戸も開けないし、出入り口も裏口からを徹底するようになったし、一人暮らしを疑われた事もない。女性に人気のある人は過去にも尾行があったのではと思って居たが、そういうのが経験的な意味で得意なんだろうか。
明日は昼までに戻るから大丈夫だと返しておいて、スマートフォンは胸のポケットへと入れておいた。
「何か煎れますね」
羽柴のカップが空になっているのに気付いてそれを受け取り、死にそうな鳴海のカップもついでに受け取った。他の社員にも聞いて回り、棚に置かれてある珈琲サーバーの方へと。
羽柴の言う事は尤もだとふと先程までの会話を考えた。自分も案外睡眠時間が長い方だったが、今は夜の長さを眠るだけで過ごすのは少し勿体ない気さえする。
何かを作り上げながら過ごす時間は孤独も感じるが、夜の長さを感じて過ごすよりは好みだと思った。もしも夜の長さを感じずに眠れるのなら、勿体ないなんて感情も無くなるのだろうかと思いながら、残っていた珈琲を幾つかのカップに注いで傍らの冷蔵庫のアイスコーヒーも取り出す。
羽柴は暖かい方、鳴海は冷たい珈琲が好み。他の社員は暖かい方と冷たい方が半々で、ミルクと砂糖をたっぷり入れるのが好きな人もいる。
皆にそれらを配って席へと戻り、忙しい方が何も考えずに済むし何より忙しい方が楽しいと唇に笑み。この状況で楽しそうなのはお前だけだと羽柴から有り難い評価を得て、また、小さく楚良が肩を揺らして笑った。
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