第53話

 水島が縋る様に一條の方を見つめていたのは、一條には情があると思っていたからだ。

 しかしその溜息はまた一條本人から漏れて、皆の視線はその男の方へと向けられる。もう充分追い詰めているだろうと羽柴も首を傾げたのは、彼の知らない情報なのか。

 もしかしたら、保守のカメラ云々自体が嘘なのかとさえ。


「空木さんは昔タチの悪いストーカーに合っててね。それが嘘だとか何だとか言ってた人もいるけど、その時の経験で自宅には監視カメラを仕掛けてあるんだよ。出入り口は勿論だけど、兎と暮らすためのリビングにもね」

 一條が胸のポケットから何かを取り出して、掌の中へと握り混む。カメラのデータでもあったのだろうかと思うと同時に、しかし、その映像は不味いのではと楚良が眉を顰めた瞬間。


「だからその映像を確認すれば家の中にいたって直ぐ分かるよ。それとね、そんな映像偽造したんだとか言うかもしれないから」

 ちりん、と、小さな音。

 握り混んでいた手を緩めてその中に吊されたのは、兎のキーホルダーのついた黒い鍵。

 それこそ楚良は半眼になるかと思った。


「流石に夜中に隣からいなくなったら僕も分かるよ。保守のカメラが切れた頃なら、まだ辛うじて起きてる頃かもしれないし、映像確認してみる?僕も映ってるし、ちょっと他人には見せたくない映像だけど」


 部署全体に驚愕の沈黙が落ちるのが楚良の肩にも重い。水島はかっと目を見開いて止まっているし、羽柴も一條の方を見やって固まっている。

「動機が一切無くなったね。空木さんが僕に気に入られる必要なんて無いよ。この鍵の理由は、説明しなくてもいいかな」


 それは会社で暴露をしてはならない情報ではとか、一條がそれこそ趣味が悪いと思われるのではとか、色々と楚良が考えているがこの部屋においてこれ程説得力を持つ様な道具はない。

 ちりん、と小さく音を立てた鍵が再び手の中へと包まれれば、上着の内ポケットの中へと戻される。最早言い訳を重ねる気さえなくなったのか、へなへなと水島がその場所へと座り込んだ。


「わたしじゃないです…わたしじゃない。頼まれたんです……わたし、ちがいます…」

「後でちゃんと聞いてやる。――――――――空木!!」


 楚良がへたりこむ水島に何を言うべきか、黙っている方が良いのだろうかと迷っている間に羽柴が自分のデスクから離れて一歩、歩きだそうとした瞬間に口を開いた。

 それは多分羽柴だけではなく、デザ課の皆の声と一緒に、一條の声も混ざっていた風にも。多分、営業課の人間にも自分の名を呼んだ人がいただろうか。


 次に見えたのは自分の視界を覆う様に人影。


「……っ………」

 楚良がその人物を認めて何か言おうとした口が、しかし、直ぐに詰まる様な声と共に閉じる。左の脇腹に刺す様な痛み、いや、多分ではないとその場所を強く押さえた。


「このアバズレ!!売女!!折角俺が目をつけてやったってのに、他人のモノになりやがって!!!」


 怒鳴りつける様な声に動きが上手くついていかない。視線が一瞬離れて手元を見れば、左の脇、上着に引っかかる様に文具用のカッターが刺さっているのが見える。

「空木!」

 デザイン課の女性社員が走り寄ろうとした瞬間、勅使河原が目を落としていた楚良の身体を蹴り飛ばして、直ぐ後ろにあったガラスのドアへと背中が叩き付けられそのまま膝が崩れて尻餅をついた。


 上着からカッターを引き抜いて脇へと投げれば、その刃先に血。完全に場所も状況も忘れて半分錯乱しているかの様な勅使河原が楚良へと歩を詰めようとした瞬間、陰島が真横から勅使河原へと体当たりをしてその身体が横薙ぎに消えた。


「お前大人しくしろ!」

 それがおそらくは切っ掛けだったのだろう、動きを止めていた社員達が皆一斉に動き出せば最早勅使河原が抜けだせる様な隙間もない。


「はなせはなせはなせ!!おまえらに関係無いだろ!!ゴミ屑ども、楚良は俺のものだ!浮気してた女には何したっていいだろ!!俺が浮気されたんだぞ!!」


 完全に床へと押さえ付けられた勅使河原が、後ろ手に縛り上げられながらばたばたと足を動かしていて、その口から完全に頭のねじが切れた様な醜悪な台詞が漏れる。

 事情を知っている者は心底侮蔑の表情で勅使河原を見下ろし、一体楚良との間に何があったんだと知らない人間でさえ、完全に生理的に受け付けられない様な気持ち悪さを感じた。


「お前らそれ以上何もするなよ。過剰防衛になるからな。そんな男の為に事情聴取なんてされたかないだろ」

「お前ら全員豚箱行きだ!!俺は刀司の息子になるんだぞ!!こんな会社潰してやる!」


 羽柴の言葉に再び勅使河原が激高した様に其方へと顔を向ければ、本気でこの男は自分で何一つする気がないのだと皆に知らしめる様な言葉を吐いた。

 本当に、と、言葉も無くせば楚良の側へと女性社員達が慌てて膝をついた。


「空木、大丈夫!?大丈夫じゃないよね…っ、ど、しよ、課長!」

「救急車と警察の手配は済んだよ。羽柴、後は頼むね」

 デスクに乗っている電話の受話器を下ろした一條は、一度羽柴の方を見れば直ぐに上着を脱ぎながらドアの方、つまりは楚良の方へとフロアを突っ切る。


 羽柴も鳴海が足で押さえ付けている勅使河原を一瞥して、其方の方へと向かった。

「…文具用のカッターですから…大丈夫です。かすっただけです、多分刺さってもいません」

「冬服で良かったなとは思うが、お前良く冷静でいられるな。運んでやるから――――……一條、お前には聞きたい事があるんだが」

 傷を抑えたままで手を離さないのは、何やら本当に彼女の頭が冷えている風にも思う。


 しかし羽柴が何か言うよりも先に一條が楚良の肩へと上着を掛けて、直ぐにその身体を抱き上げたのが視界の中に見えた。


「救急車に乗せたら戻ってくるよ。後処理もあるから」

 一人で歩けますとかあり得ない言葉を吐いている楚良の言う事を聞いてくれる社員はおらず、仕方ないなとばかりにまた羽柴が一つ溜息。

 色を無くした様な一條の表情には、彼もまた思うところがある。


「ころしてやる!!ころしてやるころしてやる!その女は絶対に殺してやる!!兎もまとめて殺してやる!!そんな金目当ての顔だけ男に触らせるな!!障害で訴えるからな!全員訴えてやる!」

「お前は自分の心配をしたらどうだ。空木への嫌がらせもだが、全部証拠は残ってるからな。まぁ、暫く出て来られると思わない方が良いんじゃ無いか?」


 前科、は無い。だが、以前の事は処分を与えるとしても考慮される程度の悪質さはあるだろう。今の全ても、それこそ監視カメラがきっちりと捉えているのは明白だし、鴫も様々な情報を握っている。

 言葉もなく一條が開かれた扉を抜けて、視線さえ最早投げなかった。それを知れば、さらに勅使河原が怒りを露わにしたが、行き場所も無く床に頭を打ち付けた。


「俺は許される!警察には顔が利くんだ、お前達の言葉なんて誰も信じないぞ――――っ、はは、絶対に直ぐに出てきてまた刺してやる!殺してやる!」

「…羽柴課長、こいつの足とか折っていいっすかね」

「俺もそうしたい所だが辞めとけ。鳴海、口になんか貼っとけ」


 これとばかりにデザ課から投げられたガムテープを片手で受け取った鳴海が、未だに喚き散らしている勅使河原の口へとそれを貼り付ける。

 正当防衛がどうだとか過剰防衛だとか何やら支離滅裂な事を次々と吐いていたが、直ぐにそれはうなり声の様なものにとってかわった。


 何人かの女性社員が楚良についていった様で人数が減っているが、入り口辺りに数滴落ちた血の染みに、本当にここまでするとは思わなかったと羽柴が息を吐く。怒鳴り散らすぐらいがせいぜい関の山だと思っていた、此処まで簡単に血を流す奴だと理解できていたのは楚良だけではないだろうか。


「お前」


 これは絶対に部長らから叱られるパターンだなと思えば一瞬気が重かったが、正直楚良があそこまで逃げずにいるとは羽柴も思っていなかった。

 最初保守の話を聞いた時にそろそろ楚良が保たないだろうから仕掛けるよ、と、一條が言ったのが発端だ。羽柴にしてみればそんな魔女裁判は彼女が絶対に嫌がるだろうから、下手をすればその場で弁明も無く去るという事もありうると思ったし、実際に一條にはそう言った。

 その時に一條自身は、もし彼女がこの職場を諦めるなら、それだけの価値が自分達には無かったと思うべきだと宣ったのを今更ながらに思い出す。


 地面に寝転がされている勅使河原の前、羽柴がしゃがみ込んでその顔を見下ろせば、元は美形の顔が酷い形相になっていた。

「お前、泳がされてたのに気付いても無かったのか」

 本当に、この顔でもう少し中身がまともなら今よりもずっと待遇はマシな所にいたと思うが、この顔のせいでもしかしたら人生崩れていったのだろうと思えば、同情はしないが哀れには思っておく。


 だがやはり、ある意味一條というモデルケースが側にいる羽柴には、顔が良いから云々というのは自己努力だなと直ぐに思い直した。

「煽りに煽れば自爆するとは思ってたが、まさか本当に一條の言う通りにゲロしまくるとは思ってなかったな」

 一條の名前が出ればフーフーと荒い息が鼻から漏れていて、羽柴はまた溜息を吐いて軽く頭を左右に振った。少しでも冷静になっていれば、本当に。


「お前は水島も、前の経理の女も自分の思い通りに動かしてたつもりだろうが。脇から見りゃ一條の掌で踊ってただけだぞ」

 ガムテープで口を塞がれたままに勅使河原の口から絶叫が漏れて、羽柴が肩を竦めてゆっくりと立ち上がって、しかし途中で気付いた様に上半身を下げて勅使河原をもう一度覗き込んだ。


「その上、空木と一條がくっつく切っ掛けになったんだろうから、一応同情しとくわ」


 最早気が狂ったのではないかと言わんばかりの形相で暴れ始めた勅使河原を尻目に、煩いとばかりに耳を払った羽柴が今度こそ身体を起こして軽く辺りを見回してみる。

 警察が来るまで待機、総務に連絡、という指示を鳴海が出して直ぐにオフィスの入り口を開いて一條と警官が何人か。そして、上層部の人間がどやどやと入ってきた。


「一條。空木はどうだったんだ?」


 何やら人事部長の梶やら営業部長の神内の他にも会社の上の方が、勅使河原を連行して尚事情を聞くためだかに残った警官と話している。

 どうせ監視カメラの映像を出せば一発なのだからと思いつつ、一條の方へと近付いてみれば楚良にかけていた上着もきっちりと纏っていた。ただその胸の下辺りに、黒赤い染みが擦れる様に残っている。


「服の下だから詳しくは分からないけど、出血の割に意識はしっかりしてたよ。皆上部長が同伴してくれたから、あとで搬入先も連絡が来ると思う」

「部長がいないと思ったらそっちかよ…」

「一番事情を聞かれるのは空木さんだと思うから、丁度良かったかもね」


 少なくとも梶や神内よりも楚良の価値を分かっていそうな皆上なら安心かと思うと同時に、何でこいつはこんなに落ち着いていられるんだと羽柴は思う。

 一度一條には殴られたこともあって、ある程度楚良に対しては見境が無くなるタイプだと思っていたが、勅使河原を見送る時も冷静であった様にも感じた。


 楚良が刺されると分かっていたのかと問いかけようとして、流石にその質問は無いと思う。YESであれば一條は冷血漢だろうし、NOであれば後悔しか無いだろう。効果的に勅使河原を煽るネタでもあるのか聞いた時には曖昧に誤魔化されたが、あれはその中でも一見しただけで親密さが分かる。楚良のストーカーのくせにそんな事も分からなかったというのも含めて、完全に相手を手玉に取っている様な事実だろうに。


「お前、なんか怒ってるのか?」

 鴫が部屋にやってきて部長らと話しているのが視界の端、部下への指示は最低限で警察に任せる形の一條の視線が下へと向けられている。自分の胸元辺りへと目を落としていたその姿に、羽柴が問いかけてみればその視線が上がった。


「怒ってないよ」

「まあそれならいいんだが。お前、あの鍵の説明はする気があるのか。…いつからなんだよ」


 問いかけてみれば普段通りの僅かな微笑がその顔へと浮かんだが、続いた質問には軽く肩を竦めて視線を外された。先程から部下達も一條の視線をチラチラと向けているのは、羽柴がそれを聞き出すことを期待しているんだろうが、話す気になってくれなければ聞き出すのはこの男に限っては難しい。


「お前本当に空木を落としたのか」

「散々話のネタにしておいて実際そうなったら惜しいなんて言わないよね?」

「社内の人間とはくっつかないと思うだろ。散々二人ともそう言ってたし」

 まだ落としてなんていないけれどと此処で漏らす一條ではない。彼女の怪我の様子の方が心残りで、指先へと目を落とせばそこにも血が付いている。


「どうやって落としたんだ」

「秘密。ただ、兎が慣れてくれなきゃ無理、ぐらいかな」

「その方法も聞かせろ」

 本当に誰が見たっていつの間にとか、いつから、だとか疑問を呈したい内容だ。警官が一條と羽柴の方へと歩いてきたのが見えたのか、会話は終わりとばかりに一條が立ち上がり其方へと向かう。


 今日は仕事にならないなとその後ろへと続きつつ、ふと、以前鳴海が言っていた言葉を思い出した。

 そう言えば決定的な言葉は聞いていない。外堀を埋めて気付けば周り中から一條と付き合ってるんだと言われるなんていうのは、まさに今の状況ではないのだろうか。例えばまだあの鍵の理由が恋愛感情でなければなんて考えかけた羽柴だったが、流石にそこまでではないだろうと息を吐く。


 実際彼の勘は素晴らしく当たっていた。本当にフェイクとは言え、緊急事態だからと彼女が最大限に譲歩している状態であるというのに、今更これだけ情報を与えられた皆が二人の合間に何も無いと納得する方が難しい。

 一條があれは煽るための嘘だと暴露しなければ、それはもう決定事項だ。


「羽柴、運び込まれた病院分かったんだけど、何か仕事が残ってるから帰りたいってずっと言ってるって」

「部長にこっちは任せて良いから入院手続きでも進めといてくれっつっといてくれ」


 不意にコール音が鳴って、警官に断ってから電話を取った一條が幾つか言葉を交わして羽柴の方を向いて漏らした言葉に、あいつは馬鹿だなと羽柴が零す。側で聞いていた社員達が思わずという風に肩を揺らして笑った。

 先程までどことなく緊張していた様な社員達にもその内容が伝播すれば、ではお話を聞かせていただきますねと警官らしき男が告げる。


 楚良が無事だと分かれば皆の不安はもう殆ど無い。彼女を不必要に庇う必要はないと皆弁えている。事実を事実として告げるだけで、彼女の不利になどならないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る