第39話
「一條君。ちょっとお暇ならおいでなさいな」
ひらひら、視界の端で手が揺れている。エレベーターへと乗り込もうとしていた一條の足がぴたりと止まり、其方を見れば社食から出た所で白髪の老婆が手招いていた。
「鴫さん。お昼はもう良いんですか」
「私はお弁当なの、もう終わりましたわよ」
手招いたのは一瞬、一緒に食べていた営業部のメンバーを皆先にやってから、その小柄な背丈の隣に並べばゆるりとした動作で彼女が歩き出す。
「営業のみんなもお昼が食べられる様になって良かったですわね」
「――――…はい、ご心配をお掛けしました」
ふふと相変わらず穏やかに笑いながら告げるその老女に、静かに一條が歩きながら頭を下げればまたその肩が笑みに揺れた。
情報システム部が入っている同フロアの部屋の扉は外から見えない様になっていて、どうぞと扉を開いた鴫に失礼しますと断ってから中へと入った。
中は壁に向かっていくつかのデスクが並べられ、それぞれにPCが置かれている。その一番奥、皆の机が見える大きな机へと真っ直ぐ歩いた鴫がそこへとゆったり腰を下ろした。
彼女は役職についていないが、定位置が此処だと誰もが分かって居るし、情シスの主だというのも分かっている。
「さて、一條君。ご依頼の件、調べておきました」
やはり用件はそれかとその机の前で一條が僅かに息を飲んで姿勢を正せば、鴫がデスクの端から黒いファイルを取り出して前の男へと差し出した。
「ありがとうございます」
年齢的にもそして勤続年数でも鴫にぞんざいな態度を取れる一條ではないし、そんな性格でも無い。ファイルの中身を開いてちらりと確認した一條が軽く瞳を細め、そして直ぐにそのファイルを閉じた。
「報告は上にだけさせてもらいましたわ。営業部長の面目も守らなければならないのよ、ごめんなさいね」
ふっと息を吐き出して、一條が軽く首を振った。楚良の推理は本当に鋭く的を射ていて、きちんと全てのファイルの中身も全て確認しながらの作業に戻れば、使わない様な古いファイルを敢えて更新していたり、フォルダの中身を入れ替えたり、そしてファイル名の最後に全角やら半角やらの数字で並び順を変えていたりと、初歩的で当人のミスを敢えて誘発させるものだった。
確かに忙しい時にはファイルの最後までは確認しない、それにしたって習慣とは言え本当に少し注意して最後まで確認すれば防げた凡ミスとしか言いようがないが、本来持ち主しかアクセスしない筈の個人のファイルでそれをやられるとは誰も思っていなかった。
その変更した人間の足跡を辿るため、情シスの鴫を頼ったのが数日前。時間が掛かったのは多分営業の人間ではないからだろうと思っていれば、実際にファイルには経理の女性社員の名前が書かれている。
「いえ、お手間をお掛けしました」
課長が直接別部署の女性社員を詰める訳にはいかないから、多分これは部長やら何やらが出てくる話になる。そもそもこのミスは最後まで行けば契約自体が危うくなるだろう事も、皆分かっている筈だ。
「うっちーじゃなくて良かったですわね」
鴫も鴫の仲間達も優秀で、このデータを疑う理由も無いと思っていた矢先に、彼女の口から酷く気軽な言葉が漏れて、は、と一條の口から間抜けな吐息が漏れて座る女性を見下ろした。
うっちーというのは、まさかもしや。
「うっちー…ですか」
「可愛いでしょ。温泉で、うっちーって他の子が呼んでたから私も呼んでも良いかと聞いたら、勿論ですって。あの子が営業のファイルをいじくれる権限がないのは私が保障しておきますわね。自分に届いたメールと、デザイン課の共有ファイルだけよ作業をしているのは」
鴫は彼女にまつわる噂の事を知っているのかと、一瞬聞こうとして辞めた。寧ろ聞かなくても分かる。
聞けば何やら墓穴を掘りそうな気がしてならない。
「羽柴君にうっちーが欲しいって言ったのですけれど。一條君がChevalierと一緒に抱え込んでるから無理だと言われたんですのよ」
「――――…彼女は、優秀ですから」
「羽柴君や鳴海君のサポートが上手いのもありましょうが、一條君の仕事と相性が良いのねきっと。今ならちょっと一條君がやんちゃしても通りますわね」
やんちゃ、と言う言葉を聞けば何となく黒いファイルの中身を思い出して、僅かだけ瞳を細めた。
ある程度デザイン課の容量を気にして仕事をセーブしているのは、確かにそうだ。羽柴からも、しょっちゅうもう取らないでくれという泣き言が入る。殆どが一條の要望を飲む立場なのが羽柴だが、一條自身が仕事の数を抑えているのも理解はしている筈だ。
それに彼女の体重が宙に溶けている様な状態で自分が無茶をする事に、躊躇がないと言えばそれは嘘だが。
「…余りデザイン課に負担をかける訳には」
「今ぐらいしか法務は見逃してくれませんわよ」
うふふと笑った鴫がくるくると椅子を回して遊んでいて、この人はたまに子供の様な事をすると思った。
確かに、と、一度ファイルを見下ろす。此が片付ければそれこそ彼女の仕事はガッチガチに制限されるんだろう。デザイナーは裁量制と言っても、流石にこれ以上会社としても一般社員に許すわけにはならない。それは勿論一條には安堵すべきなのだが、彼女が慣れてしかも最大限に動けるとなると今しかないのか。
羽柴は許してくれるだろうか、と、ふと過ぎる。自分も今の自分がどの位やれるのか、試してはみたい。
「もし一條君の格好良い所を見せてくれるなら、これも差し上げておきますわね」
はいどうぞ、とばかりに鴫が椅子を戻して机の端におかれてあった小さなIDカードを其方へと差し出した。
「頼んでおいた物ですか」
「そう。流石に皆いい歳ですからそんな事する人間はいないと思いますけれど。半月前にうっちーのIDカード、確かに複製されてましたわ」
「そうですか。では、これは保険で」
保険ではなく先払いの報酬ですわよと鴫が告げて、一條はそのIDカードを内ポケットへと収めておいた。
それにしても、本当にこの人は何処まで自分達の関係を知っているのか。流石にスマホのメールまで覗き見たりはしないと思うが。
「うっちーによろしくですわね」
「済みませんが、此方の事は解決するまで伏せて頂けませんか?」
「――――あら、本人にも?」
「本人にも」
「本人に秘密でどう一條君がそれを使いますの?」
問いかけた鴫に一條は唇の前に人差し指を立てて見せた。あらあらと声を上げつつ、鴫が口元を覆って上品に微笑む。
「それが出来る関係だと穿っておきますわね。うふふ、面白くなってきましたわ」
「そう面白い結果にはならないと思いますが。…では、僕はこれで」
これ以上は彼女の興味を満たすだけの話になるからと、早々に引き上げる事にした一條に、その意図を察してまたあらあらと声を上げている。
一度軽く頭を下げて身を翻せば、情シスの中の同期の一人に手を振られる。此処は本当に会社の情報の集約場所だろうし、営業の電話も全て此処で録音されているから、勅使河原の協力者は入らないだろう。此処に入ればもうある意味終わりだが、入れば直ぐに鴫が気付く筈だから。
部屋から抜け出してスマホを確認してみれば、楚良からメッセージが一つ入っていた。
幾つかの仕事の確認の最後に、今日は早く帰りますと書かれてあってそれを見た一條の足がエレベーターの前で止まる。
たったその一言だけで一緒に住んでいる事を思い知らされて柄にも無く鼓動が早くなり、自分を落ち着ける為に一つ大きく深呼吸をした。
嗚呼でもこれは期待しては駄目だ来客の線も考えようと、エレベーターのボタンを押して待つ間も思考の端に冷蔵庫の中身などが頭に過ぎる。楚良が理由もなく仕事を切り上げる訳がないと浮ついた気分を抑えつつ、夕食に何を用意しようか何人分か等とメッセージを送っておいた。
目的の階に付く頃には誰も来ませんとか、今日ぐらい外食にしても構わない等と送られて自分のデスクに戻りつつ浮かれた心臓は落ち着けておいた。
先ずは黒いファイルの中身の決着だし、その為には冷静でいなければならないし、ミスはこれ以上許されない。それに羽柴にも言ったが、これ以上醜態を彼女にさらすのはご免だし、自分はもう少し楚良のサポートに徹するべきである。少なくとも家では。
デザイン課の方へと瞳を向けてみれば、羽柴と鳴海が何かを言い合っていて、楚良が二人に均等に資料を割り振っていた。それに気付いた他の社員も加われば、いつも通りに紙くずやら何やらが飛び交うのも。
「一條課長、例の契約、取れました」
「おめでとう。難しい所だったけど、よく頑張ったね」
ふとデスクの傍にノーカラージャケットのグレイスーツの女性が立てば、一條が其方へと視線を向けて声を掛けた。
渡される書類に一度目を下ろして椅子を其方へと向ければ、水島が濡れた様に赤い唇で笑みを浮かべている。
「あの、よろしければ今夜ディナーを…。あ、勿論、他の子も誘いますので――――」
「ごめんね、今日は先約があるから。また僕が人を集めておくよ。今月は急がしいだろうからみんなのお祝いもしないとね」
一度だけ彼女の誘いに乗ったことがある。他の子、と言われる人物達がこぞって先約があるとか何とかで、二人で食事をする羽目になったしその後少し噂にもなったから、その手の誘いは全て一條が手配する様になった。
ただ断るだけでは、この手の女性は納得しないし絶対に仕掛けてくるのも分かっている。
「次も頑張ってね、期待してるよ」
書類を閉じて彼女の方へと手渡せば、僅かに迷った後に有り難う御座いますと告げられて、それが取られた。
デスクに水島が戻る前に勅使河原が彼女に声を掛けているのが見えて、二人が揃ってオフィスを出て行くのを記憶だけはしておく。
外から舞い込んでくる成否のメールを見つめながら、先程鴫と話していた事を思い出した。やんちゃか、と、その少々子供じみた言葉を思い出しつつ、一度ちらりとデザイン課のデスクの方も確認しておく。
鳴海が投げたテニスボールが丁度羽柴の頭にヒットしたところで、再び目を戻した一條が鞄の中の黒い手帳へと手を伸ばした。さて、今からなら年度末あたりの商品を取る事になるか、もしかしたら年末の駆け込みもあるかもしれない。
遊んでいる暇があるなら余裕もあるのだろうと判断しておく。これから季節が変われば加速度的に増えて行く需要をつかめなければ、営業課長の座は返上すべきだろう。
よし、と一度気合いを入れ直して受話器を取った一條が、先ずは一件と右手にボールペンを握り、くるりと回した。
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