第59話
「何か追加で取るか?高い肉でも何でも食っていいらしいぞ」
「白いご飯が食べたいです。皆さんはもうあらかた終わったんですか?」
「流石に部長連中がいると飲むだけだな。俺も飯とビール追加で、肉も適当に頼んでくれ」
「鳴海主任は滅茶苦茶食べてましたよね?」
今も食べてますよねとばかりに白飯の片付いたらしい鳴海へと視線を向けたが、当然の如く無視された。
「しっかし空木は一度お祓いとかに行った方が良いんじゃないか?前の事務所から災難続きだろ」
「逃げていたツケが回って来ただけの様な気もしますが、もう自分が疫病神と思うしか無いですね。今年はちゃんとお参りとお祓いに行ってきます」
いつもは甘い物といえばココアや紅茶、もしくは炭酸を選ぶので酸味のあるカルピスが新鮮に感じた。
これは今度原液を買ってストックしておこうと思いつつ、肉へとそろっとまた手を伸ばせば、次は認められなかったのか一條にタレの中に焼き野菜を山にされる。大人になったのだから好きなものを好きなだけ食べても良いではないかと思ったが、基本食に関して一條に逆らわない方が無難である。
「実際お前どうなんだ?兎の世話とか」
「今朝一度帰った時には尻を向けられました。消毒液が匂うんだと思いますが」
問いかける羽柴に小さく頷いた楚良が本気で眉を下げて今朝の様子を語っている。足下で一定の距離を保っている様子は、いつも手の触れられる位置にいた楚良には本当に辛かった。
それだけで食欲が落ちる気がしてならない。
「本当にお前、面倒臭い生き物と良く付き合えるな?」
「そう言う所も含めて愛しいのです。去年繁殖が変な時期になってしまって、その調整がやっと終わった所だったというのに可哀想な事をしてしまいました。兎にとっては変化が無いのが一番ですからね」
兎を撫でたいと指先がグラスを辿ってみたが、とんでもなく固い感触の上に冷たさしか感じ無かったので悲しくなる。
「じゃあ家に居てやったらどうだ」
「羽柴課長はたまに私の話が通じなくなりませんか。変化が無いのが一番なんです、私が消毒液と血の臭いをさせて一日中家にいるなんて兎が落ち着かないですよ」
「出社したのはそれが理由なのかよ」
羽柴の呆れた様な言葉に応えていれば、一條の向こう側、陰島から声が掛けられて楚良の視線が其方へと流れる。
焼き野菜を食べる合間、そうですとばかりに頷いた。
「8割ぐらいは。あとの2割は家に居てもやる事がないので。兎が寄ってきてくれないと新しいことも出来ませんし」
彼女の口から当たり前の如くそんな事が漏れれば、残り2割だって兎関連じゃないかと皆が突っ込みたいのを胸の中に納めておいた。
「入院を受け入れておけよ…」
「入院は一切家に帰る事が出来なくなるので嫌です」
「本当に我が侭だなお前は?!」
「失礼な、兎一番なだけです」
羽柴の言葉に当たり前だとばかりに言葉を返したそれ、確かに彼女らしいとは言えなくも無いが常識という辺りが無視されているのは明かだった。
肉を取ろうとした矢先に隣から、はいキャベツとばかりに器ごと生キャベツが置かれた。
「そう言えば羽柴課長の移動を前提とした場合は、営業部の欠員は補充するんでしょうか」
今回勅使河原は勿論だが、水島もどうこうというのは誰から聞いたのだったか。2人分の穴埋めもだがそもそも勅使河原が滑り込む隙間というのは規模拡大というよりはミスの防止だとか、デザイン課の容量が増えたことに起因する。
しかしそれも羽柴が抜けて移動となると今度はデザイン課の方が厳しくなる。陰島と一條がいるのならこれ幸いに聞いておこうと声を掛ければ、隣の一條の視線が下りた。
「四月に合わせて採用する。もう内定出してるから移動するにしてもしないにしても今更取り消せないし、そのつもりもないしね」
「こうなるとデザイン課はかなりの地獄だな。四月の新卒採らせて貰えてないんだろ?」
「空木で充分まかなえるとかいうクソ判断だったからな」
「課長が移動で補充無しになるんですね」
どうなのでしょうかとばかりに鳴海へと視線を向けてみたが、その男は無言で食事を続けているだけだった。判断が難しいのは彼にとってもだし、その状況で上に新卒同然の楚良というのはいくら何でも酷すぎるのでは。
「今から新人を入れても教育する奴の負担が増えるだけだぞ。鳴海が見るのにしてもお前がやるのにしても。誰も彼もお前みたいな動き方は出来ないからな」
羽柴の言葉にそうですね、と、楚良が小さく頷いた。彼女が2人に増えるならいくらでも採用したい所だが、現実は連日の修羅場に引いて辞めたり、最初は電話番が精一杯だったりが殆どだろう。特に新卒となれば、教育の暇もない程忙しい現場に放り込まれた所でモチベーションを保つのは難しい。
「みんなああ言ってるけど副社長のポジションに外部から人を呼ぶか、誰かが兼任して全員据え置きが一番丸く収まる方法だからね」
兎もキャベツの食べ過ぎは良くないんだと思いながらそれを食べて居れば、隣から声が掛かって楚良が其方へと視線を向ける。
口を挟むなと言われていたということは、多分、一條のスタンスはそれなのだろう。
営業は欠員があるとは言え一條がどれだけ働けるか等というのはもう充分示しているから、売り上げがガタ落ちするという程の欠員にはならない。
羽柴が移動してきてみても彼はやりようを熟知しているから、さして教育をしなければいけないというのはないし、寧ろ主任に入るというならその人員にもなり得る。
どちらにしても安定と人手を得ることの出来る営業課と違って、デザイン課はどちらを選んでも不満は残るだろう。
「悪いな空木、俺は案外デザ課がどうなっても良いのかもしれん。一條の言う通り俺が我慢すりゃいいだけの話なんだが」
「デザイナーはメンタルが仕事に直結すると以前私に言ってくれたのは課長ですよ。この話は置いておきましょう、私の努力で何とかなるなら快諾しますがそういう事ではありません。モチベーションの落ちた課長でもガタガタの組織よりパフォーマンスは出ますからね」
「褒めてんのかそれは…」
「事実です」
「普通課長に大抜擢なんてのは飛びつくもんだろ、おじさん心配になってきたわ」
陰島がしみじみと告げながら鉄板の上へと脂身の多い肉を置いていて、自分も其方が食べたいとキャベツの器を押し返し、軽く息を吐き出した。
「一條課長、もうキャベツとか野菜は良いです」
「じゃあ麺にする?脂身の多い肉だと胃腸に負担が掛かるよ」
「……白いご飯は」
「白いご飯は意外と胃に重いから少しだけにするんだよ。卵スープでも頼もうか」
一條の手が伸びて注文用のタブレットを手早く操作して置けば、代わりという風に彼女の前に肉と共に運ばれてきたお櫃から二口分ほどのご飯が置かれた。
完全に影を背負っている楚良がその茶碗を手に取り、サシの殆ど無い肉を悲しげに食べている。一條のファンが見たら発狂でもしそうだが世話をされている本人が迷惑そうな対比が酷い。
「お前、忘れてる様だから言っておくが、空木はもういい大人だからな?」
「本当です」
「好きにさせると全然駄目な子だから仕方ないよね」
「仕方なくないです」
「空木は馬鹿だがそこまでじゃないだろ」
馬鹿と羽柴の口から漏れれば青菜に塩を掛けた様にしおしおとなったが、その隣で頬杖をついて楚良の食べるものを監視していた一條が顔を上げる。
「刺された次の日に入院切り上げて出社するとかそれだけで駄目だよ」
「一條課長の過保護が過ぎるだけで駄目ではないです。羽柴課長は普通ですし、デザ課の皆も普通にしてくれました…っ」
訴えるかの様に隣の男を見上げている楚良に、一度羽柴の方へと流れていた視線が戻り再び見下ろす形となる。
頬杖を解いて身体を上げれば一層身長差は際立ち、その会話の中身は不毛だった。
「君に常識が身についていればそうなんだろうけど、兎と絵に関する事以外はてんで駄目だよね」
「羽柴課長聞きましたか!?一條課長がどうして女性にモテるのか理解できません!!」
「お前の彼氏だろ。普通一條と付き合ってるだとか特別扱いだとか、内容がどうでも舞い上がるもんだぞ」
「今地に落とされた気分です」
ふいと拗ねた様に顔を下ろした楚良の前に運ばれてきたスープを置いた一條がスプーンを添えているが、一條が楚良の言葉に傷ついた風はない。
寧ろ余裕さえ感じるのは錯覚なのか、飲み会帰りに酔っ払って泣いていた様子とは全く違うのは、楚良を手に入れた余裕から来るのだろうかと勝手に想像した羽柴が息を吐いた。
「男が主導権握ると大抵ロクな事にはならんけどな、まあ空木の場合はこれで良いだろ」
陰島が笑いながら肉へと箸を延ばしていて、同じコンロを使っている鳴海が再び箸を取って肉を食べ始めている。あちらに行きたいと思うが、杖は手の届かない位置だし一條は多分どいてくれない。
「お前達いつからなんだよ。勅使河原の歓迎会の時はまだだっただろ?」
「つい最近だよ」
「いや、それで合い鍵はおかしいだろ?」
「状況が状況だったからね」
興味本位の羽柴に何と言えばいいのか分からない楚良とは打って変わって、一條は全く躊躇も淀みも無かった。
辻褄合わせは全部彼に任せてしまおうと思えば言葉も少なく、楚良が赤身の肉へと箸を延ばす。
「生活が改善しそうで良かったな」
流石にこれ以上の会話は鳴海的にはどうなんだと羽柴が迷っている間に、珍しくその男が口を挟んで楚良の視線が向いた。
「いや、それどういう意味ですか」
「飯はきっちり三食作らせろ。あと夜はちゃんと寝ろ」
「私はいい大人なのですが――――っ」
「せめて入社時ぐらいの体重に戻せない男に価値は無いだろ」
ごふ、と、楚良がむせて慌てて口を両手で押さえた。お前何てこと言うんだとばかりに羽柴は其方を見やり、陰島がおかしげに喉の奥で笑みを噛み殺す。
「普段から料理が趣味だと言ってるんだ、その位はやらせておけ」
「……お言葉に甘えてガッチリ管理させて貰うね」
「ただでさえ小食なのに肉も飯も食わせてやらないでどうするんだ?キャベツだけで腹一杯にするつもりか」
「昨日今日とろくに食べてないからサシの多い肉はお腹を壊すだけだよ。本当にちゃんと食べてくれれば好きな時に好きな物でも食べてくれて結構なんだけど」
珍しく二人の応酬に固い物を感じた楚良が、自分が来るまでに相当荒れたのだろうかと考える傍らで、事情を知る羽柴だけではなく陰島も何となく察した。一條も同じ様になんとなく察した。
営業相手にこの手の応酬は寧ろ悪手ではと思ったが、鳴海は鳴海なりに一條には言いたい事が沢山ある。彼女が刺された経緯も含めてだが、言葉にするのが苦手だというのは重々自覚があるからさして言葉にしていないだけだ。
そもそも鳴海本人も、一條に口でどうこう等とは思っていない。
「まあ鳴海の言いたい事も分からないじゃないな。見てると不安になんだよ、ウチの娘もダイエットだ何だなんて食が細いんだが、男から見るとやっぱりなー」
「私は自分で結構食べる方だと思ってたんですが…重たい物の方が好きですし」
「一度で数日分とるんじゃなくて均等に均そうね」
「ちょっと食べるのを忘れたり面倒臭くなるだけです」
「お前はあれだな、食に興味が無いパターンだな」
何やら上長達から叱られている気がして、大人しく卵スープを口に運ぶ事にして塩気の強いそれを冷ましてから飲み下す。
「俺は空木の何処が良いのか分からんな…」
「私も羽柴課長のどこが良いのか分からないのでおあいこです」
お返しに告げた言葉に陰島が肩を揺らしながら笑ったが、楚良にしてみれば仕事に関わらない事は何やら悪戯やら嫌がらせやらを仕掛けてくる様なイメージしかない。
本当にいつも仕事をしていれば多分格好良いんだろうけれども。
「甘い物は許されるんですか?生チョコアイスという心惹かれるものが」
「胃腸が冷えて動きが悪くなるからアイスは駄目だよ」
「ひどい」
勝手に注文して取り上げられるのも嫌だとばかり、楚良が隣を見上げながら問いかけてみればあっさりと一條から答えが返って楚良がその場所へと突っ伏した。
ある程度片付いた卵スープはもう良いのかと判断したらしいその男が、先程まで楚良が使っていたスプーンを手に取る。
「空木の母親かお前は」
その様子に羽柴が溜息。悲しげに身体を起こした彼女がその言葉にまた隣を見上げた。
「過保護過ぎなんです、もう少し成人としての権利をですね。……ココアで良いです」
「お前も負けるのが早いな」
「だって怒ると怖そうじゃないですか…」
「怒ってないから」
でも呆れている顔でしたと楚良が答えて、残りの焼き野菜を片付けようともそもそと食べ始める。20歳の大人として、怒られなくとも溜息と共に見下ろされるのは避けたい。
羽柴が今度はデザ課で食べに来るから気落ちするなと言ってくれているが、本当にその権利に恵まれるのだろうか。彼の移動話も考えれば、可能性は薄そうな気がする。
「あとココアはカフェイン入ってるから駄目だよ」
隣から慈悲の無い言葉が返ってまた楚良がテーブルへ置いた腕へと顔を埋めた。
人のお金で食べるお肉はとても美味しい。できればこの僥倖にもう少し恵まれれば良いのにと思っているのは、残業代の額を考えれば贅沢な事なのだろうとも思った。
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