第21話
「大体空木はですねぇ、もう全然ダメなんですよっ。ダメ、分かりますか?」
「はい、分かりますよ。皆さんの様に愛らしくはどうしても」
「もーっ、そういう所よ。分かりますっ?もちょっとねぇ、好かれる努力をねぇ?」
「相手が兎なら5分で落とす自信があるんですが」
「おっきい兎だと思って!」
大きな兎、と、小さく口の中で呟きながら、楚良は手元にあったグラスがいつの間にか透明な液体で満たされているのに気付いた。
最初はビールを飲んでいて、それを飲み干したと思っていたがいつの間にかそれが日本酒やワインになっていて、しかも表面張力で支えられるレベルで満たされている。
「毛皮成分が足りません」
「だいじょぶだいじょぶ、ほら、羽柴かちょーとか、茶色っぽいし!」
「茶色というより金ですね」
日本酒は強い物が多いし苦手なのだけれどもとそのグラスを口へと添えて、一瞬だけ部屋の中を見回した。
何故か少し前から営業と人事の女性に声を掛けられていて肩身が狭い。給湯室で挑発的に声を掛けてきた女性も少し混じっているが、そこは別段酒の席だし言いたい事があるのも理解するが、何故かひたすらに男に擦り寄って行く方法をお勧めされている。
楚良の曲解というレベルではなく、具体的に。男に奢って貰えとか、仕事でミスって見れば可愛らしいとか、何だかそういう。
「もー、今日鳴海君のでもお布団に忍びこんで、空木は!」
「良く眠っていらっしゃるし、ゆっくり寝かせてあげて下さい。普段お疲れなんですよ」
ちらりと座敷の片隅を見れば鳴海が壁に凭れて目を閉じていて、この大声で話している室内でも反応がないという事は、酔うと寝るという例に漏れず寝ているのだろう。彼とは良い上司部下の関係を築いていると自分では思っているので、そんなに過激な事はしたくない。
そもそも営業・戦略マーケティング部そして人事総務部と、クリエイティブ部の宴会部屋はそれぞれ違ったと思うのだけれども、何故かの女性達は此処に集まって楚良の相手をしているのだろうか。
ハイペースでグラスを空けている女性達が次々と潰れていて、本当に何事かと思う。
「空木ちゃんのおからだで迫ればぁ、大抵だいじょうぶですっ!」
「揉まないで下さいませんでしょうか、着崩れてしまいます」
横で空木に凭れて飲んでいた女性の裾がはだけて居るのに気付いて手を伸ばせば、後ろから他の女性に胸を捕まれた。
折角衿を閉じたのにと慌てて手で抑えれば、そのまま腰の辺りに抱きつかれる。
「皆さんお部屋に戻らないと、他の方が心配しますよ」
「いーんですっ!向こうはねぇ、水島さんの独壇場なのっ!」
「男は全員美人にしか興味ないんだぁー」
此方に来たって男は全員潰れているのだけれどもと思わざるを得ないが、楚良相手に色々と愚痴っている方が気が楽なのは少し同情する。
だから一部女性なのか、彼らも日々人間関係に悩んでいるのだなと同情的な気分にさえなる。自分なんて割と兎を吸っていれば嫌な事は全て忘れてしまえるし。
「…うーちゃんの方がなんかマシ…」
「マシ」
うーちゃんとは誰だと思ったが、流れ的に自分の事だろうか。
「外見じゃないってなんとなく希望が持てる」
「わかる…最近それすごいおもう…」
「いや、中身もちょっとどうかと自分で思うんですけれどもね。ほら、お水飲んで」
本当に腰から手を離すか凭れ掛かるのを辞めるか、膝枕へと移行しているのはこのまま彼女達は寝てしまうのではないかと危惧。
出禁になるレベルという事は暴れたり吐いたりもあるのだろうか、ちらと部屋の中へと視線を巡らせたが、先程まで営業課の綺麗所の女性達に酌をして貰っていたのもあって人手になりそうな人間は殆ど倒れ伏しているではないか。
「でも、空木がいちじょーかちょーとかを選んだらぁ、空木も顔が大事かーって思うかも」
「あー……」
「私は一條課長とどうにかなったりはしませんが、でも一條課長は顔ではないと思いますよ」
手から水を取り落としそうになったのを慌てて止めた空木が、そのコップを慎重に近くの膳へと乗せて自分のグラスを半分程一気に干した。
兎の様に膝に頭を乗せた女性の襟元を少しだけ直し、髪が絡まない様に指で解いておく。
「営業手腕は見事な物ですし、人のあしらいにも慣れていて、勿論人当たりも抜群です。服装や身だしなみにも気を遣っていらっしゃいますし、努力も惜しまない方ですし」
「あれは奇跡だよねー。ほんと奇跡、眼福」
「一條課長でなくとも、そういう方に口説かれて落ちない人は恋人がいらっしゃるとか既婚者ぐらいでしかいないでしょうし、顔だけという訳では」
わかるー、等と辺りから死にかけの声が掛かって、楚良が其方を見下ろした。本当に起きている人間がいない、と、どうしようかとばかりにきょろきょろと視線を移ろわせる。
「じゃあフリーの空木はもし口説かれたら落ちるの?」
「私には心に決めた生き物がいますし、半ば子持ちの様なものですので」
「いきもの」
何故か周りの皆の声が重なったが、今寝ているデザイン課の人間が起きていたらブレないなと笑ってくれた所だと思う。
男性の髪より女性の髪質の方が茶々に近いと思って何となく膝枕の女性を撫でていれば、速攻で寝てしまった様で軽く息を吐く。
この部屋で最後に残るのだけは嫌だと思っていたのに残っている、そんなの後片付けが決定じゃないかと残った日本酒も喉へと流し込んでおいた。
隣の席から座布団を一つ取って二つ折り、女性の頭の下へと手を入れて自分の膝と入れ替えておく。
営業の部屋の方は誰か残っているだろうか、男性と女性を雑魚寝にさせておく訳にもならないと裾を捌いて立ち上がったが、一瞬眼前が歪んだ気がして畳へと手を突いた。
これは酔っ払っている、と、自分でも気付いたが幸か不幸か誰にも目撃されていはいない。次こそちゃんと立ち上がり、上座の方で仰向けになっている羽柴を見つけてその顔を上から覗き込んだ。
「生きていますか?」
声だけ掛けて見れば、溜息の様な吐息が漏れて片方の瞳だけがぼんやりと開く。嗚呼、意識はあるのかと辺りを見れば、何の瓶か分からないが空になったそれがいくつも転がっていた。
「皆さん寝てしまったんですが、どうしたら良いのでしょうか」
「……お前残ったのか」
「私も少し危険なので部屋に戻りたいのですが。面倒を見られる方を探した方が?」
「――――……営業部屋に声かけたら戻っていい。……鳴海は」
「寝ました」
「だろうな…」
再び彼の目が閉じかかっていて、本当に眠いのかと声を掛けるのはそこまでにしておく。
営業もほぼダウンするレベルだから、クリエイティブの方は誰も残らないという中で新人一人だけ残ったというのは多分何らかの奇跡に違いない。
本当に足下が危ういが、それこそ呼吸しているかどうかぐらい見てくれる人がいた方がいいと、一人障子を開いて並べられたスリッパの一つを引っかける。
兎が居ないからと調子に乗ったのは明か、反省しなければ。
営業の部屋は奥の方だっただろうかと壁を傍に歩きながら、いつでもその場でうずくまれる様にはしておいたが、歩いている間に少しマシになってきた。
奥の座敷へと辿り着けば此方の部屋からはまだ賑やかな声が聞こえていて、邪魔にならない様にとスリッパを脱いでから一番端の障子を少しだけ開いて中をうかがう。
「お、空木か」
たまたま陰島が障子の近くの壁に凭れていた様で、顔を見せると同時に気付かれた。凄まじい煙草と酒の香りがすると思って部屋の中を見てみれば、何故か中央で裸で踊っている人達が見えたので目をそらしておく。
最近ああいうのは厳しいのではなかったのか。
「向こうの人が皆寝てしまいました…」
「マジか。お前全員潰したのか、すげえな」
「私が潰したのでは――――……」
入れ入れとばかりに手招かれて、もうすぐ戻ると言おうとしたのだがトイレだろうか外から戻ってきたらしい社員にぐいぐいと背中を押されて、座ったまま入るハメになった。
「此方はまだ凄いですね?」
「女潰してからが本番だからな」
何の、と聞くべきなんだろうか。人目を気にせずという意味なのだろうか、確かに色々と飲み会では男性社員が気を遣っていた感じはしたが、後から訴えられたりしないんだろうか。
「鴫さんは?」
「VIPをおもてなし中」
確かにこの部屋には女性の姿が少なくて、アドバイスを貰いたいと今日親しくなった年配の姿も無いと思えば陰島からそんな台詞。
嗚呼、社長達の事かと思えばこの部屋がここまで騒いでいる理由というのもわかる。報告はしたしそろそろ下がろうと腰を上げる前に、空木に気付いたらしい男性社員に誰の物かも分からないグラスを握らされた。
酌する方じゃないのかと思う前にまた液体が満たされる。
「もう飲めないのですが…」
「デザイン課の人間がまだ起きてるとか営業の名折れだろ?」
「いや、名折れって何ですか。もう足下も危ういんです」
最早ビールでも日本酒でもないし何だこれはと琥珀色の液体を見下ろしつつ、鼻を近づけてみてもすっかりとアルコールにやられてしまって洋酒の類いだとしか分からない。
「アルコール云々より物理的に入らなくなりましてですね」
営業部の某君だったかと記憶を掘り起こしながら、誰だったかと思っている時点で自分もかなり怪しいのではないかと思い至る。
思考が散っている事自体がもう酔っ払いですと言っている様なものだが、今から彼らを振り払って立ち上がって部屋へと帰るのは可能なのだろうかとぼんやりと思った。
そのぼんやりとしたまま、グラスへと唇を当ててとりあえずその中身を傾けておく。すり切りじゃないだけ親切なのだろうか。
「ではお返しに、どうぞ。大丈夫ですよ同じだけ注ぎますから」
「え、俺?――――…マジで」
まさか返杯なんて差し出されると思って居なかったのか、反射的に受け取ったその青年が同じだけ注がれたグラスを思わずという風に見下ろし、陰島が何がツボに入ったのか手を叩いて笑っている。
「まあ、兎も居ないんだ。好きに飲めよ」
「兎がいないとか思い知らせないで下さいませんか。悲しくなってきました」
「そうか飲め飲め。向こうの部屋を片付ける時には一緒に連れてってやるからな」
よしよしと誰かに頭を撫でられたが最早誰なのか分からない。そもそも営業ならば顔に覚えはあるが、人事や総務の社員はちらりと見た程度である。
これは自棄酒になるんでしょうかと思った楚良が、グラスを一気に飲み干した青年が口元を抑えるのを何となく見やりつつ、その手元からグラスを受け取った。
「向こうで余り飲まなかったのか?」
「そういう訳では…。向こうにも営業の女性が何人か遊びに来て下さっていて、…早々に向こうの部屋の皆が潰されていたのは確かですが」
「あー、そういや早々に何人か引っ込んでたな。こっちじゃ色々派閥があるみたいだしな」
派閥、等と聞けばやはり苦労をされているんだな等と眠りこけていた女性達に思う。ハイペースでグラスを遣り取りしていた男性社員が何故か二人に増えていると思ったのは、酒による幻覚ではなくいつの間にか楚良を潰そうとしている人間が実際増えているだけだ。
「まあ、そういう奴は早々に一條が潰しちまうんだが」
「えっ」
「ま、今日は正しく無礼講だから。派閥だなんだは野暮だろ?」
「一條課長は凄いんですね…」
「課長に笑顔で酌されたら断る女なんていないよな」
まぁそうですがと楚良が呟きながら、陰島なのか周りの社員なのかが適当に話だす言葉を聞きつつまた手元に返ってきたグラスを見下ろした。何度飲んでもきっちり半分程満たされていて、流石に気持ち悪くなってきたと軽く頭を振る。
「二人がかりは卑怯じゃありませんか?」
「うっちー向こうの部屋全部潰してきたんだろ?」
「向こうは全員自滅しただけで私の手柄では」
うっちーって誰だと思いながら仕方なくその琥珀の液体に口を当て、酔いも確かだがそれというより胃がいっぱいで入ってこない。
これは明日二日酔いは決定だろうが、今日は吐かずにいられるんだろうかと思いながらも傾いたグラスに陰島が肩を竦めた。
「空木に飲ませるのも楽しいが、お前ら後ろを確認しとけよ」
手の中から唇に当てていた筈のグラスが消えて、これはグラスを落としたのだろうかと胸元から膝の方へと指を滑らせてみたが濡れた感触が無い。
何故と考えるのは完全に思考回路が鈍っているからで、横に座っていた二人が同時に後ろを振り返れば一瞬身を竦ませた様だった。
「流石に羽目を外しすぎだよ。覚束なくなるまで飲ませるなんて」
聞き慣れた声より少しだけ低い、それは酒のせいだろうかと楚良が首を傾げている間に、二人の後ろに立っていた一條が彼女の手の中にグラスを戻す。
その中身はすっかりと彼の腹の内か、重みの欠片もなく液体は消えていた。
「あっちで飲んでたんじゃないのかよ、見つかる前に空木が潰れるかと思ってたんだが」
「部屋に入ってきた時から確認してたよ。そろそろデザ課は潰れる頃だしね」
このグラスはどうするべきかと楚良が手元をじっと見つめて居るのに気付いたのか、一條がその隣へと腰を下ろしつつ陰島の膳から勝手に焼酎用の水差しを取る。
「一條課長が見る目がないっていうからちょっと確認してたんですよ」
大丈夫かと一條に声を掛けられたが、大丈夫ですと静かに頷く。グラスへと氷の入った水が注がれれば、一応匂いを確認してから楚良がそれを唇へと当てた。
「お酒飲ませたって分からないよね?」
「や…、あ、ほらあれですよ、こんだけ飲んでるのに凄い姿勢いいなって」
「絶対育ちいいタイプだよなお前」
明らかに咎めるという程では無いが、場合が場合だけにそう聞こえるのは仕方が無いのか。また陰島が笑みを噛み殺していて、この人は絶対笑い上戸だと楚良は思った傍らで、どうやら褒められているらしいと少し遅れて気付いた。
「鴫さんとかとも仲良いし、もしかしておばあちゃんっ子?」
「そうですね。父が遠方で、母が他界してからは、祖父母の所に暫くいましたので」
酒のせいで口が軽くなっていると言わざるを得ない、彼女から両親の話が漏れれば一瞬だけ一條が瞳を細め、しかしあの名は漏れなかった。
母親が死んでいると聞けば流石に気まずいのか、ごめん、と二人の口から同時に漏れる。
「本当に営業職が不用意にプライベートに踏み込んじゃダメだよ」
自分が疑問に思いながらも不躾だろうかと思っていた質問を、あっさりと酒の席だと言うので看破してしまわれた事に多少の気落ちさえ感じて、一條が深く溜息を吐いた。
さして弱い方ではないと自分で言っていたが、今の彼女は目元も赤いし思考も鈍い様に思える。
「お前ら、報連相にメールだとかメモだとか証拠が残るものを使いたがるタイプは金持ちだからキープしとけよ」
「え、マジっすか。お前金持ちなの」
本当にプライベートに踏み込むなと言ったばかりなのに、陰島の余計な一言で若い男が食い付いた。
「空木さん、答えなくて良いよ」
一瞬言葉に詰まったのかグラスで口元を覆い隠した楚良に、さらに詰め寄ろうとした自部署の若い男を視線で制して、一條が言葉を掛ければ楚良の瞳が一度伏せた。
余程頭が動いていないのか、常ならばさらりと流すぐらいはするだろうが珍しく沈黙で返しているのが何よりの証拠だ。
「部屋まで送ってくる。――――まさか引き留めるなんて言わないよね?」
いつしか楚良の指先がグラスを手放していて、その手が眠たげに目元を擦っていた。グラスの中身は干しているのかその辺は濡れていたりはしなかったが、多分置いたという記憶もないだろう、グラスは横たわっている。
「お前がか?」
「他に居ないでしょ」
「そういう態度は水島にも見せてやりゃ良かったじゃねえか。二人きりになるのは不味い、ってんじゃなかったのか?」
立って、と彼女を促してみれば一人で大丈夫ですなんて言っていたが、手を借りないと立ち上がれない程度には大丈夫ではない。
陰島が手を貸す一條を見上げて、酒を口に運びながら問いかけた。
「相手からのアプローチの有無ぐらい弁えてるよ。それに、彼女に何かあるとChevalierから切られるんだろうしね」
やはり二人相手に飲み比べまがいの事をしていたのが致命的だったのか、楚良の様子の方が陰島との会話よりは心配になる。
余り前回の飲み会では飲まなかったが、兎がいなくて寂しいのかそれとも、刀司伽藍に会ってしまったからなのか。一條にはそのどちらも当てはまっている様な気がした。
「ま、座り込んだ時にどうにか出来るのはお前だけだって思っておいてやるよ」
「陰島までそういう想像してたら可哀想だよ」
絶対に楽しんでいると確信したその既婚者に溜息で返しながら、障子を横へと滑らせた楚良が覚束ないままで一段下がった廊下へと下り、スリッパを引っかけようとしているのが視界の端。
本当に変な噂になるのは彼女の警戒心を高めるだけだが、今の彼女を他の誰かに任せたくないのは事実で。
後ろ手に閉じた障子の音がぱたりと響く。人気の無い廊下で一條を振り返った楚良が、にこりと兎を見る様に微笑んだ。
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