第67話 後

「君は今まで結婚って意識した事ある?」

「――――……何を言い出したんでしょうか。ありませんよ、一生独り身で居る予定ですよ」

「何で?」


 何でと言われればどうしてそんな事を聞くのかとばかりに楚良も首を傾げたが、自分の様になると言った手前はちゃんと説明しなければならないのだろうか。

 何故、と、言われても、出来ないからと言うしかないと思うのだけれど。


「周りには恋人だと思われてて、一緒に住んでて、それでも君がノーっていう理由を知りたかっただけだよ」


 答えに困窮しているらしい楚良に、ふっと唇の端を上げた一條が机に頬杖を突きながら告げて見れば、マスクから見えている目元だけが顰められた。

 おいでとばかりに手招いた一條に、顔に疑問符を浮かべたままの楚良が向き直る。


「それはつまり、一條さんは私と結婚しても構わないという事なのでしょうか?」


 やはり顔の半分を覆うマスクが邪魔だと警戒も無く近付いてきた楚良の方へと両手を伸ばす。流石に顔へと手が伸びれば一瞬身を引こうとしたが、それよりは一條の指が耳元に触れる方が先。

 肩を竦めたその固さを良い事に、するりとマスクの紐を耳から外して下ろせば、また何だとばかりにその瞳が一條を見つめた。


「この生活を維持していくならそれでも良いかなって思ってるよ」

「結婚というのはそういうものではないと思うのですが…」

「じゃあどういうもの?」


 本当に会話の内容に困惑しているらしいのは、本気でこの問題については予想もしていなかったし一切考えてこなかったという事だろう。

 それだけ男と住む事に意識を向けてこなかったという事だろうし、そう言う相手も居なかったという事に他ならない。


「いえ、どういうものかは分かりませんが、一條さんが望む事は別に結婚をしなくても出来るかな、と?」


 楚良は何でも言葉に含まれる本心を悟りたがる傾向にあるから、どうして一條がそんな事を言うのだろうかという様な事を考えて居るのだろう。

 勅使河原の関係でどれだけ強い感情を向けられても、ストーカーをされても、お前の勘違いだと言われ続けた過去というのはなかなか人の行動と好意を素直に受け取れない。


 此処まで言っても分からないというのは、なかなかにもどかしいと軽く一條が溜息を吐けば、どうしたんですかとまた首を傾げられた。


「本当にそう思う?」

「そう思っています」

「僕が望む限りここに居て良いってこと?」

「――――…そう、なります」


 多分、とか、彼女が色々と引っかかっているがそれは一條にしてみれば些末な事である。

 彼女は自分の言葉を忘れる事は殆ど無いから、こんな会話は言質と同じ事で、また一條が口元に笑みを浮かべた。


 マスクを返して欲しそうに、楚良の指が一條の手元へと伸びてその紐を軽く引く。直後にカタンと小さな音を立てて椅子が鳴ったと思った時には、眼前に長身。この視界の効かなさは覚えがあると思った瞬間には身体の両脇に腕。

 今度は壁ではなく後ろにあるのはダイニングテーブルで、一歩後ろに下がろうと思っても腰辺りが机に当たるだけだった。


「あの、移ります」


 顔を背けてみるも眼前の身体が引かれる気配もない。鳴海の時にはその体格の良さだとか、案外筋肉質だ等と考えていたのに、今は何故だろうかどちらかと言うと落ち着かなさを感じてならない。

 会社と自宅の違いだろうかと思う前に、一條の方を向いた瞬間ごつん、と、額に軽い衝撃が来た。


 ただしあの時の様な痛さはなく。


「鳴海には頭突き以外に何もされなかった?」

 先程まで結婚の話をしていたのではないかと思うが、今はまた会話が少し巻き戻っている。額同士が当たってしまえば、本当にその距離が驚く程近くて。絶対にこれはインフルエンザを頂いてしまう距離だと、楚良の目が泳いだ。


「…近いです」

「答えたら離れてあげるよ」

「何、も、されてませんが――――」

 あの時額に軽いキスを受けた気もするが、見えていた訳でもないしあれは無かった事にしているから無かった筈だと思考が支離滅裂。答えはとてもシンプルながら混乱を伝えるもので、笑った一條の額が僅かに離れてほっと息をついた刹那だった。


 最初はその顔の近さが先程と変わらずに気付かなかったが、唇に触れた熱さと柔らかさに思考が停止。


 一條さんと名前を呼ぼうと僅かに開いた舌先にさらに柔らかく熱いものが絡んで、喉の奥から言葉が出ては来なかった。首の後ろの毛がぞくりと逆立った感触に見開いていた瞼が落ちれば、どうして良いのか分からずにその胸を両手で押し返す。


「――――何をするんですか?!」

 抵抗があるかと思ったがその距離があっさり離れれば、唇を塞いでいた熱も同じ早さで去って行く。

 吐息が自由になれば開いた瞳に見慣れた顔、それに真っ先に文句が漏れたのは、楚良にしてみれば至極全うな行動だった。


「何って、もう一回した方がいい?」

「結構です!理由を聞いているんですが!?」


 何事も無く答えたその長身がはいマスクと楚良に手渡したが、唾液感染はほぼ100%感染するのだから、多分もう色々と無駄だ。

 これはインフルエンザウイルスを貰っただけではないだろうかと、呆然とそのマスクを見つめていた楚良の頭に、一條の指先が伸びる。


「頭突きが許される距離ってね、この位近いんだよって分かってくれた?」

「え、は?――――っそういうご想像は鳴海主任に申し訳ないのでは!」

「鳴海どうこうじゃないよ、君の危機意識の欠如の問題。僕という恋人の存在がありながら、他人にそんな距離を許すなんて。容易に他人にこの場所を侵されそうだなって思って」

 危機意識の欠如などと口にされれば、楚良が思わず自分の口元へと手を置きながら盛大に顔を顰めた。


「鳴海や羽柴が此処に住みたいって言っても、許しちゃ駄目だよ?三匹目が増えるなら兎も手一杯だし」

「お二人は兎を飼っていません。あと言い出しません」

「鳴海に詰め寄られてる所なんか見られて、僕と別れたなんて噂が立つと僕も追い出されそうだし。君にはそういう行動は、謹んで貰わないと」


 最早言葉さえ見つからないと言わんばかりに口元に手を置いて絶句しているらしい楚良を見れば、やり過ぎたかとは思ったが嫌だとも出て行けとも言われていない。

 勿論彼女ならそう言わないだろうという勘というか経験則を踏まえた上でだが、本当に嫌と言わないところも不安になる要素の一つでもあった。


 本当に頭突きだから良かったものの、そんな至近距離を許した時点で一條には耐えがたい。


「その縄張り意識の強さは兎並みと思うのですが」

「あれ、今頃僕が兎だって気付いてくれたの?」

「もう少しこう、人としてのプライドをですね」

 口端を手の甲で拭った楚良が呆れた様に溜息を吐いているが、先程の行為を咎めていない時点で、そう言っている楚良でさえ人間扱いしてくれていたかと言う所は怪しい。


 流石にもう一度、は、許されまいだろうか。


「そろそろさ」

「そろそろ?」

「会社の近くのマンション、引き払おうと思っているんだけど」


 うがいでもしておけば少しは発症を抑えられるだろうかと思っていた楚良が、キッチンへと向かおうとした足を止めて一條の方へと瞳を向けた。

 ダイニングテーブルで立ったまま、その男は楚良の方を見つめている。兎二匹は眠ったままでいるのか、そこに姿は現さなかった。


 看病されている体で、慈悲深い彼女にこんな事を言い出すのは卑怯ではないだろうかと一條の脳裏にも過ぎった。一瞬動きを止めていた楚良が、しかし肩を緩める様な溜息を静かに口から零す。


「それは、一時的な同居ではなくて、恒久的に此処に住みたいと言う事なのでしょうか」

「ここ、じゃなくて。――――…君と茶々ちゃんの側に、サチとずっと一緒にいたい」


 多分今まで女性を口説いてきた時にさえこんなに緊張したことは無かった。この流れでとか、この状況でとか、本当はもう少し体裁を整えてとか。そんな風に一條が考えていたが、彼女に触れた時に多分自分が求めているのはそういう事ではないと気付いた。


 全てをストレートに表現する彼女、それこそ彼女はどんな相手にもそれが自分の全てだから取り繕う必要がないとさらけ出す人だから。

 それこそ此処で断られても今はそれが自分の全てだと一條は思う。そう思うなら、寧ろこれは遅すぎる程の申し出で、例え断られてもずっと続くだろうそれだった。


「何で…今なのですか。…怪我をしてからずっと呆れられたと思っていたんですが」


 軽く彼女が溜息を吐いて自分の額を抑えながら俯いた。それは予想外の言葉で、え、とまた一條の唇から間抜けな声が漏れてその姿を見やれば、どうやら額だけどころか顔全体を手で覆っている。


「寧ろ、結婚なんて言い出すという事はそろそろ出て行くと言われるかと」

「だから望む限りここに居ていいって?」

「終わりの時期を見極めていてもう間も無くなのかなと…」


 どうやったらあの流れで誤解できるのか知りたい。本当に彼女の思考回路は其方にしか舵を切らないのか、本気で熱が下がってきた。


「寝ずに働ける事ぐらいしか取り柄がないのにずっと動けずにいて定時帰りだし、その上家事を全部任せて心配しかさせないし。看病させて頂いても私が殆ど仕事で居ませんし、寧ろ仕事上の事でやっぱり心配しかさせませんし。同居というのが難しすぎて…上手くできません」


 本当に上がりかけた体温だとか緊張だとかいうのをすっと冷やしてくれる様な台詞だと思って聞いていた一條の耳に、完全に自分の事を誤解している台詞が垂れ流されていて、見下ろした視界の中に困った様な楚良の表情が目に飛び込んできた。

 立ったまま、相対する形。顔から手を下ろした彼女が手持ちぶさたに長いスカートの布を指で摘まむ。


「空木さん、ちゃんと聞いて欲しいんだけど」

「ちゃんと聞いています」

「君は上手く行かないって言うけどね、僕はそのどれも嫌だなんて思った事ないよ」


 じっとその姿を見つめているだけでは飽き足らず、スカートを握っていた指先へと一條が手を伸ばしてみたが、楚良は振り払う事もなくその手を握らせた。

 殆ど手の温かさは変わらず、どちらかと言えば緊張に一條の手の方が冷たい程で。


「茶々ちゃんは勿論好きだけど、君とも一緒にいたいと思ってる。君は迷惑だっていうけど、やっと頼ってくれたんだって嬉しかったよ。まあ、その後は僕もこのザマだけど」

 真実かどうか確かめようとしているというより、どうにか好意以外でこの言葉が出ないのかと彼女は疑っている風にも思えた。


 表情は相変わらず険しいが、それすら一條は嫌いにはなれない。


「僕は君を疑う事はない。だから君も少しは僕の言葉を信じて欲しいんだけど」

「一條さんは……苦労を背負い込みたいタイプなのですか…?」

 完全に理解に苦しむという風な顔で一條の方を見ている楚良だが、理解に苦しむのは此方の方だと一條は答えてやりたい。

 ストレートに考えれば直ぐに口説かれていると分かろう筈なのだが、どうしても好意が無いと思い込みたいのか。


「もう僕が積極的に君と一緒にいたいんだって信じてくれれば何でもいいよ。細かい齟齬は今更だし、誤解が解けるのもゆっくり待ってるから」

「積極的に…」


 もう理解の範疇を超えているのかオウム返しになったその指先を絡めて見下ろしてみれば、視線が惑う様に辺りを、主に兎の飼育スペースの方を眺めてから戻ってきた。

 ストレス解消に兎を撫でたいのだろうが、残念ながら二匹とも眠っていて頼りにはならず情報過多で思考力が落ちているのか、瞬きも多くなる。


「でも…マンションを引き払ってしまったら本当に逃げる場所が無くなりますよ。何か距離を置きたい時や、頭を冷やしたいとき等も」

「逃げる必要はないと思ってる。これから君とはちゃんと向き合っていたいから」


 告げられる言葉に楚良の視線が下へと落ちて繋がれた手をじっと見下ろした。本当に今まではずっと彼女を囲い込む様な真似をしていたから何を今更と言われても仕方がない、ならば時間をかけて口説くだけだ。


「君が迷う原因が僕にあるなら勿論無理は言わないよ。でも、前も言ったけど――――そうじゃないなら絶対に諦めない。君が僕を嫌いだって言ってくれないと、ずっとこのままだよ」


 う、と、小さく呻いた彼女が見下ろしていた視線を上げて、そして深く大きく溜息を吐いた。

「分かりました。嫌ではないんです、本当に…生理的に受け付けないとか、そういう事ではなく。ただ本当に申し訳なく思っているだけで」

 どうしたら良いのか分からないままに一條を見上げた楚良ににこりと笑った一條が瞳を向ける。


 だから先程言ったのに、その気も無いのにこの距離を許してはならないと。

「申し訳ないなんて思わなくていいのに――――――――……こういう意味だよ?分かってる?」


 どういう、と、彼女が首を傾げる前に先程の熱が再び唇へと触れる。それは先程とは違って軽いリップノイズを立てて直ぐ離れた。

 見れば笑み、今度は瞳を閉じる暇さえないし、驚く暇もない。


「君の側に居られて、君の世話を焼かせてもらうなんて天にも昇る気分だよ」


 もう完全に凝固するしかない彼女の額をそっと撫でて、手を離してからリビングの方へと歩を向けた。どうせもう伝染しているだろうし一緒に寝てもらおうと思いつつソファに歩けば、背もたれを倒した時点で兎二匹が目を覚ます。


「もう予防も意味ないし、一緒に寝ようか」

「馬鹿じゃないですか!?そんな事言われて一緒に眠る訳ないですよね!?」

「何もしないよ。皆で一緒に眠るだけ」


 どうかと言わんばかりに両手を挙げつつ降参ポーズをしながら、しかしにじり寄りつつ問いかける一條に二の句が告げない間、兎達がソファベッドの布団へと昇っている。

 詰め寄る一條に壁際まで追い詰められている飼い主に、何をしているのとばかりに、布団をダンダンしているのは茶々で、サチはもう既に枕元で丸くなっていた。


 結局彼女は兎には弱いのだ、兎と称した一條を断る事も出来ずに横になるのは最早決定している未来と言える。


 二人で横たわれば最早遠慮もなく楚良を引き寄せる一條に何か不穏なものを感じたのか、珍しく茶々が寄るなとばかりに額を後ろ足で押した。茶々は絶対に人の感情の機微に鋭いのに違いないと思ったので、楚良にしたい様に一緒に抱きしめて額にキスまでしておく。


 お前にされたいんじゃない、とばかり。茶々の足にまた押されて、不条理を感じた。

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