第38話

 こつん、と、楚良のペン先が軽い音を立てて紙に触れ、そして小さくその唇から息が漏れた。隣にいた社員がその姿を見て、またかよ、と小さく声を上げて楚良が頷く。


「――――課長」


 小さな楚良の声に羽柴が一瞬だけ自分の画面から瞳を上げて、そしてまた直ぐに戻る。

 羽柴がメールを確認すれば楚良からのメールが一番上、中身を見て赤色のチェックが入っているそれを見つめれば、深い溜息が漏れた。

 陰島の抱えている案件に修正が入っている。定価の資料ではなく原価の資料が貼り付けられていて、流石に此では進められない。


 この間からこの手のミスが営業部に頻発していてどうしたことかと思う。そのまま気付かず組み込めば取引先に損害を与えかねないし、向こうに出すサンプル品でも許されないレベルだろう。

 価格が古い物だったり、税率が少し変わっていたり、OKを出された筈のラフ画ではないものだったり。楚良は営業のメールまで見られる権限には無いしそんな手間も暇もない、それでも半ば直感的に一見したメールと価格が違うとか、ラフ画と数値がしっくりこないとかそれだけで確認すればこの様だ。


「一條!」


 隣の島へと羽柴が声を掛けて、一瞬だけ予想がついた様に眉を潜めた一條が軽く片手をあげた。最近はこの手の遣り取りが多すぎて、双方何かを言わなくても察せる様になる頻度の遣り取り。

 一條が誰からのミスかと思ってみれば陰島の仕事でまた一條の顔が顰められた。彼がこんな単純なミスをするなんて珍しいが、間違いなくメールを投げたのも資料を添付したのも彼である。


 CCに楚良と羽柴の名前を入れて陰島に送り、口元を覆ってPC画面を見つめた。

 部署内は全体的にこの手のミスが多くて社員のモチベーションも下がっていく。朝会などでミスの再発防止とチェックも求めているが、劇的に減る事もない。そもそも業務はいつも通りに回っているし、目立って浮ついた感じもない。件数自体は増えているがそんなものは年末の恒例だ。


 大体がコピペミスだとか、新しいメールの確認漏れだとかそういう単純なものだ。以前楚良にチェックを投げた社員達に注意した時にその手のミスが増えたがそれはもうとっくに落ち着いている。


 それがまたミスを恐れて彼女の名前を良くCCやら何やらに組み込んでいる。羽柴がいい加減楚良に迷惑を掛けるなと営業部に怒鳴ったが、取引先にミスをそのまま送るよりはマシだと部下達は聞かない。

 正直この量を楚良一人がチェックしてその責任を負うのはあり得ない。漏れなく拾っているのが奇跡的な仕事の量の筈だし、漏れた瞬間チェックミスだと彼女が責められる状況は羽柴が最も嫌う。


 どうせなら課長の自分にと一條が告げたが、それでも楚良の名前を入れるのは辞めない様で、そもそも外回りで外出先ではメールを取れない一條にも限界がある。

 法務が珍しく此方で調整すると楚良の残業を認める程には切迫した状況で、彼女が家に帰るのが一條の出社後なんていう生活だが、楚良自身の表情は相変わらず穏やかだった。睡眠時間が削れれば削れる程に彼女が冴えると羽柴は言うが、それにしても綱渡りの様なストレスだろうに。


 この間一瞬だけ夜に戻って来た彼女が兎に顔を埋めて再び出社していたので、本当に兎から何か吸っているのでは。

 メールに気付いた陰島が凍り付いた様な表情をしているのは、まさか自分がそんな単純なミスをと思っているのだろう。


 どんなメールも、それこそ勅使河原のミスでさえ彼女は自分の名前が入っていれば瀬戸際で食い止める。嫌がったり放置したりもしていないのは、どんな精神力だろうと一條は思う。少なくとも自分なら無理だ。

 楚良が席を立ち、指先が一度キーボードに触れてから離れた。


「空木さん」


 彼女に礼を言わなければと思う前に、耳端に勅使河原が彼女の名を呼ぶのが入って、視線をまた画面の方へと戻す。

「チェック有り難う。助かったよ」

「いえ、送付前で良かったです」

 近い距離で話しかけているのかその声は同じ様な位置、瞳を一條が上げればその背中は二つ並んで壁の棚の前だった。


「お礼がしたいんだけど――――」

 その言葉に一條は既視感がある、一瞬喉の奥で苦いものが流れた気がしたが、気付かないふりをしてまた瞳をメールへと下ろして今日の報告書を埋めて行く。

「お気持ちだけ。有り難う御座います。申し訳ありませんが、時間が取れそうにありませんし、大した事もしていません。それでは失礼しますね」

 するりと彼女の衣服が滑る僅かな音、そして一條の視界の端を通って羽柴のデスクの傍に立った彼女がファイルを羽柴に渡して、中身へと指先を落とした。


 勅使河原がどんな顔をしているかは見る価値が無く、楚良がどんな顔をしているのかと伺えば珍しく難しげな顔。小さく腕時計のアラームが音を立てて視線を落とせば、終礼の時間だった。立ち上がった一條が声を掛ければ、皆が集まって来る。


 その日一日の契約数と実績の報告、共有、確認。ミスについての注意喚起はいつも通り、そして今日はそれに加えて残業は禁止の旨も伝えて置いた。いくら水際で止められてはいてもこの多さはメンタルに直結するし、一度ガス抜きはして置いた方がいい。

 全員定時退社を指示すれば、表情が緩む者もいてそのまま解散とした。皆が荷物を片付け始めるのはその音を聞けば明か、報告書も全て次の日を締めにして、後処理は課長である一條が行っておく。


「一條、ちょっといいか」


 営業の人間が殆ど帰ったところで羽柴が立ち上がりながら声を掛けて、一條が顔を向けた。メール処理の途中だが指先で招かれれば行かなければならない。

 珍しく楚良が一緒に立ち上がって、先にガラス張りの会議室の扉を開いているのが見えた。

 椅子は出さずに机の高さを楚良が変えれば、座らなくても立ったまま机につける高さ。


「全員帰ったのか?」

「モチベーションも落ちてるし、こういう時はどこかで抜いた方がいいから」

「ま、そうだろうな。あとお前も帰った方がいいな、それこそ抜いた方がいい」


 何を、とか、何やら彼の言葉に含みがある様な気がしたが、錯覚とか幻聴の類いだろうか。奥の方にいた楚良が伏せてあった紙を表に返して、一條の方へと滑らせる様に差し出す。


「お前はこういうミスはしないと思ってたんだがな?」


 告げられてその紙へと目を落とした一條だったが、僅かな間を置いて直ぐにその意図に気付いた。顔を顰めた男がそれを引き寄せて確認すれば、価格表が2つ前の物になっていて息が止まる。確かにあれは最新版から、と思っていたのに分かりやすい様に楚良が並べた価格は以前のものだ。


「ごめん…ありがとう」

「空木に感謝しとけよ、流石に俺の後ろを通っただけで値段が戻ってるなんて気付くのはコイツだけだぞ」

「たまたまです。羽柴課長が無差別爆撃するので確認していただけですよ」

 被弾です被弾、なんて軽い口調で言うのは一條に気を遣ってのことだろうと直ぐに分かる。羽柴が笑いながら肩を竦めるその前で、一條が顔を覆って溜息を吐いた。


「流石にお前までになると異常なんだが」

「一応情シスに調べて貰ったけど、データを修正したのは確かに担当者だよ。僕も覚えがあるし」

 最新版だと思ったが実際は古い資料から添付したと考える方が自然だろう。楚良が静かに息を吐きつつ、メールを印刷した紙を自分の手元に引き寄せて半分に折りたたむ。


「じゃあお前達の単純なミスで良いんだな?」

「そうだと思う。…本当に迷惑を掛けるけど――――」

「お前ら全員で空木を潰しに掛かってるんじゃないだろうな?」

 告げられた言葉に一條が顔を顰めて手を顔から下ろし、そして軽く首を振る。苦笑の様な笑みを浮かべている彼女は、本当に自分を信じてくれているのだろうか。


「絶対無いって言えるのか。昨日面白い話を聞いたんだが」

「面白い、話」

 羽柴の手が机の上へと人差し指を落として、そしてとん、と小さな音を立てた。楚良の指先はメールを印刷した紙で折り紙をして遊んでいるらしく、それが視界の端。其方から目を離せば羽柴の瞳が細められていた。


「空木がミスを作ってるらしいぞ。彼女の所でミスが発覚するのは予め分かってるからだそうだ」

「――――っ」

「特に新人に感謝されたくてやらかしてるらしいが?」


 じゃあ、誰がそんな噂を、なんて言わなくても一條には直ぐに分かる。黒髪が彼女の肩口で揺らいで、また楚良が小さく口元に笑みを浮かべていた。

「本当に、申し訳ない」

「お前に謝ってくれと言ってる訳じゃない。余り続く様なら俺は企画の誘いに乗って空木を暫く企画課に出すぞ。そうなると自爆するのはお前達だからな?」


 会社の信用に関わる様なミスを自分のせいだと言われても尚、彼女が修正を続けてくれているのに、流石にそれが批判の対象になるような事を避けたいのは羽柴だけではない。

 営業と折り合いが付かないなら、他の部署からも空木が欲しいなんて言われているのもまた知っている。


「ミスが増えれば一條課長の手間も増えますからね。外回りが少なくなれば追い抜けると考えて居るのか、それとも単純に会社の名前に傷を付けた営業課長だという経歴が欲しいのか。……歓迎会で挑発するからだと思いますよ」


 彼女の手の中にいつの間にか足の生えた鶴が作られていて、それに気付いた羽柴が軽く吹き出し珍しげにそれを取り上げた。

 お前これ作ったのかと楽しそうだが、一條はそれどころではない。


「彼が直接やっている訳ではないでしょう、昔からそういうのは彼の取り巻きの仕事です。資料を放り込んであるファイルに私はアクセスできませんが、一度並び順に注意してみては?」

「順番?」

 それ作るのは簡単ですと彼女が羽柴に告げて、その鶴を自分の手元へと奪い返して視線が一條の方へと向く。

 この3人での会話というのは色々勘ぐられるから、それこそ営業が帰った時ぐらいしか行われない。


「ミスの傾向をちょっと調べてみたのですが、改竄というよりは違う物を参照しているのがほぼ全てです。参照したものが古いものだったり、そもそも違う依頼先のファイルだったり。営業の方から聞いたんですが、名前を揃えてフォルダの一番上に最新版が来る様にしている方が殆どですよね?外回りをやりながらで急いでいる時には長いファイルの最後まで確認しませんし、自動で最新版が上に来る様にしているでしょう?依頼元の名前がついているフォルダにまさか違う物が入っているとは思わないでしょうし。中身の修正者はログが残りますがファイル名の最終修正者は名前が出ませんからね」


「お前良くそんな暇あったな」

「暇とか酷すぎて草が生えます。私はファイルにタッチできないので推論ですよ」

 一度手元に視線を落とした一條がまた口元へと手を置いて、今までの事をざっと思い出す。本当にこんな事は自分がやらなければならない事だったのに。


「確かにそうかも。ありがとう、少し注意してみてみる」

「この間のお礼になる事がありましたら、何でも」

 小さく微笑を浮かべた楚良が鶴の足を広げてがに股で立たせ、そのビジュアルに思わず羽柴と一條が同時に吹き出した。

 羽柴なんぞ机を叩いて笑うのを耐えられていないではないか。


「どう考えてもお礼が必要なのは僕の方なんだけど…」

「え、どう考えたらそうなるんです。主犯が彼なら完全にトラブルの原因は私のせいです。そっと辞職を進められるレベルです。事情を知っている上に協力して下さっているお二人が人が良すぎると思うんです」


 本当に可哀想です、と何故か哀れげに告げられて一條と羽柴は本当にそのまま凝固するかと思った。楚良がでは私は戻りますねと身を翻した。


 机の上には足の生えた自立する鶴。彼女は自分のデスクへと戻る様で、ガラス扉がぱたんと閉じる。

「もう女神というか菩薩か何かだよね」

「お前、菩薩の慈悲深さに感謝しとけよ。俺は営業のミスなんて全部自己責任だから放っておけって言ったんだがな。新規のデザイン抱えながらあれ捌いてるなんて化け物だぞ」

「どうやったらお返しできるんだろうね…」


 本当に手を離せない仕事をしている上に、一々飛んでくるメールに即目を通す性格というのは多分彼女のみに許されている。その分彼女がプライベートに充てる時間は殆ど残っていないんだろう。

 一緒に暮らして彼女の食事も管理しているが、最近殆ど夕食を一緒にとった覚えがない。

 毎日テーブルに夕食の感想が置いてあったり、サチが丁寧にブラッシングされていたりはするが、ショートスリーパーというのはあそこまで寝なくて平気なのか不信を覚える。


 一條が眠っている時間に彼女は帰ってこず、始発かそれより遅い時間に帰ってきて直ぐにコーヒーテーブルで仕事を広げている。朝食を一緒にと思っても忙しげな彼女を見れば、机の端に珈琲とパンを用意してやるのが一番だと思った。

 本当に忙しそうで、張り詰めている雰囲気がある彼女には、少しは眠って欲しいと思うし休んで欲しいとも思う。夜の世話をお願いしてやらせてもらって等いるが、そもそも彼女が兎に関われない原因は自分の指導不足のせいだ。


 飼育日記が広げたままで置かれてあって、それこそ全てを参考にしたい程に細かく記され、それにも手を抜かない様子では息を抜く暇など彼女にはない。


 彼女の表情は変わらないし涼しげに日常を過ごしているが、あの日取り乱して泣いていた彼女が忘れられない。穏やかに暮らせているのならばそれでもいい、弱味を見せろとも作れとも思わない。

 でも追われている獲物の焦燥ならば、いつまでもは保てない。


「まあ、アレの排除が一番じゃないか?案外お前を囮にするのが一番奴のボロが出そうな気がすると思ってきたんだが」

「――――奇遇だね、彼女に聞いたときからそう思ってたよ」


 最初彼が敵視しているのは彼女のデスクに近い羽柴やら、鳴海だった様に思う。それがあの歓迎会の日から一條の周りで妙なミスやら噂やらが立っていた。

 本当に成人済みの男がやる事だと思えない、人に嫌がらせをして快楽を得るなんていうのは、脳になにか異常でもあるのではないだろうか。動物を傷付けても平気だというのは元々異常なのだろうが、楚良を傷付けて完璧にやり込めた成功体験が、そのまま快楽に直結しているのだろう。


「空木の心配もいいが、お前は自分の部下の手綱を握っておけよ。気付いた時には孤立してましたじゃ話にならないからな。最近空木絡みでそうだろ」

「うん。ちょっと最近周りが見えてなかったみたいだから、気合いを入れ直すよ。格好悪い所は見せたくないしね」


 彼女と一緒に暮らしているのに余りにも出来る事が少ないし、焦っていたのは否定しない。浮かれていたのもあるかもしれない、歓迎会の後あたりから特に。

 そもそも普段の自分ならこんな焦りから来る様なミスはしないし、空回りもしない。彼女が片手間に調べた様なミスなんて、そもそも自分が一番最初に気付く。


「分かりゃいいさ。…空木がゲロ吐くのまで受け入れてくれるからって、男ぶりを上げるのをサボってんじゃないのか?」

「心に刺さることを言わないでくれるかな。…でも実際そうだから反省する。明日からはちゃんと皆の期待に応えるよ」


 軽く羽柴が一條の肩を叩いてから会議室の扉を開け、一條が足の生えた鶴を片手にしてその背中へと続いて小さく息を吐いた。

 デスクへと向かっている彼女はやはり真剣で、すっと伸びた背筋は少しも乱れず美しいと思う。


 彼女を守らせてと傍にいるのに、守られているばかりだ。そして楚良はそれを感謝されるべきとも思っていない。

 どんな自分も受け入れてくれることと、彼女に甘えてばかりいるのとは違う。何よりあの男に自分の仕事を好き勝手させたままだというのは、一條という男のプライドが許さない。


 最近本当に抜けすぎだとパチンと頬を叩いてからPCに向かう。彼女の様に、涼しげな顔で漏れなく完璧に。白馬に乗った王子様は彼女の事だ、本当に彼女は格好良いんだと、誰にも聞こえない様に呟いて、目を細めた。

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