第72話

「おー、空木か。てっきり歓迎会もやらずに帰ったのかと思ってた」

「そうしようと思ってたんですが、鳴海課長に帰ったら殺すと言われたので来ましたよ。営業部移動の祝杯は注いだ方が良いんですか?羽柴主任」


 本当に相変わらずこの会社はこのペースで四月入社の社員を潰す所から始めるのだろうかと、飲み屋の二階の騒がしい喧噪の中楚良は溜息を吐いた。

 遅れてきた空木が端の席へと座った直後辺りにやってきたスーツ姿の金髪は、もう既に酔っ払っている様にしか見えないのだが。


「いや、お前に付き合って飲んでたら新人の前で潰れる事になるからな」

「弱い自覚はあるんですね。私は禁酒続行中のつもりなのですが」

「流石にもういい加減1杯ぐらい良いだろ…」


 あの秋口の慰安旅行依頼ずっと禁酒中で、年度が明けてもそのまま続行するつもりなのかとばかりに羽柴に溜息を吐かれた楚良が、禁酒は続行だと言い放つ。

 お堅いところは変わらないというか、頑固な部分は羽柴が最初に会ったときから殆ど変わっていない。


「しかし新人教育の間は多少ペースが落ちるとは言え、そっちは大丈夫なのか?」

「今人事と掛け合って人員確保をお願い中ですね。まあ新卒よりは中途の方が使いやすい…と、信じていますが」

「新人はお前が見るんだろ?どうなんだ」

「私より年上の方でしょうから、私どうこうより相手のメンタルが心配です」

 どうなることやらと言わんばかりの楚良は焦った風にも見えない、まあ普段からこう言う人間だというのでどこか抜けて見えるのも羽柴は否定しない。


 四月になって組織は大きく変わり皆がそれぞれに歩き出した。営業課は一條が相変わらずそつなく指揮を執っていて、新入社員達からの受けも当然抜群である。

 デザイン課は流石に羽柴の抜けた穴が大きいと思われたが、鳴海も楚良も、そして他のメンバーも殆どポテンシャルを落とさずに仕事が出来ているのは、抜けた身としては嬉しくも寂しくもあった。一番は、ほっとした、だが。


 それでも増えた営業の仕事を受けるのにしては、多分数ヶ月は地獄を見るのが決定している。


「まあ、人が増えるまではこっちも絞り気味だろ」

「今日一條課長と鳴海課長が話してる所を聞いていると、そんな感じでも無かったですよ。三月に準備期間を設けたから負荷かけて見て行くとか何とか」

「お前一條と何か喧嘩でもしてるのか…」

「変わらず良好の筈です多分」


 家ではあまり仕事の話はしなくて、手がけている仕事の感触を聞いてくる程度。絵の話や画法の話、あとは殆どが兎や日常的なものの話ばかりだ。

 その中で致命的に仲が悪くなる話題などもなく、互いに少しすれ違い気味だが寝顔を確認し合う様な生活も変わらない。


「てっきり新入社員との距離が近すぎてイライラしてるかと思ったが」


 羽柴がネタでも提供してやると言う風に口に出した言葉に、楚良の瞳が奥の方に座っている一條の方へと目を向ける。本当にどこに居ても目立つ、女性社員にも男性社員にも、漏れなく囲まれる様な人だと思う。

 家に居るときは茶々に冷たくされていたり、サチにツンデレのツンを受けて、明らかに気落ちしていたりもするというのに。


「私がイライラしても解決になりませんよ」

「お前のスタンスは変わらないんだな。可愛く睨んでやればすっとんで来るだろ」

「すっとんで来て頂く必要が見つかりませんので。そう言えば、私からは聞きづらかったのですが…鳴海課長はご両親と和解されたんでしょうか?」


 羽柴が楚良の前に座った辺りで一條の視線が一度向けられたが、抜けだせなかったというよりは問題無いと判断したのだろう。羽柴の酔いが進めば多分さりげなく輪を抜けてくるのも、またいつもの事である。


「外に出ても会社に連絡がないから和解だろうな。絶縁なんて線も考えたが、鳴海自身がそれは無い様な事は言ってた。お前の方は父親とどうなんだ?」

「色々な意味で微妙です。秋を描き直したいと言い出しまして」

「何で微妙なんだ?!絶対そこは受けるべきだろ!」

「羽柴課…主任ならそう言うと思いました。ですが私が意見を聞かなければならない方はそう思って下さらないので」


 当たり前だと言わんばかりの楚良が小さく吐息を零して、机の上へと並べられた料理へと手をつけようと思う。その話を楚良が一條にした日は、珍しくその男が葛藤している様だった。

 楚良自身にも抵抗のある内容だから余計に微妙な気分になっていたのに違いない。


「デザイン課は特に変わりませんが、営業の方はどうですか?」

「どうっつっても上は陰島だし一條は変わらないしな、寧ろやりやすいぐらいじゃないか?」

「そうじゃなくて、羽柴主任の話です。念願の出戻りじゃないですか」

「出戻りとか言うな」


 楚良が料理へと手をつければ俺もとばかりに新しい箸を探しているらしい羽柴に、楚良が傍らから箸袋に入ったままだった割り箸を差し出す。冷めた揚げ物というのはどうしてこんなに固くなるのか。


「デザ課もよかったが、やっぱり営業の方が楽だな。成果がダイレクトに分かるのがいい、給料にも色付くしな」

「前から思ってましたが、実は羽柴主任って借金とかあるんじゃないですか?」

「ねえよ。ひたすら通帳の桁が増えてるだけだ」


 流石にあの業務形態で家で何か飼っているというのは無いだろうと思って問いかければ、呆れた様に告げられた。

 そんなにお金を増やして何になるのだろうかと楚良は思っているが、羽柴に言わせれば金を稼ぐのが目的ではなく働きたいから働いているだけだ。その部分だけ言えば、彼女に似ている。


「そいや陰島、兎飼い始めたんだってな?」

「娘さんが兎カフェで祖父の兎に一目惚れしたらしく、見にいったその日にお買い上げだった様ですよ」

「兎飼いが会社に蔓延するのか…」

「言う程増えてません」


 陰島が取引先にまで兎の写真をばらまいているらしく、確かに祖父が年度末に客が増えたと言っていた。兎カフェでは、というよりあのペットショップは客であっても容赦無く飼えないと判断した人間はお断りするから、その点では安心なのだろうけれど。


「――――主任同士が何の悪巧みをしてるのかな?」

「実は営業課長の悪口で盛り上がってたんだ」


 折角あるのだから勿体ないと二人でちまちまと料理をつつきながら会話を続けていれば、不意に楚良の横に人の気配。羽柴は気付いていた様だが、営業課長、つまり一條に横に座られるまで楚良は机の上のだし巻き卵に集中していた。

 羽柴がやっているが一枚ずつ剥がして食べるのは絶対邪道な食べ方だと思う。


「冷めてて美味しくないだろうし、無理して食べなくていいよ。お腹が空いてたら食べられるものは家にあるから温め直してあげるし」

「一條課長の料理と比べるのは辞めてあげて下さい。此方で充分ですよ」


 溜息と共に楚良から吐き出された言葉に一條が机の上の空になったグラスを見下ろして、何か飲むものを探しているのか視線が泳いだ。

 冷えたおにぎりらしき物を見つけた楚良が口元へとそれを運ぶのを横目、ウーロン茶を見つけて楚良の手元にあったグラスへと一條が注ぐ。


「新人達の相手はもういいのか」

「仕事の話は追々ね。プライベートの話は、空木さんの名前を出したら興味なくなったみたいだから」

「――――…何って言ったんですか?」

「何でもないよ、恋人がいるかっていう話に君だよって言っただけだから」


 それは興味がなくなったのではなく、本当かという不信を持たれているのではないかと思った。あの女が?的な視線は本当にいつだって彼と一緒に居るときには感じるから、別段楚良には最早慣れたものでしかなかったが。

 流石に一條を前にしてそれを直接口に出す人間はいないが、耳に入ると機嫌が落ちるので不用意な発言は控えて頂きたい。


「何で上が隅っこで固まってるんだ?」

「新人が話したそうに見てる」


 乾いた刺身に箸を延ばそうとした楚良の手を上から押さえる様に止めた一條が、せめて此方を食べろとばかりにまだマシな状態の料理を近づける。蕪蒸しよりは乾いていても刺身の方が美味しそうだが、こういう時の一條には逆らわない。


 羽柴の隣へと陰島と鳴海が寄ってくればあっという間に部下達や、遠巻きに見ていた新人達も寄ってきた。

 人が増えれば脇でひっそりと言葉少なくなるのが楚良の特徴で、話を振られた時にそうですねとばかりに頷く程度。羽柴に新人の距離がイライラしないかなどと言われたが、主任という立場が楚良にもある為かそこまで見下された様子もないし。


 本当に以前自分の歓迎会をやった時とは、全く景色が違って見える。


「あの、空木主任」

 いつの間にか料理をつつく楚良の隣に新入社員が何人か座っている。皆が一様に目を輝かせているのは何だ。

「空木主任は、一條課長とお付き合いされてるんですよね?」

 続けられた言葉に一瞬だけ楚良が指に力を込めたのは、此に続く言葉が今までの経験では碌な事が無かったからだ。

 不相応だとか、似合わないだとか、近寄るなだとかそういう事で。


「はい。そうさせて頂いています」


 プライベートの話だからと逃げ回ろうとしたが、多分彼、彼女達は本人から言われただとかそういう意味での確かな情報を持っているのだろうと、小さく頷いた。

 嫌そうな顔をされるのではと思った瞬間、わっと皆に囲まれる。


「やっぱり家でも優しいんですか?!」

「課長は料理が得意だと聞いたんですがっ」

「主任にはどうデレるんですか?」

「家事スキルも完璧ってマジですか!?」


 次から次へと降る質問に楚良が一瞬圧倒されたが、皆一様に楚良の事を尊敬の眼差しで見ているのは何故なのか。これに全て答えなければならないのかと、困った風に辺りへと視線を投げれば、何故か旧社員達には楽しげに見つめられていた。

 一体本当に、自分が来るまでにどんな噂の広げ方をされたのか。


「――――…ええと…それは」

 下手に暴露するとまた一條が一方的になんて話になりかねないし、女の尻に敷かれて家事をさせられているなんて評価になるのは避けたいし。

 彼が尻に敷かれているのは楚良ではなく兎の方だと思うとか、ぐるぐると考えていれば、隣の一條が肩を叩いた。


「空木さん、今メールがあったんだけどちょっと会社戻るよ」

「え、あ――――はい」

 どうぞとばかりに鞄を渡されればこれは救世主だと思い顔を上げる。えー、と新入社員達の大合唱が聞こえたのは、一條が離席する事によるものか、それとも楚良の答えが聞けなかった事によるものか。

「あ…の。プライベートでの事は、その」

 先に出るねと楚良の後ろを通る一條に慌てて立ち上がりかけ、しかし思い出した様に楚良がブーイングを向ける雛たちに向き直った。


「今は私だけの物にしておきたいので。…ごめんなさい、また今度」


 少し思案した後に僅かに顔を赤らめた楚良がそう告げて、先に部屋を出て行った一條の後へと長いスカートの裾を揺らしながら付いて行けば、直ぐにその姿は見えなくなる。

 感心した様な溜息を吐く新入社員達に混じって、くく、と、喉の奥で笑う様な声が響き皆の視線が其方を向いた。


「お前達、空木に迫る時は後ろに気をつけとけよ」

 笑う先輩社員達が皆知った顔でそれぞれに酒を片手、何故か皆それぞれに楽しそうにしているのはどういう事なのだろうか。

 あの二人の界隈は、彼らに言わせればいつだって刺激的で嵐の様だ。本人達は穏やかに暮らしている様に言うが、絶対に周りからしてみればそんな事はない。

 外見だけ見れば釣り合わない等と言われているが、二人の事を見守って、もとい面白がっていた皆に言わせれば似合いの二人だった。


 羽柴が一條に聞け等と言ったのには訳がある。一見すれば人付き合いに難のある楚良が、女性の扱いにも手慣れている一條にあっさりと落とされたイメージになり易い。

 だが、そう。少し彼らを観察していれば、直ぐに分かる事だ。見かけ等、彼ら二人には何の役にも立たない。可愛い顔をして嫉妬深く、暴れるときは凶暴なあの生き物の様に。勿論臆病で、警戒心の強いあの生き物の様に。


「あのデカい兎は、絵描きを溺愛してるんだからな」


 それが、あの二人の全てである。

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その兎、絵描きを溺愛中につき。 ごとうろくらく @luluma

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