第20話
「羽柴課長はどこまで行ったんでしょうか」
「多分どこかに入ってお茶でもしてるんじゃないかな?旅館に入ったらもう一度お風呂入らないと、ちょっと寒くなってきたね」
「お風呂も良いですが、絵も描きたいです。紅葉の山は美しいです」
やはりこの季節は彼女の感性を刺激するタイプなのだろうというのがよく分かる。夏の騒がしさも好きそうだが、もうすぐ立ち枯れてしまう木々にも心が躍って仕方が無かった。
「仕事というなら此を止めた方が良いだろ」
「彼女の絵は仕事か趣味か微妙な所だから」
そこは好きにさせてあげようかと迷った後に告げた一條に、よく分かりましたねと楚良が告げている。当然陰島もそう言うだろうと見越しての事で、ふ、と息を吐いた笑みに酒の香りが乗った。
「外で描いちゃダメだよ?」
「え、ダメでしょうか。写真を撮る程度の短時間なら許されますか?」
「どこまで行くんだ?」
「え、…えっと、尾根の辺りまで行きたいです」
「遭難しそうだな」
時間も確かめずにそんな事を言うと溜息を吐いた陰島に、えっ、とまた声を上げた彼女が辺りへと視線を投げている。
「絵描きはこんなものなのか?安全より趣味を取るよな」
「歩いて行くので事故は起こさないかと思うのですが…」
同意を求める様に一條の方へと目を向けた陰島に、僕にも理解できないよと言われて居るのを耳にすれば楚良は寂しく饅頭を平らげる事にした。
足ならば好きな所に行けるし、燃料の心配もないし、転倒もしないのに。
「帰れなくなるから辞めようね。レンタカーとかもあるから、よっぽど気になるなら連れていってあげるから」
「他部署の課長を連れ出すわけには。鳴海主任にでも頼んでみます。最悪一人で車を出します」
「それは本当に駄目だよ。問題があった時に対処できないから、どうしてもっていうなら役職以上は連れていって」
あっさりと運転手を拒否されて一條が微妙な気分にもなるが、彼女の思考パターンで行くと噂になるなら一人で行くというのは正しい意見なんだろうと思う。会社での接触はある程度抑えていて、彼女から近付いて来る事はまず無い。
プライベートが知られると困るというが、いっその事、つい遊びに行く関係だという事が露見すればいいのに。
「そろそろ課長達を探しに行きましょうか」
さして大きくない酒饅頭を食べ終わったのは陰島が先だった。ゴミを受け取った一條が店先のゴミ箱へと投げ込んで、三人が歩き出す。
「空木、お前の兎は今日は大丈夫なのか?」
やはりもうここは事故を起こす可能性のない足で尾根だな等と考えて居た楚良に、陰島が歩きながら声を掛ければまた楚良の視線が足下から其方へと向けられる。
「一泊ぐらいならまたいつもの事か、で済まされる様です。給餌器はセットしてきましたし、何かあったら知り合いの獣医さんが確認に来て下さるそうなので。先程見たら、いつも通りに寛いで居ましたよ」
「見たら?」
「ウェブカメラを三カ所にセットしてきました。最近カラーで良いものが出ているんですよ」
見ます?と問いかけた彼女がスマートフォンを取り出して、軽く親指で画面を操作してから陰島の方へと差し出した。
「案外はっきり映るんだな。ん、二匹いるのか」
「いつもは一匹で、最近預かっている友人の子ですね。両方とも女の子ですよ」
「そうか。また繁殖するのかと思ったが」
友人、と言われればその通りである、二人を静かに見つめて居る一條からはまた言葉は出ない。
「一年中大丈夫なんですが、気候的に春に1回か若しくは春秋で2度の方が負担は掛かりにくいみたいですね。今年は色々あるので二度目の繁殖は見送りました」
「そうか。最近娘に何かペットをって強請られてな」
可愛いものだなとその画面を見ていた陰島が、彼女の方へとそれを返しながらぼんやりと呟いた。そうか年頃か、と思いながら彼女がもう一度スマートフォンを確かめて、直ぐにそれをしまい込んだ。
「ペットは初めてですか?」
「嗚呼。ずっと犬も飼って無かったし、家を持ってまだ間が無くてな」
「兎は少し難しいかもしれません。布教はしたい所なのですが、相性によっては懐いてくれない事もありますし、躾も犬猫の様にしっかり入る方ではないので。それと、性格が派手な子も多いですし病気の時も手に余るかもしれません…」
彼女が真摯な様子で陰島を見上げれば、ふむ、とその男が小さく頷いた様だった。
「ブリーダーとしてデメリットを告げるのは信用できるな?」
「結局持て余して帰って来るのは悲しいですからね。動物飼育は衝動みたいなもので始まるので、メリットは一目惚れで充分説明は出来るんです。もし皆さんがそうなってしまったなら私もサポートはしますが、良ければ兎カフェなどに行ってみてはどうでしょうか。匂いや抜け毛などもチェックできますし」
「兎カフェ?猫カフェみたいな奴か?」
「そうです。私が子兎を卸しているショップがカフェを併設しているので、後で紹介しますね。そこなら犬や猫なども扱っていますし、どの子も体調さえ良ければ抱っこもできます。うちの兎を見せても良いんですが、未避妊は気性が荒くて」
ご家族なら楽しめる等と彼女が相変わらず相手の要望を叶える方向で動いていて、彼女の家に居る兎を一條が思い出した。
さして一條相手に暴れ回るなんて言う事はないが、筋肉質の後ろ足での全力蹴りやしっかりとした顎で噛まれるのはちょっと想像したくない。サチが嫌がる時のそれでもかなりの痛みを伴う。
「空木さんもカフェには行くの?」
彼に対してもあの細かな資料を作るのだろうかと思えば、それが彼女の優しさだというのに胸の辺りが痛み出す。それを隠す様に問いかければ、黒髪が僅かに揺れた。
「私は外から見るだけですね。他の子を抱っこするとうちの子は不機嫌になるので」
「匂いで分かるのか?」
「分かるどころか数日不機嫌になってしまう事もありますね。凄く嫉妬深いんです、昔は力一杯蹴られて青あざが出来ていたものです」
それを想像したのか一條は青くなったが、兎の全力蹴りを知らない陰島が思わずという風に吹き出す。
「お前は兎が可愛いとしか言わないものだと思ってたな」
「そこは語らずとも見れば分かる筈なので」
あっさりと告げた楚良に、そっちかよとまた陰島が笑っている様だった。自分ではない誰かを前にして、また彼女が笑っている。
彼女の肉親に会ってその微妙な関係と、その男の立場を知った為だろうか。一條は自分の中に僅かな後悔の様な、焦りの様なそれがあるのだと気付いた。
父親が有名人であれば、人の見る目は変わる。彼女は確かにそう言っていた。下手に一條が今想いを告げようものなら、刀司伽藍の娘だと知ったからだと思われかねない。
こんなことなら玉砕覚悟でも長期戦でも良いから告白してしまっておけば良かったとさえ思っている。
「あ、羽柴課長居ましたよ」
無性に触れたくなって、しかし自分の立場を思い出して腕組みをした一條が袖へと手を入れて軽く握り締めた。火鉢の置いてあるテラス席らしき場所で、華やかな声が響いていて彼女が歩を早くした様だ。
「おっと、三人とも一緒か」
「一條課長に酒饅頭をご馳走になりました。課長は何を食べているんですか?」
「流石に冷たいものは食べる気にならなくてな、汁粉だ。女は凄いな」
あちらとばかりに顎で指し示した辺りに一條と陰島の姿が見える、パフェやらアイスやら食べているのが見えて、本当だと楚良も思いながら羽柴と鳴海のいる席の椅子を引いた。
「そうだ、鳴海主任。後で山の尾根の方へと連れていって貰う事は出来ますか?レンタカーの費用は自分で出しますので」
「何しに」
何を頼もうかと思う前に店員が茶を置いて、ごゆっくりと告げてくれた。飲むかと羽柴が傍らに置かれていた甘酒を勧めてくれたが、先程食べたのが酒饅頭だったせいもあって首を振っておいた。
「写真を撮りに。歩いて登って絵を描きたいたいのですが、遭難すると言われました」
「今日は無理だ、飲酒って程じゃないが」
会社に属する者として念のためとでも言いたげな鳴海の手が、軽く傍らのコップを指し示して、それが先程勧められた甘酒のコップと同じものだと気付いた。
「やっぱり足で行けという思し召しですよね?」
「一條に頼めばどうだ?酒饅頭程度なら大丈夫だろ」
「一條課長は食べていませんが、…別部署の課長を足に使っただなんて何を言われるか分かりません」
羽柴が何となく水を向けてみればにべもなく断られて、一度一條の方へと目を向ける。
羽柴にしてみれば一條と楚良の合間には絶対に何かあると思っているし、寧ろ敢えて距離を開ける様な態度は余計怪しい。
可愛くねだってやれば他の社員の様に無碍にはされないだろうし、喜ぶと思うのだけれども等とさえ思う。
「お前、最近一條と何かあったのか?」
「何かってどういう意味ですか。仕事が詰まりましたか?」
報告はされていませんとつなげた彼女に、そうじゃない等と羽柴が首を振る。溜息を吐いたその男に何がとばかりに楚良が首を傾げた。
「何か一條とやたらと距離取ってないか?」
「いつも通りです。別に無碍にしている訳ではないと思うのですが」
「なら別に俺が許可したなら良いだろ、他に運転出来きてお前を任せられる様な奴もいないしな」
それは、と、彼女が口を開きかけてまた微妙な顔をして黙り込む。眉根が寄っていて、しばらくの沈黙の後に彼女が目の前に置かれた茶を手に取った。
「先程お風呂場で、一條課長が横恋慕しているんじゃないかって鴫さんにまで言われたんです」
「横恋慕」
「鴫さんが他の部署の人から、私と羽柴課長が付き合っていて、一條課長がちょっかい出しているんだと聞いたと」
ごほ、と隣の鳴海がむせた様で楚良が自然に手提げからティッシュを取り出して、其方へと差し出す。
口元を抑えて咳き込んでいる鳴海が直ぐにそれを受け取った。
「絶対にありませんとお伝えしたら、なら一條課長とお付き合いしてるんだねと。もう一條課長が不憫でならないんですけど」
そう言えば距離を取る様にはなったが、一條がはっきりと楚良に関して否定している所を聞いたことがないな等と過ぎった。
それも羽柴にしてみれば怪しいと思うあれこれなのだが、当の自分の部下の方は絶対にその気がないと最初から決めつけている風なのも気になる。
「空木」
一体どう声を掛けてやれば極端な態度にならないのかと言葉を探している間に、鳴海が其方へと声を掛けた。
彼から言葉を掛けるというのは珍しい。
「他人からどう見られたいかは一條の問題だ。お前が世話を焼く事じゃない」
告げられた言葉に楚良は一度静かに頷いて、そして言葉を咀嚼しているかの様だった。
「別にお前は他人の意見などどうでも良いんだろう。やって良いと言うなら好きにさせてやったらどうだ」
「私はどうでも良いのですが、私は致命的に人付き合いが下手なのです。知らず私が甘えすぎていて一條課長が仕方なくというのにはなりたくないのです。一條課長は何と言うか、とても人が良いというか断れない様に思えます」
本気で悩んでいるのだろう彼女が、上司であるとは言え他人にアドバイスを求めるのは珍しいと思う。何か言おうとしていた羽柴は彼に任せようと口を閉じて、背もたれへと凭れた。
「問題ない。相手は営業課長だろうが、好きに構って飽きたらそれとなく距離を置く。その辺はプロで間違い無い」
「確かにその通りかもしれません」
完全に楚良が弄ばれる形になりそうで、お前何て事を言うんだと言いたくはなったが羽柴は敢えて止めておいた。
自分だって一條がどんなつもりかはよく分かっていないし、彼女が物珍しくて構っているだけという事もありうる。
鳴海は一條の方に好意があるとでも思っているのだろうか、で、好きにさせろと。
「お前が心配しなくとも、一條の女あしらいはそれなりだろう」
「おんなあしらい…」
鳴海から視線の離れた楚良が口の中で繰り返して、口元に手を置いた。今までの行動をじっくりと思い出しているのか、その視線が流れて一條の方へと向けられる。
目が合ったのだろうか、軽く一礼してからまた鳴海の方へと戻って来る。
「確かに私が営業課長である一條課長にどうこうというのは、思い上がりが過ぎました」
その瞳がしっかりと頷いて、思わず羽柴は横から何でそんな結論になったんだと突っ込みたい気分になる。多分鳴海も彼女を批判する意味で言ってはいないと思うが、そうだな、と寧ろ肯定している声が耳に入った。
「羽柴、そろそろ寒くなってきたから帰ろうかって」
「分かった、今行く」
結局お茶を飲んだだけだと思って楚良がそれをテーブルへと戻し、鳴海が立ち上がりながらティッシュの残りを差し出した。
あれだけ冷たいものを身体に入れたら寒くなるのは当たり前かと思いつつも、きゃあきゃあと高い声を上げつつ道に出て行く女性達は元気だ。
「一條課長、少し良いですか?」
彼女が首を傾げて問いかければ、ん、と直ぐに一條が彼女の方へと歩いてきた。羽柴に言わせればどう見ても呼ばれた犬なんだけれども、流石にそれにも揶揄う様な声はかけない。
「勿論。遅くなるといけないから帰ったら直ぐに出ようか」
口元に手を置いた楚良に身を屈めた一條を見やり、快諾の言葉を聞けば彼女が何を言ったかも予想がついた。
機嫌よさげな男は直ぐに楚良から離れて営業部の女性が左右、その後ろに少し遅れて楚良が続くのを後ろから羽柴が眺めて溜息を吐く。
「なあ、鳴海。空木は自分が甘えすぎだと言ってたがそう思うか?」
色恋どうこうではなく彼女の行動について問いかけて見れば、えらく遠回りに同意を求める形に聞こえ、らしくないと溜息を吐く。
それを聞いていた鳴海が一度羽柴を見つめたが、直ぐにまた前へと顔を戻した。
「空木には相手が悪いと言ったところで入らない。お前が悪いと言ってやった方が動きやすくなる」
「嗚呼…まあそうか」
「断りたいなら断れと言っても、お前が強気に出ろという言い方では聞かない」
本当に彼の下に空木を置いたのは正しかった、等と羽柴は勝手に思っておく。
「ただ敢えて言うなら一方的なのは一條だろうな。お前がどういうつもりか知らないが」
「――――何となく邪険にされると一條が不憫だろ?」
「空木は不憫じゃないのか?」
絶対に職場にプライベートを持ち込まないと双方共に言っているが、それに徹しようとしているのは楚良の方だ。
鳴海に問いかけられれば、うーんと羽柴が小さく唸った。あの色男が自分の部下に好意を持っていると確信できたなら、手を貸してやらない事はないのだが。
申し訳ないが空木どうこうより、やはり長年の付き合いのある彼の方に手を貸して遣りたいとは思うし、一條のやりようは他の女子社員に対するものとは違って感じる。
「一條なら文句は無いだろ?空木もいい男だってのは認めてる様だし」
「どうだかな」
見れば女子社員の合間に居た筈の一條が、楚良の隣に並んでいるのが見えて思わず半眼になった。彼女があえて羽柴のテーブルについたのはこれが理由かもしれないと思えば、どうだかなと言った鳴海の気持ちが少し分かる。
「いや、それだとお前、好きにさせろなんて言ったら空木が可哀想だろ」
「余程断れない理由が無い限り、お前に対する程度の拒否は出来る」
「俺の部下は本当に上司に容赦が無いなっ」
「ある程度一條は許されている様に思うが。……人間扱いかは分からんがな」
本当に口に戸を立てない部下だと思いながら二人を見れば、また楚良の瞳が一條を見上げていてどちらがどちらに、等とは聞かない。
鳴海の言う通りに一條は彼女の扱いが他人のそれとは違うし、楚良もまたChevalierの絡みはあると言っても少し近くに置いている様にも思う。一條はそれで良いと思っているからああなのだろうし、楚良自身にそう思われたいのではないか、等と。鳴海は一條が強引な手にでも出れば、楚良が断る口実になるとそう言っている様にも思えるが。
「余程断れない理由があったらどうなんだ?」
「――――………さあな」
その可能性もあるかと鳴海が羽柴の台詞に考えたかどうか。水島という女性社員が二人の合間に割って入って、楚良が道端に少し距離を離した様だった。
楚良が一條に近付く事は無く、ここ最近の遣り取りを見ていれば口実を見つけては一條が構っている風にしか見えない。
大体女慣れしている筈の男が、こうもあからさまというのは珍しい。長い付き合いでもあるがああ言う一條は初めて見る、女関係は無視という手法が多いが少なくともスマートにこなす奴だった筈だが、彼女には一体何があるというのだ。
もう事ここに至りだ、勘違いだったとしてもそうさせる一條が悪いと羽柴が息を吐けばいつの間にか鳴海が彼女の傍を歩いている。
それを見つけたのか一瞬だけ振り返った一條が瞳を細めて、見たと言うには温度の低い視線だと思えば、本当にお前はちょっとは隠せよと石でも投げたい気分になった。
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