第66話
「はい、はい――――有り難う御座います。ゆっくり休んで下さい、…はい、分かりました。確認しておきますね」
「羽柴か?」
「はい、検査で陽性だったみたいです」
耳に当てていた受話器をデスクへと戻しながら、楚良が小さく溜息を吐いた。羽柴が早退すると言って帰ってから次の日は普通に出社してきて早退は嘘だと安心していたのだが。
あれは一條から移った分ではないだろうか、それとも打ち合わせにきたついでにくしゃみをしてくれた営業課の人のせいだろうか。自分は離席していて助かった気がしてならない。
そろそろ最初に掛かった人間が完治して出てくる頃なのだろうが、デザイン課でインフルが流行し始めたのはそれこそ営業より遅いから、羽柴を筆頭に暫く続くのだろうかと楚良はマスクの掛かりを確かめた。今自分が貰う訳にはならない。
「一條課長の様子はどうなんだ?」
「熱は今夜には下がるのでは?あとは消化試合ですね」
椅子から裾を揺らして立ち上がった楚良が羽柴の席へと着いてPCの画面を立ち上げる。パスワードはそれこそ随分前に教えて貰っていて、迷いもせずにそのキーを打ち込み表示されたデスクトップへと瞳を落とした。
一週間も羽柴が抜けるのは一瞬地獄ではないかと過ぎったが、彼に割り振られる仕事は余程の事が無い限り軽微な物に絞っているから、然程ではない。が、羽柴が倒れたとなると他の社員の仕事も考えておかなければと思う。
羽柴の苦労が身に染みるが、暫く見てやるから好きな様にやれとは何だったのか。
スマホの画面を片手に彼が今抱えている仕事を引きだしつつ、とてもファイルが散らかっている等と思う。デスクトップ画面はファイルとフォルダで埋まっているし、多分天才肌なタイプなのではないだろうか。
此に比べて鳴海の画面は本当に見やすいのだけれどと思いつつ、指示されたものを全て共有フォルダに突っ込んで置く。
「空木!お前ちょっと来い!!」
一区切り終わったその刹那の事だった。人の少なくなった営業の方から大きな声が掛かって其方へと瞳を向ける。
一瞬瞳を細めた楚良だったが呼び出しの内容には心当たりがあると、深く吐息を吐き出してから羽柴のデスクに手を突いて立ち上がった。彼女がファイルも何も持たずに移動するのは珍しいと、一瞬デザ課の人間がその姿へと視線を向けたが、楚良は気にしていない。
営業部の人数は半分以下かと思えば初期の頃に掛かっていた上月の机の左右にも人は居ない。快癒して出勤した矢先に、多分Chevalierからのメールを確認しての事だろう。
「お前、何で呼ばれたか分かってるよな?」
「申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた楚良に、思わず上月が一瞬言葉を止めたが、しかし直ぐにやり場の無い怒りを止める様に机を叩いた。
「お前ちょっと聞くだけっつったよな?向こうは営業でもないバイトみたいなのに、サンプル違いじゃないかってまた言われたってカンカンだぞ」
「デザイン課ではあれ以上のデザインは出せません。皆のイメージは殆ど同じでしょうし、相手方との差が大きすぎます」
「だからってお前…!サンプルミスは前も言われて課長が指摘したけど、間違い無かっただろ!?何でそれで先方に同じ事聞けるんだよ、向こうも怒るって分からないのか?!」
「あの時とは状況が違います。以前はイメージの齟齬を責める言葉ではありませんでした。今回はそもそも本質などではなく色が違うと。流石にそんな考え違いの人間はうちのデザイン課には――――」
「黙れよっ!こっれ、どうするんだよ」
「……先方には私が――――」
「お前で何の話が出来るんだ、詫びに行くんだぞ!」
頭を抱えて俯いたらしい上月の姿を見やりながら、楚良が身体の前で手を組んで僅かに力を込めてそこを握り締める。
此方の担当者が変わったタイミングで向こうの担当者も同じく変わっている。日下部に直接連絡を取るまでもないと思っての事だったが、彼方は楚良の声の若さに最初から怒鳴りつける勢いだった。
以前4回没を出した時に羽柴が同じ様にサンプル違いを指摘したというのは、あの時に資料を読み込んでいるから知っている。それと全く同じ様に要求したのが余計だった、というのはその通り。上月や一條に判断を仰げば良かったとは一瞬過ぎったが、まさかあそこまで怒られるとは思っていなかった。
楚良に言わせれば鳴海が自分と同じイメージしか湧かないと言った時点で真っ先にそれを疑ったし、そのあと他の社員と話し合っても変わったものは出て来ない。
あの時と違うと感じたのは没の内容からだが、楚良にしては以前とは違うと言っても向こうがどう考えるかは考慮に入れておくべきだったし、間違い無いと言われれば引き下がるしかない。
「お前みたいな小娘が行ったって何の説得力も無いのは分かって……っ、いや…悪い…」
「いえ、事実です。本当に申し訳ないとは思っていますが、今回は私で我慢して頂けませんか」
「いや…どうかな。一條課長なら上手くやるんだろうが、見た目で説得力のあるタイプじゃないから、あそこまで怒らせてるとどうなるか」
一度怒鳴って爆発してしまえば、流石に自分の言葉の不味さに上月が思わず口元を覆って、そして軽く首を振った。上月不在の折に楚良が先方に確認を取りたい事があると言っていたから、先方と親しそうだしと許可はした。
許可はしたが、こんな内容なら彼女に連絡を取らせたりはしなかったし、上月にしてみればサンプル違いを指摘するなんて論外である。
「日下部さんに直接連絡を取りましょうか」
「それは最終手段にしような。サンプル違い以外の可能性を見つけてくれ、頼むから」
「分かりました。サンプルは無視して少し描いてみますね」
「………2度目の没だから考えてくれよ」
上月のその言葉に一瞬だけ楚良が組んだままの手に力を込めたが、やがて深く頭を下げて宜しくお願いします、と、告げてから身を翻した。
一瞬デザ課の方へと戻ろうと思ったが、気分を切り替えようと休憩室の方へと向かって歩を進める。
上月の物言いに腹は立たないが、あれはサンプルが違うかそもそもナイトキャップパフュームという指示が間違っていると楚良は思っていたが、絶対に間違い無いと言い切られれば自分の鼻がおかしくなったんだろうかと不安になってきた。
休憩室の扉を開いて、中へと入り一人になれば、誰かに判断を仰ぎたい気持になったが、そもそも決めて連絡を取ったのは羽柴の代わりに動いている楚良である。自分が勝手にやった事を他人に決めて貰うのは間違っていると考え直した。
もしかしてこれは俗に言うところのスランプではないだろうかと一度自分の手を見下ろす。
他の絵は恙なく仕上がっているが、そうだ、もしかしたら全てが戻って来るのかも。ならば仕事の調整はしておかなければと楚良の肩が落ちる。元々過分な評価だったし、最近調子に乗っていたから冷静になれという啓示なのだろう。
移動もふいになるのではないかと思えば、羽柴にも無用な期待をさせてしまった。
「空木」
財布の一つでも持ってくれば良かったと窓の無い部屋で一つ溜息を吐いていれば扉の開く音と共に声。自分の名前だと楚良が振り返ればドア枠が狭く感じる長身、黒いファイルを片手に立っている鳴海が楚良の方を見て軽く息を吐いた。
「済みません。一度Chevalierは私の方へと戻して下さいませんか?」
「どうするつもりだ」
「サンプルは参考にせずにナイトキャップパフュームという観点だけから仕上げてみます」
あっさりと告げた楚良にその側へと歩み寄った鳴海が眉を潜めてその姿を見下ろした。
一條よりも高い位置にある頭だから、側へと立てばそれこそ首を真上にするしか無くなる。
「……お前、あっちにサンプル違いだと言ったのか」
呟く様な鳴海の声に楚良が一瞬だけ視線を逸らして、しかし此処に来てはもうどうしようもないと静かに頷いた。
「そうです。デザイン課のイメージは一致していましたので」
「それは最初の時もそうだった。それをお前が……」
「あれは見方を考えればどうにかなるというレベルではありませんでしたので。どちらにしろ鳴海主任が駄目だった時点でサンプル違いは問い合わせようと思っていました。…営業を通せば多分握りつぶされるのではないかな、とも」
言い方は不味かったのだろうが多分どちらにしてもそれは選んでいたと、楚良が告げて真上に顔を向けているのが疲れて脇へと視線を落とした。
「申し訳ありませんでした。向こうから間違い無いと言われたという事は、私の見当違いです」
脇へと視線を落としたままで深く彼女が頭を下げてしまえば、それこそ身長差が際立って彼女の頭が遙か下に見えた。
謝って済む問題じゃないと上月は言いたいのだろうし、一瞬それが鳴海の口からも出掛かって、しかし直ぐにそこで止めた。
Chevalierに関しては羽柴が既にもう彼女に一任していて、楚良はそれに従っただけだ。
自分ならそうしなかったというのを主任という立場だけで叱るのならば、それは違うのではないかと思えば鳴海の口からも漏れない。
ただ軽く、指先に力が入ったのは、一條が彼女と組んでいたならこんな事にはならなかったのではないかと思ったからだ。
「…担当は一條に戻すか?」
「いえ。一條課長ならとか、羽柴課長ならという観点から一旦離れましょう。駄目なのは私です、他の誰でもありません」
顔を上げた楚良には迷いが無かった。寧ろこうしてきっぱり言われた方が、没を出した事に言及されない方が、余程鳴海の胸を抉る。
「大丈夫ですよ、次が没でも何らかの感触が掴めればその次でOKの出るものは出せるかと思いますので。最適解では無いかもしれませんが」
まあ営業の機嫌は損ねましたけどと苦笑を浮かべた顔が片手を机の上へと置いて、小さく息を吐きかけて楚良自身この溜息は甘えだと思って途中で吐息は止まった。早く大きな仕事は仕上げてしまって、他の仕事に集中しなければと思考が流れたその刹那。
軽く身体が押されて蹈鞴を踏んだ所で、背中が自販機へと触れてその眼前に長身が以外な程の近さで立っていた。
「――――何」
「言いたい事はそれだけなのか」
「…どういう意味ですか」
「自分が悪かったから、後は全部自分がやる。俺に言いたい事はそれだけか」
再度鳴海の口から同じ言葉が漏れたが、本気で楚良にはどういう意図を持って紡がれている言葉なのか分からない。
身体の脇へと腕を立てられて、それこそ長身と自販機の合間に挟まれてしまえば、小柄な楚良からは何一つ辺りが窺えない状態になる。まさか彼が勅使河原の様な暴力に出るとは考えなかったが、それでもこの状況がよろしくない事だけは理解できた。
一体何が彼をそこまで怒らせているのか、詰め寄られる事態になったのか一向に分からないままだ。
「羽柴や一條相手にも同じ事を言ったのか?」
「…いえ、ですから一條課長と羽柴課長にどうするか、からは離れようと――――」
「もしそうならどうなんだ」
僅かに身を屈めれば完全に上まで塞がれた様な圧迫感。胸辺りへと視線を投げていたが本当に視界が自由にならないと上向いてみたが、その近さにまた眉を寄せた。
その答えを聞くまで動かないとでもいうつもりなのか、楚良が軽く手を伸ばして胸を押してみたが全くびくともしなかった。長身だが細身だと思っていたが、案外ちゃんと筋肉が付いている等と余計な事しか思い浮かばない。
「もし、羽柴課長か一條課長相手なら…。日下部さんか宮沢さんが出てくるまで粘って下さいとお願いしました。直接開発の方と話し合えば、齟齬がちゃんと埋められるかも」
少なくとも相手を見ずに侮って怒鳴りつける営業に従う理由なんてない位は、羽柴なら言ったかも知れない。一條ならそもそも楚良が電話を掛ける様な事態になっていない気がする。
「何でそれを………」
何故言わなかったのか、と、言葉に迷った風に一度鳴海が口に出し、しかしそれは最後まで言葉にならない。しかし言葉にならない代わりに、その長身も又動きはしなかった。
それを見上げれば眉を顰めているその顔は、まさに苦汁を飲んだかの様なその顔で。
「鳴海さんは表に出られませんから矢面に立てとは言いませんよ。この問題はデザイナーが出て話した方が良いケースと思っています。…まあ、私では信頼を得られなかったのが悲しいのですが」
「何でお前がそれを知ってる。羽柴から聞いたのか?」
「課長と主任で大きく違う事は、色々なマネジメントを除けば営業との連携部分と…あとは営業先に同席するか否かぐらいですから。それがご家族に関わる事なら、一番可能性が高いのはそこかなと思っただけです。羽柴課長が口を滑らせた訳ではありませんよ」
脇から抜けだせないだろうかと見上げるのを辞めてその合間に瞳を向けてみれば、さきに気付かれたのだろうかガッと頭を掴まれてまた鳴海の方へと向けられた。
この体制は本当に色々と緊張するし、首も痛いのだと思ったがそれが彼の望みならば仕方がないと楚良の瞳が向く。
「兎も角、今回は他にダメージがなくて良かったです。どちらにしろ今日帰ったら一條課長に相談してみます」
「……Chevalierには俺が」
「駄目です。それだけは絶対駄目ですよ」
本当にこの近さはどうにかならないのかと思ってまた胸を軽く押し返してみたが、その前に頭を掴んでいた手が離れるのが先。抜けだせるかと思ったその刹那には、手首を捉えられて自販機に押しつけられた。
ばさ、と、足下にファイルの落ちる音。一瞬楚良の身体にも緊張が走るが、それ以上の鳴海が距離を詰める事も無かった。
「今行けば問題になりますよ。向こうは間違い無いと言っているのですから、私の見込み違いも間違い無いと思います。…相手は有名企業ですし、名前が出るとバレますよ」
「――――……だがお前はそう思ってないんじゃないのか」
「どうでしょうか。あのサンプルに一番相応しい絵を描いたつもりですが…、私のスランプというのが濃厚なのではと…」
放して下さいとばかりに手を軽く押し返そうとしてみたが、全く離れたりはしなかった。
然程力は入っていないから勅使河原の様に痕を残す様なものではないが、だからといって離れる様な力でもない。
この人は、拘束し慣れているのではないかと思ったのは、流石に失礼なので思考の外へと追いやっておく。
「この話は此処までにしませんか。まだ納期にも余裕がありますし、今は少し頭に血が上っ――――――――!?」
自分もそうだし、多分鳴海もそうだと楚良が僅かに息を吐いてからそう告げて見上げたその瞬間。
ゴッ、と、鈍い音がしたかと思えば額に衝撃。直後手が離されれば目の前に火花が散ったと楚良が額を抑えてその場所へとしゃがみ込んだ。
頭突きだ。絶対頭突きだ。滅茶苦茶痛い。
「お前がスランプだとは思えない」
「は?…あの、滅茶苦茶、痛かったんですけど」
地面へと半ば蹲ったまま額を抑えて涙目の楚良が顔を上げてみれば、全く表情の変わらない鳴海がその場所へとしゃがみ込む。
これは上司からのパワハラという奴ではないだろうかと思ったが、本当にその衝撃で頭がくらくらして、思考がまとまらないぐらいには痛い。
「Chevalierには俺が出る」
「駄目です、絶対駄目です。…家族との不仲というのは、存外色々な所で問題が出るものですよ。その溝を深める結果になるので駄目です」
「不仲というなら充分不仲だった」
「だから余計駄目だと言っています」
しゃがみ込んでいてもデカいというのはどういう了見なのかと、滲む視界で見上げてみれば無愛想なその男が溜息を吐いてから視線が外れた。
まだ痛い。
「………許可が出れば良いんだな?」
視線の合わないままでぼそぼそと告げる鳴海に、楚良が首を傾げればよっと声を上げた鳴海が腰を上げる。
男が立てば本当に足下しか見えない楚良が、右手で額を押さえて何とか立ち上がった。
「何の?」
「気にするな」
は?と楚良がもう一度間抜けな声を漏らしながら足下に落ちていたファイルを思い出して、それを拾い上げる。汚れてないだろうかとやっと手が額から離れて、黒いファイルをぱたぱたと弾いた。
「赤くなってるな?」
「誰のせいだと思っておられるんでしょうか!?絶対腫れます、パワハラです」
手を差し出した鳴海へとファイルを手渡す様に差し出せば、ファイルではなくその手首をへとその指が回り僅か首を傾げた刹那、引き寄せられた身体がまた一歩進めば腰に腕が回って瞳を見開いた。
「明日までChevalierは動かすな。今日は任せる」
「――――は?!」
その拘束は今までのそれとは違い一瞬で、もう一度楚良が額を片手で押さえてみたその指先からファイルが離れて鳴海の手に握られていた。
頭蓋骨に響く様な痛みは相変わらず、だが今一瞬だけ。
無愛想なその顔に珍しく笑みが浮かんでいて何事かと思う前には、その長身が窮屈そうに扉を開いて出て行った背中だけが見える。
今日は任せるというのは早退でもするつもりなのか、まさかこの間の羽柴の様にゾクッときたとでも言うのだろうか。
仕事が詰まっている時に辞めて欲しいともう一度額を撫でて見れば、本当に痛い。あの人石頭だ絶対と思いつつ、あの一瞬の柔らかさは何だったのだろうかと思えば自然と溜息、心当たりは一つだけ。
自分が悪いと落ち込めば本気で頭が痛くなってきた。早退したいと過ぎったが仕事は山積している。帰ったら兎を吸おうと心に決めて、楚良もその男の背中を追う様に扉を抜けてオフィスへと戻った。
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