第24話

 たった一泊だというのに本当に疲れた。多分飲み過ぎが原因だと思うし、何度も温泉に入ったことが原因だし、色々と心労が嵩んだのも原因にしておきたい。


 会社前でバスから降ろされて解散という形だが、何やらバスの中で羽柴が滅茶苦茶絡んできていたので余計疲れた気がする。私生活について色々と聞かれたが、余りにも破綻しすぎている為にさして楽しい話にならずに寧ろしっかり生きろと説教された。


 まともに睡眠と食事だけでもなんて言われたが、健康診断でも悪い数値を出した事はない。そして最近ちゃんと食べている、一條が来た日だけ。


 鳴海はバイクで帰るから送るかと聞いてくれたが、疲労感とかは無いのだろうか。自分なら何なら毎日家に着くまで3回ぐらい事故を起こしそうだ。きっと手段としては一番早く家に帰れるのだろうが、申し訳ないのとスカートだという事で断ったけれども、鳴海はどれだけ疲れていても、飲酒以外ではバイクで帰っているのだと珍しく私生活を明かしてくれたのでよしとする。


 解散後に会社に戻るという羽柴と一條を見送ってから自分は早々に電車に乗って家に帰る事にした。仕事もそれなりに気になるが、兎の方がより気になる。


「――――ただいま帰りました…!」

 玄関ではなく裏口から帰った主がキッチンを抜けてリビングの方へと回れば、リビングの一部を隔ているフェンスに二匹の兎が張り付いていた。

 余りにも可愛い姿だったので写真を一枚撮ってからフェンスを開けば、茶々が直ぐに楚良の足下へと擦り寄る様によってくる。


「さっちゃん、パパは少し遅くなりますよ」

 直ぐに寄ってきた茶々が膝を突いた楚良の足へと登るのを、僅かに離れた場所で見ているもう一匹の兎へと声を掛けながら手を伸ばす。

 一度辺りを見回したサチだったが、諦めた様に茶々と合わせて膝の上へと身を寄せた。


 電車の中で確認してみれば直ぐに出られなさそうだからサチを引き取りに行くのが遅くなる等と、謝罪と共にメッセージが送られていた。

 そんなに忙しい仕事はあっただろうかと羽柴にお伺いのメールは打ってみたが、それに関しての返事はない。


 二匹の毛皮に顔を埋めて大きく深呼吸をしてから膝の上から下りて貰い、小屋の掃除から始めようと荷物の片付けもせずに箒を取った。いつも徹夜明けは午前中に一度戻る様にしているから、夕方まで戻らないのは不安だったのではないだろうか。


 フィーダーは故障していなかった様だが、水だけはや新鮮さを欠いているので一番に交換しておく。やはりフィルター式の水飲み器でも買った方が良いだろうか等と思うが、慣れていない機器を使って故障した時に兎が濡れるのは嫌だし、感電等の心配はしたくない。嗚呼でもこんなに外出する様ではと悩みながらも、手は止まらない。一條が来れば直ぐに引き渡しだろうから、体重やら爪の長さやらも計っておきたいし、鬱滞や腫瘍が無いかも調べておかなければならないし。


 子兎が居る頃の忙しさとは少し違う、もう既に主を決めている兎というのはあまり手をかけ過ぎてもいけないし、居心地が良すぎてもいけない。

 飼い主がいるならそれでも良いのだが、サチだけの時には絶対に。一條がサチを預けるだけにペットホテルとして我が家を利用しているのならば兎も角、彼は自分の兎と一緒にいる事を好むから普段はこういう心配もいらなかったのだと一度手を止めて兎を撫でながら思う。

 集合住宅では早い時間に帰宅する方とは言え、兎と一緒に歩き回るのは出来ないし、他の兎と全力疾走させることも難しいだろう。それでも本当は狭いキャリーに入れて移動させるのは余り良くない、この家は兎の事だけ考えているから快適ではあるのは認めるし、爪切りなども一條よりは慣れているし、毛の処理も楽なのは分かるけれど。


 兎と飼い主の関係が良好ならば環境について口を挟むのは野暮だが、こうも環境を気に入ってサチを連れてくるなら、色々と考える時期に来ているのではと軽く息を吐いた。

 寂しげなサチの傍へと茶々を寄せて、少し獣医と相談しておこうかとスマートフォンを手に取った所で正面玄関のインターフォンが鳴る音がして、一條だろうかと一度手に持った物に目を落とした。

 スマートフォンには新しいメッセージはなく、まあ良いかと腰を上げる。サチが期待を込めてリビングの扉を見つめているのを見ればきっと彼も早く帰ってきたのだろう。


 キッチンのドアフォン用のカメラを確認しようと軽くその画面へと顔を向ける。そして、それと同時に楚良の顔が盛大に顰められてその場所へと止まった。


 流石に。いくら自分が人の造作には然程興味がないと言っても、流石に同僚かそうでないかぐらいの見分けは付く。

 この家には彼以外の来客は無く、習慣化した行為の中で彼を見間違う筈もない。


 モニターに映るのは40手前の男、黒髪を隙も無く後ろになでつけて、この休日に真っ黒なスーツに真っ黒なネクタイ。冷たげなメガネが彼の固い容貌に拍車を掛けている。


「お帰り下さい」

 インターフォンへとスピーカーを繋いで用も聞かずに告げる。父親ではない、父親が此処に来たらそれこそ塩を俵にでも詰めて押しつける。

 だが彼ならば良いというものでもない。少なくとも彼は自分の味方ではない。


「どうか開けて下さい、お嬢さん。昨日から刀司さんが絵を描けなくなったと」

「昨日の今日ですよね?馬鹿じゃないですか、たった1日描けないぐらいで何だというんです、お帰り下さい」


 10人居れば10人が彼の事を冷たい男だと表す風貌で、しかしその口から零れた言葉は余りにもくだらない。

 彼の事はよく知っている。父親との付き合いも長い男の筈だ。若くは見られないが年上にも見られない。父の秘書であり、絵を捌くディーラーであり、右腕。兎に角彼を表す言葉はそれこそ画家の刀司伽藍より多いのではないだろうか。


「祖父に連絡させて頂きますね」

「――――……1分程度、電話でお話頂くだけでも」

「私には関係のない事です。昨日お会いしたのは偶然で私の意思ではないので。お断りします」

「30秒でも」

「人の話を聞いて下さい。まだ私は許していません、お帰りを。――――父も貴方も元気そうでなによりです」


 もう話は終わりだとばかりにそのままドアホンのモニターを切った。あの態度の何処に許しを感じたというのだろうか、自分達親子の関係は人に言うのにも自分で言うのにも微妙過ぎる。


 せっかく兎の世話で晴れたと思っていた疲れを感じてソファへと腰掛けると同時、茶々が何事かという風に様子を伺いに来た。

 楚良にしてみれば日常にこうしてノイズが混じるのは余り好きでは無いし、それが父親の事であるなら尚更だ。父親相手に閲覧制限でも掛けられるなら、喜んでかけたい。祖父にあれだけ叱られてまだ分からないなら、父親だけではなくあの男も同罪だ。


 本当に致命的に何かあったのなら通報でも何でもしてやれるが、父親は原因を作っただけでとそこまで考えて深く溜息。

 茶々の様子に不安になったのか、サチまでが楚良の方へと寄ってきた。座った楚良の左右にそれぞれに上体を伸ばした兎が頬へと口を寄せて、少しは気分が戻って来る。


「もう20歳ですよ?私はもう子供ではないのですよ?そりゃあ確かにこの家を建てるのには祖父の力も借りましたけど。……もうちゃんと稼いで行けるのですが」

 何か汚い言葉で罵ろうと思って兎に声をかけてみたものの、その顔を見ている間に可愛らしくなって両手でそれぞれ1羽ずつよしよしと撫でて置いた。


 余り強く撫でると兎の骨は脆いので、耳が揺れる程度。長く撫でると迷惑がられるので、少しだけ。

 もし人間ぐらい大きな兎がいたら、きっと力一杯撫でても骨に異常が出る事は無いし、一緒に寝ても潰す事はないし、もしかしたら水遊びも一緒に出来るかもしれない等と考えて、何かそれと似た様な事を考えた様な既視感を感じた。

 しかし考えても考えても、全くいつ考えたのかが記憶として呼び起こされてこない。最近だったと思うのだけれども。


 今のうちに祖父にメールを送ってしまおう、大規模に兎を育てている人だから、外出の影響なども一応記しておかねばならないし、サチの事についても相談しておかねば。


 コーヒーテーブルに膝を突いてノートパソコンを引き寄せた所で、スマホに一度家に戻って車で行くと一條から連絡があったので気をつけてと返信し、雨戸の下りた窓の方を眺めた。


 先程から屋根を雨が叩く音が響いていたから到着する頃には本降りではないだろうか、ガレージの扉を開いておけば濡れないだろう、一度座った腰を上げて裏口に当たるガレージの戸をあけておいた。

 大学時代に免許は取ったが、車自体はまだ買っていないと思えば、そろそろ雨の日の事を考えて一條の様に車でも購入した方が良いのかと思う。

 ガレージは作って貰ったが、そこには車が入る事は稀だ。2台は入るし、来客を考えても1台ぐらい買って置いた方がいいんだろうか。


 一條を見ていると本当にきちんと生活をしている人だから、兎のどうこうを除いても、なんだか自分が堕落している様な気がして仕方が無かった。


 コーヒーテーブルで祖父宛にメールを書こうと腰を下ろせば、主が座ったと寄ってきた茶々にサチが追いついて広がったスカートの端へと腰を下ろす。

 いつもより短いと言わんばかり、裾の内側を上げて太股に茶々の鼻、その冷たさに身を竦ませて布の端を上げて覗いてみれば何故かサチまで纏めてそこへと潜り込み、結局それを許す形になった。

 おろしたての衣服は一度洗ってはいるが、まだ珍しい香りがついているのだろう。スカートの上からつんつんと兎をつついていれば、楽しそうに鼻先が布を押し上げる。


 駄目だこれだと用が片付かない。兎と遊ぶのを諦めて資料やメールを作成する方へと意識を向け、反応が無くなった人間には早々に飽きた茶々とサチが再びリビングを走り出す。

 藁で出来たベッドやトンネル、へちまやボール。囓り木も様々な形のものがあるし、床や壁も彼らは好きだ。


 仕事を邪魔されても、無視されても可愛い。


 一通り仕事を終えて時計を確認。雨だしサチを引き取りに来た一條は直ぐ帰るだろうか、直ぐに出られる様にキャリーに滑り止め代わりの敷き藁を入れていれば、察したサチがまた微妙な表情で見ている。

 帰る時はいつも大暴れになるタイプだが、今日は飼い主がいない不安も相まっているのだろう。後で準備すれば良かったと蓋を閉じて棚の上へと置き、また息を吐いた。


 そこでやっと置いたままになっていた荷物に気付いたが、何だか面倒臭くなって部屋の隅へと寄せておく。こういうのが駄目人間の証明なのだろうが、じゃあきちんと片付けるかと問われれば夜にシャワーでも浴びるときにまとめてで良いか等とも。

 もう一度テーブルへとつこうとした時に裏口のインターフォンが鳴って、楚良がキッチンの方へと歩く。一度ぱたぱたと服をはたいて毛を落とし、ドアスコープの蓋を開いて人物を確認。今度こそ間違い無いと、楚良がチェーンを外して鍵を開いた。


「こんばんは。お疲れ様です」

「こんばんは。遅くなってごめんね」


 慣れた様子で裏口から中に入った一條が、それこそ習慣の様に靴を脱ぐ。上がって行くのかと楚良が室内へと戻れば、キッチンとリビングの境で止まっている二匹が室内へと入った一條を揃って見上げている。

 ただいまと一番にサチを撫でた一條が、その兎を抱き上げた。


「キャリーは用意していますが、すぐお帰りになられますか?」

「いや、遅くなったし直ぐ帰るつもりだったんだけど。……君に確認してからと思って」

 彼も疲れているし早く帰りたかろうと一応社交辞令の様に告げつつ、キャリーの方へと歩いていた楚良が何をと振り返り、首を傾げる。

 腕からサチを下ろした一條の顔は少し厳しげで、これは自分に関わる事だと思った。


「玄関の前で男が立ってるみたいなんだけど、通報していいかな?」


 彼に言い辛い事を言わせるのではと覚悟したのに、告げられたのはそんな事。

 思わずその場所へと崩れ落ちて床を叩いた楚良に、茶々やサチだけではなく一條までも驚いて慌てて皆が楚良へと走り寄った。

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