第37話

「大丈夫ですか?歩けますか?」

「流石にそこまでじゃないよ。本当に危なくなったら羽柴に頼むから」

「お前のガタイを運ぶとかご免なんだが」


 羽柴は今日は珍しくそこまで酔っていないのか、大きく伸びをしながら歩き出した。その隣を楚良が続けば、彼女を真ん中に一條も並ぶ。

 羽柴だって小柄な訳ではない、一條が大きすぎるだけだ。二人の合間に女性の中でも小さな部類の楚良が入れば、その頭は二人から見下ろす位置。


「ごめんね、煙草臭うよね」

「少しつく程度ならお風呂に入って着替えれば大丈夫ですよ。私が吸ったわけではないので」

「ファブリーズ程度じゃ駄目なのか…」

「駄目ですね。アルコールだと駆け寄ってきたかと思ったら足下で急ブレーキぐらいなんですが、煙草は完全に遠巻きにチラチラなのでかなり傷付きます」


 長身からまた溜息が漏れればアルコールと煙草の混ざった様な香りがした。此はそのまま帰れば茶々は勿論、サチにも近付いて貰えない香りだろうに。

 難儀だなと羽柴が言葉を紡げば、楚良がそうなんですよと頷く。


「そういや、勅使河原に『空木さんは課長がタイプなんですよ』って言ってた奴がいたな」


 羽柴はそれ程酔っていないと思っていたが、とんでもない台詞が突っ込んで来られるのにやっぱり酔っているのだろうかと呆れた様な楚良の視線が其方へと向いた。

「どの課長ですか?」

「話の流れ的には俺だと思うが。お前、顔が良ければ誰でもいいとか勅使河原に言われてたぞ」

 告げられた言葉を聞きながら彼が自分を貶めたいならそういう流れになるのかと、思わず楚良の口から溜息が漏れた。


「さっき二人で飲んでたら誘われたってな。いやあ、あれだけ自身満々に嘘を吐くのは営業向きじゃないのか?」

「誰かを貶めて場を盛り上げる嘘は営業向きとは言わないよ。――――ほんと、呆れる」

 酔いが進んでいるのかそれとも本心か、珍しく直接的な表現をした一條にまあ言われ慣れていますよと楚良が告げる。


「それで、羽柴は何て言ったの?」

「俺が何か言う間もなく鳴海が言ってたぞ。デザイナーに部品の配置が認められて良かったなって。吹き出すのを堪えるのに必死だった」


 無口な鳴海がそこまで言うというのは余程気に触ったのか、それとも煩かったのか。もし自分が言われたら普段言葉が少ないだけ多分心が抉れると楚良に過ぎる。

「で、お前はどういう顔が好みなんだ。前もはぐらかされたしそろそろ教えてくれてもいいだろ」

「今どういう流れでそう来たんです。鳴海さんは凄いなあって話で終わるんじゃないんですか?たまに課長の会話運びと頭の中身が心配になるんですが」


 怪訝な顔で楚良に見つめられたが、羽柴はいつもの事なので気にさえしない。で、どうなんだと結局また問われて、顎に手を置いた楚良が正面に向き直った。

 ChevalierのCMで賞を取ったデザイナーとしては自分の好みは万人受けしていると信じるべきなんだろうか。


「私、羽柴課長の顔よりは鳴海主任とか一條課長の顔がタイプ的には好きですね」

「本人を前にお前は随分ストレートだな?」

「課長が聞いたんだと思いますけど。私は多分系統的には、中性的や女性的な顔よりは男性的にしっかりした顔立ちの方が好きなんです、羽柴課長はどちらかというと男性的ではありますが、雰囲気が派手です。目元と口元に静かな色気のある人が好きですね。男性的な色気です」

「男性的な色気」


 良かったなお前褒められてるぞと羽柴に言われるが、一條が繰り返してみても本当に褒められているのかと疑わしい。

 あくまでも客観的にそんな事を言われても素直に喜べない、本人を前に照れ一つ無い。


「お前、恋愛モチーフは描けないくせに冷静に分析してるんだな」

「好きな顔やタイプというのは第一印象からバイアスが掛かるんです。そういうのをちゃんと把握しておかないと変な評価を出したり浮ついたり、私情を挟む結果になりますので」

「お前の人生が心配だな。…男臭い方が好きなのか、じゃあ鳴海なんかお前のタイプなんだな」

「そうですね。今まで上がった中だと鳴海主任が一番好みのタイプに近いでしょうか?」

「上がった中だと?」


 他にもいるのかと問いかけた男に彼女の顔が一瞬向いて、そして軽く肩を竦めた。


「芸能界にもこの造作が好きだと一目見て思った方も居ますから」

「造作とか本当にお前は駄目なやつだな」

「残念ながらそういう観点でしか男性を見たことがありません」


 肩を竦めた彼女に本当に残念な奴だと羽柴が漏らす。彼もそれなりに酔っているんだろうが、答える楚良には当然酔いは無い。

 そうか一番は鳴海だったのかと一條が微妙な気分になっているのも知らずに、楚良の表情は相変わらず照れの一つもない。


「お前は多分顔より身体だろ」

「どちらかと言えばそうかもしれませんね。大柄な方が好きです、絵にしてもとても映えるので。あたりも描きやすいです」

「本当に枯れてて心配なんだが。お前もう少し色付いた方がいいぞ」


 そうですね、と、珍しくあっさり受け入れたのは酔っ払いの甘言を受け流したのか。一條の視線に気付いたのか其方を向いた楚良が見れば、とても微妙な表情で見下ろされている。

 ただでさえ視線が高いのにそんな表情では、妙な威圧感を感じた。


「一條課長、目が据わってますよ…?」

「ちょっと吐きそう」

「えっ、会社までもちますか?どこか入ります?」


 色んな意味で吐きそうと付け足す前に、びくりと肩を振るわせた楚良の手がふわりと背中へと添えられる。

 軽く首を傾げた楚良に本当はこのまま身を預けてしまいたいだなんて、珍しく理性の外れた頭がぐるぐると考えていた。


「どうしましょう、指を喉とかに突っ込んで吐かせた方が良いのではないでしょうか」

「お前、たまに過激な事言うよな。一條も空木の前で戻したくなかったら頑張れよ」


 せめて会社まで、と溜息と共に羽柴が告げて、楚良との合間に割って入ったのは倒れかかれば楚良が潰れかねないからだ。

 背中から彼女の手は離れてしまって、薬かもしれないし仕方が無いですよとフォローしてくれているが、確かに彼女の前で喉に指を突っ込まれて吐くとか想像したくない。


「アルコールと薬の併用は命の危険もあるのでは…」

「歩けてる間は大丈夫だろ。何使ったか知らないが、大学生かよ。この眠気じゃ睡眠薬か?」

「人間は成功体験から抜け出しにくいものですから。昔は彼が女性を引っかける典型的な手だったとか聞きましたね」

「お前は引っかかって無いだろうな?」

「20になったのは大学中退後なので一滴も飲んでいません」

 

自分の同学年には酒を飲んだと吹聴する連中がいたが、楚良にしてみれば親に連絡が行った時点でアウトな経歴だし、何より手錠が掛かったりどこかに保護されれば兎の命が危ぶまれるので、その手の違反はしない。

 ありとあらゆる手でそれを口にさせようとするのは、あの頃から変わっていないのだろう。楚良の嗅覚も案外それで鍛えられたのかもしれない。


「嗚呼、そうだ。先程の話なんですけど、フォローではないですが、外見以外の話も含めてですと一條課長が一番だと思いますよ」

「お前の頭の中も案外突飛だろ」


 はた、と気付いた様に真ん中になった羽柴に声を掛けた楚良に、その男の視線がまた下ろされて息を吐かれた。

 寒さのせいか、息は白く濁って消える。


「一條課長は自分がどう見られるかを意識して、格好も含め指先一本にさえ気を払っている様に思えます。動きや会話運びも相対する相手を考えての事でとてもスマートですし、見惚れる事さえありますね。絵にしてしまうと、その人の生き方までを写し取る事は出来ませんからどうしても表現しきれません、残念です」


 その辺りも上手くなりたいです等と力説している彼女が羽柴を向けば、その男の瞳が一度瞬いて金髪をぐしゃぐしゃとかき回した様だった。

 何が不満か。


「お前は男を口説くのが下手だな」

「口説いていません。――――水を買ってきます、先に会社に行って置いて下さい」

 ふと楚良がコンビニの光を目にしたのか、軽く二人に頭を下げてから小走りに其方の方へと駆けていく。

 その背中を暫く見つめて居たが、羽柴が隣をふと見上げて、軽く肩を竦めた。


「…お前のそれは酔ってるからだよな?」

「そういう事にしてくれるかな?」


 街灯に彼女の背中を見つめていた一條の瞳は艶めかしく光って、それが赤くなった肌のせいだと知れば、去って行った背中はもう見えなくなっていた。

 本当に彼女はよくもまあ、酔っているとは言えこの男にこんな顔をさせるものだ。いくら彼女絡みで怪しいと思ってはいたが、こんなものを見れば決定的だろう。


「空木は駄目だぞ、一條」

 釘を刺すつもりで告げれば、その瞳が羽柴の方を向いて酒気の多い溜息を吐いた。

「羽柴に言われる覚え無いんだけど」

「同じ部屋で部下と営業が険悪になられると困るんだがな」

「何でそういう前提なのかも分からないんだけど」


 この間楚良にその気がないというのを二人で確認したばかりじゃないかと思うが、珍しく酔っている一條は引き下がらない。

 あくまでも理由があっての同居だ、彼女にその気はないのは分かっている。それでもだ。


「…誰にも渡したくないよ。どんな手を使っても、そう思ったのは初めてなんだ」


 宵闇に声が響いて羽柴はまた顔を顰めた。適当に流せばいいものを、いくら相手が自分だからといって踏み込んで来るというのはもう余程なのか。

「言ってる事が勅使河原と変わらんぞ」

「分かってるよ。だから彼女が嫌がる事なんてしない。…してない」


 息が酒臭いと自分の口元を手で覆った一條が、また肩を落とす様に息を吐いた。羽柴に認めてくれなんて言うつもりもないし、なら駄目だと言われて諦める事もない。

 だからこれは彼女に近い男に対する牽制の様なものだと、一條自身が一番よく分かっている。


「社内で恋人は作らないって言ってただろ。他の女が何するか分からないからって」

「会社では下手な真似はしないよ…」

「もう充分だろ。近寄っただけで噂が立つぐらいなんだ、どう考えたって空木に負担が掛かるんだから――――――――おい、おい、お前何で泣いてんだ?!」


 本当にコイツは何を言い出すんだとばかりに羽柴が呆れた様な声を上げて、それを聞いていた一條が言葉を止めたと思えば視線を投げた羽柴が思わずぎょっとした。

 その瞳から宵闇の街灯に、ぽろりと濡れ光るものが零れている。


「…って、羽柴まで駄目だ駄目だっ――――……って、言わなくて良いのに。絶対、…大事にするのに」

「いや、そう言う問題じゃないだろ?!」


 ないよな?と思わずここに居ない陰島とか鳴海あたりに確認したい気持ちになったが、当然二人以外は無人である。

「――――じ、めて、本気になっ――――のに」

「そうなのか!?突っ込みどころ満載なんだが、お前本当に酔っ払うと碌な事言い出さないんだな!」

 流石に大の大人、しかも男がぽろぽろと涙をこぼして泣く姿というのはどうなんだ。そんなに駄目だと言われたのがショックだったのか、駄目であるのを自覚させられたことがショックだったのかどっちだ。


 大体こいつは今まで女性とそれなりに付き合ってたと記憶している。


「羽柴課長、何騒いでるんです。――――えっ、何で泣かしたんです!?」

 後ろから声が掛かって何と思う間も無く小走りの足音。片手にコンビニの袋を携えた楚良が追いついたのか、その黒い瞳が羽柴の方を非難する瞳で見つめていた。


「いや、俺なのか?俺か?」

「羽柴課長以外存在しませんが。泣き上戸だったんでしょうか――――――――…一條課長?」

 俯いていた一條が口元を抑えて、そのまま近くの電信柱の縁へとしゃがみ込む。嗚呼、と小さく声を上げて楚良がその背中へと手を添えた。


「戻した方がいいですよ。服の裾、気をつけて下さいね」

 軽くとんとんと背中を叩いた彼女だったが、直ぐにその場所から離れてコンビニ袋の中から2Lの水を取り出した。

 そして羽柴へと向き直って溜息を吐く。


「泣く程辛かったのならもう少し早く吐かせてあげてください」

「お前は本当にこういう時普段と変わらないな」

「え、今そんな話してましたか?」

「一條が道ばたにしゃがみ込んで泣きながら吐いてるとか、大抵の女は幻滅しただの言って引くもんだぞ」


 幻滅ですか?と彼女が一度一條の方を見下ろしたが、また直ぐに顔を上げてそんなものですかねと呟いた。


「さっきお前は一條が格好良いと言ってただろ」

「それは私の感想であって、一條課長に押しつける言葉ではないですよ。押しつけがましく期待を掛けている様に聞こえたなら済みません。此処で泣きながら吐いてたからといって、格好良い部分が消えて無くなる訳ではないですし。たまに羽柴課長って変な事言いますよね」

「どう考えても俺よりお前の方が変だろ」


 大抵ネガティブなイメージというのは、ポジティブなそれを覆い隠してしまうものだと思ったが、彼女にしてみればそうではないらしい。

 先入観にもネガティブなイメージも騙されない癖に、自己評価だけは低いのか。


「お前は本当に人を見るときだけはフラットだな」

「流されやすい方なんです。そうありたいと思っているだけですよ。はい、お茶です。一気に飲んだらまた出るので、口を濯いで下さいね」

 濡れた音が止まったのだと知った彼女が水のボトルを一旦脇に抱える形で、500mlのお茶の蓋を開いて一條の方へと差し出した。地面にしゃがみ込んだままの男がそれを受け取って、直ぐに手を引く。


「でも連れ出しておいて良かったですね。多分勅使河原さんが見たら大喜びです」

「全くだな。おい、一條、大丈夫か?」

「――――――――ごめんね、もう大丈夫。だと思う」


 珍しく歯切れの悪い言葉が返って、楚良は水を流して地面に流れた吐瀉物を排水溝の方へと押し流していた。電柱へと手を突いて身体を起こした一條が立ち上がり、ペットボトルから一口だけお茶を流し込む。


「すっきりしたなら良かったです。路上で眠り込む方向ではなくて良かったですね」

 一條の切れ長の瞳が一度彼女の方を見下ろして、そうだね、と呟く様に答えた。本気で落ち込んでいるらしいのは羽柴からの見た目、穏やかに微笑を浮かべて心の底から良かったと思っているらしい楚良の前では派手に落ち込めないのは見ていて理解する。


 軽く同情しておこう。好いた女の前で吐き戻すとか羽柴にしてみたら地獄だ。


「でも本当にお礼とお詫びはしておきます」

 告げた彼女が片付けを終えたのか空になった水をコンビニの袋へと詰め込んで、歩き出した二人の合間にまた入った。

「一條課長が飲んでくれなかったら、私が座り込んでいたと思いますので。肩代わりさせてしまって、本当に済みませんでした」

 瞳を瞬かせた彼女に、一條がまたうん、と小さく声を上げた。その瞳は一瞬外されたが、また直ぐに楚良の方へと下ろされている。


 多分一條にあんな顔をさせる理由は、こういう所なんだろう。それは羽柴にも少しは理解できた。


 口数の少ない一條を彼女の頭越しに羽柴が眺めて見るが、彼が本気で楚良を堕としに掛かったら彼女は逃げられるんだろうかという事などを考えてみる。だが、一條が兎でもない限り梨の礫の様な気がしないでもない。大体楚良も職場恋愛は絶対嫌だのタイプではなかったのか。


 既に正面玄関が閉まっている時間で、3人がそれぞれ裏口のキーへと社員証をかざす。

 開いた扉から入ればビルの中は暗く、エレベーターも1基しか動いていない時間だった。


「デザインの方は今日は徹夜?」

 問いかけた一條に楚良と羽柴が同時に顔を向け、開いたエレベーターに乗れば彼女が当然の様にパネルの前で目的の階を選ぶ。


「酒が入ってると空木以外使い物にならないからな」

「鳴海主任も速攻デスクで寝てしまいますしね」

「それって出る意味あるの…」

 本当にいつもその光景なのか。楚良が時折バスタオルを肩に掛けて回って居たり、吐きそうな社員をトイレに連れて行ったりが日常だった。


「でも二時間ぐらいで皆さん動ける様になりますよ」

「お前、終わったら今日はどうする?」

「タクシーでも良いですが、始発まで掛かる予定です。でもそうなると…変な時間に帰ることになるので帰るなら出勤を確認してからにしたいです。ただ兎の世話もありますし、一度は戻りたいですね」

「始発までは居てやれるが、俺はちょっとお前のペースで動くのは無理だぞ」

「じゃあ課長に合わせて帰ります。オフィスに一人になるのは…ちょっと」


 そうしますとまた彼女が答えた。残業の規制はあるが年末に向けてまた彼女の出勤時間が延びてきている気がしてならない。もう法務が諦めたのか折れたのか。


「仮眠室って借りてもいい?」

「ああ、好きに使ってくれ。俺と空木は使わないし、殆どデスクだからな。営業も今日は帰ってこないだろ」

「もし時間が心配なら起こしましょうか?」

 目的の階に辿り着けば彼女が扉を開けて二人を先に出し、その後ろへと続きながら問いかけた。


「アラーム使うから大丈夫。本当に今日はごめんね?」

「私の身代わりになった様なものなのに、謝罪は不要ですよ」

「まあそうだな。お前はもう良く休んどけ、薬は抜いて帰れよ」


 オフィスの前で二人が足を止めて奥の仮眠室に向かう一條を見送る。分かったと小さく溜息を吐いたらしい彼が奥に向かうのを見やりつつ、羽柴が先にオフィスのキーにカードをかざした。

 背中が見えなくなってから、楚良も羽柴のそれに習って部屋の中へと入る。


「何というか、本当に一條課長は災難を請け負う体質なのですね。お人好しというと言葉が悪いので相応しくありませんが、面倒を押しつけられるというか。私のせいですが同情します」

 お前にだけだぞと言いかけた羽柴はしかしそれを止めて、まあなあ、と誤魔化し半分の様な言葉をかけた。


「たまには飲みに連れて行って労ってやってくれ」

「私と飲みに行っても何一つ慰安にならないと思います。私は美人の知り合いも少ないですし、羽柴課長がセッティングした方が喜ぶと思いますよ」


 明らかに本心から告げられた言葉に、本当にお前は可哀想な奴だなと、一條にも彼女にも同じ言葉をかけてやりたい。

 勿論意味は双方違う意味で。


「いや、ほら、案外お前みたいなのの方が気を遣わなくて良いんじゃないか?」

「あ、それはありますね。では気の知れた男性と飲みに行ける様な口実を考えた方が相応しいですね」

 本当に彼女は残念な女性だった。何かもうこれ以上は一條が可哀想になってきたので、何も言わずにおいておく。

 机につけば楚良は既にメールを立ち上げてチェックをしていて、左手も右手も忙しなく動いていた。


 机に置いた鞄の中でスマホが震えて、思い出した様に楚良がそれを取る。見れば一條からで、終電で戻るから兎は任せてと書いてあった。

 本当に一條はどうして人に優しく出来るのだろうかと思えば、足を向けて眠れない。自分が思う存分仕事に打ち込めるのも、彼が兎の無事を確保してくれているからだ。


 ゆっくり休んで下さいと返事をしてまたデスクへと伏せて置いておく。今日は酒を飲まずに済んだから酔っ払ってはいない。これは絶対に仕事が捗るパターンだというのはよく分かっている。

 見れば羽柴が机に突っ伏して眠っていて、一度立ち上がった楚良が近くに積まれていたバスタオルを肩から掛けてやった。


 忙しければ忙しい程楽しくなってくる。帰るのは朝方か、一條が起きる頃に重なれば良いなとふと思った。そうしたらもう一度だけ謝って、あとは思う存分兎と戯れて貰うのだと想像した楚良の唇にまた楽しげな笑みが浮かんだ。

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