第52話

 昼間に勅使河原の怒鳴り声を聞いたからだろうか、その日は全く眠れなかった。


 残業禁止という酷い命令を羽柴から受けて泣く泣く帰らなければならなかった所か、PCも持ち帰り禁止という鬼の所行まで受けて、今日ぐらいゆっくり休めとか何とか言っていたが、こういう長い夜には絶対に仕事が捗ると知っていたから、本当に悲しい気持になる。

 ならばせめて直ぐに兎達に会える様、勅使河原よりは早く会社を出ると心に決めて、彼が営業課で何やら話しているのを確認してから追いつかれる前に電車に乗って帰った。


 羽柴が酷いという内容を茶々とサチに言って聞かせていたら一條が帰ってきて、正座した楚良の前に並んだ二匹にどうかしたのかと聞かれたが、流石に上司への愚痴を吹き込んでいますとは言えずにさらりと流しておく。


 後はもう本当に普段通りで、彼は食事を作り自分は兎の世話をして、食事が終われば互いに好きな事をして過ごし、大抵一條は本を読んだり録画を消化していて、自分はもっぱら絵を描いたり兎関連のブログや何やらを更新したりで一緒に何かをという事はない。

 時折の会話と、兎に話しかける声と、後は沈黙。その静かな時間が気まずいと感じた事は楚良には無く、やがてどちらか一段落が付いた方が風呂の準備をして後は好きな時に入って、後から入った方が軽く風呂の掃除をする事になっていて、大抵それは楚良の仕事だった。


 そして一條は遅くならない間にリビングで兎と共に就寝する。一応という風に準備した個室もあったけれど、そこで寝ることは殆ど無い。楚良が寝るのはその日の気分次第で、勿論一條の布団に潜り込む様な真似はせずに自室で眠った。それでも今日の様な眠れない日は、明かりを落としたリビングでひたすら絵を描く様な日々は、気付けば兎にもその飼い主達にも慣れが来る程の長さだと思う。

 朝、いつも通りに一條が起きて、仕事も無かった楚良が珍しく同じテーブルで朝食を取って、本当にいつも通りに彼は一分の隙も無く準備をして出て行ったのだ。


 法務には流石に今月はもう許しませんよとか言われて、夜の勤務時間を長く取りたい楚良の出勤時間は昼手前。その日もそう、なる筈だった。


 それは羽柴からのメールだった。


 10時近くにデザイン課の全員に宛てて、今すぐ出勤しろとの指示は本当に珍しい。何か大きなミスや変更があっても彼が呼び出すのは該当者か主任である鳴海だけで、全員というのは殆ど無い。


 楚良の住居はデザ課の中でも一番遠いから急がなければと、兎の世話だけを手早く終えてから直ぐに家を出た。道すがら、理由を聞くメールなども飛んでいたが、羽柴からの答えは一切無い。

 少なくとも彼は上長としてこんな呼び出し方をした事は無かったと思えば、何か、胸がつかえる様な不安があった。


 会社のエントランスを通り、エレベーターに乗りながら肩から掛かった鞄の紐を握り締める。ガラス張りのオフィスには殆どの人間が揃っている様で、その異様な雰囲気に楚良の瞳が細められた。

 この雰囲気は、まるで。カードキーに社員証をかざせば、小さな電子音と共にロックが解除される音。最後になったのだろう楚良に、一斉に視線が刺さったと思ったのは多分錯覚ではないと思った。


 あの時。あの頃には嫌という程同じ様な色を見た。猜疑の瞳と、その無音。


「空木。君がやったのか」

 彼の席から、羽柴の席から。その声が聞こえれば楚良は無言のままで其方へと顔を向けた。その言葉を聞くだけで過去の記憶が喉の奥をぎゅっと締め付け、息が苦しくなる。


 尊敬する上司からこの言葉を掛けられるのは予想していたとしても辛い。いや、きっと予想などしていなかったのかもしれない。

 そもそも何の話か分からないとざっと視線を巡らせても、言葉を発する者がいなくて、また楚良は鞄のベルトを握る手に力を込めた。


「何をですか。まずは状況を説明して――――」

「貴女がやったんでしょ!?貴女が!会議資料を隠して!」


 営業部も今日は会議があるために皆が揃っている中で、その中から悲鳴の様な泣き声が掛かって入り口で立ち尽くしたままの楚良が視線を向ければ目が合った。

 水島莉々亜。くだんの、営業部の女性である。彼女は本当に自分とは会話を交わした事はなく、いつも責めるのは取り巻きの女性達の仕事だった。

 それが、自分に向けて確かに声を上げている。


「朝確認したら、ミーティングルームの資料が無かったそうだ」


 私はやっていないと反射的に楚良の口から零れそうになったのに、声としては出なかった。瞳がミーティングルームの方へと向けられたが、そこに詰まれた紙の束は存在してはいない。


「全員の所持品を検査したらな、空木。――――お前のデスクから出てきた」


 営業課の人間は全く声も発さずに、ただ静かに羽柴の台詞を聞いている。ただその瞳は楚良の方と水島の方を行き来していて、こんな結果の決まった様な裁判をまた受けなければならないのか、と、楚良の脳裏にぼんやりと過ぎった。

 一度自分のデスクの方へと目を向ければ白い紙が詰まれている。勿論そんなものを隠した覚えも無ければ、手を触れた記憶さえない。


「もう一度聞くぞ、空木。お前がやったのか?」

「彼女に決まってます!入室履歴だって確認したじゃないですか…っ、夜中にオフィスに入室してたんですよ!?彼女の机から出てきたじゃないですか、夜中に空木さんが――――」

「やっていません」


 半狂乱の勢いで叫ぶ水島の言葉に重ねる様に、空木の口から言葉が漏れた。否、空木自身さえ自分が言ったとは思わなかった。

 こういう時には黙るのが自分だったし、何を言っても無駄かもしれないとも過ぎった。

 それでも一息吐けば、全く黙る気さえ無くなっている。


「やっていません。覚えもありません。昨日は帰社してから家から出ていません。…監視カメラは確認したんですか?私でしたか」


 一度視線が流れて一條の方へと向いたが、しかしそれは一瞬だった。少なくとも彼は自分が出て行っていないと知っていた筈だと思ったが、眠って居る間に出て行った可能性があるとまで思われたのか。

 大体入室履歴なんて全く覚えがなく、社員証は夜と変わらず鞄の中にあった。夜中など、ひたすら絵を仕立てていただけだ。


「昨日保守から30分だけシステムのアップデートでカメラが切られるって知らなかった?」

 一條から掛けられた声に、何の事だと楚良が眉を寄せる。聞いていないという意味で首を左右に振り、ぐっと息を飲み込んだ。疑うなら、一條が一番疑わしい。社員証にはいつも手が届く位置にいたし、と、考え掛けてそれは愚策だと思った。


 彼は疑うまいよ、本当に、疑うとしたら自分の夢遊病より後だ。


「これだけ証拠が揃ってるのにまだしらを切るの?いつも総務に連絡を取ってる癖に、貴女が知らない訳ないじゃない!」

 証拠がなくても疑われるだろうと思うし、本当に覚えがない。


 そうだこの状況には覚えがある。全ての証拠が逆に楚良がやったという証拠にとって変わった、過去の焼き直しだ。

 この結果の見えきった裁判の行方など分かっている。自分が悪いと決まって、誰にも彼にも裏切り者だという風な視線を投げられて、それで終わりだ。


「何の目的で私が営業課の資料を隠さなければならないんです」


 以前はそれで口を閉じた。そして直ぐに身を引くことにした。何を言っても無駄だからと思えば、訴える事さえ逃げたのだ。

 しかし今は誰に信じられずとも、最後まで逃げずにいると決めた、と。


「あの資料は私が作ったもの…!困らせようとしたんでしょ?それで困った所で資料が見つかったフリをすれば、褒めて貰えるじゃない。あなたそれが目的だったんでしょ!?」

「誰にでしょうか。もう評価して欲しい方々には過分な評価を貰っています」

 羽柴も鳴海も、勿論デザ課の人間にはもう充分評価されている。曰く、いなければ困る、と。それだけで、楚良には充分だった。


「一條課長に褒めて貰えるじゃない!勅使河原君にも…!」

「何でその二人の名前が出たのは理解に苦しみます。大体、自分のデスクに隠すなんて明かすぎると思いますが」

「バレないと思ったんでしょ…!保守がカメラを切ってるから入室履歴まで取られてないって――――っ、羽柴課長が帰るまではあったっていうから、夜中に入ったのは貴女だけなのよ!」


 本当に保守がカメラ云々については覚えさえない。覚えていた所で、だから何だという話だったとは思う。

 どう記憶を掘り起こしても、楚良には昨夜は絵を描いてブログでも触っていた記憶しかないのだから。


「困らせる為ならシュレッダーにでも掛けます」

「それは――――っ、後で出してくる為に!」

「どう考えたってデスク付近から出てくるのは怪しすぎると思いますが。流石に羽柴課長も一條課長もそこまでして疑わない方とは思えません」


 自分の資料を台無しにされたと楚良が出社する前に散々泣いて同情を引いていた彼女と、普段の穏やかさもなく言葉を冷たく返している楚良と。他の者達はその2人の応酬に口を挟む事も無いと思っていた刹那、ガタン、と一條が席を立つ音がして、口を止めた二人も含めて全員の視線が向いた。


「空木さん」

 その口が自分の名前を呼んで、そして僅かだけ視線が細められた。視界の端で勅使河原が笑っている、隠す様に口元を覆って。

「やってないと言うんだね?」

「やっていません」

 知っているだろうとは言わなかった。裏切られたとも思わなかった。彼は水島が所属する組織の上長で、なにより証拠は揃っている。羽柴もそうだ、何もなくとも信じろなんて楚良の口からは絶対に漏れない。


 苦しい立場なら出て行けと言って欲しい。そうしたら、自分が信頼する者達から言われるならその通りにする。

 例え信じてくれていても誰かを犯人にしなければ収まらないというなら、それで自分を選んだと言うなら、もう辞表は出してあると思ったから、それで構わないと思った。


「羽柴」

 声を掛けた一條に羽柴が其方の方へと視線を向ける。

 仕方ないなとでも言う風に肩を竦めた羽柴が、大きく溜息を吐いた。

「残念だ。嘘なんて吐かなきゃ恥も掻かせず収めてやったんだが」


 羽柴の唇から漏れた言葉に、楚良の表情はしかし僅かも変わらなかった。自分はデザ課の人間は本当に尊敬している者達ばかりだ、だから、それに疑われるのならば自分がそう至らなかっただけだと、ぐっと唇を噛んで耐えた瞬間、僅かに羽柴の唇の端が上がった気がした。


「水島。お前、ウチの女神に何て事してくれたんだ」


 それは心底呆れた様な口調で、その言い様に全員の視線が羽柴の方へと向いて、流れる様に皆の視線が水島の方へと向いた。先程まで泣きながら罵っているかの様に見えたその女は、泣き笑いの表情だった。


「えっ――――え?何の事ですか?私…は?」

 慌てて取り繕うかの様に笑みを消した水島は、しかし虚を突かれてただ首を左右に振るばかりだ。

「今なら流してやらん事もない。自分がやったって言えばな」

 羽柴が机を軽く叩いて、その音に皆の肩が揺れる。流石にその言葉は意外すぎて、楚良さえ瞳を見開いて羽柴の方へと視線を向けていた。


「私じゃないです!!何を言っているんですか、入室履歴も一緒に確認しました!空木さんが夜中の二時に入ってる履歴がありました――――っ、それで、机から……書類も出てきたじゃないですか!!」

「動機が無いのに下手な証拠だけ残ってるってのもな」

「それで私を疑うなんて酷い――――っ」


 大仰に顔を覆った水島に皆がはらはらと顔を向けている様に見えた。羽柴は薄く笑っていて、勅使河原は眉を顰めている。一條の視線が一瞬だけ楚良の方へと流されて、微笑を浮かべた様に見えた。

 何、と、空木の眉が寄る。


「実はね。空木さんの持ってる社員証ね、皆のとは少し違うんだよ」

「――――――――は」

 一條が手元から黒いファイルを取り上げて皆の前で分かる様にひらひらと揺らし、羽柴がひょいと肩を竦めた。

 泣いていた筈の水島の顔が上がり、悲惨な表情で其方を向いている。


 思わず楚良が自分の社員証を見下ろしてみたが、先程鍵を開くのに使ったそれには他の社員との差など分からない。あの来客用のカードだった頃なら兎も角、これは正規のものの筈だし。

「最近空木周りで変な噂ばっかり立つからな。いつか中学生並みのやり方で、証拠を作りだそうって奴もいるかもしれないだろ?」

 デザ課との溝を埋める様に数歩羽柴の方へと近付いた一條が黒いファイルを差し出すのに、デザ課の長がそれを片手で受け取った。


「鴫さんに頼んで、今の空木のカードじゃ履歴の最後にスペースが入る様になってんだよ。あとは誰とは言わないが空木のカード偽造した馬鹿もいたみたいだしな。あと昨日保守がカメラ止めるって話、確かに空木は知らない。メール回したのも話したのも空木の帰宅後だ」


 誰かが教えてりゃ別だが、と、あっさりと告げた羽柴を見ながら、水島の手がわなわなと震えている。

 そして、勅使河原が侮蔑の表情で彼らを眺めて居るのも楚良の視線に移った。

 他の社員の視線は羽柴が集めている為に、彼らには気付かれないのだろうが。


「後、本来なら今日の空木さんの出社時間は昼過ぎだからね。どちらにしても間に合わないからリスクを冒して紙ベースで保管する必要もないし、助けようがないんだよ」


 一條が重ねた言葉に裏切られた様な顔をしている水島は、本気で営業課長である彼が自課の人間ではなく楚良を庇うとは考えていなかったのだろうか。

 確かに昼出社というのは、それこそ、デザ課の人間以外には共有されていないのかもしれない。最近は特に法務も甘かったのもあって少なくとも一條以外の営業課の人間は、楚良は羽柴の次に出ると思っていた。


「お前が空木を陥れたい理由は思いつくが、逆はちょっと思いつかないんでな。水島、説明できるのか?」

「――――それは、それは…!!一條課長に気に入られたいからですっ、私が邪魔で!!」


 本当にどうして一條に気に入られる為に一條を困らせなければならないのかと思えば、楚良には理解に苦しむ。一條の口から小さく溜息が漏れて、そこでふっと勅使河原の方を見れば、なにやらにやついているのに気付いた。


 そこで、はたと思う。彼は水島が自爆しようが何をしようが構わないのか、協力したなどと言われても誤魔化せば良いと。

 彼には一條がその気が無いというのを此処で暴露できればいい。散々「一條や羽柴が口説かれていないのに、勅使河原が口説かれるのはおかしい」などと言われてきたのだ。ここでその気もないのに一條や羽柴に認められたいが為に書類を隠して見つかって見つかったフリをするというストーリーは、一條の口から二人の合間に何の関係も無いと言わせる為には重要なのかと。

 もし水島が潰れても、疑惑さえ残れば構わないのか、それとも二人の合間に何もないのだから自分の方にという誘導が欲しいのか。


「空木さんじゃないというのに彼女だと決めつけて、その上まだしらを切るなら、絶対空木さんがやってないという証拠を見せてあげようか?」


 そして一條の口から言葉が漏れれば、その部屋の中の視線が全て、彼の方を向いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る