第19話

 羽柴がその集団を見つけたのは、風呂上がりだった。


 到着して直ぐ主任以上が強制という名のオプショナルツアーを終えて旅館に戻ってみれば、もう既に旅館に馴染んでいる社員達は思い思いに過ごしていて、空木もクリエイティブ部の女性社員に直ぐに誘われて姿を消して。

 自分も寛いでしまおうと自部署の社員やら営業部の社員やらを誘って風呂へと入り、散々騒いでてから出てみれば女性社員達が会話に花を咲かせている所だった。


「空木はどうした?」

「温泉初めてだって言うんで、鴫さん達と温泉作法を勉強中でした」

 その名は確か情報システム部の重鎮の事だろうか。重鎮と言っても扱いは平社員だが、何でもこの会社では社長の次に長いとか何とか。既に60歳も超えているが、退職などの話は一切出ていない。


「課長、胸って凶器なんですね…」

「お前はいきなり何を言い出すんだ」


 何にしようかと自販機を見つめて居ればしみじみと呟く自部署の既婚者の女性に、本当に何を言い出すんだとばかりに瞳を向ける。

「空木の胸がゆさゆさでした。スタイル抜群すぎて営業の女子社員がダメージを受けてました」

「女はセクハラにならなくていいな!?」

 この様子では多分一緒に風呂に入ったのだろうと思うが、そういう擬音で報告されるとは思わなかった。何故か他の女子社員達が混ざって肯定しているし、男達が加われば大きさがどうの形がどうのという話になってくる。


 隣の一條がふっと目をそらして、溜息を吐いて居た。


「腰とかこんなに細いんですよ。こんなです」

「いやそれに内臓は入らないだろ。――――…話聞いた奴の今夜の肴が空木の乳になるから辞めろ」

「胸がお湯に浮くって初めて知りました」

「それを俺に報告してどうするんだ」

「喜ぶかなって?」

「殺されるから辞めてくれ」


 ただでさえ出会い頭の感想で冷たい対応をされているが、流石に乳の話で盛り上がっていましたとか知られたくないし、無言の一條が怖い。


「あれ描いてみたいんですけど、やっぱり学生時代じゃないしダメですかね」

「許されないだろうなあ。本人は案外快諾するかもしれんが、会社的にはNGだな」

 問題だと聞けばデザイン課の社員が残念そうにしていたが、女性社員は兎も角男性社員は本当に自重した方が良いと上長の立場では思うしか無い。

 実際描いてみたいかどうかと言われれば、羽柴自身もそこまで言う身体というのは描いてみたい気もするし、そうすれば彼女の事を知れるのではないだろうかとも思う。


「済みません、お待たせしました」

 普段飲まない炭酸などを羽柴がチョイスしながら何かを悩んでいるのを横目に、自分も何か買おうと一條が浴衣の袂から財布を出した所で風呂から出てきたのか楚良の声が聞こえて視線を投げた。


「お前案外長風呂なのか」

「水風呂と交互に入って露天風呂にも連れて行って頂いたんです。最後は500数えるまで出てはならないと」

「鴫さんは?」

「まだお入りでした…!流石にのぼせるかと」

 彼女が流石に暑いのか自販機の方へと目を向けて、其方へと歩く。一條が場所を空ければそのやや赤い頬が其方を向いた。


「一條課長は良いんですか?」

「何飲もうかなって思ってた所だよ。何が良い?」

「財布を持ってきたので大丈夫です。地方が変わると自販機の中身も変わるんですね」


 旅館に備え付けなのだろう浴衣とスリッパ、一條の隣に立てばその小柄は一層際立つし、その黒い瞳が自販機の方へと向けば襟元がもう既に緩んでいて鎖骨が見えていた。

 話題になる程の造形であるから、和装とは色々と相性が悪かろうと思うのだけれども。


「空木さん、帯の所の左側――――少し引っ張っておくと良いよ。着崩れにくいから」

 一瞬だけ身を屈めてその耳元へと小さく告げれば、楚良の指先が一度胸元を押さえて直ぐに示された場所を軽く直して一條の方へと向き直る。


「和服を着るのは思ったより難しいですね」

「着崩れにくい方法、送っておいてあげる。夜もそのままなら立ったり座ったりもあるし」

 本当にそうですねと彼女が頷いた。お茶のボタンを押して小さなペットボトルを取り出した楚良だが、新人が座敷で食事を取るというなら酌して回るのも彼女の役目だろうし。

 僅かに屈むだけでまた衿が浮いている。色々と詰めた方が良いだろうし、抑えた方が良いだろうと。


「部屋から出るなら羽織も着た方が良いね」

「そう言えば置いてありました。一つ厚いのもありましたね」

「丹前かな。寒いときに着るものだけど、着ていた方が分かり難いかもしれないね」

「裾もですが首元が兎に角不安だったので助かります」

 この辺と彼女が胸元に手を置けば一條の苦笑、洋服でも構わないとは思うが周りは皆浴衣を着て歩き回っているし、外も出られる程にはしっかりとした作りだ。


「空木、皆で外に行こうって話なんだが、お前どうする?」


 彼女がお次どうぞとでも言う風に一歩自販機の前から避けたところで、後ろから計った様なタイミングで羽柴から声が掛かり、二人が同時に振り返る。

「ご一緒させて下さい。一度部屋に戻って荷物を整理してからでも良いですか?」

「勿論だ。一條はどうする?」

「僕も行くよ、部屋にいる子に声かけておくね」


 女子社員達が立ち上がって、空木も声を掛けられそれに合わせる様に集団の中へと溶け込んで、同部署の社員と並んで歩き出した。

 しかし直ぐに振り返った彼女が一度頭を下げ、手を引かれてまた直ぐに歩き出す。


「さりげなく二人の世界を作るなよ」

「作ってないよ。羽柴の会話に入れる訳にはいかないでしょ」

「流石に本人の前であんな話するかよ」


 特に乳の話は絶対に彼女から口もきいて貰えなくなるのに違い無い。流石にその程度の分別はあるが、人の身体で盛り上がっていたのも事実だ。羽柴に言わせれば話題に上る様な身体をしている空木が悪い事にしてしまいたいが、一條に知られたら絶対碌な結果にならない。

 大体美術館からの帰り、バスに戻ってみれば何処に行っていたかと思っていた2人が仲良く後部座席に座っていたし。


 会社では少し距離を置くとは何だったのか。


「彼女に着付けのコツを教えてあげてただけだよ」

「…ありゃ目に毒だな」

「着慣れてない子はああなるね。大きく直さないとまた崩れるだろうし」

「まあ、たまに忘れるがあの年齢のお嬢さんだからなあ」


 慣れているという事はないというのは一條にも同意で、取り出したスマートフォンで彼女にタオルの詰め方など送っておいた。営業上様々な知識は入れる様にしているし、勿論浴衣や着物などの題材も扱ったことがある。

 本当なら和装の下着でもつけるべきなのだろうと思うが、流石にそれは荷物に入っていない。

 ついでに部下達にも皆で出るから一緒に出ないかと送って直ぐ、準備して行きますと次々と返事が入っていた。


「空木はたまに話題になる事をやらかしてくれるよな」

「何でか自分に価値が無いと思い込んでるから無防備だね。絶対にそんな目で見られる事はないなんて思ってるみたいだし」

「何だろうなあれは。お前の取り巻きに詰られたってだけじゃないだろ」

「羽柴のファンからもね」


 何故自分ばかりのせいの様に言うのかと一條が溜息を吐けば、当の羽柴からは肩を竦められた。


 さして時間も掛からずに女性社員達が戻って来て、途中で合流した男性社員も出てきた様だった。その中で自然と一條が探してしまうのはやはり楚良の姿で、見れば黒髪を上げて首筋が露わになっている。

 きちんと胸元は合わせられていて上にもきちんと一枚羽織られていて、先程よりも幾分かはマシだろう。隣に並んでいるのは自分の部下で、時折彼女が笑みを浮かべているのが見えた。


「お前、あからさまにテンション下げるなよ」

「下げてないよ。本当に変に勘ぐらないでくれるかな、旅行の時ぐらい今までお世話になったお返ししたいって思ったって構わないでしょ。羽柴と違って営業全員貸しっぱなしだからね?」


 あくまで上司の立場だというのを何となく強調してみたが、彼が聞いてくれるかどうかは謎である。それ以上に背が低いと彼女と話しやすそうだななんて、本人に知られれば確実に信用を失う様な事を想像していたとは知られる訳にはいかない。

 それでも彼女の隣へと行く前に女性社員に左右を固められてしまえば、話しかける切っ掛けさえつかめなかった。


「どこか目的地はあるのでしょうか?」

「いや、ぶらぶらするだけだ。寒くないか?」

「先程茹で上がるかと思いましたから、丁度良いぐらいです。もうすぐ冬が来ますね」


 保養所は温泉街の中にある為か、玄関を出れば直ぐに商店が建ち並ぶ場所へと出る。楚良の瞳はそちらではなく、その後ろに聳え立つ山々へと向けられている風だった。

 これは暇が出来たら描く流れだ、彼女の行動パターンはある意味分かりやすい。


「羽柴、ちょっと空木借りていいか?」

 やはり彼女のあれこれは分かりやすいと羽柴が思いながら皆の後ろを付いて歩いていれば、横から追いついたらしい陰島が声を掛ける。

「どうした?」

「海崎に付け届けを出すんだが、ちょっと何を送るか迷ってな」

「海崎さんは確か食べ物NGでしたよね?何人分ほどでしょうか――――」


 仕事の話は辞めとけと羽柴が言う間に、もう既に彼女は陰島の傍へと歩いていて、商店の方へと瞳を向けていた。

 一條が止めるかと思えば彼は彼で女性社員に囲まれていたし、視線の先を追えば気にはしているのだろうが抜けだせないのかと直ぐに悟る。

 仕方なく溜息を吐いた羽柴が、女性社員を引き受けてやろうと其方へと歩を向けた。


「予算などはありますか?」

「余り堅苦しい物にはしたくないな、あそこの社長とは嫁が懇意なんだ」

「なる程。じゃあ少し珍しい物で、片手間に配れる様なものがいいですね。…あそこは緋色でおめでたい感じの色を好んで居たので…」

 陰島の傍に立って居る楚良が並べられた土産物へと視線を走らせ、その中の一つへと指先を伸ばす。


「こら、二人とも。慰安旅行なのに仕事の話はダメだよ」


 彼女が何か結びの小物を手に取ろうとしたのだろう所で、タイミング良く声が掛かり楚良の視線が向けばいつの間にか一條が立って居る。

 陰島に言わせれば、先程まで囲まれていたから目を盗んでだと思っていたが、いつの間に抜け出してきたのか。抜け目がない。


「物珍しい物はこの機会じゃないと無理だからなあ」

「熱心なのはいいけど――――…それは?」


 羽柴から言われて二人に声を掛けてみれば、本当に仕事の話しかしていない。彼が女性社員を預かる形になってくれてはいたが、楚良の頭の中にはそれこそ取引先の好みが詰まっているから頼りたくなる気持ちも分かると、その手に携えられた小さなリボンの様なものへと言及した。


「絹巻きの、水引型のシールです。のし袋に貼ったりもできますし、この大きさなら社内のお祝いなどにも使えますね」

 控えめなサイズで、それでも赤く目出度い色は瞳に鮮やかにも移る。会社のメインロゴにも赤色を好んでいたのを思い出せば、そうだなと陰島がそれを手に取った。


「此にするか」

「数があれば良いのですが…」

 小さな物だからそれなりの数が必要だろうかと思えば、陰島が聞いてみると商品を片手に奥の店員の方へと店先から入って行く。


 ふっと息が漏れたのは一條の方から、仕事の話は認められたのだろうかと思っていれば、一條の手が腰の方へと触れた。

 歩くのを促されているのだろうと気付いた楚良が一歩前へと出ながらも、陰島の方へと瞳を向ける。


「陰島主任が…」

「後は交渉だけだから大丈夫だよ。羽柴にも仕事の話は控えてやれって」

「羽柴課長が珍しく気遣っていて不気味です…。少し参考にしたいとの事だけでしたよ、早く片付くなら良かったです」

 陰島の方へと向いていた彼女が、やっと其方から視線を外して辺りを見回した。おそらくは羽柴を探しているのだろうが、近くにその姿はもう見えなくなっていた。


「何か食べてく?」

「陰島主任を残して行くのはどうかと思うのですが…」

「じゃあ、店の外で食べられる物にしようか。暖かいものの方がいいよね?」

 問いかけられて首を傾げた彼女の首元に、纏めて居た髪から一房垂れて黒髪が落ちる。辺りを見回してまた、相応しい物を探しているのだろうが、多分双方そこまでの空腹という訳ではないだろう。


「一條課長は何が良いですか?…嗚呼、でも、皆さんと合流してからの方が良いでしょうか」

「他の人は羽柴に任せてあるから大丈夫だよ。甘すぎない物の方が良いかな」


 任せて居るからダメなのでは、と、一瞬楚良の頭に過ぎったがもう既にあたりを付けたのか一條は歩き出していて、楚良の足も自然に向かう。

 手提げから財布を取り出そうとすれば、一條にそっと下ろされた。


「では…私は陰島主任のを」

「全部僕が買う所だよ。こういう時は上司を立てようか」

 店主が微笑まし気に見ているのに微妙な気分になりつつ、楚良が手を下ろす。分かりましたと軽く頷いて一歩引けば、店から陰島が出てきている所で、聞こえる程度の声で名を呼べば直ぐに気付いた男が下駄を鳴らした。

 陰島は手ぶらの様で、発送してもらったのだろう。


「恙なく終わりましたか?」

「数も揃ってたし手頃な値段だったから助かった。――――置いて行かれたか」

「一條課長がお待ち下さってましたよ」


 丁度看板の影になっていたと毎度ありの言葉に其方を向けば、大きな手に油紙が2つほど握られていた。


「仕事の話はここまでだよ」

「さして深い話もしてないだろうがよ。…酒饅頭かこれは」

「油断してると身体も冷えるからね。湯冷めすると大変だし、少しは暖まるかなと」

 まだ暖かいよと先に楚良の手へとそれを渡した一條が、もう一つを陰島の方へと手渡せば、二人がそれぞれに中を覗く。


「思ったよりお酒の香りが強いんですね」

「本当だな――――…甘」

「これでも甘すぎますか?陰島主任は甘い物は苦手なのでしょうか」

「苦手じゃない、寧ろ好きだな。酒っぽいのを想像してて驚いた」


 二人の合間に飛び交う会話を聞きながら、思いの外酒の香りの強いそれに息を吐く。二人が囓ったその合間からの香りだろうか、アルコールが飛んでいる筈なのだがその香りはやたら強い。


「一條課長は食べないんですか?」

「一応何があるか分からないから、お酒は夜にかな」

「酔っ払う程は出ないですよ?」

「念のため。あとお酒の香りも気になるしね」


 言った一條に自分のそれを分けるべきかと思っているのだろうか、楚良に食べますかと問いかけられたが未練は切り捨てて断った。


 食欲が無い理由なんて明かで誰彼構わず彼女に近付くななんて言える立場ではないし、陰島は既婚者だしで余りにも理不尽な感情なのはわかりきっている。嫉妬深い兎でも乗り移ったのではないだろうかと思ってみるも、彼女の兎飼育のモットーは協調性なのを思い出した。


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