第60話

 陰島は兎も角、男盛りで身体も決して小さくない3人というのは解き放つとこれだけ食べるのかと、机の空いたスペースへと詰まれた大皿に思う。白米の消費量も凄くて、値段的にこう言う食べ方をする店じゃないだろうと思ったが、人の金というので遠慮も無かったのだろうか。


 上着のボタンが閉じるんだろうかと余計な心配をしている間に帰り支度が終わり、壁に手をついて身体を起こそうとする前に一條に手をさしのべられ、それに有り難く従って身立ち上がった。鞄は陰島が持っていたし、杖も鳴海に回収されている。

 部屋を出た位置に下駄箱があって既に靴が用意されていた。


「階段大丈夫?」

「はい、少し突っ張る感じはしますが動きに支障は」


 どちらかと言えばしっかりと巻かれた包帯が息苦しい感じで、特に食事後だからか圧迫感がある。下手に肉を詰め込んでいたら危なかったんだろうかと、今更ながら一條の常識的なものに感謝しておこう。

 狭い階段は手を付く場所は沢山あって、やがて直ぐに一階へと辿り着けば陰島に荷物をと手を出したが、楚良にではなく一條の方へと預けられたのが見えた。

 店の合間を抜けて、羽柴が支払いをしているレジの傍らを通る際に鳴海から杖を返して貰う。店のドアを開いて外へと出ればその寒さに一瞬身を竦ませた。


「一條課長、スマホを貸して貰えませんか。藤森さんに連絡します」

「この寒さじゃ待つのも辛いでしょ、車持ってきてるから藤森さんには僕が連れて帰るって伝えて」

「一度家に戻ったのですか?」


 昨日はマンションに戻ったのではなかったかと思いつつ、車があるというなら一度家から回収したのだろうかと鞄の中から取り出されたスマホを手に取りつつ問いかけた。

 車に乗せて貰えるなら急ぐ連絡でもないだろうかと、一度手元へと目を落とした。メールアドレスなんて知らないし、皆と別れてから連絡をしよう。


「昨日一度」

 何か答えに溜息が混ざった気がしたが、昨日という言葉にふと其方へと視線を向ける。

「祖父に会いましたか?」

「いや、丁度おじいさんが来る前だよ」

「…そうでしたか」

 あの祖父が一條と会ったら何を言うのだろうかとふと興味もあったが、多分兎の話しかしない様な気がしたから、サチの血統の話で盛り上がるのだろうと思う。


 楚良自身も驚く位はそっくりだと思った程だったから。


「久々に好き勝手食ったなー、会社の金ってのがいい」

「お前は自分の稼ぎで好き勝手食えるだろ。何に使ってんだ?」

「使う暇がないから只管ため込んでるな」


 早く結婚しろ等と陰島が会計を終えて出てきたらしい羽柴に言っているが、言われている本人には全く響いていない様だった。

 プライベートなんぞないときっぱり言い切る羽柴だから、それも移動の希望に組み込まれている。本当にこのままデザ課の上長に居座っていると、色んな物を逃す気がしてならない。


「空木はタクシーか?」

「いえ、一條課長が送って下さるそうなので有り難くお受けします」

「途中で抜けたと思ったら車取りに行ってたのかよ。鳴海もいつも通りだろ?事故るなよ」


 羽柴が店の裏手の駐車場の方を一瞥して、溜息を吐けばその息は白く寒さを感じさせた。

 本当に彼の言う通りこの寒さでバイクとかは大丈夫なのだろうかと楚良も鳴海の方を眺めるが、当たり前だとばかりに溜息で返される。


「じゃあ今日はここで解散かな。デザ課がこの時期に全員帰ってるの珍しいね」

「本当に今年は色々上手く行ったもんだ。お前が色々生け贄になった気がしないでもないが、デザ課にとっちゃ座敷童みたいなもんだったな」

 良くやったと羽柴に頭を撫でられて完全に子供扱いされている気がしたが、その内容は賛辞でもあったのでぐっと我慢する。


 本当に遠慮無く撫でられて髪がぐちゃぐちゃになった所でやっと手が離れ、じゃあなと手を上げた3人を楚良が丁寧に頭を下げて見送った。


「本当に羽柴は君の怪我とか直ぐに忘れるね」

「朝はショックを受けていた様なので、この位で丁度良いんです。一條課長は充分食べられましたか?」

 問いかける楚良が軽く首を傾げて其方を見上げたのは、彼がずっと楚良の世話を焼いていた様に見えたものだから。

 自分の食事は終わったのだろうかと首を傾げてみれば、その指先が伸びてぽんと頭を撫でられた。

「また課長が付いてる。沢山食べたから大丈夫だよ」


 おいでと声を掛けられてその背中へと続けば、駐車場には見慣れた車。一條が助手席のドアを開いて、杖は直ぐに楚良の指から離れた。

「ありがとうございます」

 一瞬だけ腰へと手が触れて高い車の助手席へと直ぐに楚良の身体が収まれば、杖と鞄はそのまま広い足下へと置かれる。楚良が身体を捻る前にシートベルトが手渡されて、また小さく楚良の口から礼が漏れた。


「閉めるよ」

 楚良から見れば高さのある車も、座席に座ってもまだ身長差があるとその顔を見ていれば、また声が掛かって垂れていたスカートの裾を引き上げた。殆ど音も無く丁寧にドアが閉められ、その長身が運転席へと回る。


「薬、効いてきた?」

 自分には充分広い車内だが一條は狭そうだと視線は運転席の方。色々と不自由な楚良とは違って直ぐにシートベルトが締められ、エンジンを掛けた男は周囲の確認をしてから直ぐに車を車道へと出した。

 今更にアルコールを飲んでなかったのは運転の為だと気付けば、もう少しこの可能性には早く辿り着けば良かったと思う。


「そう言えば少しぼんやりしますね。最近凄く眠くなる時があって困ります」

「昨日も一昨日もロクに寝てないんだから、その位で当たり前だよ。帰ったらすぐ寝床の準備してあげるから、今日は僕の為にも早く寝てくれるかな?」

 そう言えば色々な事件や衝撃の告白などが多くてすっかり眠って居ないことを忘れていたと気付けば、余計に疲れを感じてきた。

「途中で辛くなったら言って。急いでは帰るけど」

「安全第一で良いです。一條さんはさっちゃんがいなくて昨日は大丈夫でしたか?」


 珍しく本当に眠いのか目元を擦っている楚良に問いかけられて、一條の視線が一瞬だけ隣を窺ったが直ぐにフロントガラスの方へと戻った。

 昨日一條は藤森から兎の面倒は彼女の祖父が見るからと言われてマンションへと戻って、彼女に兎を預けた時ぶりの兎のいない本当に一人の夜。殆ど使われていなかったその部屋はそれなりに落ち着く部屋だと思っていたし、サチがいた事もあって早く帰りたいと思っていたのに、今はもう他人の家の様な錯覚さえ受けた。


 生きているものの気配もなく、自分以外に動くものはいない部屋の明かりをつけて、エアコンやテレビをつけてみてもやはりうすら寒い。片付けていた寝具をベッドの上へと広げる気にもならなくてリビングに掛け布団だけ持ち込んでソファで眠ったが、彼女の家で泊まってソファで眠っていた頃よりも居心地が悪い気がしてならなかった。

 彼女が同居を許さず、あの部屋に今日も帰らなくてはならない状況になるのは一條としても避けたかったから、本当に良かったと思う。


「寂しかったよ。気分転換になるかなと思ったけど全然だったし、君の家は騒がしい訳じゃないのに不思議だね」


 一條が全く躊躇もなくその台詞を口から出せば、そうですねと楚良からも素直に返事が返った。大の大人が兎がいなくて寂しいなんていうのはからかわれても仕方が無いのに、彼女はやはりそうはしない。


「少し眠ってていいよ」

「嫌です。まだ色々終わっていないのに…」

「着いたら起こしてあげるから」

「絶対うそです」


 楚良に告げた言葉には鋭い指摘が返って、思わず一條の唇に笑みが浮かぶ。それが分かって貰える程度には彼女と親しくなれたと思えば楽しくなった。

 後はもう少し甘えてくれればと思ったが暫く一條が黙っているだけで、こくりこくりと楚良の頭が揺らいでいたのでこれは彼女の甘えでもあるのだろう。


 電車で30分だが車を使えば然程の距離でもない。直ぐに彼女の家へと辿り着けばガレージのドアは閉じたままだった。エンジンキーに付けられたガレージ用の遠隔キーを向ければ緩い動きで少しずつ開き、いつもの通りにそこには車が無かった。

 藤森か、彼女の祖父がいるなら車だろうから、もう家は無人なのだろう。ガレージに後ろ向きで車を停めて楚良には声を掛けずに車を降りる。助手席へと回り込み、そのドアを開いて楚良の鞄と杖を取った。


「……起こして、下さると」

「起きてたの?嘘だと言われたから起こさないつもりだったのに」

 ぴくりと楚良の瞼が動いてぱちりとその瞳が瞬き掠れた様な声で抗議が漏れる。目をまた擦った楚良がおりますと小さく告げるのに、膝の下へと鞄と杖を持ったままの腕を差し入れて肩を抱いた。

「歩けます」

 腕へと収まっているその小柄がまた一條に告げたが、当然それを聞き入れる様な男でも無い。寝起きの身体では抵抗がし辛いのか軽く身を捩っただけで充分な動きでもなければ、押さえ込むのも容易で。


「お帰りなさい」

「ただいま、君もお帰り」

「ただいま帰りました」


 裏口の扉を開いてそこへと彼女を下ろせば近くの壁へと手をつきつつ、楚良が掛けた言葉に一條も応える。靴を脱いで上がった楚良へと続いて裏口を閉じれば、彼女がキッチン越しに兎を確認した所だった。


「寝る支度をしておいで。こっちの事は僕がやるから」

「一條さんもお疲れでは…」

「流石に君にさせる選択肢はないよ」

 外出時には飼育スペースでフェンスに隔てられている兎達が後ろ足で立ち、二匹並んでフェンスに張り付いている。


 鞄はいち早くリビングに入った一條が定位置へと置いていて、杖も兎の届かない位置へと。それを少しの合間見つめていた楚良が、キッチンの脇にあるタッチパネルへと手を添えて、幾つかのボタンを操作する。

 明かりの点けられた部屋に僅かなモーター音。一條と兎が同時に窓の方へと目を向けたのは、それが珍しいからに他ならなかった。


「夜の庭も綺麗だね」

「――――本当に」

 夜の間は彼女は殆ど明かりを漏らさなかったし、雨戸も当然上げたりはしなかった。天気の良い日に雨戸は開いても、用が無ければ窓を開くことさえ無かったのも覚えている。


 兎の脱走防止なら網戸が1枚あれば事足りるだろうし、それでも心配ならフェンスでも何でも張れば良いし光を漏らさない厳重な雨戸など必要はない。

 それを今夜開いたのならばその理由は言葉にしなくとも一條には分かった。暫く月明かりの落ちた窓の外を見つめていた楚良が、風呂に入ってきますと小さく告げる。


 キッチンからリビングの方へと歩みを進めた楚良へとフェンスから出された兎が勢いよく駆け寄ろうとしたが、朝と同じでその足下辺りでやや距離を取られた。


「分かっていましたがショックです!」

「血の香りかな?食毒液?どっちだろう」

「この反応は消毒液でしょうね。血の香りは殆ど気にしては貰えません」


 楚良自身も女性だから月一のあれこれで血の香りは兎には寧ろ馴染みではないだろうかと、ふと茶々の方を見下ろしてみたが、やがり抱き上げる様な距離には寄って貰えなかった。

 此処はせめて抜歯が終わって消毒の必要がなくなるまでは我慢だと、泣きたい気持は抑えておく。


「窓の方に布団敷いておこうか?」

「本当ですか?流石にテラスは寒いので、あの辺の床暖房が入る位置あたりがいいです」

「分かった、あの辺だけ暖めておくね。兎は暑いかな?」

「部屋全体を暖めるのでなければ、勝手に寒いところに自分で移動するので大丈夫です。では行ってきます」


 楚良が歩き出せば茶々は後を追うもののやはり足下に纏わり付く程ではない。その背中をリビングの扉が閉まるまで見送って楚良の姿が消えれば、一條の方へと茶々が寄ってきた。布団を敷いている彼の側で、明らかにお前でいいや的な雰囲気を醸し出しながら座っているのを見れば、そういう所も可愛いと思いつつ頭を撫でて置く。

 窓の側に二つ布団をぴったりと寄せて敷いてしまえば珍しそうに兎が窓の外を眺めつつ、その上へと乗った。水や餌はこの間に替えてしまおうと、作業リストを横目に手早く作業を進めていく。


 本当に彼女はどれだけ疲れていても兎の世話だけは欠かさないから、安静にさせるなら漏れは許されない。朝の世話の方が項目が多いとは言え夜にもそれなりの手間がある。日記やブログの更新は出来る知識ではないから、それ以外の所はしっかりやらねば。


 そもそも餌や水を替える程度でも彼女がノーチェックになったのは最近だったと思う、リストにしてみましたと世話の一覧表が餌入れの棚に置かれた時にはそれだけ信頼を得られたのだろうと感動さえしたものだ。

 触診やらマッサージやら爪切りやらになると彼女の方がやはり兎に負担を掛けず、あの域になるのにはそれこそ彼女ぐらいには人生を兎に捧げなければならないだろう。

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