第45話

 兎もいない、画材道具も殆どない、あるのは机が一つとテレビだけ、ベッドも入れなかったのはこの場所で眠る事がないからだ。


 会社から持ち帰った仕事をただ一人机でひたすら片付ける時間には嫌悪感さえ感じて、あの兎の待つ家に早く帰りたいと思えば時間の流れもゆっくりに感じる。溜息を吐いても、それを案じる生き物もいない。

 時折鳴るインターフォンを耳に入れない様にイヤホンを耳へと差し込んで、ただPC画面へと向かう時間。一度会社に戻れば良かった、と、ふと思ったが一人の時間を作ることはある意味必要な時間だと思った。


 一度時計を確認すればもう2時が回っていて、明日は出社だし流石に彼も帰っただろうかとイヤホンを外し鞄へと詰め込む。コンビニに行くふりで家の周りを少し見回ってからタクシーを呼ぼうと、鞄の中から財布を取り出そうとした所でスマホが震えた。

 2台あるスマートフォンの内1台は一條と羽柴、そして祖父母達ぐらいにしか番号を教えていない。しかし其方ではない方のものの動きに一瞬だけ瞳を細めた楚良が、軽く息を飲んだ。


 しかし表示を確かめれば非通知ではない。名前は表示されていないから知り合いではないが、番号だけはきちんと表示されている。

 一体これは誰なのかと首を傾げた楚良はしかし、一度息を吸って気合いを入れ直してからその電話を取る事にした。


「もしもし。此方空木です――――」

『お嬢さん、藤森です』


 勅使河原の関係者だとか無言電話なら直ぐに切ってしまおうと思いつつ耳へと当て、そして名乗った瞬間それにかぶせる様な声が聞こえて、反射的にスマホを耳から離してその画面を凝視する。

 今、聞き慣れた声と聞き慣れた名前が聞こえた気がしたが。


「何でこの番号を知っているのですか」

『………御爺様からお聞きしました』

「祖父が教えたのですか?」

『経緯は省きますがそうです』


 楚良にしてみれば本当かと疑わしい気持にもなるが、実際にこうして電話が掛かってきたという事は信用するしかない。ある意味勅使河原が自分の番号を手に入れるより難易度が高いのではないだろうか、と思うが。


「こんな深夜に何の様です」

『外で待っています。ご自宅までお送りしますよ』

「――――それは…」

『もう尾行はいません。調べさせました』

 電話越しに告げられた言葉にもう一度耳から離してその画面を見下ろす。どうしようかとその画面を見下ろしたままで眉を顰め、また沈黙が迷いを表す。誰かに判断を仰ぎたいぐらいにその言葉に困惑したが、時間も自分の年齢もそれを許さない。

 小さな溜息、また再び耳へとスマートフォンを当てた。


「父はそこにいますか?」

『――――刀司さんはいません。ですが、御爺様に頼んだのは刀司さんですよ』

 一瞬だけ楚良の瞳が揺れて、そしてゆっくりと瞼を落とす。唇からの小さな溜息はもしかしたら向こうにも届いたかもしれない。

「分かりました。送迎だけですね?」

『そうです』

 もう一度分かりましたと告げた楚良が通話を切って、スマホも鞄の中に入れておく。彼はそれこそ有名人の身辺にいるのだから、彼が尾行がいないというならいないのだろう。騙す意図があれば別だが、その理由は無い筈だ。


 部屋の明かりを落として鞄を肩に。そして静かに扉を開いて辺りを伺うのは最早習慣、人気がない事を確認して道路の方へと下りれば黒塗りのセダンが1台道の端へと寄せられて、その後部座席のドアの側に電話の主が立って待っている。

「……有り難う御座います」

「服の裾に、気をつけて」

 此が当然だとでも言う風に開かれたドアに、何と言い表していいのか分からない様な気になりながら車の中を覗いても誰も乗っていなかった。困惑のままにその後部座席へと乗り込み鞄を隣へと置けば、藤森が外から扉を閉じる。


 僅かな間の後に運転席の扉を開き車を僅かに揺らして乗り込んだ男は、自分のシートベルトを先に締め、楚良が同じ様にシートベルトを着用したのを車内のミラーで確認してから音も無く車を発進させた。


「私の身辺を監視していたのですか?」


 楚良の言葉に男は殆ど視線も動かさなかった。ミラーに映る僅かな表情も、変わらない様に見えるのは暗い車内だからだろうかと楚良は思う。

 尾行を調べさせたという事は事情を知っているという事だろう、自宅ではなく此処に居ると言うことも。それはまるで自分の方が監視されている気分になる。

「今日だけです。普段は、一條氏にお任せしています」

 流石にこの時間では車の行き来も殆ど無く、楚良が車内に響く言葉を聞きながら窓の外へと視線を向けた。


「では何故今日だけ?」

「そうする様に頼まれたからです」

「……誰から」

「一條氏から」


 膝に置かれていた楚良の指先がスカートの布を寄せて、一瞬だけ力が入った。何だろうか少し裏切られた様な気分になったのは錯覚だろうか、監視にしろ警護にしろ一條に押しつける訳にはならないし、もし最善を考えるのならば寧ろ楚良からその手の護衛になれてるだろう父に申し出るべきだった。

 なのに、一條が自分に黙って父親と連絡を取り合っていたというのに胸が騒ぐのは、一体何だろうか。


「私より一條さんに護衛が必要なのでは」

「自ら囮になって下さるならこれ以上の安全はありませんが」

「一條さんも藤森さんも、怒りますよ。何故男性というのはそういう方法を選ぼうとなさるのですか。一條さんは私よりキャリアも未来もある優秀な男性ですよ、何かあったらどうするのです」

 本当に楚良からしてみれば今夜の事は挑発しすぎだ。最近郵便物や呪詛の如き留守番電話に一條を害する様な予告が混ざり始めた事を考えても、完全に敵扱いされているのに違い無いのに。


「本人がそれで良いと」

「そんなの、言わざるを得ないだけでしょう。自衛だけ考えてるなんて言ったら、どうせ冷たいと責めるんでしょう?詰んでいますよそんなの」

 膝に手を置いたままで楚良が告げれば、運転席に座っている男からは僅かな間沈黙が返った。


「その位の誠意が無ければ、…お嬢さんの近くにいる男性を信じる事は出来ませんが」

「誠意とは何ですか。どれだけ彼がさっちゃんと茶々に心を砕いていると思っているのです。あれ以上の誠意なんてありませんし信じられる事なんてありません」

「お嬢さんはあの男を好いているのですか?」

「――――――――何と?」


 彼の一日を思い返して見ても、それこそ余りにも負担が掛かりすぎだと思って楚良が息を吐いているところに藤森の踏み込んだ質問が聞こえて、一瞬その意味が頭の中に入ってこなかった。


「兎の事があったとしても、少々受け入れすぎでは」

 窓の外に向けていた視線を運転席の方へと向けて見ても、全く彼は普段と変わらない調子で告げている様だ。ミラー越しの表情も変わらなければ運転に乱れもない。


「好いていると答えたら一條さんを守って頂けるのですか?」

「………不本意ですが」

「不本意とは何事ですか。では別段好きではないと言えば守って頂けないのですか」

「どちらなのですか」


 問われた言葉に沈黙を返したのは今度は楚良の方。

 彼がどういう意図で聞いているのだろうか、と、考えかけたがそれは聞かずとも明かであると直ぐに悟った。

 どうせ父親に聞き出せとか言われたか、祖父に聞き出してくるのが条件だと父親の方が言われたか。どちらにしても、楚良にとっては聞かれているという事実だけで充分だ。


 詮索されているといっても良いだろうか。


「どちらでも同じでは」

「同じとは」

「好意があるのにせよ、無いのにせよ、今一番近くにいるのは一條さんです。今回の事も、私ひとりでは解決できませんでした。側にいて下さるというなら、同居にしても拒絶しようとは思っていません。それと、藤森さんが考えている様な事は何も無いですよ」


 ゆっくりと吐息を緩める様に溜息を吐き出して言葉を紡ぐ。きっとこれらはそのまま祖父なり父なりに素通しなのだろう。

 本当にいつまでも子供扱いだと思うが、事実、勅使河原の件を一人で片付けられたかといわれれば否だ。だから心配を掛けているというなら、この扱いは受け入れるべきだと思った。何もかも一人で解決できる力があれば良かったのに、と。


「同居であるとか、添い寝であるとか、確かに端から見ると男女のそれなのかもしれませんが、全く一條さんが私に何かをしたとかそう言う事は無いので――――」

「添い寝とは」

「一緒に眠っても何もありませんでしたよ」

「そちらではありません。男女の関係ではないのにそんな事になるとは何事なのですか。もう少し節度を持って生活すべきでは」

「映画を見ながらうとうとしていたんです、ソファから蹴り転がされなかっただけ有り難い程ですよ。今まででもアルコールが入ろうと、そんな状況になろうと、何一つなかったのですからそうはならないと判断すべきでしょう?」


 どちらかというと双方大きな兎扱いでは、等と楚良の唇から漏れれば、運転席の方からぎゅっと皮を握り締める様な音がした。

 それに重なる様な溜息の音から考えても、藤森がハンドルを握り締めた音だろう。そんなに呆れられる様な事を言った覚えは無いのだけれど。


「お嬢さん。男というものはその気が無くとも女性に狼藉を働けるものです」

 見慣れた景色にもうすぐ家に着くなと思っていれば、再び運転席の方から声が掛かって楚良の顔が其方を向いた。

「彼はその様な事はしません…しないと思います」

「もしお嬢さんが一條氏を善き住人だというなら、そうさせる様な事を行うべきではありません。お嬢さんの兎がいくら躾けられていても、わざと見える場所に壊れる物を置くことは無いでしょう。それと同じ事です」


 滑り出しも滑らかだった車がぴたりと家の裏口で止められて、藤森が先にシートベルトを緩め運転席の扉を開いた。

 見回るので待って下さいと小さく告げられれば、先程言われた言葉と共にドアに掛かっていた手がする、と落ちた。


「誰もいません、ご安心を」

 後部座席のドアは外から開かれ、楚良がバッグを片手に地面へと足をつけた。彼との思い出は然程多くないと思うが、こうしてドアを開いて待っている姿は子供心に印象に残っている。

 いつも制止を聞かず飛び出していた思い出でしかないのだけれども。


「有り難う御座います。…父にも」

「勅使河原の動向は追っておきます。どう出るにせよ、証拠は必要になりますから。お嬢さんの方は一條氏に任せますが――――……どうか節度を持った関係を」

「分かっています」


 告げられる言葉に藤森の方を見上げて告げた楚良が、また直ぐに視線を外し、軽く頭を下げてからガレージの横に付いている通用口の扉を開いて中へと入った。本来楚良は相手を見送る様な性分だが、多分藤森は自分の姿が消えるまであそこで立ったままだろう。


 裏口の鍵を開いてなるべく音を立てない様に扉を開き、中へと滑り込む。鍵とチェーンを掛け直して靴を脱ぎそっと上がった。常夜灯を灯してくれているのは帰ってくる楚良の為だろう、ふと見ればソファが少し避けられていてそこに布団が二組敷かれている。

 和室ではなかったのかと思いつつ目を下ろせば、ちゃんと一條は眠っている様で、兎もその横で丸くなっていた。鞄はリビングの端、そして浮かびかける欠伸を何とか噛み殺す。


 先程まで眠気など全く感じなかったというのに、一体自分の身体はどうしてしまったのだろうか。兎と一緒に一條が眠っているのを見るだけで、何となく眠くなってくる。


 とりあえず風呂だと鞄をリビングの棚の上へと置き、なるべく扉の音を立てない様にそこを抜けて風呂場へと向かい、脱衣籠に着替えを入れて、回すのは明日にしようと一番上にタオルを掛けておいた。流石にこれに一條が触れる事はない。

 風呂に入る前に体重計に乗って、うーん、と小さく唸った。相変わらず体重は戻らないが、それでも維持しているだけマシなのだろう。身体の各所の形が変わってきたので、本当にそろそろ整える方に時間を割かなければ。


 もう鑑賞用ではないとは言っても、子供の時からの習慣もまた抜けにくい。

 努力と習慣の違いは何なのだろうとふと思いながら身体を洗い、自分のやっているのはどちらかと思いながら湯船に浸かる。深夜だから余り時間を掛けずに風呂から上がろう。


 添い寝をするのならば暖かい方が良いのだろうと珍しく髪にドライヤーをあてながら、先程藤森に言われた言葉を思い出した。

 望まれたとしても辞めた方がいいのだろうかとか、藤森が言う通りだとしてそれを本人が望んでいるというのはどういう事なのだろうか、とか。


 深く考えるのは辞めようと思って、用意していた着替えに腕を通す。眠る時に着ている手触りの良い室内着は兎の毛並みには及びも付かないと思い、そこでそう言えば大きな兎を抱いて眠りたいと楚良自身思う事に気付いた。


 寝室の方へと一度寄って毛足の長い抱えるタイプの枕を一つ手に取り、しかしそこには寝転ばなかった。

 リビングに戻れば茶々が起き出したのかそこに迎えに来ていて、膝をついてその頭を撫でてから枕と一緒に腕の中へと抱き上げた。もう一つの布団の上へと膝をついて茶々を下ろせば、楚良の布団であろうその枕の横へとくるりと丸くなる。


「――――――――ん、…お帰り」

「ただいま帰りました。起こしましたか、…眠って居て下さい」

 扉の音か足音か、それともその気配にか。眠って居た瞼が僅かに開いて、ぼんやりと男の視線が宙を泳ぐのが視界の端。兎を撫でていた楚良が其方へと声を掛ければ、その両手が広げられた。

「寒いから…こっちにおいで」


 寝ぼけているのだろうと思いながらその広げられた手の中に、気に入りの枕をそっと押し込んでみた。此方の方が柔らかいし、軽いしそれこそ節度は守れるし良いだろうと思っていたら、即座にそれが脇へと投げ捨てられる。

 ビタン、と、案外大きな音がして丸くなっていた二匹の耳が動いた。


「くっつい、…て、寝るって――――……」


 そのまま寝息の様な吐息が重なってそのまま寝そうだと思いその姿を鑑賞していたら、不意に伸びた腕が首の後ろへとかかり、そのまま腰も逆の手が絡め取った。

 簡単にバランスを崩した楚良が落ちる様にその胸へとぶつかって、そのままぎゅうぎゅうと抱きしめられる。


「……これ」

「分か、りましたから。少し緩めて下さい、布団に入れません」

「逃げない?」

「逃げません。そう、良い子です」


 本当に動けないと唯一自由になる左腕で頭を撫でて見れば、する、と肩が落ちる様にその腕が緩み、軽く息を吐いた楚良が自分の布団を捲ってその場所へと潜り込んだ。

 冬の布団は冷たいと思っていたその刹那、布団の中へと潜り込んできた腕が楚良の身体を引き寄せて、一條の布団の中へと引きずり込む。


 腕が巻き付いて、本当に離れない。


「…も、好きにして下さい。明日腕とか痺れますよ」

 足さえ絡め取られて、もう何だか藤森の言う節度とか言うものは色々諦めなければならない気がしてきた。確かに兎相手にこんなやり方をすれば確実にその兎は怪我をするし、絶対にそれは叶えられない。

 寝ぼけて兎と間違えたなら仕方がないなと思いつつも、そんなに寒かったならもう少し配慮もすれば良かったと後悔した。この手触りは兎にはほど遠く、きっと悪い夢を見るのではないかと。


「怒るなら一條さんに…怒って下さいませんか」


 胸元を枕にする様に一條の顔が寄せられて、それこそもう手放しで諦める。どうせ早く起きるのは一條の方だし、自分は少しの合間一人で眠れる等と思っていたら、茶々がいつの間にか起き上がって二人を見下ろしていた。お顔が怒っておられる。

 多分楚良が引き寄せられて布団からいなくなった事に怒っているのだろうが、この状態を見て察して欲しい。そして胸の上は茶々が一番お気に入りの場所である、楚良が横になっている時などはそこに顎を乗せて眠るのが一番好きな彼女にとっては、それを一條が占有しているのが気に入らないのだろうか。


 人が眠る時には顔の側以外では眠らせて貰えないのも含めて。


 兎も人も柔らかい場所が好きなのだろうなとぼんやり考えている間に、胸元から寝息。

 無言で見下ろしていた茶々が諦めた様にサチに寄り添って眠るのを見ていれば、楚良も何だか眠くなってきた。兎にしろ一條にしろ寝心地が良いなら胸の形は保つ様に努力をしなければ、と、思ったのは多分寝入りのくだらない思考だ。

 寝ようと目を伏せれば腰の辺りを引き寄せられて、足先まで絡む。とても寝づらいと思うのだが、一條が起きる様子もないし、暖かさが染みてくれば楚良もまた欠伸を浮かべた。


「お休みなさい」


 楚良の口から吐息混じりの声、一応と言う風に胸元の頭を撫でれば毛が固い。眠気の這い上がってきた楚良が一條の頭にブラシをかけなければと思いながら、大きく息を吐き出せばそれが最後。溜息にはならず、その息は寝息になった。


 一つ布団で絡み合った身体は離れる事無く、座り直した茶々とサチがぴたりと寄り添う形。やがてひとかたまりの群れの様、朝までその眠りは誰にも侵される事もない。

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