第65話

「お、お前元気そうじゃないか」


 昼の光の中、足下に兎が走り回っているのを許しながらテレビ画面を見ていた一條が、聞こえてきた声に顔を上げれば盛大に嫌そうな顔、というのが隠しもされずに顔へと浮かぶ。

 この時間、家に居るのは平日ではあり得ない。兎達が心なしか、はしゃいでいる様に見えるがやはり心配もしているのだろう。足下でちょろちょろと遊んでいる為に、時折その毛が指先へと触れて擽ったい等と思っていた最中だった。


「勝手に入ってくるの、どうかと思うよ。あと、僕インフルエンザで休んでるんだけど」

「まあそういうな。お前の部下に泣きつかれちゃ仕方ない、見舞いがてらもあるしな」

「だったら空木さんがいたでしょ。彼女から何って言って鍵を取り上げたの」

「そりゃChevalierも出来てない間に動くなつったら嫌そうな顔で渡してくれた」


 だろうねとばかり、その内容を聞かれれば大きく息を吐き出した。少し前にどうしても確認して欲しい契約書があるのだが撮影不可だと羽柴に鍵と共に奪われたと、本当に申し訳なさそうな声で電話が来た。

 流石にずっと眠っていたし何か食べるものでもと冷蔵庫からアイスを取り出して食べていた頃、この男は本当に楚良に迷惑しか掛けない。


「昼は何か食ったのか?」

「羽柴にキッチン使わせる程悪くなってないよ。書類置いたら出て行ってくれる?」

「そんな冷たいこと言うなよ。どうせ暇だったんだろ?」


 彼がリビングで付けっぱなしのテレビを顎で指せば、これは何を言っても無駄かと一條が深く溜息を吐いた。書類頂戴と手を差し出せば、鞄の中から黒いファイルを取り出した羽柴が其方へと差し出す。

 部下からもメールが入ってきていて事情は承知していたが、陰島も今日休んでいると聞いていたから急ぎならばこうなるのだろうが。だが撮影禁止は羽柴の嘘だ間違い無い、絶対この家に来たかっただけだ。


「熱は?」

「は?」

「下がったのか」

「昨日よりはね。38度ぐらいだけど、羽柴はもらいにきたの?」

「いや、実は俺もちょっと喉の調子がおかしくてな。多分ヤバイんじゃないかと思って早退した」

「もう帰ってほんとに」


 ここで倒れるのだけは辞めて頂きたいと思っていれば、分かってる分かってると本当に理解しているのかしていないのか謎な台詞が漏れた。

「何だよ、空木の看病じゃ不安だから来てやったのに」

「何か誤解してるみたいだけど、彼女の看病って余程僕よりしっかりしてるし完璧だから」

「え、マジなのか。焦げた粥だとか伸びきったラーメンだとか食わせてると思ってた」

「そういうイメージになりがちなのは否定しないけど、彼女お母さんが病気だったからね」


 本当に自分も忘れていた身で言いがたいと思っていたが、彼を納得させるのには事実を告げるのが一番だろうと思えば溜息と共にそう告げた。

 暫し言葉を止めていた男が、そいやそうだったな、等と結局帰る気がないらしい羽柴が床の上へと腰を下ろした。本当に帰ればいいのに。


「しかしいつから同棲してたんだ?そんな気配も無かっただろ。勅使河原が来てから後だよな?」

「つい最近だよ、様子見がてらちょくちょく泊まりには来てたけど、絶対安静が条件なのに動き回るから」

「で、転がり込んだ訳だ」

「そうだよ、今もそう。彼女からお願いされてる訳じゃない」


 時期は誤魔化してはいるが内容は事実で、机の上へと置かれていたスポーツドリンクのボトルを取ってその蓋を開きつつ口を開く。

 咳があれば本当に彼に移ると、ついでにその脇に置いてあった使い捨てのマスクへと視線も向けたが、何か色々手遅れの様な気がしてならない。


「Chevalierって今どうなってるの?」


 契約書を手元へと広げながら、ファイルの後ろ側に挟まれていたメールへと目を落とす。

 取引先にかなりきつく譲歩を求められているらしいのはそれから見て取れて、小さく一條が溜息を吐きつつ一度それをソファへと置いてから立ち上がった。

 ついでの様に居座るつもりの羽柴へと、気がかりを問いかければ兎にじわじわ指を伸ばしている羽柴が顔を上げる。


「鳴海にそっくり渡してたな。代わりに鳴海の仕事をやってるみたいだが」

「――――そう」

「何だご不満か?」

「羽柴だって不満でしょ」


 棚の上に置かれていた自分の鞄から筆箱と手帳を取って再びソファへと戻って来た一條の漏らす言葉に、くく、と羽柴が肩を揺らした。茶々が羽柴の側で座ってはいるが、その距離は遠い。

 ソファへと腰掛け一條が膝に毛布を掛けて再び書類を乗せれば、サチがその傍らへと昇ってきた。


「このままなら羽柴は動かせないよ、…鳴海は甘えすぎだと思うけどね」

「怒るなら鳴海じゃなくて上に立つべき空木だろ」

「それは絶対反対する。彼女が課長になる様な事があったら、僕は羽柴の移動を断るよ」


 おやとばかりに羽柴が眉を上げて、其方の方へと目を向けた。あの時も反対だと言っていたが、こう明確に断られたのは初めてだと思う。

 確かに今回色々とデザ課の希望が通る状態だが、それでも流石に営業課長が駄目だというものはどうしようもない。実績も積んだわけだし、社長の覚えもいい。


「今回は鳴海が課長になるべき案件でしょ。それを彼女にやらせて、その上彼女を信じられていない様じゃこの後も続かない。大体、没食らったのは1回目だよ?最初に4回出された時に羽柴がどうしてたか思い出せば直ぐに行き当たると思うけどね」

「いやあ、あれがあるから言い出しづらかったんじゃないか?」

「羽柴は庇いたいんだと思うけど、僕はノーだよ。主戦力なのに、これで彼女が物怖じしたらどうするの」


 珍しく強い物言いであるのは熱の勢いがあるのか、誰も聞いていないと知っているからか、それとも彼女が絡んでいるからだろうか。どれもあり得るなと思えば、彼の言いたい事が分からないでもない。

 羽柴も概ね一條と同意見だ。もし自分が課長を退くつもりでなく、全ての仕事を仕切る立場なら、そもそも鳴海のやり方は取らない。


「空木さんは絶対にミスを他人に求めない。だから間違い無く今回みたいな事があったら自分でどうにかするし、多分上に立っても皆の好む仕事しか振り分けていかない。他部署にも強く出られないし、取りこぼしが多くてもなまじ自分が全部出来るから他から文句も無くその状態が続くでしょ」

「いつかはパンクするって事か?」

「それより先に他人のミスを被って上から引いちゃうだろうね。それで彼女が堰き止めてた部分が決壊してデザ課が潰れるなんて目に見えてるでしょ。何で羽柴が空木さんを課長になんて言ってるのか分からない。そんなに営業に未練があるの?」


 あの時はそれ程直接的な言葉ではなかったと思うし、部長3人には理解して貰えなかった。

 一條はその話を聞いた時から一貫して、彼女は課長の器ではないと思っている。

 能力を侮っているのではなく、逆の立場で。


「まあ未練はあるが、そうじゃない。お前の言ってる事には同意する」

「じゃあ何で」

「その論で行くと、空木も鳴海を信用してないだろ」

「彼女の実務経験の浅さなんか見てたら仕方ないと思うけど?」

「それはお前の空木に対する採点が甘いだけだ」


 溜息を吐いた羽柴の側へと寄っていた茶々が、腰を上げてよいしょとばかりに緩慢な動きでその胡座をかいていた膝の合間へと入り座る。よしよしと言わんばかりに背中を向けているのは撫でろの合図だろう。

 一條の膝は埋まっているし、作業中なのを見て相手にしてくれないだろうと思ったのだろうが、惑う様に手をそっと伸ばした羽柴のそれに直ぐに不満になるのは目に見えてる。


「経験さえ積んで取捨選択が出来る様になれば問題ないのかもしれないけど、今課長にしてやらせてみたって磨り潰される方が先だよ。そんな未来が見えてるのに僕が許す訳ないよね?本人がそれを分かってるのが余計可哀想だよ」

「案外お前元気だな?」

「茶化さないでくれる?大体羽柴が移動なんて言い出さなきゃ良かったんだけど」


 元凶めとでも言いたげな一條にまた羽柴が肩を揺らして笑っている。ぐいぐいと茶々が頭でもっと撫でろと主張しているが、その手は楚良の手付きにはほど遠い。

 早々にその手の中を抜け出して、大きく首を振って自分で毛繕いを始めているのを、何が不満だと羽柴が見つめた。


「まあ、今はあっちこっち業務が止まってるしお前も居ないし、後はデザ課の問題だからな。まあ、俺は、あの二人の相性は悪くないから案外いけると思うんだがどうだ」

「相性、ね」

「まあそう殺気を込めるなよ。一匹狼がちょっとずつ変わってきてるんだ、俺は空木の為なら案外アイツは一皮剥けるんじゃないかと思ってる。それにはいい機会だろ」


 書類をチェックしていた一條がスマホの画面を軽く指で擦り、部下へと送るためのメールを作成し始めた。羽柴に飽きた茶々がわざわざサチと一條の合間へと身体をねじ込ませて入れば、気付いたサチが茶々の上へと乗る。

「そもそも空木さんを新人扱いしてる時点で無理だよ」

「だからいい機会だって言ってんだろ。直ぐに思い知るさ、まあもう一度ぐらい没出すかも知れんが。大体空木も空木だろ、担当者がお前で俺が上ならこんな事になってない」


 現状羽柴に言わせれば空木は鳴海に対して遠慮があるし、鳴海は空木の能力をそれほど信じていない。双方が双方を侮っている状態なのは、まあ空木の経歴と入社時期の遅さを考えれば仕方がないと言えば仕方がない。

 タイミングが合ったとは言え、最初から上手く使っている羽柴はそれだけ流石と言えるのだが。


「羽柴はどこが着地点だと思ってるの?」

「お前だって考えてるだろ。鳴海が課長で空木がその下だ」

「鳴海がそこまでやるとは思えないし、そこまでさせるのは可哀想だと思うけど」

「父親どうこうなんざ許されるのは二十歳までだっつーの。とっとと課長にでも何でもなれたものを、お前がそういうから此処まで引っ張ってきたんだぜ?」

 お前は事なかれ主義なんだよと耳につく事を言われたが、羽柴のやり方が破天荒なだけで一條は組織の人間として真面目に勤めているだけだ。


 鳴海は能力は申し分無いし、組織を見る力にも長けている。人付き合いは確かに難があるが、それでも理不尽な態度を押し通す程ではない。それに最近他の部署でちらほら噂になる程度には、会話も成立しているらしいので。

 それこそ羽柴しか手綱を握れなかった頃とは違うと言えるのは、主任を任せての期間の長さも、相性のいい新人を見させた事もある。


「ある程度のやり方を覚えさせる程度で幕を引くつもりだったんだけど」

「お前は空木が大事だからそう言うんだろ?多分上手く行くから大人しく黙って見てろ」

「黙れも何も出社できない上に羽柴も危ないとか、全然上手く行く気がしないんだけど」


 思わず額を抑えてみれば先程と全く変わらず、手も額も熱い。寝ていろと言われたのに起きていた事がバレて、しかもこんなに喋っている事がバレたら多分楚良に悲しげな顔をされるのに違いない。

 兎がはしゃぎすぎて爪を割ったときと同じ様な顔で。


「お前は空木が鳴海と仲良くなるのが嫌なんだろ?」

「仕事上の付き合いに制限設けてないよ」

「ならいいが。課長同士が女でモメるなんて嫌だからな。――――そういやお前、俺にはそんなだったな?」

「羽柴のは人を見た特別扱いだけど、鳴海はまあ……ね」


 それこそ以前会社では羽柴と楚良が付き合っているのではないかと言う噂がまことしやかに流れていたが、それは楚良の扱いが他の女性とは違う、という所に起因していた。

 小学生が好きな女の子の気を惹く方法が分からずにちょっかいを出す、という風なその様子は生真面目な楚良には受け入れがたいものだったがその分胸襟を開いているのに態度は早い段階で軟化していた様だから。

 楚良のスペックは上手く使うからこそだと思っている一條には、本当に相性がいいのは羽柴だと思っているし人を扱うという一点なら鳴海はまだ経験不足が目立つ。技量的には流石にそれで食べている鳴海に腰掛けの羽柴は勝てよう筈はないが。


「まあ、あんまり空木を慰めてやるなよ。こういうのは腹を見せてこそなんだから」


 彼にしてみれば楚良に鳴海を頼らせろという意味なのだろうし、その意図は分からないでもないが本当に下手を打てば双方不満を抱える結果になるのは分かっているのだろうか。

 楚良はひたすら自分を責める結果になりそうだし、鳴海は鳴海で人付き合いにも家族関係にも禍根を残す結果になるだろうし。自分がインフルエンザで脱落したと言っても、羽柴のやり方は本当に大雑把だし直感に頼っていると言わざるを得ない。


 だからデザイン課などに飛ばされるんだろうが。自分の下についたらしっかり絞めよう。


「さって、お前の同意も得たし帰るかな。また兎の撫で方でも教えてくれ」

「帰るのはいいけど鍵は置いていってね?」

「何でだよ、空木が帰ってくるときに困るだろ!?」


 やはり持って帰るつもりだったのかと思うし、今から会社にもう一度戻るつもりが本当にあったのかと突っ込みたいが、一條もやや疲れが出てきた。

 早退したと自分で言っていたと思うのだが。


「空木さんから帰りに貸金庫に預けてある予備の鍵を取って帰るから、絶対回収しておいて下さいだって」

 ち、と羽柴の口から隠しようもない舌打ちが漏れて上着のポケットへと突っ込んで、ごそごそと鍵を取り出し机の上へと置いた。小さな兎のキーホルダーのついた、可愛らしいものは確かに楚良の物だった。


「合い鍵なんて作ってないだろうね?」

「それ複製できない奴だろ。取り上げた時にそう言ってたからな」

「どれだけ信用ないの」


 胸襟を開く事に成功はしているが、本当にその辺りの信用はないのだろうと思えば少し安心したとは表情には出たんだろうが口には出なかった。

 部下にもメールを送り終えて、書類は会社のテンプレを使う様にと指示も出し終えれば直ぐに了解の返事が返ってきたから待っていたのだろう。楚良にもついでに鍵は回収したとメッセージを送っておく。


「おっと、ゾクッときたな。多分俺も暫く休みだ、お前と違って一人で寝転がるだけだがな」

「帰る気がちゃんとあって何よりだよ。お大事に」


 もう見送る気もないのだろうひらひらと一條が手を振り、その傍らにいる兎が帰れとばかりに見送りもせずに耳だけを立てていた。

 楚良がいない時の来客は例え一條が側にいたところで好まれないのは、今日これを見て覚えておこうと一條は思う。


「お前も二人が心配なら早めに治せよ。じゃあ後は宜しくな」

 軽く立ち上がった羽柴が軽く兎の毛を払ったが途中で諦めたらしく、手を挙げ返して知った家の様に勝手口からそれこそ勝手に出て行った。


 本当に喋りすぎたと喉へと手を置いてコーヒーテーブルへと膝の物を全て移した次の瞬間には、身体を起こす前に茶々とサチが二匹とも膝の毛布の上へと乗ってくる。

「暑くなるよ」

 優しく声を掛けてやれば二匹が同時に顔を上げて一條の顔を見つめた。体温は高いし毛布もあるし、2匹纏めてだから余計に暑いのではないかと思ったが、来客に緊張したのか今は一條の膝から去りそうにない。


 兎の細い毛は気管支に良くないからリビングでは寝ない方が良いと楚良には言われていたが、本当にこれは叱られるのではないだろうか。それでも兎達を避けて自室には戻る気にもならない。もう少しだけ、と、その毛並みを撫でながら先程の羽柴との話を思い出した。

 仕事に関しては楚良は一條に甘えたことはないから、また腰が細くならなければ良いのだが。そんな事を考えて居る時点で自分がどちらに肩入れをしているか等明かで、はぁ、と溜息を吐き出した。


 その吐息が不味かったのかやはり暑くなったのか。二匹の兎がまとめて膝から逃げて言ったのをみれば、また彼の口から深い溜息が漏れた。

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