第25話

 総務か法務の人間とも温泉では深い話が聞けた。


 その時に酔い潰した総務の女性社員から、空木楚良のストーカー被害についての報告を少しだけ漏れ聞いたのは、私情が入ったものだったから余り公には出来ない。

 大学中退の直接の原因がつきまとい行為で、その対処に問題があって、土地を離れる事しか方法が無かったのだ、と。彼女が会社側に住所などの情報のロックを求めているのも初めて聞いたし、羽柴が強引な手で彼女を引き入れなければ多分手間が掛かるという理由で彼女は会社にいなかったかもしれない。


 そんな彼女の家の前、しかも玄関の扉を占領するかの様に立ち尽くしている人物がいれば、流石の一條も警戒する。

 スーツ姿というのがまた奇妙だったし、客人という可能性もあったから彼女に確認を取ってから通報と思ったが、直後彼女が崩れ落ちたので。


「――――大丈夫?」

「……生きてます、大丈夫です。見苦しい所をお見せして済みません」

「警察沙汰にしたくないなら僕が追い払ってもいいけど…どうする?」

「いえ、……知り合いです。先程帰って下さいと言った筈なんですが」


 一時間程前に、と、彼女が告げて覗き込んだ一條が差し出した手へと自分の手をかけて、溜息を吐きながら立ち上がった。

 大丈夫かと茶々とサチが見上げているのに気付いた楚良が、身を屈めて一度二匹を撫でて置く。


「事情は無理に聞かないよ。君で駄目なら本当に僕が話して帰ってもらうけど」


 手は直ぐに離れて、しかし足は玄関へと向かないのを見れば彼がストーカーの線なのだろうかという疑いは晴れない。

 迷った気に茶々を見つめていた楚良が顔を押さえて、深く一度溜息を吐き出した。


「そこまでご迷惑は掛けられません。――――色々複雑な事情があるんですが…、一條さんは巻き込まれない方が良いかと…」

「僕がどうか、じゃなくて君が嫌だと言うなら関わらないよ。でも、その理由が迷惑をかけるからだとか嫌がられるとか、そういう事なら帰らない」


 彼女の言葉はある意味自分を気遣ったものだし、遠回しに関わるなと言われていると判断することも出来る内容だった。

 それでも彼女が絶対に自分がどうこうで判断しないのを、ある意味一條は心得ている。


 兎が危険に晒される様な真似をする相手なら問答無用で帰れというが、彼女がこうして迷う時は大抵双方の安全が確保されている時だ。

 そして大抵自分に非があったり、落ち度があったり。相手に非がある様な時は彼女はさして迷わずに手を貸す方へと答えを導くのも知っているし、身をもって体験してきた。


「……父の関係者です。もう、一條さんには知られていますから言いますが、彼は父の秘書なんです」

「美術館で会ったから?」

「直接的な理由というより…あれ以来絵が描けなくなったとかで」

「――――昨日の今日だよね?」


 楚良が言った台詞と全く同じ台詞を返した一條に、そうです、と疲れた様な声が彼女から返った。

 一條に言わせれば、そんなものはただの口実ではないだろうか、だし、それで楚良が分かりました何とかしましょうと言うともあの遣り取りを見ているならば思えない。


「父は筆が速い方で、油絵具が乾くのを待てないと何枚も同時に描いて気に入らないものは破り捨てたり上から描き重ねます。…確かに1日絵を描けないというのは彼にしてみれば、――――それなりなのでしょうが」

「君が居れば解決するの?」

「話をしてくれればという風な事を言われました。家の恥をさらしてしまうので言いにくいのですが、私と父は見ての通りに関係が良くありません。解決する様に思えないですね」


 まだいるのだろうかと楚良が仕方なくという風にドアホンのカメラをオンにしてみれば、また口から溜息を漏らしたのは変わらずに立つ男の姿がそこに見えたから。

 もう夜と言って差し支えない時間だというのに、外は雨だというのに、本当にあのままの姿勢で立っている。


「口で勝負するのには慣れてるから、心配しなくていいよ」

「――――……一條さん」

 じゃあ行ってくるねと身を翻そうとしたその男の上着の裾が、声と共に僅かに引かれた。


 見れば彼女の指先が上着の端を掴んでいて、そして珍しく声を掛けられた割にその瞳とは視線が合わない。

 足下のサチと茶々を見下ろしていて、一瞬だけ言葉が途切れた。


「多分」

 彼女を促そうかどうしようか、迷う前に彼女の口から言葉が漏れる。

「これから先も、さっちゃんを茶々に会わせてくれるなら――――きっと、いずれはちゃんと話さなければならない問題だったんです。こう言う、流されてというのは嫌なのですが」

「切っ掛けなんてそれで良いよ。君が無理に話さなくても、サチを連れて来たいのは僕の方だよ?」

「そう、言って下さいますが。この家の事を何も言わずにというのは、…やはり卑怯だと」


 不快にならない言葉を選ぶというよりは、どう言っても不快になるから躊躇しているというのが多分正しいと、営業としての感覚だった。

 家の外で立っている男は一條にとってはどうでも良いが、話が長くなるなら座らせた方が良いだろうかと背中へと手を添えてそっとテーブルの方へと歩く。

 意図を察した彼女がすると服の端から手を離してふっと肩で息をした様だった。


「お風呂を貸しますね。きっとずぶ濡れでしょうから」

「着替え、車に積んであるから貸せばいいかな?君の家に男物って無かったよね」

「ご迷惑とは思いますが、お願いします」


 一條は楚良の言わんとする事は直ぐに察して、彼女の傍から車に戻ろうと一度その頭を撫でてまた手を下ろした。

 彼は上背もあるししっかりした身体だから、大きいことはあっても小さすぎて合わないなんて事は無いだろうと思いつつ、楚良が玄関の方へと足を向ける。

 扉の鍵を開いて玄関を開けてみれば軒先にも入らずに立ったままの男、すっかりと髪型も崩れて濡れるに任せている姿は先程と同じ立ち姿だった。


「父も貴方も人の噂になる様な事しかしませんね?」

「――――……15秒でも良いのです」

「それならこの間お話しました。入って下さい、近所の方に見られて噂になるのは嫌です」

 本当に40近い男のやることなのかとま、た肺の中が溜息で空になりそうだと思い、どうぞと身体を避ければやっと一歩その足が動いた。靴の中まで濡れているのだろう、踏みしめればぐしゃりと濡れた音がした。


「靴下まで脱いで下さいね、話す前にお風呂に。兎が濡れると困るので、話はそれからで良いですね?」

「一人暮らしの女性の家で入浴する訳には」


 大人しく玄関で靴と靴下を脱いでいる男が漏らす言葉に、せっかく止めていた溜息がまた零れそうになったが何とか止める。そんな事を言っている場合かと言おうと口を開くのとほぼ同時にリビングの扉が開いて、一條が姿を現した様だった。


「これでいいかな?シャンプーとかもついでに持ってきたけど」

「有り難う御座います。もしかして帰って直ぐいらしたんですか?」

「いや、旅行の分は片付けてきたよ。最近ずっと車に積んでるから」


 一條が一旦楚良にと言う風に彼女へと服と洗髪剤類を渡しつつ、ちらりと濡れた男を眺めれば何やら信じられないものを見た様な顔で見つめられている。


「……何か?」

 職業柄一度あった人間の顔も名前も忘れないタイプだが、彼の顔には覚えが無いしそんな目で見られる覚えもない。


「お嬢さんのお父様の秘書で、藤森泰典と申します。失礼ですがお嬢さんとはどういった関係――――」

「良いから黙って下さい。本当に失礼です、さっさと風呂に行って下さい」

 懐に手を入れて名刺ケースを取り出したその男の腕を掴んだ楚良が、此方だと言わんばかりにその男を引きずって行く。

 此をとばかりにすれ違い様に胸へと押しつけられる半分濡れた名刺を思わず受け取り、二人の背中を見送った一條が其方へと目を落とした。


 彼は秘書だと言っていたが、大手アートギャラリーの役職名が記されている。記憶にある限りだと、海外でオークションを開催できる規模だったかと思うが、秘書というからには彼は刀司伽藍の作品専門なんだろうか。

 刀司伽藍についてはそのアートギャラリーの専属ではないし、それこそ個人でも買い付け出来る様だから、寧ろそのギャラリーから派遣でもされていると考えた方が良いのだろうかと、一條がリビングへと戻りながら考えた。

 彼女とはどういう関係なんだろうか、お嬢さん、と親しげに呼んでいたし羽柴に対するそれの様に彼女は気安くもある。


「本当に色々お借りしてしまって済みません」

「構わないよ。大丈夫だった?」

「危害を加える様な人間ではないのでそこはご安心頂けたらと」


 上着の内ポケットへと手を入れて自分の名刺ケースを取り出していれば、楚良がリビングに戻ってきた様で姿を確認して直ぐに頭を下げられた。

 何か飲むものでも煎れようかと勝手知ったる他人の家のキッチンへと立って、紅茶の缶を棚から取り出す。


「…私の父が刀司伽藍だという話は、お話ししましたが…。父とはちょっと関係が微妙でして」

「うん――――」

「正確には父と離れて暮らし始めたのはもっと前です。私は子供の頃に母を亡くしているのですが、その前から祖父母と一緒に暮らしていた時期がありますのでその時から既に父とはあまり縁がありませんでした」


 彼女が母親を亡くしているというのは酔っ払った彼女から聞いていたので、やはりそこまでの衝撃は無かった。

 それでも、彼女が自分の家族の事を話すときに迷いがあるのはその声からも分かる。

 それだけに彼女にとってみれば、父親が刀司伽藍だというのは言いたくなかった事なのだろう。


「その後、大学時代にトラブルがありまして。祖父がそれを心配して、地元から離れた此処に家を建てたのですが…」

「父親にも居場所は隠してたの?」

「いえ、多分父は住所だけは把握していたと思います。微妙な線なのですが父親は私に対して直接的な暴力を振るったという様な虐待はしていませんから、情報に制限は掛けられませんでした」


 彼女の言葉には謎が多い、と、一瞬過ぎる。直接的ではなく、微妙な線というならばそれ以外の虐待は受けたかの様にも取れるし、それなら半ばではなく本人からは絶対的な絶縁と言うのではないかと。

 許している訳ではないが、決定的に決裂している訳でもないと思うのは、楽観的な意見なのだろうか。


 それに何より、一條にはあの『秋』の絵に関しても謎を抱えている。


「家の出入り口と、リビングに関してはカメラも入っていますし、常に監視されている訳ではないですが――――異常があったときには祖父にも父にも連絡が行く様になっていますし」

「嗚呼、常時じゃ無かったんだね。兎の盗難防止だと思ってたけど、君の身辺警護も兼ねてるのかな?」

「…怒らないんですか?」


 ダイニングテーブルへと座った彼女の前へと紅茶を置いて、一條がその前の椅子を引いて座った。最早いつもの場所と言っても差し支えはない、先程から慌ただしい飼い主が落ち着けば、やっと傍に行けるとサチが足下に来たのに気付いてそれを抱き上げる。


「怒るの?僕が?」

「監視されているのは、嫌では無いですか…」

「理由がある事だし君を責める理由にならないよ。見られて困る様な事はしていないし、その分サチの安全も確保してくれてる訳だから」


 勿論君も、と危うく付け足しそうになったがきっと微妙な顔をさせるのだと思えば、断りもせずに許されている自分の分の紅茶へと一條も口を付ける。

 きっと楚良は本当に兎好きなんだなあと思っているだろうが、もうこの際落ち着くまではそれでいい。

 多分それが一番楚良には許される。


「彼が今日ここに来たのって、他人が家に入ってたからなのかな?絵を描けないってのは1日だけだし流石に口実だよね?」

「いえ、直接的には――――…多分、筆を持て無くなったという事だと思います。まあそう言う人なので。ただ、その原因が一條さんだとは思います」

「僕なの?」

「カメラを確認したというより、……美術館で一緒にいたのを見られていますので」


 楚良がテーブルへと肘を突いて組み合わせた手へと自分の額を押しつけた。そしてしばしの間、彼女は溜息で呼吸困難になるのではないかと思う程の深いそれを一度吐き出して、更に間を置いた後に顔を上げる。


「慰安旅行だという事を知らなかったと思うので、私が一條さんと二人で旅行に行ったんだとでも思ったのではないかと。…少し考えれば分かろう筈なのですが」

「彼は僕の顔を見て驚いていたみたいだけど。確かあの時、刀司さんは藤森さんに言われてって言ってたよね?」

「私は今まで男性を家に上げる事は無かったので、本当にそんな関係だというのは半信半疑だったのでは。一條さんは稀に見る美形ですし、まあ誤解なんですが」


 彼女の言葉に何となく先程の表情を思い出して、軽く一條も息を吐いた。幽霊にでも会ったかの様な顔をされたのは、彼女の言葉を信じるならば腑に落ちる。

 楚良はこの家に他人が入る事は余り無いと言っていたし、一條が見る限りでも彼女が友人を招いてどうこうという時間の使い方はしていない。そもそも旅行に行くというなら兎はどうするのだという話にもなるし、普段の彼女がどう生活しているのか知っている人間ならば傍にいるのが兎ではなく人間であった時点であの顔になるのか。

 もし家から離れた場所で彼女が男と二人でいるところを見れば、好意を除いても一條だって驚くのは間違いがない。


「多分、藤森さんがお風呂から出てきたら不快な事を沢山言われると思いますよ」

「何だか予想が付くな」

「此処に来る限りは言われ続けるかもしれませんし」

「それで君は、これからも此処に来るなら話さなきゃいけないって言ったんだね」


 会社だけではなく家でさえ彼女は一條とどうこう言われているのか、本当に彼女と兎との関係をよく知らない人間というのは好き勝手言うと思う。

 羽柴にも言った事だ、少し冷静になって見れば分かる筈だ。外見という余計なものを取っ払ってみれば常に踏み込んでいるのは一條の方だし、楚良は兎の事に関してしか一條と繋がろうとはしていない。食事の世話や宿泊だって勝手に一條がやっている事だ。


 きっと最初に声を掛けたのだって兎を切っ掛けにお近づきになろうなんて事ではなく、ただの兎好きとして天気の話の様なものだったのだろう。

 だからその後呼び出されて詰め寄られるなんて予想外だっただろうに。


 本当に彼女といると外見なんて何一つ役に立たない所か、余計な偏見の元だというのがよく分かる。営業として利用はしても、それが全てではないと理解する良い機会だった。


「此処に来るのを君が許してくれるなら、何でも構わないよ」

「……それについては――――……」

 やはり彼女が迷った様に口に出して、何かそれは迷う様な事だったのかと思うと同時に、ばたりとリビングの扉が開いて楚良が其方へと顔を向けた。


 風呂から上がったばかりなのはすぐに見て分かる。一條の服は彼が纏えば少しだけ緩くも見えたが、きっちりと各所までボタンが閉じられてだらしない雰囲気もなく。

 二人の様子を見たその冷たい瞳がますます親しみを失って顰められた様にも見えた。

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