第32話

 男は誰の目に見ても華やかで、彼自身もその美貌を自覚している人間だった。


 外部の人間ではあったけれども、その顔立ちの良さに楚良の所属する絵画サークルのモデルを引き受けていて、OBだか何だかの知り合いだった様に記憶している。

 その頃楚良は大学が離れていた事もあって祖父母の家も離れ、秋を描き終えた父親とも疎遠になって、自分の顔への自信も他人の顔への興味も無くなっていた頃。

 楚良は皆が熱を上げている傍ら、本当に美しい誰にも認められる顔というのはこういうものなのかと、皆に交じってその男の絵を描いているだけの人間だった。


 地元から離れていたし友人なども全くおらず、楚良は画法を無理矢理に転換している途中だったこともあって、大学内でも浮いた存在だったと思う。いつも一人で行動していながら、全く自分の顔に興味を抱かない様な楚良にその男が目を付けたのは、最初は興味だったのかも知れない。


 人数合わせで呼ばれたサークルのイベントに顔を出す間に、その男に声を掛けられる回数が増えた。最初はよく分からずに皆と同じ様に話しかけていたが、いつの間にかサークル内には楚良がその男に鬱陶しく付きまとう新入生、という噂が立ち広がっていた。

 そもそも人付き合いがなく、人の噂にさえ興味の無かった楚良が気付いた頃には、一部女性の見る目が変わった後。それでも楚良はさしてそんな事は重要視はしていなかった、制作物に嫌がらせをされる様になって、そのサークルを辞めたぐらいで済むと思っていた。


 しかし絵画サークルを去った直後辺りから、マンションの郵便受けに不気味な手紙やらどこから撮ったのか分からない様なプライベートな写真などが混ざる様になり、そのうちに知らない番号や非通知で無言電話が掛かってくる様になってきた。


 少ない大学の関係者や、教員に相談してみようと決意してみても、返ってくる言葉は勘違いだとか寧ろ君が付きまとっていると聞いた、との答えしか返ってこない。楚良はいつしか大学の中で、彼氏持ちや恋人持ちにトラブルを持ち込むという名前がついていた。

 本当に何故そんな風になったのか分からない。家への嫌がらせは継続しているし、ついにはベランダ辺りにまで侵入した形跡があって、心底参っていた時に相談に乗ると持ちかけてきたのは、件の男だった。


 彼は何処で知ったのか、楚良が刀司伽藍の娘だという事を知っていた。最初は大事にならない様に通報ではなくまずは警察に相談してみるとか、相談無料の弁護士を紹介してくれるとか、皆がトラブルメーカーのレッテルを貼る中で唯一信じてくれた人間であったから、アドバイス通り証拠も全て弁護士に提出して、少し距離が近くなった頃にその男が兎を飼い始めたと聞いた。


 兎の事なら何かお返しが出来るのかも知れないと、その兎を見せてもらった時に、違和感を通り過ぎて不信感を感じたのを今でも覚えている。

 毛並みも酷く、人の手を恐れるその兎の様子は、尋常ではない。その時に楚良はこの男が怪しいのだと、初めて思えた。


 批判も全て飲み込んで人の噂を聞いてみればその出所は全て彼の近辺だ、そして警察と弁護士は酷く自分の事を冷たい目で見ている事にもその時やっと気付く。証拠品の返却を求めてみたが、その時にはもう殆どが男に引き取られていて、初めてこの件が最初から彼の手の中で動いていると知った。

 警察も弁護士もストーカー相談に来た楚良が、実はその逆その男に言い寄っているというのをそのまま信じた。提出した証拠は全て美術系に詳しい楚良の自作だというのを信じて。彼女は少し精神を病んでいて可哀想だし大事にしたくないんですと、影で告げる美麗の同伴者が、何の取り柄もない上に親類への連絡を避ける楚良に付きまとっている犯人だとは誰一人、信じない。


 その時に兎の事を無視して後手後手だったと諦めて離れれば良かったのに、あの兎を絶対に彼の手元に残しておけないと思ったのが間違いだったのだろうと今は思う。


 楚良は愚かにもその男に真っ向から対抗した。証拠は処分されて、味方も誰一人いない状態で。貴方が犯人だろうとはっきりと告げた楚良に、意外にも彼は否定しなかった。

 兎を引き取りたいといった楚良に拒否もしなかった。そしてあの日、自分の家に来るのは警戒するだろうからと楚良の家へと兎を連れて訪ねて来たその男は。


 私の前で兎を傷付けて見せたんです。


 彼女の口から漏れた声には力が無く、記憶を掘り起こしている苦しさだけが感じさせるのを聞けば、膝の上に乗っていたサチを撫でていた一條の手が止まった。

 立てた膝の上へと置かれているタオルへと顔を埋めている彼女の声は、不明瞭で聞き取りづらかったがそれを聞き間違える筈もない。彼女の重い言葉に予想はついた、話の流れからもそれは薄々感じていた。

 伸ばした指先がその震える背中に触れて、サチにそうした様に静かに撫で、その感触に気付いた様に、楚良はゆっくりと顔を上げる。


「お隣の人が、騒ぎを聞きつけて……通報して下さったのですが。もう既に根回しが終わっていたんでしょうね、私が兎を殺してくれと頼んだと言うのが受け入れられました。動物愛護法が機能していれば、…訴えられたのは私でしょう。器物破損については、彼自身が訴えをしなかったので、私も罪を被ることはありませんでした」

 楚良が顔を上げれば、脇にいた茶々がその顔へと身体を伸ばして涙の香りを嗅いでいる様に、鼻を動かした。


「――――それじゃあ、その犯人はまだ」

「何の罪にも問われていないので、犯人とは言えませんけれど。弁護士も警察も、担当者を女性にして下さったのは優しさだと思っていました。私がもう少し賢くて、男女というものが理解できるくらいにもう少し大人で、せめて成人していて、もっと早くに父の力でも何でも借りていれば……。借りて、いれば……」


 その後の言葉が続かずに、彼女の唇は凍り付いた様に止まってしまった。あんなことにはと続けようとしたのに、その後悔が大きすぎて言葉は口の中で消えてしまう。

 彼女の消えた言葉に気付いたのか、サチが一條の膝から下りて楚良の方に身体を伸ばした。

 動きさえ忘れそうだと思っていた彼女が、サチの様子に指先を向ける。顎の下を擽る様に撫でた彼女の目元が少しだけ緩んで、止まっていた吐息を緩める様に溜息を吐いた。


「この話を――――。僕が信じない、ってそう思ったの?」


 可哀想な話で同情を引いているだけだと、話の悲惨さはそのまま彼女の企みだと。他人がそう考えると思い込んでいるそれは、ただの思い込みでは無く過去に実際あった事だ。

 彼女は一條の声に兎から瞳を放して、そしてやや高い位置にある顔を見上げ、じっとその顔を見つめた。


「その男の名前は、勅使河原正隆…と、言います」


 それこそ本当に一條は彼女を労る声さえ忘れる程に、驚愕する。多分今までで一番彼女の言葉を嘘だと思ったし、思いたかった。

 それは彼女を疑った訳でもなければ、彼に釣り合わないだろうなんて思った訳ではない。


「信じられないと…分かって居ますよ。彼の様な人が、私の様な者に、危険を冒してそこまでする理由なんて」

「そうじゃないよ」


 笑って良いのか、どうしていいのか、赤くなった目元でそう告げた彼女が一條の方から視線を下ろして兎へとまた目を向ける。サチが一度一條を振り返って首を傾げ、茶々もまたつられる様に其方を見れば、楚良の顔もその男の方へと戻った。

 男の口元には笑みの様な、怒りの様な。それこそ楚良は、自分よりもきっと彼の方が何と言い表していいのか分からないのではないだろうか、と。


「もっと早く聞いてれば良かった。そうすれば、君に無理矢理笑わせるなんて――――」

「信じるんですか…?」


 彼女のこの台詞は今までにも何度か聞いている。訴えて疑われて、人の容姿もその中身も信用が出来なくなるのは当然だと思うと同時に、その男と全く同じ方法で彼女を疑って彼女の傍に居座っている自分に対する怒りと、情けなさと。

 それでも彼女は自分を信じてくれたのか、顔を上げているサチのおかげなのかもしれないが、相当の不安もあっただろうに。


「君にそんな辛い事があった、って。嘘だと言ってくれた方が嬉しいんだけどね」

 手を伸ばした一條がその頭に触れて、するりと黒髪を滑る様に手が動く。楚良は彼女の兎の様にその手を避ける事は無かった。


「それよりも君の方が、僕を許せなかったんじゃないの?ストーカーだって疑われて、僕が不用意に君に頼み事をしたせいで、…同じ様な疑われ方して」

「一條さんは何も知らなかった訳ですし、許せないなんて思った事はないですよ。人が離れて行くのは自分のせいです、あの頃もそう、元々人付き合いも得意ではありませんし、それだけの信用がなかったんです。――――でも、一條さんには、どちらかと言うと逆です」


 告げた楚良がまた指で兎を撫でて、一條の顔から視線を外す。よしよしと額辺りを撫でれば、茶々が気持ちよさげに目を細める。

 彼女の傍から離れないという事は心配はしているのだろうが、先程よりも兎達は緩んでいる様にも見えた。勿論、彼女自身も。


「一條さんはさっちゃんの事で私を頼って下さいましたし、仕事を評価して下さいました。Chevalierという大きな仕事を任せてくれた事は大きな賭だったと思いますが、日下部さん達の前に出してくれた事にも感謝しています。それは本当に、嬉しかったんです」


 楚良の視線はやはり合わなくて、タオルが邪魔とばかりに避けた茶々が膝に上がるのに向けられたままだ。

 嬉しかったと彼女は言うが、兎にしてみてもそうだが、仕事に関しても楚良が不誠実な事をしたことは一切無い。だから皆彼女を信頼して仕事を任せるし、それで裏切られたこともない。人に信頼されないのは自分のせいだというなら、彼女の仕事が評価されるのは彼女の力だと言える。


「その上こんな話をしている私を信じてくれるなら。それ以上は何も望むことは」

「――――もしかして、会社を辞めるつもりだったの?」


 彼女が吐息と共に零した言葉に、思わず不信を感じて一條が詰め寄る。既に近い位置、その背中側に腕をついて顔を近づければ、それこそ鼻先が触れそうな距離だ。

「え、…いや。そんなに迫られましても……」

 僅かに身を引いた彼女にさらに詰め寄る前に、二人の顔の合間に身体を伸ばした茶々の鼻先が割り込んできた。

 答えは明確には帰ってこず、何か口の中で彼女が言いよどんだ様だったが、その内容は聞かずとも分かって、顔を引いた一條が溜息を吐く。


「そういう判断をするってことは、偶然会社に来たとか、相手が覚えてないって訳じゃないってことだね?」


 あの男の初対面の印象は好印象だった、もう少しゆっくりと人選をしたかったが、人事の方から他社からの引き抜きでどうしてもと言われたのが勅使河原だった。

 人当たりのいい超美形の青年は一気に女性社員の話題を攫っている、ああいう初対面でも人を惹き付ける人間というのは営業にしてみては有り難い。私は課長の方が好きですという女性社員は兎も角、珍しく人事が当たりを引いてきたという評価に、そうだといいねと同意した自分は殴っておきたい。


 誤魔化そうとする彼女に気付かないとでも思っているのかと言いたい。彼女と言葉を交わした時はそれこそ羽柴も自分もいた、僅かな挨拶の時間だけだからその間に何かするのは不可能だ。

 それでも会社を辞める事を考えるなら、何か継続して行われていると考えるのも普通だろう。最近の体重の減少を考えれば特に。

 楚良の方へと手を差し出してみれば、少し悩んだ後でサチを差し出してきたので、違うと一応の様に撫でて置く。


「そうじゃなくて。スマートフォン、貸して」


 具体的に告げて見ればサチを抱き上げたままで楚良の目が泳ぐ。茶々が自分の飼い主が他の兎を抱き上げている時間に焦れたのか、ぐいと彼女の腰辺りを後ろ足で軽く押した。

 何やら皆から責められている気になれば、サチを一條の膝の上へと下ろした彼女が溜息を零して立ち上がる。


「一体何を…」

「何もしないよ、ちょっとした確認」

 電源入れてと言われてまた楚良が躊躇したが、手は差し出されたままで諦めた様に肩を落としてロックを外したスマートフォンを差し出した。別にその中身を見られる事に躊躇がないのは、今までの遣り取りで良く彼も理解している。


 手慣れた動作で幾つかの項目を確認してみれば、非通知設定からの不在着信だけで2桁はあるし、妙なメールも幾つか残っている。


「迷惑メールの設定しておいた?」

「メールは全て。非通知の着信は…どうしようか、と」

 その日付を確かめてから一條が隣をぽんぽんと叩いて見れば、大人しく楚良が先程まで座っていた位置へと腰を下ろした。

 一人残されていた茶々がまたその足の上によじ登っている。彼女が座れば必ず兎がその動向を確認しに来るのはいつもの事だ。


「電話以外で何かされた?」

「以外、とは」

「体重が減ってるのって今日からじゃないでしょ。いつから変だったの?」

 問いかけられて楚良は男の手元にあるスマートフォンへと瞳を下ろしたが、此処に来てしまえば言い逃れができないのだと悟った。


「…旅行から帰ってすぐ位から…会社周りで誰かにつけられている様な気がしていて。でも電話が掛かってくる様になったのは、ここ数日で…」

 会社周りで隠し撮りされたらしい写真が、スマートフォンのメールに添付されているのを確認すれば、一條がそれを見下ろして瞳を細める。


「自宅の方には来てない?会社に住所は届けてあるんだよね?」

「住所は…。――――……祖父が近くに借りてあるマンションの住所を書いて出しました」

「ここのじゃないって事?」


 問われて楚良が僅かの間を置いてから頷く。サチと茶々が、二人の様子が落ち着いてきた事に安心したのか二人の膝から落りて二匹でまたリビングを駆けだし始めた。

 彼女の感情の変化は本当に、彼女自身より兎を見て知る方が確実だろうと思う。


「会社的には情報の制限は出来ないとの事だったので、祖父が此方を兎の飼育場という名目にすれば別に構わないだろうと。ちょっと副業が忙しくて飼育場に寝泊まりしているだけです」

 それは問題が起こった時に厄介な事になるし、会社の人間としても許されないのではと一瞬思ったが、こうなってみると祖父のやりようが正しかった気がしてならない。


 一條にしてみても数日前から電話番号が漏れていることや、採用の仕方が強引だった事を考えても社内に何らかの協力者はいるんだろう。偶然採用された会社に楚良がいる事を知った程度ならまだ良いが、執拗に追いかけてきたなら相手は手の施しようのない屑だ。


「羽柴にこの話、してもいい?」

「嫌です」


 勅使河原は直下の部下になるし、新人の面倒を見るのを別の人間に任せたとしても、デザイン課にも知っている人間がいた方が良いと判断して問いかけて見れば、楚良は一瞬で否定した。

 左右に振る首は、そう、やや怯えも含む。


「君は会社を辞める必要なんかないし、…その手の人間を自由にさせたくもない。それと一つ言わせてもらうけど、絶対に羽柴が君を疑うなんてないよ」


 告げる言葉にまた小さく首を振った彼女を見ていると、本当に当時彼女の周りにいた人間にまで腹が立ちそうだ。

 彼女が人を信じられなくなったのも、自己評価が極短に低いのも、全てその時のトラウマではないか。それで目の前で兎を傷付けられたせいもあるのか兎に依存する様になって、理由なんて明かで。


「大学中退の後処理に、父が直接出向いたと後で知りました。……父の名前で、判断が曇らない人は――――…一條さんだけでした…本当に、嫌です。羽柴課長は…刀司伽藍を好きだと…思うので。それは、押しつけではないのかと…まだ羽柴課長に何もお返しもしていません…」


 美術系の道を進んだ人間が、その業界の巨匠の名前を聞いて掌を返したかどうか、詳しく聞かなくても分かる。前の様には接してくれなくなると彼女は言っていた、腹の内で何を考えて居るのか見え透いた顔で、彼女に擦り寄ってきたんだろう。

 それを理解して、あのストーカーもその情報は最後まで伏せたんだろうが。答える彼女の言葉は意味を取りづらい位に乱れていて、言い訳が思いつかない風でもある。


「僕に話してくれたのは、嫌われてもいいと思ってたから?」

「違いますっ!」

 そこまで固辞しなくても良いのにと思いながら、ふと一條が疑い半分悪戯半分に問いかけてみれば遊ぶ二匹の兎にまで注目されるぐらいに力強く彼女が告げた。


「一條さんは…。さっちゃんが大丈夫だと言っていたので」

「ついに君は兎と会話出来る様になってたんだね。ある意味予想通りの答えだけど、君が兎のプロな様に、僕も人に対するプロだから。それと素直に言うけど、この手の相手は周りを巻き込んで行くからね、いざという時に何も出来なくて後悔したくない、だからお願い。君が決める事だけど僕は君を逃がしたくない」


 ストレートに本心を告げては見たが、彼女の視線は一度サチの方へと流されて少し悩む様な表情を浮かべる。兎の居場所だとか、Chevalierだとか彼女が予想が付くのはその当たりなのだろうけれども、やがて沈黙の後に彼女が顔を上げる。


「一條さんは、私にそうして欲しいんですか?」

「そうだね。逃げるのは簡単かもしれないし、君の傷も少なくて済むかも知れないけれど、きっとどこかで捕まる。その時に君のそばに居られないって事にはしたくない」


 多分相手は前回彼女をほぼ完封した事で調子に乗っているだろうし、だからこそあんな余裕な顔で彼女に相対する事が出来たのだと思う。

 そんな相手に彼女が躊躇するのは分かるし、彼女の傍には兎もいる。


「――――って、…以前君を騙した男と同じ事言ってるかな。…それとも、刀司さんの事を知ってるから親身になってる、って思う?」

 余りにも強引に事を進めすぎだろうかと彼女に問いかける様に首を傾げた一條に、机の上へ置かれたままだったカップに手を掛けた楚良が、迷いもせずに首を左右に振った。


「サチがそう言ったから?」

「さっちゃんを大事にしてくれているから。…さっちゃんには私の父親が誰かなんて関係ないです――――と、言うのもありますが」

 やっぱりそうなのかと納得しかかった所で、その言葉につなげる様な続きがあって一條も自分のカップへと手を伸ばしながら彼女の方を見下ろした。


「一條さんは今まで一度も、私が好きなものを貶めることはありませんでした。たかが兎とか、…それに傾倒している事も、そこまでしなくても良いとか、やり過ぎだとか。それが他の人とは違ったので」


 それこそ彼女は祖父母の助けはあったのだろうが、兎の為に家まで建てている。会社に副業申請をする程の兎好きというのは、彼女にしてみれば嘲笑の対象になってきた。

 しかし一條は少なくともそこまでする必要がない等とも言わなかったし、楚良にとって兎がそれだけ大切だというのを何よりも理解してくれていたと。


「言葉の通じないさっちゃんに対しても、これだけ手を掛けてくれるんです。きっと一條さんは、私の嫌がる事はしないのだろうと――――でも、だからこそさっちゃんにも、一條さんにもご迷惑はお掛けしたくないんです」

 それは彼女の口からいつも漏れる遠慮の言葉と同じで、少しだけ迷った後に不安気に告げられた。これを否定するのも一條の常で、最早それは言葉にせずとも分かるのではないかと思う程に何度も否定している。


「その考え方、ちょっと変えておこうか」

「変える、ですか?」

 立てた膝の上にカップを置いて、少しずつ飲み干しているらしい彼女に僅かな微笑で瞳を向ければ、何がと言う風に首が傾げられた。


「君がもう少し迷惑を掛けてくれないと、僕も気を遣いっぱなしになっちゃうからね。気兼ねなくサチを預けられるように、君も迷惑を掛けてくれると有り難いんだけど」

「ご飯を作って貰ったり、仕事でご迷惑をお掛けしたりで私の方が借りていると思うのですが」

「この間も言ったけど、僕は君に一生ご飯を作り続けないと駄目なレベルで借りを作ってるからね。こう言うのって主観だから」


 自分の仕事に評価が及べば本当にそうだろうかと訝しがる顔を向けているのが、本当に彼女が彼女たり得る所以だと思う。それでも一條が言葉を重ねれば、やがて納得して頷くのも。


「じゃあ君が一番貸してる相手に、借りを返してもらおうか」


 一体誰だろうかと彼女が一瞬首を傾げかけたが、直ぐに先程の会話と共にそれが誰かに思い当たった様だった。

 慌ててスマホへと手を伸ばした楚良だったが、ソファの上で僅かに身体を反らされるだけで全く届かず。背もたれへと手をついてさらに身体を伸ばそうとしたのに、遊んでいた兎達が自分達も混ぜろとばかりに加わってきた。


 茶々とサチが二人の合間、自分に構えとそれぞれの飼い主に顔を近づければ楚良がそれ以上動く事も出来ず、笑った一條が目的の相手へと電話を繋いだ。


『何だお前か、邪魔したいんだな?この時間に。良い度胸だな』

 電話を繋いだ瞬間羽柴の罵詈雑言が漏れて、小さく溜息を吐いた一條が彼女の身体を軽く押し返しつつスマホを持ち直す。


「いきなり罵詈雑言吐かないでくれる?まだ終わってないのは分かってるよ、そっちじゃない」

『ウチの女神が週明けまで来ないんだ。死んだ目をしてる奴らばっかりだぞ、順番に変わってやろうか?』

「話があるのは羽柴だよ。羽柴、彼女のストーカーの件、分かったよ」

『…ちょっと待ってろ、外に出る』


 電話の向こうが修羅場に近いレベルで叫び声やら何やらが聞こえるのは、幻聴ではないだろう。話は手短にと思えば、直ぐに沈黙の後受話器の向こうが静かになった。

『分かったってどういう事だ?産業医から聞き出せたのか?…俺が聞いてもいいものだったのか』

「寧ろ聞いてくれないと不味い。彼女、昔ストーカーに目の前で兎を殺されてたよ」

 ドアを幾つかくぐる音を通話の向こうに聞きながら一條が告げれば、羽柴も事の重大さを理解できない様な愚者ではない。


『何で今日だ。お前、今どこにいる』

 大きく羽柴が深呼吸をする音、そして楚良は一條の言葉に静かに手を引いて、傍の茶々の毛皮へとまた顔を埋めている。

「そいつ、ウチの新人だった」

『お前、今本当に何処にいる?頼むから空木の様子を見てると言ってくれ。あの男はもう会社にいない、空木は家に帰れば一人だぞ――――』

「僕も様子を見に来た所。大丈夫だよ、無事」


 向こうで溜息が僅かに震える様に聞こえたのは、間違い無く安堵のそれだろう。

 兎に顔を伏せている彼女にも聞かせてやりたい程に、珍しく羽柴が動揺していた。

「ちゃんと話しておきたいんだけど、どこかで会える?」

『相手の所在を確認する前に空木を一人にするな。…空木が許すなら俺から行く、お前今空木に聞ける場所にいるのか?』


 待っててと一度スマートフォンの通話口に手を置いて、彼女の方へと顔を向ければ楚良が顔を上げる。

「ちょっとこの家借りてもいい?」

 問いかけられてどういう意味だろうと思いながらも頷いた彼女に、一條がまた微笑して寄越しスマートフォンを耳に当てた。


「最寄り駅送るからついたら電話して。迎えに行く」

『分かった。仕事を納めるのに30分は掛かるが、待っててくれ。空木のデスクに何かされたらコトだからな、準備してから出る。車は使わない方がいいのか?』

「どうだろうね、流石に羽柴はつけられないと思うけど――――羽柴と空木さんが付き合ってるとかいうデマが未だに流れてるから」

『電車で行く。尾行に気をつければいいんだな?空木と、あとあれだ、空木の兎は見ててやってくれ』

「分かってるよ、待ってる」


 直ぐに向こうから通話が切られて、一條の口から溜息が漏れる。あれで何が疑わしいというのだ、寧ろ羽柴が彼女に惚れていないという方が疑わしいと思うのは、欲目だけなのだろうか。

 彼女がまた兎に慰めて貰っていて、本当に心配ないと告げたい。


「よしよししていい?」


 問いかける一條に、一度目線を下げていた彼女だったが少しだけ迷った後に小さく頷いた。頭を撫でるだけなのだろうとの楚良の予想に反し、両手が伸びてその胸へと抱きしめられてどうした事かと思う。

 後頭部に入った指先の感触がくすぐったくて身を竦めていたら、また茶々が二人の合間へと無理矢理入ってきた。


「あの…茶々が……」

「もう少しだけ。茶々ちゃんも妬くんだね」


 それでもしつこく彼女を抱きしめたままでいたら、ついに後ろ足が一條のみぞおちへと全力で入り、思わず息が止まる。

 駄目、と彼女は迷った声で咎めたが、腕を緩めた一條が腹を押さえるのを見ている茶々は何が悪いんだと言わんばかりで。


 恋敵は絶対に人間ではないと一條は確信する。羽柴がどうこうを疑う前にこの暴君を治める為、茶々の頭へと手を伸ばして撫でていればもう一匹の暴君がその腕の下に入り撫でろと要求し、本当に厄介な恋敵達だと思った。


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