第35話

「お早う御座います」

「嗚呼、空木、待ってた。比内重工から紙の指定があったぞ」


 週明けの朝、いつも通りの時間より少し遅らせて出社した彼女へと声が掛かり、まだバッグを片手にした状態で羽柴の声だと思った。

 最初にどんな風に声を掛けられるだろうとやや緊張もしたが、直ぐにそんな思考は言葉に吹き飛んで皆がおはようと声を掛けるのに返しつつ自分のデスクへと滑り込む。


「和紙でした?」

「嗚呼、和紙だった。お前本当に良く当たるな」

「直ぐに仕上げます。他に週末動いた所はありますか?」

「目立つ所はそこだけだな。後は細々あったから全部投げとく」

 有り難う御座いますと直ぐに楚良の口から漏れて、PCが立ち上がる間に鞄を足下に、直ぐに視線がモニタへと向いてその手がマウスに掛かった。


 羽柴との会話が終わればまるで順番だという風に部署の各所から声が掛かり、確認作業と了解を交互に投げて行く。週末は結構荒れたのか、共用しているファイルやらメールやらも修正に修正が重ねられて、立ち寄ったを名目に出社すれば良かったと思った。

 週末には辞表を書いたりたり、二人で暮らすためのあれこれ準備やらをしていたが、辞表は兎も角他の事は殆ど一條がやってしまった。自分のやった事は絵を描いたりサチの身の回りの事ぐらいだ。


 一緒に住む事に不安はないのかと途中で聞かれたが、不安と言われれば彼の胃に穴が空くだろう事と婚期が遅れるのではというのを仕方なく正直に答えれば、とてつもなく残念なものを見るような顔で、それは気にしなくて良いからと言われた。

 確かに自分の生活は人を不安にさせるのは分かっているから、そんな顔をさせなくて済むように頑張ると告げたが、さらに溜息を吐かれたので切ない。


 自宅の警報器類の説明をしつつ、兎の周りの世話なども共有しておいた。二匹になるならお客様扱いも申し訳ないからと、サチが寝るためのスペースを少し広げて様子を見たり、新しいソファベッドの使い方を確認したり。餌入れやら何やらも新調すれば此処に暫くいられると察した茶々とサチが大はしゃぎで楚良さえ困る程だった。


 ご飯は美味しかったし、絵は捗ったし、水回りは綺麗に掃除されていたし、洗濯物は片付いていたし、今日の朝は彼の方が早く出たし。

 自分の駄目さ加減を思い知らされたので切ない。


「課長、今出した分のチェックお願いします。少し片付けますね」

「嗚呼、やっぱりお前がいないと荒れるな…」

「皆さんお忙しいのにリフレッシュさせて頂いて、有り難う御座いますね」


 小さく笑った彼女が椅子を引いて立ち上がれば、ゴミ頼むだのこれ片付けておいてだの、皆が気軽に彼女の方へと声をかけていた。ファイルやらホワイトボードやらプリンターの辺りやら、手慣れた様子で空木が回って行く。


「空木、ココアとか入れてくれない?甘いのが良いんだけど」

「お湯で溶かす奴ならありますよ。抹茶オレなんかもありましたけど」

「あ、俺も。カフェオレのカロリーハーフ」

「アイスティー」


 珈琲サーバーに新しいフィルターをセットしていれば、近くの女性社員から声が掛かって楚良が手元を確認した。これで良いでしょうかと確認すれば、それを聞きつけた社員達から次々声が掛かる。

 気楽に声を掛けてくれる皆の居る職場は本当に好きだ、些細な事でも言いつけてくれるのは嬉しいなと思いながらカップを配り終われば、一番最後の鳴海から小さな箱を差し出されて、何かと思って表を返せば近くのコンビニの名前と、特典らしき文字が記されていた。


「有り難う御座います。貰って良いのですか?」

「昨日ガムのボトルが空になった」

「また勝手に漁ったんですね。これ、欲しかったんです…有り難う御座います」

 箱を空ければ小さなキーホルダー。鞄に付けて持ち歩きたい精巧さだが、落として兎の口に入るとことなので、デスクの照明にぶら下げておく事にする。

 自分の机に戻ってそれをつり下げれば、他の物とぶつかって小さな音が立った。こうしてどんどん物が増えていく。


「空木、お前Webデザの方どうなんだ?」

「どうというのは?経験なら2件、以前の事務所ですが」

「出来るってことで良いんだな?ちょっと仕様書送るから見てくれないか」

 分かりました、と快諾する言葉が終わる前にはもう既にメールの受信マークが光っていて、直ぐにそれを開いた彼女が眉を潜めた。


「…なんだか、すごくざっくりしていますね」

「先方も余りイメージが固まってないらしくてな。営業がサンプルを出したみたいなんだが、手応えも無いらしい」

「社内資料が詳しいので少しこの系統で進めてみます。このまま手をつけますね」

 営業からの資料を見てみれば予算や業務形態なども詳しく書かれていて、この細かさは一條だろうと思った。此処まで書いてくれていればイメージが付きやすいと思うが、彼がサンプルを提示しても望みのものを引き出せないというのも珍しい。


「これはデザインだけ描いたらITの方に投げれば良いんですか?」

「まあそうだが。ラフだけ描いて先方に確認してもらうのも手間だがどうする?前園の所じゃお前が書いてたのか?」

「はい、まあ作成ソフトで無理矢理ですが。ラフだけなら時間は掛からないと思いますが、相手のイメージが固まってないなら一度枠だけ作って中に入れるデザインを選んで貰う形でどうでしょうか?遣り取りが増えるので営業の方には手間かもしれませんが」


 流石だなと羽柴から声を掛けられれば、いえ、と軽くまた楚良の首が振られる。

 視界の中には時折勅使河原の姿も入るのに、驚く程自分も落ち着いていると楚良が思った。それはやはり、誰かが知ってくれているという安心感があるからだろうか。

 それと、皆が隙間無く仕事を詰めてくれるのが助かる。殆ど席を立つ暇さえなく仕事が振られるのは、羽柴の采配ではないだろうか。


 簡単に描いたラフは予算内に収まるだろうか、ちゃんと資料を見て確認しようと部屋の隅にある資料の棚の方へと歩みを進めた。

 ガラス戸を横に開いて、少し高い位置にある青いラベルのファイルを手に取れば中を簡単に確認する楚良の横に、影が一つ立つ。


「空木さん、紙の価格表って此処にありますか?」


 横から掛かった言葉に一度だけ指先が止まり、そして静かに楚良の視線が遅れて其方の方へと上げられた。

 幾分高い視線、笑み、楚良を見る事に躊躇もしない自信に溢れた様子は、あの頃と寸分たりとも変わらない。


「フライヤー用ですか?ポスターか、パンフレットなどの?大きさによっても変わるので、教えて頂ければ」

「フライヤー用でB4の光沢紙のものが欲しいのですが」

「分かりました。此方にあるものはデータが少し古いので、価格が変わっていないか確認した後直ぐに新しい物を出しますね。お客様に提示するものでしたら其方の方が良いと思いますので」


 軽く会釈をした楚良がするりと身を翻して傍を離れる刹那、黒髪の先に指先が触れた感触がした。

 その一瞬だけでぞわっと首の後ろが冷たくなったが、直ぐにその指は離れて楚良もまたデスクの方へと辿り着きファイルを立ち上げる。


「どうした?」

「紙の価格データが必要な様で。来年からの新価格って変わった所ありますか?」

「あー。そいや来てるな。悪い、すぐ出す」


 さらと黒髪を払ってから手持ちのデータと、羽柴から送られてきたそのデータから必要な物を抜き出して宛先に勅使河原、CCに席には不在の一條と陰島、そして羽柴の名前も入れておいた。

 値段が変わる場所があるので共有するという事、具体的な変更場所が直ぐに分かる様にメールの文章を打ち込んで送信しておく。楚良は個人宛にメールを送る事はなく、必ず責任者や関係者の名前を入れる、それは以前からの習慣だった。


「案外値段上がるな」

「見てなかったんですか?大丈夫ですか?頭が豆腐になったんですか?」

「ガチガチに固まるより良いだろ」

 送られてきたら共有してあげて下さいよなんて彼女に言われたが、今したから良いだろと羽柴が適当に答える。


 手元に何か投げられるものは無いだろうからと楚良が探している間に、外出先で確認したのか陰島と一條からほぼ同時に定型文の礼が目を通したとの報告ついでの様に入って、勅使河原から楚良のみに当てて親しげな礼が入ってきた。

 他にも幾つか思い出した様にあの資料が欲しいこの資料が欲しいというのが陰島から飛んできて、全て纏めて同じ様に送付しておく。


 自分の取ってきたファイルをやっと開けると傍らに置き、命令文の文字数なども数えておきつつ、似たデザインが予算内に収まっているかどうかを確かめた。


「はい、デザイン課空木です」

 内線が鳴って1コールもしない間に、楚良がペンタブを握っている手とは逆の手で受話器を取る。この部署で電話を取るのはほぼ楚良で、不在時以外はそれがもう習慣になっていた。

 一番暇な人間が取ればいいと楚良が言っていたが、もう誰も彼女が暇だとは思っていない。だが彼女が電話を取れば殆どの事が円滑に回る、羽柴と同じレベルで担当者を把握しているのは彼女だけだ。


 IT制作課からの電話に軽くメモを取りながら、ついでに先程のデザインの概要などを告げて簡単に予算の見積もりも取っておく。予定のページ数など含めて大体予想通りの金額だったし大丈夫だろうと、楚良がメモの端に書き付けた。

「有り難う御座いました、失礼します」

 電話の内容は口頭ではなく紙かもしくはメールを併用するというスタイルに則って、直ぐに用件をメールに書き付け羽柴と担当者へと送付しておく。


「城島さん、今メールを送ったのですがITから訂正依頼です」

 メールだけではなく口頭でも。手を伸ばして付箋紙を差し出せば、えー、と悲しげな声と共にそれが取られた。

 それをモニタの端に貼り付けて城島が机に突っ伏している。


「課長、もうどこをどうしたら収まるのか全然分かんねぇんすけど。ソレ書けるなら空木借りていいっすか」

「あー。予算タイトな所か、空木は行けるのか?」

「大丈夫です。…あの、色チェックの締め切りで20分後になっている物があるのですが、此方は先にしなくても?」

「そっちは俺がやっておく。気にするな、城島の方頼む」


 分かりましたと彼女が再び席から立ち上がり、スカートの裾を揺らして同僚のデスクの方へと、その脇へと座り込んで画面を見上げれば、その手がメモの端へと掛かった。

「今回の修正では予約の所で既存の予約システムが入らないとの事なので、もう少しこの辺り纏めてしまいましょうか。複数の予約システムを使いたいとの事なので――――」

 チェックの入っている場所を確認しながらプログラムを確認すれば、コメントがITの方から直接打ち込まれていた。本当に向こうも大変だと思いながら、城島が描きたいデザインを聞き、代替案をメモに箇条書きにしていく。


「何か私も空木は魔法使いだと思えてきたわー」

 隣のデスクからそれを眺めて居た女性社員が溜息と共に告げれば、楚良が小さく肩を揺らした。

「良いですね、締め切りが延期になあれ」

 軽くペンを回した楚良に、城島が飲み物を吹き出す音が聞こえて傍らのティッシュを手に取った楚良が箱ごとそれを差し出す。


「私もその魔法使いたいわあ」

「多分一生好物を食べられない呪いとか掛かるんですよ」

「そいやお前の好物って何なの?肉って課長が言ってたけど」

「肉ですね。でも最近魚も好きになってきました」

「タンパク源ばっかじゃお肌ボロボロになるよ?空木ただでさえ徹夜多そうだし」


 色々な場所から好き勝手言葉が掛かって来れば、肌、とばかりに楚良が薄く化粧の乗っただけの肌を押さえてみた。それに気付いたのか横の社員にそこを引っ張られる。


「若い…!!この肌は若いですよ!!」

「マジで、俺にも触らせて」

「城島はマウスパッド撫でてなよ」

 かくんかくんと引っ張られるのに頭が揺れて、いつも通り変わらない日常だと思う。勅使河原という男がいても変わらない、居なくても変わらない。そんな日々だと。


 案外このまま彼がどうでもいい人間になればいいのにと思えば、自然と楚良の唇に笑みが浮かんだ。

 家に帰れば美味しいご飯、会社は相変わらず回って居る。これは同情してくれた一條がただの災難を被っただけではないだろうかと思えば、丁度良く彼が外出先から帰ってきた様だった。


 あの人に朝、いってらっしゃいと告げた事を思い出せば、本当に不憫な人だと思う。


 せめて仕事では出来る限り応えなければいけない、彼は夜ちゃんと眠れるか分からない。寝顔を見られる事は平気だと言っていたが、夜も遅くまで楚良がリビングで作業をするのが日常だし。


 描いた絵を見せたら嘘みたいに照れていた、あの人は女性の扱いは上手いし色仕掛けにも全く動じないなんて噂で聞いたが、嘘なんじゃないかと思う。

 朝の風景の中に彼と彼の抱く兎が居るだけの絵だ。吹き込む風に揺れるカーテンがとても上手くかけたと思って居るし、彼をアップで描いた訳でもないのにあそこまで喜ばれるというのは何やら自分もくすぐったい。


 風景画も人物画も静物も何でも描く、動物も描くし想像でだって色々なものを描く。モデルを立てずに描くのは父譲りなんだろうが、現実のものに少し空想のものを入れるのが楚良には一番描きやすい。

 今まで描いた絵などを見たいと言われてとりあえず取ってある分だけを見せたが、昔の絵は自分も少し躊躇がある。それでもその時は精一杯だったし隠すものでもないかと出して、一條はそれを時間の許す限り眺めていた。


 また続きも見せてと請われて頷いたのは、彼の少ない娯楽になれば良いと思ったからだ。


 人の仕事も良いが自分の仕事もしたくなってきて困る。自分が好きな絵を好きな様に描き散らかすのも大好きだし、人の望みをじっくり考えてそれが喜ばれた時には心が躍る。

 あの頃とは違う、自分には兎を守る檻と皆にお返し出来る仕事があるのだと思えば、また唇の端が緩んだ。


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