第31話

 楚良に繋がる電話のコール音は、半コールで留守番電話に繋がってしまった。


 溜息を吐いて耳からスマートフォンを下ろしてその画面を見下ろしてみる。3通送ったメッセージは全て未読のままで、二度鳴らしたそれにも反応はない。

 彼女は残業を制限されているから滅多に合わない帰り時間が合うだろうかと思えば、営業が終礼を迎える前に彼女はもう帰宅したと羽柴に告げられた。


 昨日の様子から残業をしても僅かだと思っていたが、まさか切り上げて帰るとは思わないし、兎に何かあったのだろうかと彼女にメッセージを送ってみても全く見ている様子がない。

 勤務時間内に帰るというのに全く連絡が付かない有様に、普段の彼女と乖離を感じさせるが彼女にも色々と都合があると新人を駅まで送ってから帰宅した。


 マンションに帰って日頃の世話も終わらせ、風呂にも入ってサチの相手をしながらスマホを見てもやはりそこに既読はついていない。外は雷雨だし本当に何かあったのかと不安になり、滅多に鳴らさない電話をかけてみてもその状態は変わらない。


 本当にこんな事は初めてで、古くからの友人という訳ではないが、今まで何時間も連絡が取れないという事は無かった。


 週末だからと言い訳をつけて彼女の家に来てみても、いつもの様に雨戸は下ろされていて光さえ漏れていないし、本当に外出しているのかどうかも分からない。

 車内から送ったメッセージにも電話にも相変わらず返事はなくて、一瞬リビングに置かれているウェブカメラに繋ごうと思って辞めた。もう充分面倒臭い男になってはいるが、流石に彼女の私生活を覗き見る様な真似はしたくないし、あれは兎の為のものだ。


 来てしまったものは仕方がないと人気を避けてガレージに車を入れ、助手席に固定してあったキャリーケースの留め具を外す。彼女の所に行こうか自宅で迷っている間に、取り出したキャリーケースにサチが自ら入って行くぐらいには、自分の兎はこの場所に来ることを楽しみにしていた。

 ガレージから続く裏口の方、裏口のインターフォンを鳴らしてみたがそこに人影が現れる事もなければ、鍵の開く音もなく、もう此処まで来たのなら覚悟を決めようと合い鍵でドアを開き、中へと入れば意外にもそこに明かりはついている。


「空木さん、いる?」

 しかし彼女の姿はなく、彼女がいる時には寝る時以外リビングのもう少し広い場所に放たれている茶々は、敷き藁の敷かれたフェンスの扉の内側だった。


 一條に気付いたのか奥に置かれていたケージの小屋の中から出てきた茶々が、扉の辺りを前足でかいている様なのが見えてキャリーをフェンス近くの床に置き、そしてフェンスの電気錠にパスワードを打ち込んだ。

 開けば茶々は直ぐにキャリーの方へと近付いて、その扉も開けておく。二匹まとめて、直ぐにリビングに走り出した。


 水も餌も綺麗に取り替えられていて、敷き藁も交換されている。外出していて世話をしていないというのではなく、フェンスが閉じているのも然程長い時間ではないと思うのに、コーヒーテーブルにもキッチンにも彼女の痕跡は無い。


 部屋の照明を消し忘れたまま外出しているのだろうかと、家にお邪魔させて貰っているとメールを送っておこうと思ったところで、リビングの奥の扉が開いて会社に居る時の服装のままの楚良が現れた。


「お邪魔してるよ。家にいたの?」

 玄関が開いた音も気配もなかったし、裏口は目に入る位置。彼女が兎を出さないまま家に居る事に違和感を感じながらも声を掛ければ、その瞳は一瞬だけ驚いた風に見開かれて、そしてその足が止まった。


「……済みません、いらっしゃったんですね」

「驚かせたならごめんね。何度か電話したんだけど返事が無かったから、ちょっと心配で」


 言い訳の様に言葉を重ねてみれば、その瞳が一度茶々の方を見やってから再び止まっていた足が動き出す。


「そうでしたか……、すみません、スマホを見ていなくて」

「何も無いなら良いんだけど、茶々ちゃんも出てないし、体調が悪くて寝てたなら無理しないで」

 お茶でもいれますねと彼女がキッチンの方へと歩くのに合わせて、一條もリビングからキッチンの方へと歩きカウンターの向こうから彼女の方へと視線を流す。

 いつもよりも少し憔悴している様に感じるのは錯覚だろうか、いつも通りに振る舞おうとして失敗している様な。そう理解すれば一度一條の視線が兎達の方へと流れ、いつの間にか二匹ともキッチンとの境で楚良を見守っている様だった。


「どうかしたの?」

 キッチンの中へと入った彼女の隣まで歩を進めて小柄な彼女を見下ろす。緩い動きで隣を見上げた楚良だったが、また直ぐに瞳が落ちて首が左右。


「どうか、って、どうもしていませんよ。少しぼんやりしていまして――――」

「そうだね。でも他の人はそれに納得しても、茶々ちゃんは無理なんじゃないかな」


 手を伸ばして彼女が紅茶の缶を取ろうとするのを見下ろしていた一條が、しかしその途中、紅茶の缶へと触れる前に抑えた。キッチンカウンターの大理石のひやりとした感触と、暖かい手の感触に楚良は息継ぎの様に言葉を止めた。

 見れば茶々はじっと楚良の方へと目を向けていて、サチがその傍へと不安気に寄り添っている。嗚呼本当に、彼らの前では取り繕えない。


「今日は…来て頂いて申し訳ないのですが……。暫くは、ここに来ないで欲しいと言ったら――――」

「何も聞かずに帰って、もう来るな、って?」


 手を捉えられて問いかけられたその言葉に、楚良は沈黙で反応した。一條が問いかける言葉に、何か嘘を探して瞳が泳ぐ。どうせ誰にも信じて貰えないし、何を言っても無駄だと何とか頷けはしまいかとぎこちなく首を動かした楚良に、一條は小さく息を吐いてその手を離した。


 分かってくれたのかと思う、このまま帰ってくれれば多少心は痛むが、時間を掛ければまた元の様な生活になるはずだと。


「じゃあ、帰るよ。君がそう言うなら、無事を確認しに来ただけだから」


 紅茶の缶は元の位置から動かされないまま、横に並んでいた一條がキッチンから離れて二匹の兎の方へと向かう。楚良がその後ろへと視線を外したまま歩き、そして一條がキャリーケースを携えた瞬間、それを察知したサチがダン、と音を立てて床を踏みならした。


 一條が溜息を一つ、サチは楚良の後ろに回り込んで茶々も習う様に足を踏みならす。

 兎が不機嫌だったり、怒っていたり、そしてある意味危機を察知した時の動きは音の強さとともに本当に分かりやすい。


「君の意には添えないみたいだね」


 来たばかりなのに帰るとは何事だとでも言いたげなサチと、主の変調も理解しているだろうと茶々と。

 その足下を見下ろしていた楚良が、一條の告げた言葉に顔を上げて顔を歪めた。


「君が許したんだよ。だからね、君がサチを説得できるまで僕も帰らない」

 キャリーを置いても今度は二匹は走り出さずに、立ち尽くしている楚良の周りをウロウロと歩き回っている。

 兎は犬の様には懐かないイメージがあったが、実際彼女の兎は賢い。それが彼女の魔法かどうかは分からないが、明らかに茶々の様子もおかしければそれは明確な異変だと一條は思った。


 また彼女の傍へと歩を進めて見下ろせば、彼女はもう上手く取り繕えないのだろう、顔を伏せる様にまた床の方へと目を向けた。


「……しん、じて――――……もらえ、な、いです」

「君を?」

「誰にも信じて貰えないのは、辛い。あの時も、……誰にも――――」

 可哀想なフリをして同情を引いていると嘲笑されていた事を、その言葉に思い出した。


 ぱたぱたと堪えきれない感情が床へと幾つかの水滴を落として、茶々が楚良の足に手を掛けた。


 此では駄目だと楚良が瞳を押さえる前に一條が腕を伸ばし、楚良の小柄がその中。逃げる事さえ許さずに、背中へと回った腕が額を胸に押しつける。

 拒否をしようと腕を突っ張る事も出来なければ、首を左右に振ることも許されない。その強い腕の力に、今まで耐えていた身体の震えが駆け上がってきた。一條に心配をかけてはいけないのに、事情を説明すればきっと疑いの目で見られるのに。


「あなたに、嘘だと思われるのは、……本当につらい」


 もう一度楚良が苦しげに零して身を捩るのを、許す気さえ一條には残らなかった。腕に抱いた身体はその声と同じ様に震えているのに、放す事など。

「君の言葉なら信じるよ。君の口から言ってくれるなら。――――それが嘘でも、何でもいい、君が言うならどんな嘘だって構わない」

 本当に彼女の口から嘘が漏れるならきっと彼女はこんなに苦しんで、こんなに迷ってはいないだろう。勇気、と言った。纏める時間、とも。それがもしも、真実を話す事で一條が離れて行くと思い込んでいたのならば。


 その誤解を解く役目は自分にこそあると一條は思った。


「少しでもいいから、君の勇気を、僕を信じることに使ってくれると嬉しい」

 誹謗中傷に耐える勇気とか、荷物を纏める時間とか、そういうものなら一條には不要だし御免被る。

 告げて僅かに腕を緩めてその顔を伺えば、自由になった腕で彼女は真っ先にその涙を乱雑に拭った。他人の服を汚す事を気にするのは、最早彼女の癖となっている。


「座って待ってて。みんな心配してるよ」

 普段から持ち歩いているタオル地のハンカチを取り出して彼女の方へと差し出せば、少し迷った後にではあったけれどもそれが掠れる様な礼と共に受け取られた。

 促したソファの方へとのろのろと歩き出す彼女の迷いはその歩調から、キッチンの方へと歩いてその姿を見れば、腰を下ろした彼女にサチと茶々が我先にと顔を近づけている。


 先程は触れられなかった紅茶の缶を一條が引き寄せて、その中に詰められているティーパックをマグカップに引っかけ、迷いもせずにポットの湯を注いだ。

 脇の棚からタオルを一枚。それが迷い無く出来る程には彼女の生活を知っているのに、何故今更彼女はもう来るなと等言い出したのか。


 紅茶のカップは二つ、楚良が使う方にだけ砂糖を入れてかき混ぜてから一條がそれを両手に、彼女の傍へと戻った。


 いつも仕事が広げられているテーブルも今は物一つ出ていない。そのコーヒーテーブルにカップを二つ並べておいて、俯いたままの彼女の側へと座る。肩が触れる様な距離は一條にしても近すぎるかと案じたが、楚良は避けなかった。

 腕にかけていたタオルを彼女の方へと向けてみれば、俯いていた顔が僅かに上がってそれを取る。ハンカチをその上へと重ねる様に置いた途端に、茶々がその匂いを確かめる様にハンカチに鼻先を埋めていた。


「どう、言えば…信じて貰えるのか――――」


 Chevalierとの取引の時にはまるで謳う様だと思う程、迷いもしない明瞭な声は今はすっかりとその精彩を欠いている。本当に兎を語る時などは聞き惚れてしまうぐらいの声だと言うのに、酷く弱っていると言っても良いのかも知れないと一條は思った。

 傷ついた兎の様に一人で傷を癒そうとしていたのだろうか等と考えれば、いつも小柄の彼女はより小さくも見えて溜息さえ出そうになる。誰が彼女をこんな風にしたのか、その予兆さえ感じなかった。


 楚良の太股には茶々の顎。そして一條の膝にはサチ。慣れた定位置に収まってしまえばやっと覚悟を決めた様に、彼女の口が開いた。

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