第23話
ごろ、と、寝返りを打った瞬間に凄まじい頭痛が後頭部から米神の辺りまでを走り抜けて、思わず楚良が両手で頭を抑えて枕へと顔を埋める。
此処まで頭が痛いなんてきっと割れてしまったのではないかと暫く考えていたが、いつも眠っている場所とは全く違う場所に二度瞬く。
此処は何処だったかと思ったのは数秒の事で、直ぐに旅館の一室だと気付いた。記憶を辿っても帰ってきた覚えはないが、確かに女性社員の相部屋で何人かの社員が眠っている。
夜目が利く訳ではないが常夜灯が灯っていて、時計を、と思って辺りを見回せば枕元に自分のらしきスマートフォンが置いてあった。
明かりが他の人の顔に向かない様に注意して時間を確かめれば夜明け前、痛む頭を抑えつつ着替えの入ったバッグの方へと足音を潜めて近寄る。
昨夜は営業部の飲んでいる部屋に行った辺りからの記憶が曖昧で、あの後どうなったかの覚えがない。クリエイティブ部の部屋の惨状を伝えに行こうという自分の意思だけははっきりしていたが、部屋に帰っているという事は誰かの手を煩わせたのだろうか。
余計な事などを喋って居なければ良いし、父親の事は酔っていても口にはしないとは思うが、どうだか分からない。何だか早く家に帰りたい等と思っていたことは確かだが。
風呂は24時間だと確認しているから混む前に入ってしまおうと手早く荷物を詰めて、時間的に絵も描けるだろうかとスケッチブックと色鉛筆も詰め込んだ。先程見た時間が四時丁度ぐらいでまだ朝も遠く、旅館の中も人の気配はあってもしんと静まりかえっている。
頭痛は酷いがこの雰囲気は好きだし、何より皺の寄った浴衣を早く着替えてしまいたい程であったので誰にも会わないのは気が楽だ。
羽織を上から羽織っているからといっても、寝起きの顔も含めて見られたものではない。
最近湯の中に浸かる機会が増えたと思いつつ時間をかけて身体を湯に慣らす。指先がふやける頃には酷かった頭痛も消えて、上がる頃には身体の不快感も無くなった。
もう浴衣を着るのは辞めようと着替えを出して洋服を身に纏い、濡れた髪はまたひとまとめに上へと上げておく。スタンドカラーのレトロな白いブラウスにウエストが絞られたAラインのスカートも例に漏れず一條が選んだ。
自分ならこんな腰が強調される様な衣服は選ばないが、身体に沿う割に素材がいいのか締め付けられている様な感覚もない。
自分にはこういうセンスの良い衣服は似合わないと思っていたが、秋に合わせて色味を抑えた組み合わせは大人びても見える。自分は4月入社の社員よりも若いから、あまり子供じみて見えないブランドを選んでくれたんだろうと思った。
フロント近くの少し広くなった場所に椅子やらテーブルやらが置かれていて、夜勤の従業員だろうか、一人だけ立って居た男に許可を取ってから窓の方へと向けて置かれていたソファへと座る。
窓の外には黄色の大きな銀杏が鎮座していて、風もないのに葉が落ちて地面へと積もっていた。きっとこの景色は数日後には無くなってしまうと思えば、無性に描かなければならない気がする。
本当ならこんな秋も終わりの寒ささえ感じる気温は兎が好きだろうし、広い場所で遊びたいのにも違い無い。次は絶対に一人で楽しんだりはしないのにと、家に残してきた茶々が惜しくなった。
いや銀杏は兎には良くない。しかし絵にはなる、と葛藤しながら絵を描いていれば自然とその木の根元に兎が二匹溶け込む様に寄り添って描かれる。完全に趣味の入った絵だが仕事でもないし良かろうと好き勝手に手を動かしていれば、いつの間にか辺りが明るくなっていた。
「空木、もう起きてたのか?」
不意の声、それがどこからか確認するまでもなく後ろからの声だと気付いた楚良が振り返れば、ソファの背もたれへと腕を引っかけて手元を覗き込む男の姿が目に入る。
髪もぐちゃぐちゃだし、襟元も緩んでいるし、自分の課長である羽柴にもうすこし身だしなみに気をつければ等と言おうとした口は、しかし諦めた様に息を吐いた。
「おはようございます。起きたら部屋で最後の記憶が無いのですが何かご存じですか?」
「お前もそういう事あるんだな。大抵みんな覚えてないから気にするな」
「いえ、きっと誰かに運んで頂いたので気にしない訳には…」
起きたら部屋でしたというのは彼にしてみれば大したことがないのかと驚きの意見を頂いたが、自分にしてみればそれで終わらせられる問題でもない。
最後の記憶は陰島と営業社員2人との飲み比べだったから、陰島なんだろうか。それとも一緒に飲んでいた2人のうちの誰かなんだろうか。
「昨日専務にお前を一條に貸してやれとか言われたんだが」
「まさか売ったんじゃないですよね?」
本当に誰だったのだろうかと思っていたが答えは帰ってこず、代わりという様に別の話題を提供されて思わず楚良が眉を潜める。
「空木は今の仕事が好きな訳で、出来るからって営業に飛ばすなとは言った」
「何でそんな話になったんですか。私はデザイン制作の仕事が出来なければこの会社に未練もありませんよ」
「人間関係が惜しいとか思わないのか」
「私を売る上司のいる職場なんてご免です」
お前冷たいな等と突っ込まれたが実際そうだ。ソファの後ろから前へと回り込んだ男が彼女の隣へと場所を移して腰を下ろせば、本当に衿も裾も緩みっぱなしである事が分かった。
「私が人と関わる仕事をするなんて正直考えたくないレベルですね」
全くとでも言いたげな彼女が一息で言い切れば、理解したと羽柴が答える。ソファの背もたれへと身体を預けている男が、長く深く息を吐いた。
「流石にやっと捕まえた新人を放流する様な馬鹿はしない。…それよりお前、随分営業の方と親しくなってたじゃないか」
「昨日一緒に飲んでた方々は、写真を撮りに行くときに一緒に行くと言って下さったのでそれからですかね」
羽柴の情報というのは飲み比べをしていた所ではなく、クリエイティブ部の方で一緒に飲んでいた所だろうと思えば、あの女性社員達との事だろう。
少し前まではそれこそ水島の取り巻きと一緒に詰られたり睨まれたりもしたから、羽柴にも気を遣わせたのだろうか。
「あいつらとも行ったのか」
「レンタカーの手配をしている時に是非一緒にと。私が只管写真を撮っていて一條課長が暇そうでしたので寧ろ助かりましたね」
ふーん等と興味があるのか無いのか楚良からは分からなかったが、羽柴から言わせれば何が何でも二人きりを阻止したい彼女らの瞳に、全くその気のない楚良が映って安心したとかそういう事ではないか。
それか、本気で全く男に興味がない様子に、楚良が噂の様な人物ではなかった事を察して心を入れ替えたのか。どちらにしてもイメージと違ったというのは間違い無いだろう。
「一條はお前の申し出に迷惑そうにしてたか?」
「表情に出る人ではないので分かりません。寧ろ羽柴課長は一條課長と親しいですし、お前の部下が鬱陶しい等と言う話は聞いていないのですか?」
二人きりになればサチと茶々の話しかせず、仕事の話さえ控えめになるから会話は限られている。皆で写真を撮りに行った時はほぼ全てが仕事の話だったし、絵画の技法を尋ねられたから答えた様な会話で、手がかりもない。
「そういう事を奴が言い出したら忌憚なく言ってやるが、聞いた事もないな。それに他人に言わせるぐらいなら自分で言うだろアイツは」
「その時はお願いします。私がもう少し察しが良ければ良かったのですが、どうしてこんな鈍感を営業部になんて話になったのか分かりませんね」
珍しく気落ちした風な顔を見せた彼女だったが、絵の完成が近いのか色鉛筆の先が細かい部分を埋める様に動いている。
彼女が入ってきてからの時間は短いとは言え、色々と彼女について羽柴も理解できてきたと思う。彼女は派手に表に立ったり、作品に自分の名を付ける様な真似を好むデザイナーではなく、どちらかというと人の裏で静かに動くタイプだ。
名を出すのも拒む傾向にあって、Chevalierの仕事が最初の仕事というのは些か酷だったのが羽柴にも分かる。本当にあのスタイルを他の仕事にも適応して彼女に押しつけようものなら、問答無用で辞表を投げつけられるのに違いない。
「なんだかですね…」
その彼女がこれで良いと色鉛筆を置いて筆箱の口を閉じつつ、溜息混じりの言葉を吐いて何がと男が目を向けた。
「昨日から様々な人に羽柴課長とか一條課長と付き合っているんだろうと言われすぎて、本当は私のドッペルゲンガーがお付き合いをしているんじゃないかとすら思ってきました」
「大丈夫だ。まだお前は兎が第一だから安心してくれ」
「早く私の家族に会いたいです」
もう人間は疲れましたと何やら人としてダメな台詞を吐いた彼女の絵に兎が書き込まれていて、それを此処に書き込むなら間違いないと羽柴が答える。
「私は交際相手を見繕いに会社に来ているんじゃないんですが。どうやったらそれが伝わるのでしょうか」
「かえって真面目すぎるんじゃないのか?」
「人の心理が全然分かりません」
いっそ男でも作ったら、等という無責任な台詞が口から零れそうになったが、何だか彼女ならそれで収まるならそうしますと快諾しそうな気がして辞めた。
彼女が目を付けられる理由は一條だし羽柴なので、諦めて欲しい。色々。
「羽柴、こんな所に居たの?スマートフォン置いたままだったからって部屋の子が心配してたよ」
詫びるべきかなと羽柴が口を開こうとした瞬間、再び後ろからの声。話に集中しすぎていたと怠げに羽柴が背もたれへと頭を預ける様に後ろを向き、楚良は横向きに顔を向けた。
「ひとっ風呂浴びようと思ってた所に空木を見つけてな」
「そんな所じゃないかと思ったよ。描いてたの?」
「少し早くに目が覚めたので、描きたい物を描いておこうと思いました」
夜と朝の合間の様な景色が落ち葉に光を落とす様子が、兎と共に描かれている色鉛筆で丁寧に描かれた絵へと後ろから一條が手を伸ばした。
色と紙の縁を指が一度なぞって、直ぐに離れる。
「綺麗だね」
「有り難う御座います。部屋の中から見るとまた違いますね」
指が汚れまいかと思ったが一瞬の事であったので楚良も拒否はせず、触れるがままにしている様だ。
指を引いた一條がソファの背もたれへと腕をつき、二人を見下ろせば何だと羽柴が目を細める。
「二人とも二日酔いは大丈夫?」
「クソ頭が痛い」
「私はもう抜けました」
楚良が頭へと手を置いてみるが、寝起きのあの酷い痛みは無くなっていた。やはり温泉というものはいいと思っていたが、一條の視線が自分の方へと向いたまま逸らされないので、何かと首を傾げた。
「空木さん、昨日の記憶ある?」
相当飲んでいた事は間違いないなと自分で思っていたが、問いかけられた言葉に楚良が首を傾げたまま二度瞬いた。
「私、何か大虎しましたか?……実は、陰島主任の傍で他の方と一緒に飲んでいた辺りから記憶がありません。気付いたら寝ていました」
「お前帰れって言ってからまだ飲んだのか」
「色々と流れがありまして…」
そうですと彼女が頷いているのを見れば本気かよと信じられない気分になる。羽柴も彼女より先に眠った口だが、楚良のペースも相当なものだったし周りに飲ませて自分が飲んでいないという風でもなかった。
一瞬起きた記憶も曖昧で、あの時に彼女に付いて行けば良かったのではと思わないでもないが、立ち上がる事さえ困難な程は飲んでいたから。
「暫く飲んでたみたいだけど今にも寝そうだったから、僕が部屋に連れて行っておいたよ」
「――――――――………」
一條の口から一瞬だけ溜息が漏れて、余程の迷惑を掛けたのではないかと楚良が絶望的な顔で頭を下げた。
「いや、そんな泣きそうな顔しないで。他の皆も似た様なものだったから、気にしなくていいから」
「いえ…いえ、本当にすみません。まだ、…大丈夫だと思って…飲んだのがいけなかったんです」
だから気をつけてね等と注意を促そうと思ったが、余りにも絶望的な顔をしていたので思わず口から零れたのは気遣う様な方向だった。
どちらかというと一條にも彼女に謝っても足りない事をした自覚がある。彼女と違ってはっきりと覚えている程度には酔いのせいには出来ない。
「僕の部下が無理矢理飲ませた様なものだったし、羽柴みたいに吐いてもないし暴れてもないから。ぐっすり眠ってただけだよ」
「お前、さらっと俺の不始末を暴露しないでくれないか」
マジか、等と此方も記憶のないらしい羽柴は放っておく。
あの後、エレベーターホールで気を失う様に眠ってしまった彼女は、鍵を持ってきた部下と一緒に部屋へと運んで寝かせておいた。気を失わせたのは飽きることなく吐息を貪っていた一條だ、それこそエレベーターが開く音に我に返らなかったら何をしたか分からない。
その後、クリエイティブ部の始末を付けようと思って宴会部屋に行ったら起こした羽柴の機嫌が最悪でえらく絡まれたし、部屋のトイレを占領されたとかいう悲しい報告も聞いたので反省してもらいたい。
「一條課長に迷惑をお掛けしたなんて本当に…。もう禁酒します、会社では飲みません。申し訳ありませんでした」
楚良には本当にショックな事で、ただでさえ変な噂を立てられている所なのに近付きたくもないだろうと思えば、本気でショックだった。泣きたい気分にさえなる。
「そこまで謝られる事じゃないよ。――――ただ、飲むときは絶対男と二人にならない様にね。眠っちゃうなら危ないから」
「本当に気をつけます…」
目に見えてしゅんとしている彼女はよっぽど後悔が大きいのだろうが、一條に言わせれば彼女の昨日のあの様子を他の男の前で出さないでくれればそれでいい。
一瞬で食われかねないし、彼女の異性に対する普段の様子を知らなければ、誘われていると思うだろうし変な噂にもなるだろう。以前の自分だったら彼女が男好きだなんて噂を軽く信じた所だ。
理性を切ってしまった事は一條としても猛省したい。
「まあ、一條もこう言ってる事だし禁酒は辞めとけ」
「羽柴は反省して」
「――――!?」
軽く声を掛けた羽柴に一條は容赦なく声を掛けて、何で俺だけとばかりに言葉を失ったが、彼女の限界を見る等と言う嘘を吹き込んで飲ませたらしい事は忘れていない。
「空木さん、お風呂上がりなら一度部屋に戻った方がいいよ。濡れた髪だと此処は寒いし」
「一応の完成を見たので戻ります。一條さんはお風呂には?」
「宴会がお開きになった後に一度入ったよ」
実際はあの後余り眠れなかったのもあって頭を落ち着ける為に入った、とは勿論彼女本人に告げる訳にはいかない。
スケッチブックを片手に抱えて立ち上がった楚良が、羽柴が伸ばした腕に気付いたのか手をさしのべるのを視界の端。
「羽柴も着替えた方がいいと思うよ」
「もう一眠りしたいんだが…」
無理矢理立ち上がった羽柴に一瞬蹈鞴を踏みそうになった楚良が踏みとどまり、直ぐにその手が離れる。ソファを回り込んだ楚良が一條の隣に立つのを何となく見やっていた羽柴が、浴衣ではなく私服姿の二人に僅かだけ眉を寄せた。
「なあ、空木」
「……はい?」
問いかける様にその名前を呼べば濡れた髪へと手を伸ばそうとしていた一條が、その直前で手を下ろして楚良と同時に其方を向いた。
「いや、気にはなってたんだが。昨日からの服はお前の趣味か?」
立ち上がれば本当に女性らしい裾の出る服で、彼女の趣味とは少し乖離がある。普段会社に来る時の姿と言えば学生と言っても通用する様なラフな格好で、こう言う大人びた形は選ばなかった筈だと。
「旅行に行くと言ったらこれを勧められたんです」
「誰に」
「店員さんにです。何かおかしかったですか?」
さしもの楚良も一條課長が選びましたなんてそのままを伝える訳にもいかず、一度自分の服を見下ろしてからまた瞳を上げる。
似合っていないという方向だろうかと思うが、致命的にちぐはぐだという訳ではないというのは楚良も納得して購入したものであったのに、何かおかしいだろうか。
「お前の好みじゃないだろ、その服。積極的に選んだとは思えなくてな?」
「手触りが一番好みだったんです。フィットしても動きにくくありませんし」
何故そこまで拘るのだろうかと楚良が本気で考えながら、するりとブラウスの袖を撫でてみる。相変わらず指先に優しいと思いながら首を傾げれば、は、と深く隣から溜息が聞こえた。
そう、これを選んだ男の方からである。
「羽柴は勘ぐりすぎ」
「勘ぐる?何がでしょうか?」
「何の意味もなく勘ぐってる訳じゃない」
二人の視線が合えば羽柴は不審そうにしているし、一條はそれに対して涼しげな顔のまま。一体何がと二人を交互に見つめた楚良がその合間で首を傾げる。
「お前の来てる服は一條の愛用ブランドのレディースだろ。まさに今そいつが着てる奴と同一シリーズだぞ」
え、と彼女が一度自分の服を見下ろしてから一條の方へと瞳を向ければ、その男は事も無げに肩を竦めた。
「偶然だよ。知ってたら勧めたけどね、素材は言う通りに良いところだから」
この人はまたいけしゃあしゃあと、とでも言いたげな楚良だったが羽柴の前でそんな問題発言を突っ込むわけにはいかない。
そんな他人が見て分かる様な共通点、知っていれば絶対に作らなかったのに。
「服を贈るなんて流石にただの同僚だって関係じゃないからな」
「私のカード明細でも見ますか?悲しい事に結構なお値段でした!」
羽柴と楚良の遣り取りを見ながら本当にめざといなと一條が関心している事など、二人は露とも思わない。残念ながら楚良との関係は確かに会社の同僚だけではないが、兎の付属品の上に彼女の言う通り服を贈らせても貰えなかった。
ハイブランドとまではいかないが、上質なものを使っているのは否定しない。値段を見た彼女がならこれでと頷いたのは、正直一條にも予想外だった。社会人一年目で一瞬の躊躇もなく選べる様な値段ではなかったので、それを口実に贈るつもりもあったのだけれど。
「大体、私は旅行未経験だと言ったのに、羽柴課長が人前に出ても恥ずかしくない格好としか言わないのが悪いんじゃないですか」
「本当に羽柴の言葉不足が原因だよね」
「お前に言われる筋合いも無いんだが!会社じゃ見ないタイプの服を着ていて、それが近くの人間と一緒なんて誰でも疑うだろ!?まさかお前は下着まで店員に選ばせたんじゃないだろうな?」
「そこまで恥知らずじゃありません」
流石にそこまで一條には任せられないとか言うのは兎も角。一條もそんなデザイナー達の集う場所でそんな危険な真似をしなくていいのにと視線を向ければ、いつもの様な穏やかな微笑を向けられたのでまた目をそらしておいた。
女性服のブランドをチェックしていなかった自分が悪いという事にしよう、いや、任せきりだったのも含めて。
「お前なんて俺のアドバイスは絶対聞かないだろ」
「課長は露出とかボディラインについてしか言及しなさそうなのでお断りです」
「服を選んだ店員だって充分お前のソレが好きな奴だと思うがな」
そうでしょうかとばかり自分の身体を見下ろした楚良が、服のぴったり沿った胸元あたりを見つめて息を吐く。
自分が着ないタイプの服だというのには同意するが、そこまで言われる様な内容ではないし、似合っていないという訳でもないと思った。
「羽柴課長はこういう服が好きなんですか?」
「もう少し裾は短くていいし、肩は出してもいい」
「川に落ちて死んで下さい」
一度彼女の全身へと目を滑らせた男が躊躇もなく言葉を紡ぐのに、楚良が辛辣な言葉を吐き出して羽柴から一歩離れた。
「聞いたのはお前だろ」
「流石にセクシャルな要望を本人に直接言うのはどうかと思うよ」
何だかんだ楚良はそういうのを気にしないのだろうが、充分セクハラになり得るとは羽柴も分かって居るのだろうか。
楚良を正しく理解しているからこその言葉は、常通りとは言えど聞いている一條にしては面白くはない。話の切っ掛けが自分のせいだとしても。
「これから服飾もちゃんとチェックしておきます。…上だけでも替えておきます」
「誰が見ても分かる有名ブランドじゃない、だから気になったんだ。本当に関係ないならいい」
溜息を吐いた羽柴に、彼女はまだ微妙なままでその姿を見下ろしている。
「僕は別に気にしないけど、君がどうしても嫌だというなら僕の方が着替えるから、言って」
また他人にとやかく言われるのではないだろうかと彼女は考えているのではと思ったが、羽柴が何かフォローを入れる前に既に一條が声を掛けていた。
告げられた言葉に楚良が一條の方へと向いて、そしてどうしようかと言わんばかりに一瞬の間を置いたがやがて首を左右に振る。
「私は別にもう何を言われても構わないし、一條課長は人に相対するプロなのですから、それで良いというなら良いです。私が色々噂になりたくないと考えて動いても僅かの対策にもならないのだと分かりました」
完全に自分ではもうどうしようもないと判じてしまったのか、投げ遣りとも言える様な台詞が漏れた。
「いや、お前も嫌なら嫌だって言っていいぞ」
「嫌ではありません。私は仕事に影響が出なければ良いです」
本当に気にしないのか、それとも彼女が何か一條に関して弱味とかそういうものを握られているのか、羽柴にはいまいち確信が持てない。
一條だって今までならそれこそ、気付いた時点で相手の許可も取らずに着替えたりもしていただろうが、彼女に関してはそれは無い。
では楚良からのポジティブな反応があるかと言えばそれもない。完全に一條の一方通行に見えるが、一條が構う様なタイプでも無かろうと思うし押しつける様な態度を取る奴でも無かったと思うのだが。
「他の方に見つかりそうなので先に部屋に戻りますね。また朝食の時に」
服は着替えませんと彼女が告げてから、二人に背中を向けた彼女が小走りに駆けていく。
確かに誰もが通るフロントの前で立ち話というのは目立つだろうかと思えば、その行動は理にかなっている。
悲しいかな効果が出ないだけなのだろうが。
「お前、空木が嫌いなのか?」
問いかけた羽柴に楚良の背中を見送っていた一條が視線を向けて、まるで駄目だという風に大仰に肩で息を吐く。
何でそんな態度を取られなきゃならんと羽柴に過ぎったが、まあ突飛な言葉だった事も否定はできないのは認めるが。
「そういう目で見るからそう思うんじゃないかな。もう少し彼女に甘くしても罰は当たらないと思うけどね」
「空木に甘くするってどういう意味だ…」
「風呂でゆっくり考えといて。彼女が可哀想だよ」
ひら、と、一條が手を振って溜息交じりのままその背中が遠ざかっていくのを見れば、がしがしと羽柴が頭を掻いた。
どういう目で見たら彼女に厳しくなると彼は言いたかったのだろうかと思うが、そもそも空木に甘くするとはどういう事だ。
こういう所が営業から弾かれた原因なのかと思いかけ、此方まで微妙な気持ちになってきたので彼が言うとおりに大人しく風呂で考えようと、朝一番から羽柴は肺を空にする様な深い溜息を吐いた。
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