第36話

 酒の席で隣に羽柴、そして反対側に鳴海。最早この位置が定位置になってしまったのではないだろうか、個人的では端の方で静かに飲みたい。


「本当にお前の歓迎会はお前が中心にはならなかったな…」

「皆さんが気持ち良く飲めれば私は兎もいますから。それにあの後コンビニで兎の形のケーキを買ってきて下さったじゃないですか」

「酔い覚ましついでだがな」


 視線の中で勅使河原が多くの社員に囲まれているのに視線を向けつつ、羽柴がぼやいた言葉に楚良があっさりと答えた。その手元のグラスにレモンが輪切りで入っていて、マドラーでかき回していた楚良がそれを傍らに置いてから隣の鳴海へと差し出す。

 礼も言わずにそれが取られて、楚良が自分のグラスを引き寄せ口元に当ててその中身を飲み下した。酒は弱くないと思っていたが、慰安旅行で酷い醜態を見せたらしいので今は禁酒中である。


 羽柴は案外直ぐに顔に出るタイプで意識はまだ大丈夫、鳴海はいきなりぷつんと寝るので油断ができない。


 スマホが鳴った気がしてスカートのポケットから取り出してみれば、確かに着信があった。どこからか確認すれば総務部から、両隣に断って席を立ち廊下の方へと扉を抜けて下りる。


 座敷になった宴会場から外に出れば本当に涼しく、窓側で反対側の耳を塞いで直ぐに切れたその相手へと掛け直した。備品はどうかという遣り取りに今の在庫を考えながら、ついでに無くなりそうなものも依頼しておく。企画と同じ部屋の頃は楚良が其方も管理していたが、流石に営業は畑が違いすぎた。

 特に急ぎの用でもなかったのに安心しつつ、後で確認のメールを送ってもらうのを依頼して、つい見えても無いのに頭を下げて礼を言い耳から下ろした。

 また部屋の中に戻らなければならないのはうんざりするが、荷物も何も置いたままだし、このままフェードアウトという訳にもいかない。


 扉を開けば他の部署の女性社員に既に席が埋められていて、余り人気のない部屋の隅の誰もいない机に腰を下ろした。


 最近は外から兎を確認するのが楽しみで仕方が無いとカメラを確認するアプリを立ち上げ、部屋の様子を確認する。今日はまだ一條が帰っていないので、飼育スペースを隔てるフェンスの扉の所に二匹が団子になっていた。

 出して欲しいと全身が訴えているが、残念ながら彼女達を自由にすべき人は、今同じ部屋で談笑中である。


 本当は安定収入を得たらもう1匹増やそうかどうしようか考えて居た所だった、一條の兎であるサチは避妊済みだから跡継ぎは望めないが、ネザーランドドワーフの方にも手を出したいし、ダッチも考えたい。

 どちらにしろ少し時間をかけて考えた方が良いだろうと、スマホを見ながら頬杖を突いたところで、机を挟んで反対側へと誰かが座った気配がして顔を上げた。


「こんばんは」


 部屋の少し落とされた照明。目の前に置かれた誰のものだったか分からない食べかけの皿を挟む様に、その男が座っている。

 彼は先程まで部屋の中心にいたはずで、油断して目を離していたと思えば、楚良が頬杖を解いてそして座り直した。


「飲み物取ってきたよ。新人同士だし、仲良くしようか」

 目の前にフローズンドリンクだろうか、細かい氷の満たされたグラスを置かれて楚良の視線が一度だけ落ちる。

 強い酒の香りだが、甘い香りの混ざるそれは口当たりの良いカクテルだ。


「私はもう新人ではないのですが。…何かお困りの際は是非」

 机に腕を置いて僅かに身を乗り出したその男に、楚良が僅かな微笑で応えれば露骨に眉を潜められて、そして溜息を吐かれた。


「また兎を飼ってるのか。たかがペットに金を使うなと言っただろ」


 変に愛想でも振りまかれるのかと思った瞬間、楚良にだけ聞こえる様な声量で乱雑な言葉使いが漏れれば、軽く楚良が指先を握り締めた。

「連中から聞いた。何だ、また俺に構って欲しいから兎を飼ってるんだろ?楚良は分かりやすいよな、何ならまた殺してやるから。俺との生活には邪魔だろ?」

 何をばかな、と、言いかけた唇はしかし途中で言葉にさえならなかった。自分の名前をこの男が呼ぶのはあの時と変わらない。


 本当に、この男の思考はあの時と何も変わらないのか。


「勅使河原さ~ん!何二人だけで飲んでるんですかぁ、勅使河原さんの歓迎会なのにー」

「空木さんズルい、独り占めはナシですよ」


 何か言葉をと探した瞬間、その後ろから声が掛かり楚良の意識が其方の方へと流れて、唇から僅かに緩んだ息が漏れた。女子社員が3人、デザイン課からは遠い部署の人間だろうか、顔しかしらない。彼女達が勅使河原の左右に座って、その身体に身を寄せた様だった。


「ごめん、彼女が自分も新人だっていうから、仲良くしようねって」

「空木さんってもう新人って感じじゃないでしょ?まあ…デザ課では一番新しいかもだけど」

「そうなの?そう言ってくれればちゃんと敬語使ったのに」

 図々しいとでも付きそうな女子社員に、分かりきっている筈の勅使河原が答えた。当の楚良は言い忘れましたと当たり障りの無い答えと笑みを浮かべる。


 あの会話を続けるぐらいなら、女子社員の批判の方が天の助けである。周りを害する言葉に敏感になってしまった代わりに、自分を貶める言葉に対する感情は、あの頃と違って殆ど死んでしまった。


「待って、もう少し話そう?」

 席を立とうと傍らへと手をつけば、女性の合間から声が掛かって目の前へと先程のグラスを押し出された。


「折角君の為に作って貰ったんだよ」

 楚良にだけ対する言葉使いではなく、他に人がいるときに使う殊更優しげに告げるそれは女性の反感を楚良に売りつける為に選んでいるのだろうが、これは去っても残っても飲んでも飲まなくてもゲームオーバーである。


「そーそー、空木さんも一緒に飲もうよ」

 珍しく女子社員から声が掛かり、他の二人の女性に睨まれている。多分勅使河原に同意して気を惹きたいのだろうが、本当なら直ぐに何か理由を付けて席を離れたい。

 それでも小さく息を吐いて、グラスへと手を伸ばした。


「空木さんってぇ、昔ストーカーに会ってたんですよねー。この間聞きましたよ」


 飲まないと言えば今度は何一つ逃げ場の無い様な理由で詰められるのだろうと思い、口へとグラスを運ぼうとした刹那、前に座る女性から声が掛かってこのタイミングで何て話題を選ぶんだと一瞬手が止まった。

 珍しく表情を無くしたのは楚良ではなく勅使河原、その話題を振った女性を見下ろしている。


「誰から聞いたんですか?そんな事言った事は」

「えー。総務の子から聞いたんだけど?嘘だったんだ」

 一瞬どう返事をすべきかと思ったのに、総務と聞けばやはり産業医なのかと肩が落ちた。

 本当に患者の情報を吹聴するという可能性に思い当たれば、絶対にそれを告げる事など無かったのに。


「勅使河原君、主役が隅っこに引っ込んでたら駄目だよ」


 守秘義務云々を言うよりは、他の方と勘違いしているのでは、と冷静に言葉を返して首を振れば、いつの間にか隣から声。声と共に男が滑り込んでそこへと腰を下ろした様だった。


「一條課長!」

「君達も、他の社員が寂しがってるよ」

 にこりと人の良い笑みを浮かべたままで楚良の隣に落ち着いた一條が、女子社員に言葉を向けて机の上から空のグラスを探して、勅使河原の前へとそのグラスを置き、ビール瓶を片手に取る。


「有り難う御座います、頂きます」

 先程まで無表情になっていた勅使河原が同じ様に笑みを浮かべて、其方へとグラスを差し出し注がれる液体を見つめた。

 八分目、泡が丁度縁に上がる絶妙な位置で止めた一條が、瓶を傍らへと置く。


「これ貰っていい?」

「はい。口はつけていない筈なので…」


 一條が隣へと視線を下ろして楚良へと問いかけ、答えを聞くのと同時に彼女の前へと置かれていたグラスを自分の方へと寄せる。

 営業職で強い筈の一條なら禁酒中の自分が飲むよりマシだろうかと楚良が頷けば、勅使河原の眉が一瞬だけ跳ねた。


「何の話をしてたの?」


 一條の口がグラスの縁へと付いて一瞬だけ瞳が細められた。口当たりは甘いが喉を落ちて行くのはどぎついアルコールの味、背の高いグラスだから酒に慣れていない女性が飲めば一発で意識が危うくなるのに違い無い。

 楚良はそこまで弱くはないだろうが、それを楚良に勧めるというなら意図は明かすぎる。


「空木さんがストーカーに会ってたっていうの、嘘だったんですよー」

 思わずそれこそ一條が吹き出しそうになったが、顔には出なかった。彼女の心情と状況を考えれば答え等それしかないだろう、彼を前にしては言えない筈だ。


「嘘というかデマだよね。出所は羽柴かな?羽柴はしつこく僕と君の噂も流してたからね」

 彼女の方へと半身を向けて頬杖をついた一條に、楚良の視線が一度其方を向いて軽く首を傾げ、そして瞳に黒髪が一筋零れ落ちた。

 近い距離、僅かに酒の香りがする程だと思えば直ぐにまた視線が離れる。


「あれは一條課長への仕返しだそうですよ」

「Chevalierの?」

「そうです。自分の意思を曲げさせられたのは一條課長のせいだから、御免なさいと言うまで続けると」

「で、君も巻き込まれたんだ」

「同意したのも私ですから」


 この距離で見下ろされるのは流石に近い、と、ちらりと見上げたが彼は楽しそうだし視線も外されてはいない。

 前から酒が無くなれば彷徨った手が新しい水の入ったグラスへと手が伸びた。


「Chevalierって何です?」


 羽柴にも困ったね、と、優しげな声で漏らされる合間に引き裂く様に冷たい声が掛かって、皆が其方を向いた。

 明らかに苛ついている様な声だと思ったが、その表情には笑み。


「嗚呼、すみません。大手化粧品会社の名前だなって」

 一條と楚良の会話が続くのを避けたのか、それとも何か意図があったのか、ただの興味なのか。ただ周りの女性社員がイライラとしているのは、男二人の会話が楚良に関するものだからだろう。


「空木さんがぁ、譲って貰ったんですよぉ。一條課長とペアでやってる仕事ですよね?」

「彼女が仕事を譲ってもらったんじゃなくて、僕が彼女を譲ってもらったんだよ。僕と一緒に出してって羽柴に頼んでね」


 自分が、を強調する一條の意図を知りたいのだが、とりあえず問い詰めるのは自宅に帰ってからにしようと楚良は思った。ついでに胃に悪いのでお夜食は胃に優しいものを要求しよう。


「デザイン課は部署内で担当は明かしてくれないし、営業も出ませんよね?」

「そうだよ。だからChevalierは特別。無茶しすぎて羽柴に叱られてるって訳。名指しで彼女を使えるのはChevalier絡みだけだし、僕だけだよ。同じ事はしないようにね」


 カクテルを片手ににっこりと笑った一條に、勅使河原の端正な顔が一瞬だけ顰められたのが楚良の視界の中。

 隣にいる女子社員は同じ方向を向いている為にそれには気付かないのだろう、あれは不機嫌になった時の顔だと気付いた楚良が、助けを求める様に羽柴を探してみたが女子社員と話し込んでいたので死ねと波動を送っておいた。

 後出来る事と言えば、水の味がレモンだと現実逃避をする事ぐらいだろうか。


「そんな大きな仕事も回って来るんですね。羨ましいな」

 一瞬だけ勅使河原の指先が震えていると思ったのは錯覚だろうか、瞬きの合間に直ぐにそれは止まってしまっていた。

「君も直ぐだよ、去年の新入社員は入って二ヶ月目には三番手に付いたこともあったからね。陰島を抜くのは大変だろうけど」

 それこそ一條は陰島の上だから勅使河原が抜くことなんて出来ないだろうと思いつつ、楚良がまた水のグラスへと唇を付ける。


「一條課長って、入社以来一度も抜かれたことないんですよね?」

 わくわくと問いかけた女子社員に、机に頬杖をつきつつ一條が目を向けて、苦笑を浮かべ軽く首を左右に振った。


「それもデマだよ。陰島には何度か負けてる」

「ほんとですか?陰島主任ってっすごいんですね…」

「羽柴がデザ課の課長になって、それで色々デザ課の事をレクチャーしてくれる様になってから負けなくなったんだよ。うちのデザイン課は能力高いから、他の会社からもヘッドハンティングの対象になってるんだよね」

「へー、羽柴課長も凄いんですね」


 女子社員の目が向こうのテーブルで女子社員を口説いてるんだろう羽柴の方へと向いて、また勅使河原の眉が潜められるのを見た。

 彼は大学で会ったときからそうだ、会話の中心にならないと気が済まないし、会話の主導権を握れないのを嫌う。その対象が男なら尚更。


「本当に見習わなければならない事だらけですね。羽柴さんとも話してきます。ついてきてくれる?一人じゃちょっと物怖じしちゃって」

 勅使河原が我慢しきれなくなったのか周りの女性に声を掛ければ、誘われたとばかりに3人がそそくさと立ち上がる。


「空木さんも来てくれないかな?」

「嗚呼、ごめんね。空木さんとちょっと話があって来たの忘れてたよ。さっき電話あったでしょ?」


 しかし続けられた会話に露骨に3人の眉が潜めらた瞬間、隣の一條から声が漏れた。楚良が其方へと視線を流し、先程の電話は営業には関係が無いと過ぎればこれは彼からの助け船だと気づき、勅使河原を見上げた楚良は首を動かした。


「ちょっと一條課長をお借りして打ち合わせをしなければならないので。済みません」


 ぴくりとまた頬が動いた様だったが、彼は人前で楚良に追いすがる事はしたことがない。あくまでも楚良が彼に言い寄っている形が彼にとっては大切なのだ。

 じゃあ又後でと寒気のする流し目をくれてから、女性を伴って去って行く背中を見やり、楚良がやっと息を緩める。


「水貰える?」

 やっと居なくなったと思っていれば隣から声が掛かり、新しい水を探している間に手の中からグラスが取られた。


「君、これ飲むつもりだった?」

「最終的には禁酒中と言っても何だかんだ飲まされたかと。流石にちょっと匂いが危険だったので…大丈夫ですか?」


 躊躇無く水を空にした一條へと視線を上げれば、軽く肩を竦められる。営業で鍛えている一條の目元が赤いのは、本当に珍しい状況だと思った。

 彼は本当に顔には出にくいタイプだったから。


「鍛えておいて良かったよ」

「今日は早めにお風呂に入って眠っていて下さい。部屋の方がいいかもしれません。私は多分この後オフィスですから」

「こういう時ほど皆と眠りたいんだけど…」

「アルコールが強く香っていますから、多分遠巻きに足ダンですね」


 干されたグラスは手の中に帰ってきたが、他に何か飲めるものは無いだろうかと瞳が机の上へと投げられる。


「一緒に帰りたいけど、オフィスに帰るの?」

「酔ったんですか?そんなんじゃ尾行がいたら撒けませんよ、今日は自分のマンションに帰ります?」

 またテーブルへと肘を突いた一條はあの短時間だというのに、目元が眠たげにも見えて大丈夫かと思った。

 あのグラスの中身はウォッカ割りだろうが、それにしたって酔いが早い。


「嫌だよ、君も兎もいないのに」

「案外自分のマンションでアルコールを抜くのは良いかもしれませんよ?」

「……そうした方がいいのかな…。ウォッカでこんなに酔わないんだけど」

 彼もウォッカだと思ったのかと思いつつ、実はスピリタスだったというオチではないんだろうかと思ったが、流石にそれは気付くだろう。


「薬入りじゃないですかね」


 ちらりと一條を見やった楚良がそう告げれば、彼の眉が潜められた。そう言えばあのグラスはそこらにあったものを持ってきたという風ではなかったし。

 その米神辺りを親指が揉んでいるのは本当に眠くなってきたのか、それとも気持ち悪いのか。


「お前達二人で何引っ込んでる。本当に怪しいな」

 新しい水を探そうと机の上へと視線を流すが、どれも飲みかけで息を吐く。一條に歓迎会で酔いつぶれたなんて評価を与えるぐらいなら、自分が飲めば良かったと心底後悔していれば、視界に羽柴の姿が映った。


「勅使河原さんとお話だったのでは?」

「気持ち悪いぐらいに褒められて吐くかと思ったから鳴海に任せてきた」

「鳴海主任の胃に穴が空きますよ。それ、飲まない方が良いですよ」

 他のテーブルには無いカクテルだと気付いた羽柴が伸ばしたグラスに、楚良が横の一條へと瞳を投げて告げる。


「どうしたんだ?」

 机の上へと頬杖をついている一條はいつもの涼しげな様子とは違う。流石に不信に思った羽柴が眉を寄せれば、一條は首を左右に振っただけだった。

「勅使河原さんが私に持ってきたカクテルを飲んだらこうで…。ウォッカベースだと思うんですが、流石におかしいですよね」

「ウォッカっていってもカクテルぐらいじゃ酔わないだろ」

 問いかけた羽柴が一度は躊躇したグラスを引き寄せて中身を確認してみるが、強いレモンとアルコールの香りしかしない。シロップが多いのか、匂いだけで甘さを感じる。


「ちょっと待ってて下さいね。何か飲むものを取ってきますから」

 立ち上がった楚良が一條を壁際の方へと寄せてから、部屋の中を一度見回す。目的の人物を見つければ其方へと足を向けて、偶然空いた横へと膝を突いた。


「陰島主任、ちょっと良いですか?」

 煙草を咥えて談笑していた男の視線が直ぐに気付いて其方を向けられ、楚良が机の上からウーロン茶の瓶を見つけて確保しておいた。


「どうした?何かあったか」

「煙草を一本頂けませんか」

「お前がか。何の罰ゲームなんだ?兎が嫌がるだろ」

「いえ、私ではなく一條課長が眠そうなので。一本吸えば少しは頭が晴れるかなと」

 嗚呼、と一度部屋の端へと目をやった陰島に、楚良が小さく苦笑を浮かべた。

「珍しいな」

「多分疲れていらっしゃるんだと思います。本人も眠りたくは無いと思いますので」

「そうだな、一本でいいな」


 ほい、とばかりに箱から一本取り出したそれを楚良に渡せば、有り難う御座いますと丁寧に頭を下げて楚良が受け取った。


 ウーロン茶の瓶と煙草を手に戻って来てみれば、幸か不幸か、それとも課長二人という状況に怖れを成したのか、勅使河原の方に人が集まっているせいもあってまだ席は空いたままだ。


「陰島主任から一本貰ってきました。どうぞ」

 机にウーロン茶を置きつつ、端に置かれていた灰皿とマッチを引き寄せる。吸い口を一條に向ければ非常に嫌そうな顔をされたのは理解する、煙草の香りはアルコール以上に兎に嫌われるし身体に残る。


「吸っとけ、お前このままだと本当に寝るぞ」

「――――本当に、嫌なんだけ……ど」

 喋って口の開いた瞬間に楚良がそれを突っ込んで、その隙間から仕方なく溜息を吐いた一條が唇に咥えた。


「一條は兎も角、空木が潰れても絶対に勅使河原なんぞに任せないんだがな」

「昔通りなら女性を使うつもりじゃないんですかね…?」

 だから困っていましたと彼女はストレートに告げて、もう一度一條の方を申し訳なさげに見上げる。隣から燐を擦る香り、一瞬の音と共に赤い光が煙草の先に灯ったのを見た。


「一條みたいになりたいから、是非空木を貸してくれなんぞ言われたな」

「何て答えたの?」

「俺じゃ不満かと言ったら怖れ多くてだそうだ。一條が狡いって言ってたな、デザイン課と距離が近いと指示が良く通るって。何かお前への評価に棘を感じたんだが」


 告げられる言葉に一息深く煙を吸い込んだ一條が、眉を寄せつつ溜息を吐いた。陰島の吸っている煙草は今流行のライト系でもメンソール系でもない、重いものだ。

 絶対に兎に嫌われるだろうなのは目に見えている。このまま解散ならマンションに一度帰るのが決定的になってきた。


「名指しして彼女を使えるのは僕だけだって言ったんだよ」

「お前はたまに真正面から喧嘩を売っていくよな」


 彼女に興味の無い人間ならそんなものかと事実として受け取るだろうが、ストーカー相手にそんな風に言葉を選んだらどうなるか分かっていようかと思う。案外一條は自分にターゲットを向けさせる為なのかとさえ羽柴が思う程だった。


「羽柴課長、そろそろ私はオフィスに戻ろうかと思うんですが。総務からもメールが来ている筈なので」

「もうそんな時間か、俺もさっき電話が来たから戻る。一條、うちの仮眠室で寝ていくか?自宅の方が近いなら陰島辺りに送らせるが」

「仮眠室借りるよ。僕もちょっと確認したいメールがある」


 分かった、と羽柴が机に手をついて立ち上がり、楚良が煙草を灰皿へと押しつけた一條の方へとウーロン茶の瓶を寄せた。

 直接それに口を付けた一條が一気に干し、大きく深呼吸をしてから立ち上がるのを確認してから楚良も裾を払う。


 鳴海の方へと音も静かに近付いて傍に腰を下ろす前に、鳴海が楚良に気付いて隣に置いてあったままだった鞄を差し出した。ずっと荷物を見ていてくれたのか、当然開かれた様子もない。


「先に戻ります。課長達も出ます」

「分かった。最後に送ったメールのチェック頼む、1時間以内にデザ課は全員上がらせる」

「了解しました。タクシーはいつもの所で」


 ひら、と鳴海が了解代わりに手を振ってから楚良が直ぐにその傍を離れた。同じテーブルに勅使河原がいるが、一度会釈をしただけでそれ以上視界には入らない。彼が途中で抜ける事は不可能だろうし。


 靴を履いて店の中を通り、店員に礼を言ってから店の外へと出たところで、羽柴と一條がほぼ間を置かずに出てくるのが見えた。また周りからとやかく言われそうだが、今日は全部勅使河原が女性社員をもってくれるに違い無い。

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