第57話

 部署内でスケッチブックを使うのは楚良ぐらいで、他の人間は皆殆どが下書き程度にもPCやタブレットを利用する。

 古い物は随時持ち帰ってデータに残しつつ焼却処分、その都度新しいものを購入していて、色鉛筆やカラーマーカー、色相表なども持ち歩いている為かいつも鞄が大きい。

 羽柴や鳴海がタブレット一枚持ち歩きで色々と片付けているのを見るとスマートだなとは思うが、中々紙の質感から離れがたい。


 PCモニタの前を片付けて例に漏れずスケッチブックに色を入れつつ、隣の社員と鳴海が言葉を交わしているのに耳を傾けて、そろそろ会社資料が要求される頃だろうと思えば案の定鳴海からのメールが丁度受信BOXに入ったのが見えた。


 声を掛けられる前に隣の社員の名前を入れて望みの物を送信しておき、再びペンを取る。

 今日は朝も遅かったし一條に色々と衝撃的な事を言われた休憩時間も長かったしで、流れてくる仕事を終わらせるだけで精一杯になってしまったと後悔しつつ、営業のチェックも完璧だったので自分の仕事は酷く捗った。


「羽柴、そろそろ始めようか」


 いつも通りの営業の終礼が終わって、羽柴の机まで歩いて来た一條の声が耳に入れば、進捗表に皆の終わった仕事を書き込んだ一番新しいものを分かりやすい位置へと置いておく。いつも通りに終わった仕事を共有ファイルから探して漏れがないかを確認し、一応の様にメールもチェックして置いた。

 PCの端に貼り付けられていた付箋もついでに更新、羽柴が一條と二言三言交わして楚良にメールが送られてくれば、後はそれを組み込んで印刷だけだとスケッチブックは脇に置いておいた。


「空木、出せるか?」

「今出しますね」

「空木さん、座ってて」

 何をと聞かなくても分かるそれに、プリントアウトのボタンを押して立ち上がろうとすれば先に声を掛けた一條がプリンターの方へと歩いて背中を見せる。

 あんな雑務を他部署の課長に押しつけてしまったと絶望的な気分になっていたが、仕事中は生憎表情の余り変わらないタイプの楚良のそれに気付いた者はいない。


「申し訳ありません…」

「気にしないで。用も無いのに立ったら駄目だよ」

「今まさに用が」

「空木、俺が悪かったから座っててくれ」

 ええ、と、切なげな声が空木から上がったが隣の社員どころか前に座る鳴海にさえ微妙な表情をされたので、自分が悪いという風に反省したらしい。


 本当に案外いつも通りに仕事を仕上げるものだから、楚良の怪我などこの部署の皆が忘れかけていた、という様な顔なのは本人には伝わらない。

「思ったよりデザ課の日程、余裕あるね?」

「今週一杯で先月の仕事を片付けようと思って空木の仕事を絞っといたんだが、案外功を奏するモンだな」

 お陰で先月は死んだとか言っているが、実際先月は1日どころか半日誰かが休むだけで死ぬレベルだったのでこの調整は効いた。

 渡された紙へと目を落としていた一條が、一度デザ課のデスクを眺める。


「先月のってもう終わった?」

「ンな訳ないだろ。鳴海が3回徹夜すれば終わるが、……って、空木、お前今日相当終わらせたな?」

「私はいつも通りだったんですが、営業課の方のチェックが完璧だったので見るだけで終わりましたよ」


 彼女は自分のデザインの仕事の他にチェックの仕事等も隙間に入れたり、アイデアの捻出に時間が掛かったとき等に請け負っている。勿論他の社員も手分けをしているが、どうにも細々している様なものは彼女の方が得意だった。

 その仕事に驚く程の済みマークが付いていて、楚良が僅かな笑みでそう答えた。多分これは朝礼辺りで、デザ課に迷惑掛けるな的な締め方をしたのではと営業課長の方へと目を向ければ、ひょいと肩を竦められる。


「空木に鳴海の持ってる奴を3つぐらいやらせれば、今週一杯で全部終わる」

「空木さんは…ちょっとどうなの?特にメインで動いて貰うのは流石に怖いんだけど」

「かといって遊ばせて置いても仕方ないだろ」

「リモートワークとかは?」

「本人が嫌だというんだ、仕方が無い。医者の許可も下りてたしな」


 嘘は吐きませんと楚良から漏れて、羽柴が大きく椅子を慣らして背もたれへと凭れながらぼやく様に答えた。流石に彼女の言葉だけを信じるわけにもならなかったので、休憩に行った隙を見計らって病院にそれとなく確認をしてみたが、主治医から本人の強い意志で、等と言う言葉の濁し方をされた。


 どういうやり方をすれば医者を説得できるのか知りたい。


「じゃあ、そこは羽柴の采配に任せるよ。今週はこっちも緩めだし欠員が出てるけど、その分は僕が埋めるから来週はいつも通りでお願い」

「流石に年越しの仕事は辞めてくれよ?」

「去年は三箇日もフル出勤だったしね、デザ課は」

「あれはマジで死を覚悟したな。…今年は空木もいるから大丈夫だろ」

「だから空木さんに頼るの辞めようね?」


 大仰に肩を上下させて溜息を吐いた一條の言葉を聞きながら、楚良は手元を見下ろし一瞬だけ瞳を細めた。

 帰ったら怒ろうと彼女は思った、仕事が大好きなのに制限するなんて。


「進行は任せたよ。あと、30分後の会議忘れないでね」

「嗚呼、忘れようとしてたんだが」

「鳴海も抜けるんだからちゃんとしておいて。じゃあまた後で」


 進捗表を二つ折りにした一條が軽く手を挙げて一條の側から離れていく。30分後から会議というなら今日はコンビニに寄って帰るパターンにしておこうと思いつつ、出来上がった仕事を羽柴へと送っておいた。

 それにしても羽柴や鳴海まで出て行くとなるとペースは落ちるし、そもそも帰れるんだろうかと其方の方へと意識が向かう。昨日も一昨日も眠れていないから、今日まで徹夜となると流石に辛い。


「そう言えば空木、お前帰りはどうするんだ?まさか電車なんて言わないよな?」

「車で送迎です。終わる頃に電話を掛ければ来る手はずで」

「そうか、なら安心か。お前の事だから電車に乗って帰るとか言い出すかと思ってたが、そこは常識があったんだな」


 藤森に言われなければ勿論そうするつもりだった等とは口から漏れない。本当に誰も彼も自分に対して過保護すぎはしないだろうかと思うのだが、確かに目の前で人が刺されるなんて滅多に見られない光景だからショッキングだろうし、怪我の程度は自分にしか分からない。

 此処は大人しく皆の話を聞いておくべきだろうと少し反省した。


「お前ら、今日鳴海も抜けるから終わった奴から帰っていいぞ。進捗は空木に聞いてくれ」

 ばらばらと机の上の物を鞄に流し入れた羽柴がスマホを取って立ち上がりながら、声を掛ける。鳴海も帰り支度を始めた様で、机の端に掛けてあったマフラーを取って口元に巻いていた。


「今日の会議は外なんですか?」

「おー。何か近くの焼き肉屋だったな、新しく出来た所だから偵察も兼ねて」

「では外なんですね。何かあったらメールを入れる事にします」

 頼むと羽柴が楚良に告げて、上着を肩にかけつつ歩き出す。鳴海も一度楚良に顔を向けて繋がらなかったら連絡しろと告げてからその後に続いた。


 これは本当にコンビニ飯が濃厚だなと思えば、昨日の夕食も病院食だったのを思い出した。最近本当に一條に慣らされているというか、餌付けをされている気がしてならない。

 胃袋を掴まれるなんていうが、ローカロリーで満足感の高い食事が何も無くても出てくるなんて、こんな贅沢に胃を慣らしてはならないと思った。今日は冷や飯で我慢しよう。


「な、空木お前さ、マジで一條課長と付き合ってんの?」


 お目付役が出て行ってしまえば、デザイン課の従業員など糸の切れた凧である。コレ終わったら何をすれば良いか等と何故か楚良に聞きに来る社員に順番に仕事を割り振っていれば、自分の分は終わりとばかりに帰り支度を始めた社員に声を掛けられた。

 マジでというのは何なのか。というかまだ疑いようがあったのだろうかと思えば、どうしようもないからという一條には諦めるのはまだ早いと言うべきだったのでは。


「プライベートでの事ですので…」

「別にもったいぶる事じゃないだろ?どっちから?やっぱ一條課長から?」

「案外空木がストレートに好きとか言っちゃったんじゃないの?」

「あー、ありそうありそう。空木ってすぐ褒め殺しに掛かるからなー」


 いえあのとばかりに進み始めた会話に楚良がどう言えば良いのかとばかりに悩んでみたが、何やら仕事場で聞くとこんなに居たたまれないものなのかと思う。

 皆を欺いている様な心地の悪さもあるが、私生活を露わにされているかの様な会話の進み方に本気で恥ずかしくなる。


「で、どっち?その位教えてくれてもいいだろ」

「……決定的にこうだとは。気付いたら一番近くに居たのが一條課長だったんです…」


 適当に答えて良いと言われていた事を思い出して、その言葉通りに誤魔化しに掛かってみたがその言葉を聞いた瞬間、何故か沈黙が落ちた。

 何か不味い事を言ってしまったかと思ったが、口から出たものは取り消せないし、他に言うべき言葉も見つからないし。


「それで鍵とか渡すまでになったのか?」

「兎が懐いておりましたので良いかなと…」

「恋人も兎で選ぶとかお前ほんとブレないな?!」


 実際に最初の一泊目で茶々とサチが合わないだとか、一條が受け入れられずに追い出されるという可能性もあったから、それはそれで良かったのだろうかと思う。

 その結果、兎に好かれて飼育している兎の健康状態も完璧な人間と同居出来る様になったのだから、やはり茶々の見る目に従うというので良かったのでは。


「私より兎の方が見る目が確かなんですよきっと」

「そっかー、一條課長は兎好きだったんだな」

「とても可愛がって頂いていますしとても手を掛けて下さる方です。たかが兎と馬鹿にする事もありませんし、寧ろ兎の可愛さを語っていても同意してくれるんです。ずっと膝に乗っていても怒りませんし、毛が付くと文句を言われた事もありませんし」

「いやお前本当にブレないな!?」


 つい普段の彼の様子を語っていれば、皆に突っ込まれてそこを気にするのはおかしいのだろうかと顔を顰める。

 自分にとっては兎を尊重してくれるのが一番じゃないのかと、自分で思うのだが。


 一條が否定さえしなければ良いと言っていたのは、確かに効果的なのだろう。一條課長が一番ですと事実通り告げようとしたが流石にそれは止めて置いて、自分の仕事を仕上げてしまえばスマホがデスクの上で着信を知らせて震えた。

 失礼しますと皆に断ってから着信相手を見れば羽柴で、嫌な予感しかしない。


「はい、デザイン課空木です」

『お、出たな?そっちどうだ』

「あと10分程度で皆さん出られるかと思います」

 進捗表は確認せずともその程度だろうと楚良が思いつつそう告げれば、おー、とか何故か感心した様に声が上がって今度はどんな問題を押しつけるつもりなのだろうかと思った。


『お前ちょっと今からこっち出て来い。話がある』

「えっ、嫌です。今日は兎に顔を埋めて過ごしたいんですが」

『昨日の後始末なんだから四の五の言わずに来い。場所はメールで送る、30分以内。大人しく入院しないからこうなるんだ諦めろ』

「今反論が全て封じられました。後片付けをしたら行きます」


 もう殆ど有無を言わせぬ様なその内容は、受けなければ迎えに行くだとか言い出しかねない気がした。さっさと帰れば良かったと思いながらも電話を取ってしまったものは仕方が無い、溜息を零しつつ通話を切ってもう一度PCの方へと目を向けた。


「お、呼び出し?」

「30分以内に現地だそうです。皆さん一緒に出られますか?」

「駅前の焼き肉屋でしょ?送って行くわよ。どうせ私も駅だし」

「殆ど駅だろ、全員で出ようぜ」


 急いでオフィスの片付けをしなければと机に手をつきつつ立ち上がれば、何やら脇腹に突っ張った様な感覚があってそこでやっと怪我のことを思い出す。そろっと杖の方へと手を伸ばす前に、部署の皆がそれぞれにゴミを集めたりファイルを片付けたりと先に動き始めた。

 楚良のやった事と言えば観葉植物の埃を払ってやり忘れていた水を遣る程度。それも途中で取り上げられて、鞄と杖を押しつける様に渡され仕方なく扉を出る頃には皆が追いつく。


「空木、もうちょいゆっくり歩けよ、刺されたの昨日なんだからな?」

「そんな事忘れてましたよ…」


 皆に囲まれつつ女性社員には背中を支えられつつ。本当にそんな大仰にする事ではないのだけれどもと、一度脇腹の方へと目を落としながらも此処は甘えてしまおうと皆の側をゆっくりとした足取りで歩いた。

「――――さっむ、刺された場所的に食事とか大丈夫なの?」

「本当に脇腹を掠っただけです。カッターの割にぱくっと割れてましたので、傷跡も目立たなくなるそうですよ」

「うひー、案外グロかった!」


 外に出れば師走の風は本当に寒くて楚良も首を竦めつつ昨日の事を思い出す。感染症にさえ気をつければ大丈夫です等と言われたから、退院してからも毎朝通院するという約束になったのを思い出す。


「全治とかって何週間とか?何ヶ月?」

「一月いっぱいでしょうか…。案外長く掛かるそうで。でもお風呂解禁とか杖がいらなくなるのはもう少し早いみたいです」

「傷が目立たないのは良かったなー。空木は腐っても女だし」

「腐ってもとかどういう意味ですか」


 羽柴と鳴海を除いた部署の全員だから結構な人数になってしまったが、皆先を歩かずに楚良の歩調に合わせて歩いてくれていて、辛いところ等何も無い。駅までの距離は然程でもなく、皆がわいわいと話ながら行けば距離も時間も感じなかった。


「店何処だっけ?」

「もう近くですので此処で大丈夫ですよ」

「いや、お前を一人にすると殺されるんだよきっと」

「もう命を狙われていたりはしないのですが…」

「空木じゃなくて」

 多分一條課長に等と告げようとしたらしいが、勿論それを口に出す様な人間はいなかった。


 店の前まで結構な人数で送られてしまって、楚良が丁寧に頭を下げる。皆食べて行かないのかと思っていたが本当に見送るだけの様だし、何より新しく出来たらしいというのを表す様に店の前には列が出来ていた。

 列の端から店の中に入れば直ぐに店員が飛んできて、会社名を告げれば此方ですと直ぐに通され人と人との合間をなるべく小さくなりながら杖を突いて歩く。二階ですが大丈夫ですかと問われたが、来てしまったし今から帰る訳にはいかないと壁に手を突きつつ階段を上がり、言われたとおりに靴を脱いだ。


 奥のお席ですと障子を開かれて丁寧に礼を言って頭を下げ、杖が畳に付かない様にと歩き出せば奥の席とやらに目が向いて、ひらひらと羽柴が手を振っているのに気付く。

 しかし直後にみしりと凍り付いたのは、そこに居た面子を確認したためで怪我を理由に帰りたくなってきた。


 羽柴と鳴海は分かる、一條と陰島も理解はする。しかし、梶やら皆上やら神内までも揃っているのは何事なのか。皆そんなにお肉が食べたかったのかなと現実逃避をしてみたが、彼ら3人が消える訳でもない。


「……遅れまして申し訳ありませんでした…?」

「面子が不信だって顔に書くの辞めろよ、地味に傷つくだろ?」


 2つの机が並べられたその場所へと近付きつつ頭を下げれば、営業部長の神内に笑いながら告げられていえ、と誤魔化す様に首を振る。何処に座ればと思う前に一條が手招いていて、見れば一番奥の一番隅。そこは上座という奴ではないのだろうかと思っていれば早く座ってと促されて、泣きたい気分で皆の後ろを通りそこへと収まる事にした。

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