第22話

「相当飲んでるみたいだけど大丈夫?」

「羽柴課長が新人はどの程度で潰れるか調べなきゃいけないから飲むものだと」

「予想通りだけどそんな慣習無いからね」


 廊下の壁へと手をついてスリッパに何とか足を差し入れた楚良へと一條が声をかければ、見上げた楚良がそんな馬鹿なと呟いていた。

 少し考えれば、命の危険もある様な飲み方を推奨している会社など無いという事は分かろうものなのだが。


「羽柴課長も眠ってしまっていて…」

「後で営業が回収するから大丈夫だよ。でも本当にデザ課がこの時間まで残るって珍しいから、僕の部下が面白がっちゃってごめんね」

「…どこから見ていたんですか」

 少し憮然とした表情になったのも、いつもの彼女とはかけ離れている。目元の赤さが熱を帯びている様にも見えて、暗い廊下ではその色も普段とは違い過ぎた。


「二階の端だったよね?誰か戻ってると良いんだけど」

「――――…部屋には戻れます、一人で大丈夫です」


 本当にどれだけ飲んだのだろうかと彼女に声をかけ、その背中に触れれば足が前に出る。口では一人で等と言っている彼女は、千鳥足とまでは行かなくともその動きがかなり危うい。

 少なくとも部屋に入ってきた時は此処まで酔っていなかった様だから油断していた、短時間の間にまた瓶1本分ぐらいは空になっていたのを考えれば、こうなるだろうか。

 楚良の前に2人が座っていた事に嫌な予感はしたし、多分陰島も止めないだろうという事はその人となりを知っていれば良く理解は出来ていたので。


「気持ち悪かったりはしない?」

「アルコールは平気ですがお腹がはち切れそうです」

「歩いて平気?」

「一人で大丈夫ですよ」


 本当に会話が噛み合わないと思いながらエレベーターの方へと向かっていれば、運良くなのか運悪くなのかトイレの方から戻って来た数人の社員に鉢合わせた。


 二人の様子に珍しそうに目を向けられたがあえては触れず、クリエイティブ部の部屋を一度覗いておく様に頼んでおく。

 毎回こうなるのは会社としては問題なのだろうが、寧ろ社員達にはこの騒乱こそ楽しみだという者も少なくない。大手としてはもう少し控えめにして欲しいとも思う反面、一條にも普段聞けない話が聞けたという思いもある。

 余り飲み過ぎない様にとか、吐いている社員がいないならそのままにしておいて構わない等言っているその合間に、彼女が傍を離れて足が階段の方へと向いていた。


「空木さん、エレベーター使おうね」

「下りる方なので…大丈夫ですよ?」

 まだ歩き出そうとしている彼女の手ではなく、腰へと手を伸ばして絡める様に引き寄せれば、大した抵抗もなく小柄が身体へと寄ってその熱さに眉を顰める。


 もう一度大丈夫かと聞こうとした一條がその顔を見下ろせば、彼女が笑って見上げていた。彼女が兎に向ける様な柔らかな笑みを至近距離で目にしてしまい、思わず次の言葉を忘れて。


「どうか、した?」


 少なくとも、今まで触れる様な近さの上に自分がこんな顔を向けられた事は等と思って声を掛ければ、何が疑問かとでも言う風に彼女が首を傾げた。

 珍しく上げて居る黒髪が、髪留めから零れている。


「本当に格好いいお顔で羨ましいです。一條さんはやっぱりダッチだったんですね、素敵です」

 告げられた言葉にダッチというのは誰だではなく、どの兎だと思ったのは正しいだろうし、彼女との生活に毒されている。


 小さな音を立ててエレベーターが開いた瞬間、その小柄にぐいと押されてその近さに蹈鞴を踏む。

 押しつけられた身体とエレベーターの狭い箱の中と。頼むから誰かに見られる前にと目的の階を押して、扉が閉じた音に軽く安堵の息を吐いた瞬間に彼女の手が頭の方へと伸びる。


「空木さん、しっかりして」

「しっかりしています。これだけ大きいと一緒に寝ても潰す心配はありませんし、きっと身体も丈夫です。もしかしたら夏に水遊びも出来るかもしれません」

 わしわしと彼女の両手が頭を撫でていて、完全に兎扱いだという事が分かった。上げた腕から袖が落ちて細い腕が露わになっているし、和装では色々見えると思えば両手を取って一條が楚良の手を下ろす。


「空木さん、家じゃないから辞めようか…」

「ダッチの毛並みにしては固いです…食生活が悪いんでしょうか」

「僕は兎じゃないからね」


 さして建物の高さがない旅館では直ぐに目的の階へと辿り着いて、静かにエレベーターの扉が開いた。


 抵抗もなく身を寄せている姿を誰にも見せたくないし、自分もこれ以上色々と不味いと手を引いてみれば、毛の状態は健康状態を映す鏡だとぶつぶつ言いながらも大人しくついてくる。一番奥の部屋だったかとその部屋の戸をノックして待ってみても中から返事はないし、人の気配さえ感じられない。

 何人かで一緒に使っている部屋だから誰が鍵を持っているのかまでは、一條の把握の外だ。


「一條さん」

「ん?どうしたの?気持ち悪くなってきた?」

「毛並みが悪いのでうちでお預かりしても構わないでしょうか」

「僕は人間だからこの毛質で大丈夫だよ」


 完全に会話が意味さえ成さなくなってきたと溜息を吐けば、彼女が眉を寄せて難しい顔で見上げ、さらに不本意な顔をされている。

 せめてどこか座れる場所をと思い、エレベーターホールにあった窓の傍に椅子があったのを思い出した。


「うちで暮らすのは嫌でしょうか。何が足りませんか?」


 彼女に真剣に同居を申し出られて、じゃあそうしようかとこの言葉を録音でもしておきたい。手を引いても動き出さない彼女は無意味な説得を試みようと思っているのか、無駄だという意味も込めてその身体を許可も取らずに横抱きにした。


「こんな大きな兎と一緒に暮らすのは大変だと思うけどね」

「言葉が通じれば大丈夫です」

「茶々ちゃんなら毎日会社に行かないでって言うだろうし、僕が兎なら他の人間に会わないでって言うかな。絵も描かないでずっと撫でてって言われたらどうするの?」


 問いかけて見れば腕の中に大人しく収まっているらしい彼女が黙り込んだ。それこそ相手が彼女でなければ、一條の方が何を言っているんだと冷めた目で見られる事案である。


「……意地悪ばかりを言う」

「兎はそういうものでしょ。君が一番分かって居る筈だけど」

「何を言われても可愛いいので許します。兎は何をしても悪戯をしても嫉妬をしていても全部良いものです」

 彼女の手がまたわさわさと空中を撫でていて、酒が入った事による兎の禁断症状だという事にしておきたい。


 エレベーターホールには誰もおらずに二人がけのソファが一つ窓の傍に置かれていた。

 座らせるか寝かせるか迷ったが、大量に酒を入れているのなら横にするのも危険かと、肘掛けに凭れかける様な姿勢で座らせておく。


「鍵は誰が持ってるか分かる?」

「……羽柴課長が…無くすといけないからと集めていた気が」

「君達の危機管理能力が心配になるんだけど。次からは空木さんが集めておいてね」

 本当に一番に潰れるとは言わないが、割と早い時間に潰れるタイプではなかったのかあの男はと、軽い頭痛を覚えつつ袂のスマホを取り出して件の男の番号を探す。


「空木さんちゃんと座ってて」

「いえ、鍵を――――、取りに」

「誰かに持ってきて貰うから大人しくして」


 酔うと寝ると言っていたが色々な酒をミックスして悪酔いしているらしいのが視界の端、立ち上がった彼女の細い腰を捕まえながら、コールを始めたスマホを耳へと当てた。

 最早案の定というレベルで、鳴らしても鳴らしても出ない。仕方なく陰島の番号を鳴らせば、本人ではなく若い部下の声がした。


「飲んでるところ悪いんだけど、誰か205号室の鍵、羽柴の所から持ってきてくれないかな。それとあっちの部屋もそろそろ起こして部屋に帰しといて、これ以上は不味いと思うから」

 自分が急いで取りに行きたい所だが、彼女を一人残していけばまともに歩けさえしないのに、ふらふらと階段の方へ行きかねない。抱き上げて連れて行くというのも考えたが、多分確実にそれは誰かに見られる。


 ここに至ったらもう開き直るかと過ぎるが、当の羽柴が起きると一番面倒臭い。


「チモシーの香りがしません…普段一体何を食べさせられているのですか」

 スマホの画面を親指で探り、通話を切った瞬間まるで開いた隙間を埋める様に、背伸びをした彼女が首筋に顔を埋めようとしていて完全に凝固する。

 黒い髪が胸元に触れるか触れないかの距離、上向いた彼女の顔が近くて。


 酔っ払いを相手にするのは馬鹿だし、それに煽られるなんて今まで無かった。酔いを口実に近付いて来る女性は多々いたが、全て事も無く距離を取ってきた筈なのに。

 兎扱いされて見上げられているだけだというのに、腰に回した腕さえ放せない。


「――――……くち、はダメですよ」

 もう酔いでも何でもいいからとその唇に自分のそれで触れようとしたが、楚良が手の甲で自分の唇を覆う。

 掌にキスをする形になった一條が溜息、しかし一度火の付いた衝動は簡単に消えてくれないのは自分が一番よく分かっていた。


「単純ヘルペスウイルス1型の検査は陰性でしたが――――」

 腰に回していた手で口を覆う指先を取り、もう片方の手で彼女の項へと触れる。

「嫌なら逃げていいから」


 上向かせただけでは足りない、屈んだだけでもまだ足りない。逃げろと言いながら逃がさない様に強引に引き寄せて触れた唇は、何か小さな彼女の声が細く響いて直ぐに一條の喉の奥へと消えた。


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