第71話

 暖かくて刺激のあるものを腹一杯食べたからだろうか、食後に一條が片付けをしているのを良い事にソファに戻ってスケッチブックへと色を入れていたら、紙が汗で手にくっついてどうにもならなくなってきた。

 首元にも汗が流れて滴になる程だし、何より足の上に頭をのせている二匹の兎の毛がとてもくっつくと、一條が片付けを終えてソファの方へと様子を見る頃には、楚良も仕事を一端中断する事にする。


「凄い汗だけど大丈夫?」

「寧ろこのまま熱が下がればいいなと思います」

「吐き気とかは?」

「少し胃が重たい感じはしますが、吐き気とかはないですね。それより、さっちゃんの毛がくっついてきたので、一條さんの膝に移してあげてくれませんか?」


 ソファの片方をとんとんと叩く楚良を見下ろしていた一條が、ちょっと待っててと一度棚の方へと戻ってタオルを二枚手に取った。そうかタオルを敷いていれば良かった等と今更気付いた楚良の方へと戻った男がその隣に座り、まずは自分の膝にタオルを広げてサチを抱き上げる。


「茶々ちゃんの頭上げられる?」

「このまま抱いてしまいますね。タオル置いて貰っていいですか?」


 サチに遠慮して頭半分乗せるだけだった茶々の身体を抱き上げた楚良の膝へとタオルを広げ、直ぐに寝ぼけている茶々を下ろせば一瞬開いた瞳がまた閉じる。

 一條の膝に乗せられていたサチも、同じ様にまたうとうとし始めた様だった。


「一條さんは大丈夫ですか?」

 茶々の顎を撫でていた楚良がふと隣の気配に気付いて顔を向ければ、丁度欠伸を手で覆っていたらしい一條が肩を竦めた。

「みっともない所を見せてごめんね」

「欠伸のどこがみっともないのか私には分かりませんが、連日夜中まで面倒を見て下さっているのでお疲れでは。少し休んだ方が」


 汗を零している彼女に言われては立つ瀬が無いが、確かに一條自身も少し疲れを感じていると思う。余りに彼女が完璧な看病をしてくれていたから自分もと思ったが、よく考えてみれば彼女の夜の強さに自分が敵う訳がない。

 今もお腹がいっぱいで病気で体力を消耗しているだろうに、横にならなければ欠伸一つ漏らさないのだから。


「君はまだ眠らなくて平気?」

「少し消化が進んでからにします。昨日よりは眠くないですね」

 やはり彼女には消化どうこうよりも好む食事の方が身体に合っていたのだろう。少し情けなくもあるが、楚良が文句を付ける事もなければ怒り出す事もない。

 兎を撫でているその指先はやはり、茶々の気持の良い所を探すかの様で瞳も随分優しげに見えた。


「君にずっと聞けなかった事があるんだけど、話に付き合って貰っていいかな?」


 片手だけで撫でていた様に思うのに、いつしか両手で茶々が撫でられている。横から一條が問いかければ、その瞳は手元の兎から横の男へと戻った。

「勿論」

 楚良の口からはいつも通り拒否は漏れない。一度その瞳が瞬けば、いつもの通りの彼女にしか見えない。


「答えたくなければ…それでいいんだけど。君は僕の事を、どう思ってるの?」


 何か遠回しな台詞で聞き出すという方法もあったかもしれないし、何か例え話から引き出す方法もあったかもしれない。

 それでも、一條から漏れたのはストレートに感情を問う言葉で、僅かな間が二人の合間に落ちた。それは、楚良もその質問の意図を正しく察している為だと思う。


「ルール違反なんですが、その質問に答える前に聞きたい事があるのですが良いですか?」

「答えてくれるなら、勿論」

「一條さんが私に対して好きだ、とか、恋愛感情を持ったのはいつなんです?それで、それは、どういった感情だったのでしょうか」


 一体どんな質問が飛ぶのだろうかと一瞬身構えたが、一條もまた彼女の言葉を止めなかった。

 楚良に思いは伝えてある。それに関する内容に、一瞬一條が答えに詰まった。


「えっ……と?」

「いえ、言いたくなければ構いません」

 躊躇していると判じたのか、彼女はあっさりとそう言って再び手元の方へと視線を下ろし、脇に寄せてあったスポーツドリンクを手に取った。


 本当に会話の延長の様に全く彼女に躊躇はない様だったが、聞かれた内容は一條にさらりと答えられる様なものではない。

 これを正しく答えるならば、嘘も吐かずに明かすなら、彼女を騙していた事も正しく伝わる。


「そうかな、って思い始めたのは知り合ってすぐ位だよ。兎の話を誰にもしてなかったのもあって、君とはもっと話したいって思ってたし」

 自分でもあの頃は思い出すのが難しい程に懐かしい、というよりは複雑な感情だった。

 あの時は居心地が良いのに惹かれたのか、それともサチの様子に自分も安心したのか。


「最初に此処で寝落ちした時も、本当に居心地が良いなって。――――でも、そうだ、って確信したのは日下部さん達が会社に来て、君に同席してもらった日。Chevalierのお礼だって、君の家にすき焼きを作りに来た日だよ」


 本当にあの頃から誰に露見しても彼女にだけは自分の思いは伝わらなかったのではないか、と過ぎる。どう言い方を変えても、どんなやり方をしても、楚良は一條が勘違いされたら可哀想だとか哀れだとか、そんな言葉ばかりだった様な。

 手元に落ちていた楚良の黒い瞳が一條の方へとまたじっと向けられていて、本当に落ち着かない気分になる。真剣に話を聞くときに顔を見て話すのは、多分彼女の癖だ。


「君の絵や才能に惚れたってのもあるし、サチが本当に幸せそうで離れたくなかったってのもあるよ。でも、僕に鍵を預けてくれたり、サチの事で相談に乗ってくれたり、話を聞かせてくれたり――――。そういうの、他の男にしてたら嫌だなって思った。僕にだけそうしていて欲しいって思ったから、嗚呼、これは恋だなって」


 自分の中身を言葉にするのは、恥ずかしいのもあるがやはり彼女に告げる事に少しだけ怖れがあるのだと思う。

 そんな早くから、サチを言い訳に使っていたと彼女に思われてもそれは仕方の無い様な所行であるのは否定はできない。


「どうしてそこで引き下がるというか、否定しなかったんですか?あの頃なら本当に出会ったばかりでしたし、私の様な人間には断られる算段の方が大きかったのでは」

「諦める理由なんて僕には無かったよ。でも、その後、君が刀司さんの娘だって聞いた時に、ちゃんと口説いてれば良かったって後悔した。金目当てだと思われたくないって躊躇してる間に、ストーカーの事もあってね。……君が困ってるのに付け込んで、その気が無いフリをして、君の側に居座ってるだけだって余計に言い辛くなってね…」


 あの時の苦い気持は今もはっきりと思い出せる。視線を外してしまった一條に、ふ、と彼女が溜息の様に笑った気配が届いて、躊躇しつつも目を向ければ実際に彼女は唇に笑みを浮かべていた。

 本当に、情けないというか、みっともないというか、意気地が無い。それを笑われているのかと思う。


「一條さんが女性に対してそこまで奥手だとは思っていませんでした。羽柴課長にも女性関係はそれなり、と聞いた覚えがあります。だから、口に出さないのならばそんな気はないんだと思っていました、ずっと」


 済みませんと笑っている事に対する謝罪は一度。唇へと手を置いた楚良の動きに気付いたのか、撫でる手が止まった事が不安なのか、茶々の耳が起きている事を主張する様に立つ。


「僕は卑怯な大人だから、嘘を吐いて君の側に居ることだって出来るし…君にその気が無いのを気付かないふりもできるよ。でも他の男が君に近付くのは嫌だし、君を独占するのが嬉しいから――――…君を困らせても君の特別になりたいっていうのは、不埒過ぎるかな」


 その独占欲が恋だの愛だの綺麗なだけの言葉に当てはまるとは思わないし、どれだけ取り繕っても彼女に嘘を吐いていた時期は長すぎる。何故と言われても本当に自分が良く見られたかったから、の一言に尽きるし、その間に彼女の新しい恋の機会なんて全て潰してきただろう。

 改めて口にしてみれば胸の辺りが酷く痛んで、また視線が落ちた。

 逸らした視線の外側で、ふっと肩に重みと熱。見れば黒い頭のつむじが見えて、そこでやっと隣に居る楚良が自分の肩に凭れているのだと気付いて瞳を瞬かせた。


「多分あの時に聞いても同じですよ。別に困っていません。…正確に言えば少し困る事もありますが、それが嫌かと言われれば嫌ではありません」


 その身体は熱いし、凭れている場所に少し濡れた感触もあって、それは楚良自身も理解しているのだろうと一條は思った。

 いつもなら汗が付くと自分から離れていく女性だが、今はまるでそうするのが正しい様に一條に身を預けている。


「以前からそうです。どれだけ困る事をされても、茶々は手放せませんし、この子達の要望は叶えたいと思うのです。でも、そこまで許容したいと思えるのは、今のところ人間では……一條さんだけなので」

 溜息の様にそう告げられた言葉に、本当に驚いたのは一條の方だ。

「え、……っと、それ、って」

「人間扱いではないと躊躇されるのかもしれませんが、私にとって人間がその域に到達しているのは、私にとって特別扱いしているという事ではないのでしょうか。これは恋とか愛とか呼ばれるものとは違うのでしょうか?」


 どんな感情であれ1人だけだというならばそれだ、と、彼女の言葉を鳴海は言っていた。

 それはつまり、と、考えかけてしかし一條は一度吐息を飲み込んだ。


「どう…かな。恋愛ってその」


 このままそうだね、と、言い放って彼女の不興を買わずこれを恋だと隣に居座る事もできるだろうが、一度自覚した感情はどう自分の中を探しても満足にはならない。

 何、と、凭れたまま視線を上げた表情は本当に純粋なものだったから、本気で言い辛く。


「ちょっと君に言うのには躊躇するんだけど、…恋愛って多分性欲とは不可分だから。茶々ちゃん達と同じっていうなら…多分それは、…うん、家族的なものかなって」


 本当に兎と同じというのは彼女の最大限なのではないか。楚良にはそう言う衝動がある訳ではないし、ストーカーに悩んでいた彼女には告げてはいけない言葉にも思える。

 何よりそれを口にするという事は、今更だと言われても一條自身がそういう目で見ているというもの伝える事になる。

 そんな目で見ていますよという男を側に置くというのは、楚良にとっては恐怖を覚えると言っても過言ではないのではないかとずっと考えていた。


「そういうものも含めての、許容なのですが」


 何だそんな事かとばかりに彼女が告げて小さく吐息を緩めて視線が茶々の方へと戻る。

 その彼女から漏らされた言葉は流石に一條の理解の範疇を超えて、一瞬彼女が何を言ったのかさえ頭に入らずに、意味さえ抜け落ちた。


「そうでなければ、キスなんかされた時点で別居をお願いしていましたし、そもそも側に居るのが恋愛感情だなんて言われた時点でお断りしていますよ」

 本当にどういう意味かとか何を言っているのかと、間抜けな言葉しか出ない気がして黙り混んでいる一條に構わず、彼女は口から言葉を垂れ流している。

「確かに積極的に私からという感情ではないので、違うと言われれば反論のしようもないのですけれども。でも、一條さん以外には誰にもそんな事を許そうという発想も起きないの訳なので、私には充分これは恋愛感情だと思っていたのですが。……何やら自信が無くなりました」


 茶々の腹を撫でながら楚良がまた重ねる様な溜息をもう一つ吐いて、悩んでいる様な顔をしているのはその言葉が本心から出てきたものだと分かる。

 突然だから拒まれなかっただけだと思っていたし、あの時怒った風にも見えたから、暴力に無縁な彼女の拒否だと思っていた。


「僕だけ?」

「他に私が誰を受け入れそうだと見えたのでしょうか。同居しているのも、追い出さないのも、好きだと言われて御免なさいと言わなかったのも、一人だけの筈なのですが」


 確認してみればまた溜息と共に言葉が吐き出されて、自覚した瞬間一気に一條の顔に熱が昇る。もし本当に彼女の言う通りなら、楚良はずっと一條だけしか見てこなかった事になるではないか。


 それこそ彼女の家に来たい来たいと願う男もいるし、いつも隣に座っている様な男もいる、プライベートで男の影を見てこなかったと言っても、彼女の人間関係を全て知るわけでもない。それでも彼女が言う通り、何でも許されてきたのは自分だけだ。兎の様に、例え何をされようと少し困った風にしながらも、最後には許されてしまうのは。


「人間扱いじゃないからと怒りますか?――――………何ですか、その顔――――っ」


 その顔は何だと問いかけようとした楚良の言葉がぴたりと止まったのは、一瞬だけ見えた耳まで赤い一條が楚良から顔が見えない様にその身に抱きついた為だ。

「こっち見ないでくれるかな!?」

「もう見た後ですよ。…怒ったんですか?どうなんです」

「怒ってないよ。本当に怒ってない」

 怒るなんて絶対にあり得ない。だが、今はそれ以上に少しだけ困る。こんなに近くで、何でも許せるなんて零す彼女にだ。


「それって、本当に恋人だって思っていいってこと?――――キス、とか、も」

 殺して押さえ込んでそれでも溢れている様な欲望が、身体から零れて落ちそうになる。口から漏らした声は吐息混じりの妖しい声で、自分でも物欲しげだと思った。


「…駄目です」

「駄目なの?」

「私は案外夢見る乙女なのです」


 本当に彼女の口から似合わない言葉が漏れたとばかりに、一條が抱きついていた身体を起こせば楚良の視線が一條のそれと絡んだ。

 膝の上の兎は寝ているのか起きているのか、動きが激しいとばかり、時折足をばたつかせている様だ。


「遠回しにでも照れ隠しでもなく、難しい言葉も駄目です。一番ストレートに口説いて下さい。ずっと貴方の事はいつか諦めなければならないのだと思っていました。だから今度は、どうあっても聞き間違えのない言葉で、お願いします」


 隣り合うその小柄と見つめあっていた一條が、そっか、と、小さく零す。本当にそうだ、駆け引き上手でも何でもなく、お互いに言及を避けてきた様な関係ならば。

 きっとこれは、楚良の覚悟でもあるのだろうから。


「君が好きだよ。愛してる」


「――――私も世界で一番……いや…同率一位ぐらいで何とか」

 同じく一位の相手が誰かなんて一條には聞かずとも分かるし、それを告げる彼女が何よりも愛しい。嗚呼それでこそ彼女だと嫌悪感も抱かずに手を伸ばせばその小柄は腕の中。


 楚良、と、一條の唇がその名を呼ぶ。流石にそれには珍しく照れを見せた彼女が視線を逸らす前に、名を呼んだ唇でその名の持ち主へと触れた。

 会社で出ても知りませんよ等という楚良にまた笑み。眠たげな二匹の兎はお互いの飼い主の距離など今更で、もそもそと膝の上で丸くなっていた。


 彼らが人の言葉を喋れたら、きっとこう言った。曰く、やっと名が体に追いついたのかと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る